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所長ブログ

所長ブログでは、CRN所長榊原洋一の日々の活動の様子や、子どもをめぐる話題、所感などを発信しています。

乳幼児健診は楽しい!

2018年6月15日掲載
私は大学病院にいた頃に先輩の医師から引き継ぎ、ある保育園で毎年2回乳幼児健診を続けています。分園を含めると120人の0歳児から5歳児までの園児の健康と発達の状態を半日で診なくてはならないので、結構重労働なのですが、私にとって本当に楽しい時間になっています。

楽しい理由は大きく2つあります。

1つは、乳児期から幼児期の健康な子どもに直に接する機会であることです。私を見ればただ泣きじゃくり、保育士さんの膝の上で身体をくねらせて診察を怖がった乳児が、たった数年で言葉を話し、診察に協力する幼児に変貌するのです。

本当は嫌なのに、聴診器を当てるあいだ身体を動かさずに我慢している子どもを見ると、こうした社会性はどうやって身に付いてくるのだろう、と感動すら覚えます。発達障害の子どもの診療が私の医師としての本業ですので、社会性や共感性が豊かに育っている子どもを見る機会があまりないことも背景にあります。毎年2回見ることによって、一人一人の子どもの成長や発達を確認できることも、人の発達を専門とする私にとっては、有意義な経験でもあります。半年前はまだ歩いていなかったり、言葉がでていなかった子どもが、大人の時間のスケールからすれば「ほんの一瞬」で、歩き、しゃべれる子どもに変貌するのです。毎日接していると気がつかないくらいの速度ですが、半年に一度だと、まるで早送り写真のようにスピード感を感じることができるのです。

この保育園では、様々な障害をもった子どもを受け入れています。こうした子どもの中に、医療機関で「自閉症スペクトラム」と診断された子どももいます。しかし、前に「過剰診断」のブログで書いたように、その多くが「他人の意図の理解」や、「顔の参照」といった社会性のある行動がみられており、親御さんに、私としては自閉症スペクトラムとは思えない、と伝えた経験が幾度とあります。

つい最近の春の健診では、かつて自閉症スペクトラムと診断され、私が多分過剰診断であろうと思っていた子どもが2人受診しました。2人ともよくおしゃべりをする普通の子どもに育っていました。保育士さんに、この子たちには保育上で何か問題がありますかと聞くと、まったく普通の子どもです、といううれしい答えが返って来ました。

私が乳幼児健診が楽しい、というもう一つの理由です。

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今回は、奇妙な対義語についての話から始めたいと思います。対義語とは意味が反対あるいは対照的な一組の言葉のことです。例えば、「入学」⇔「卒業」、「出口」⇔「入口」といった反対の意味をもつ一組の言葉や、「申請」⇔「受理」、「質問」⇔「回答」といった時間軸に沿った前後関係をもつ言葉などのことです。

では、「相談」の対義語は何になるのでしょうか?人生相談なら「回答」「助言」、保険の窓口での相談なら、「説明」になるでしょうか?

今回の「何か変だよ」は、「相談」の対義語が「判定」になるというお話です。

「判定」から逆方向に対義語を探すと「審判」「審査」といった言葉が適切に思えます。ともに法律や正式の手続きに関する強制力を背景にもった言葉だと思います。それに対して相談は任意の行為です。人に相談するときに、まさか強制力を伴う可能性のある判定を求めている人はいないのではないでしょうか。

ところが、「相談」すると「判定」されるという奇妙に思える関係が生きている現場があります。それが今回のテーマ「就学相談」です。

私は大勢の自閉症スペクトラムや注意欠陥多動性障害に代表される発達障害をもつお子さんを見てきました。医師として最も労力を傾注するのは、もちろん症状を如何に軽減させるか、ということですが、日常生活一般の課題についても相談を受けた時には助言をしています。(ほら、やはり「相談」の対義語は「助言」が納まりがいいですね)

そうした相談で一番重いのが、就学の相談です。以前に本ブログで述べた真のインクルーシブが日本で実現していれば、相談は必要ありません。なぜなら、相談のほとんどが、通常学級に行かせるべきか、それとも特別支援学級(校)にするか、ということだからです。就学に関する相談のほとんどは、翌春に小学校入学を控えた秋に集中します。それは、「就学相談」の時期が秋以降であるからです。共感性や社会性に富んだ子どもたちの中にいることの意義を私は重視していますので、注意欠陥多動性障害や言語的なコミュニケーションがある自閉症スペクトラムのお子さんには、通常学級をおすすめすることが多くなっています。

私の助言(意見書を書くこともあります)を持って、就学相談に望んだ親御さんの中に、しばらくして困惑した面持ちで再診される方がかなりおられます。就学相談で「特別支援学級」ないしは「特別支援学校」が適当という「判定」をうけた、と言ってこられるのです。この判定をもらうと、親が希望しても判定以外の学校へは行くことができません。判定は地元の教育委員会による強制力をもったものなのです。いちおう文科省は、判定を行う時には、保護者との合意の上で行うことが望ましい、という見解を明らかにしていますが、合意できなければ教育委員会の「判定」が優先されるのです(そもそも教育委員会が賛成しなければ合意形成はできません)。

明らかに、就学相談はその結果が判定という強制力をもつ行為ですので、内容的には「審査」にあたると思えます。では就学相談ではなく、就学審査にすれば良いのに、と思われるかもしれません(私は賛成できませんが)。ところが、実情はとても変なことになっているのです。就学相談を受けると半強制的な「判定」が待っていますが、就学相談を受けるかどうかは「任意」なのです。

ある教育委員会から私の患者さんの親に届いた文面でそのことがわかります。

「前提として、就学先の決定は教育委員会が行い、原則として6歳に達した日の翌日以降の最初の学年の始めから通常の学級に進学していただくことになっています。特別支援学級や特別支援学校への就学を希望する場合に就学相談を受けていただくことになります」「就学先の判断には、教育、心理、医療の3点での資料が必要となります。万が一資料がそろわず就学先をご提案できない場合や、就学相談での判断が通常の学級が適しているという結果の場合は、地元の通常学級に就学していただくことになります」「また、就学相談での判断が、保護者の方のご希望と異なった場合は、お子さんや保護者の意見は最大限尊重されますが、お子さん・保護者、教育委員会、学校の3者の合意形成を行う必要があります」

この文面では判定ではなく、判断という言葉が使われていますが、保護者や子ども本人の希望は最大限尊重されるが、それも合意形成がなければ実現されない(教育委員会の決定が優先)ということです。

また就学相談は、特別支援学級や特別支援学校を希望する時に行われるとあり、通常学級にするか特別支援学級(学校)にするか悩んでいる保護者は相談の対象になっていないのです。

また、特別支援学級を希望している親は(規定から就学相談を受ける必要がありますが)、教育委員会が特別支援学校と判断(判定)すれば、それに従わなければならない、と読めます。

このように「就学相談」とは、どのような子どもであれ、通常学級を含めてその子にどの進路がいいのか幅広く「助言」をしてくれる場所ではなく、教育委員会の方針で、その子どもを「特別支援学級」か「特別支援学校」かに仕分けをする制度にしか見えないのです。通常学級か特別支援学級か、あるいは特別支援学級か特別支援学校か、とグレーゾーンで迷っている子どもと親にとってはとても使いづらい「相談」窓口です。相談で専門家の「助言」を受け、親と子どもが自分たちの希望と専門家の助言を天秤にかけた上で、親が最終方針を決定できる場ではないのです。

そんな訳で、特に通常学級か特別支援学級かで迷っているお子さんと親御さんには、就学相談をせずに通常学級に就学することを勧めています。就学相談を受けなければ、通常学級に自動的に入学することになります。後日もし通常学級で授業を受けることが困難であることが明らかになれば、その時に特別支援学級(学校)への通学について考えても決して遅くはないからです。

※過去の「何か変だよ、日本のインクルーシブ教育 (1)~(3)」はこちら
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「俺はお前の父親で人生経験も豊かだから、お前のために判断してやる」

最初から乱暴な言葉で申し訳ありませんが、タイトルの「パターナリズム(父権主義)」とはそうした上から目線の態度のことです。

少し前の本欄で取り上げた「子どもの目と大人の目」の大人の判断もそうしたパターナリズムの一種といえます。

確かに、経験が少ない年少の子どもは自分自身のことを判断することが困難なことが多々あります。予防接種の意味を理解して、自分から痛い予防注射を受けると判断する幼児はいないでしょう。本人の意志(痛い注射はいや)に反して(無視してではなく)、大人が代わりに判断しなくてはならないことが許されるのは、それが子どもの利益につながる善行(benevolence)と見なされるからです。

医の倫理学では、大人(保護者)が子どもに代わって判断する場合には、それが善行であることが条件になっています。しかし、問題はそれが善行であるかどうか判断するのも大人なのです。

私の医師としての倫理的姿勢に大きな影響を与えた経験があります。それは約30年前、大学病院の助手として受け持ったK君の診療を通じての経験でした。K君は生後数ヶ月から呼吸困難が始まり、長く続くので、確定診断のために入院してきました。様々な検査の結果、筋肉が萎縮する病気であることがわかりました。医学の教科書には、治療法はなくそのままでは幼児期に呼吸困難で亡くなる、と書かれている病気でした。呼吸困難は気管切開と人工呼吸器で良くなりますが、教科書には「治らないので、人工呼吸器をつけて延命することは勧められない」と記載されていました。しかし私はご両親と相談し、人工呼吸器を開始しました。

K君のような子どもに人工呼吸器をつけることは欧米では行われていなかったので、ある国際学会でK君のことを発表したところ、ある北米の小児神経医の大御所から、「あなたは家族の負担をどう考えているんだ!」と一喝されたことを思い出します。

欧米の医の倫理学の論文をみると、K君のような子どもへの延命治療は行わない、と書かれていました。現在では、人工呼吸器の発達でK君と同じ診断名でも人工呼吸器をつける子どもが少しずつ出てきていますが、倫理学の論文では未だに、延命治療をすべきではない、と書かれているものが多いのです。確かに医療資源の問題や家族の負担等で一筋縄では解決できない問題です。

しかし、延命すべきでない、という倫理的判断の根拠は、「一生呼吸器をつけて生きてゆくことは『不毛な人生(futile life)』であるからだ」と書かれているのです。子どもの人生を「不毛な人生」と断じて、生命延長の治療を中止することがどうしてできるのでしょうか。こうした極端なパターナリズムに立脚した「医の倫理学」の専門家の意見を私はどうしても受け入れることができないで現在に至っています。人の人生を「不毛である」と言い切り延命をしないことがどうして善行なのか、理解できないからです。

現在K君は人工呼吸器をつけて、30歳を超えました。唯一動かせる目の動きで作曲しCDを出したりしています。

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粗野な運動?

2018年5月11日掲載
日本は明治以降、西洋から様々な事物を取り入れて、急速に欧米に追いつこうとしました。物事と同時に、新しい言葉や概念も旺盛に取り入れました。その際に、新たな日本語を作る必要がありました。Philosophy を哲学、science を科学などの新しい言葉で表し、西洋の言語に頼らなくても、日本語で記述することができるようになったのです。

医学分野でも、多くの西洋の言葉や概念について、新たな日本語を創作したり、意訳をすることが行われました。しかしその中に、とんでもない誤訳もありました。

日本語として定着してしまえば、元の言葉との関係なんてどうでもいい、という考え方もあると思いますが、使っているとどうしても気になります。

いくつかそうした例を挙げてみたいと思います。

まず「理学診断」「理学療法」「理学診療」の「理学」です。私たち医師が、臨床医学で最初に学ぶのは「理学診断法」です。視診、聴診、触診、血圧測定などは、理学診断学の初歩になります。私も医学生だったころ、どうして「理学」というのかなと思って調べたことがあります。その結果、先人が大きな初歩的翻訳ミスをおかした結果であることが分かりました。理学診断、理学療法、は英語では、physical diagnosis, physical therapy となります。なぜ誤訳が生じたかというと、physical には「物理学の」という意味と「身体の」という2つの異なった意味があるからです。正しくは、physical diagnosis, physical therapy は、身体診断、身体療法と訳されるべきだったのです。でも「理学」にはあまり悪い印象はありませんので、今さら変更する必要はないかもしれません。

問題は、誤訳のために、悪い印象の日本語に翻訳されてしまった医学用語です。人の随意運動は大きく粗大運動と微細運動に分類されると教科書には書いてあります。寝返り、歩行、跳躍(ジャンプ)は、「粗大運動」ですし、指先の細かな運動は「微細運動」となります。粗大、微細の英語の原語はそれぞれ、gross, fineですが、この gross を粗大と誤訳したまま定着してしまったのです。英和辞書をひくと、gross には、全体、全身という意味と、粗野な、粗悪なという異なった意味があるのです。Gross movement という「粗大運動」の原語は、正しくは「全身運動」と訳されるべきだったのです。「粗大」という言葉に対応する英語を和英辞書で引くと、rough とか coarse という粗野、野卑といった印象の良くない和訳がでてくるのです。日常生活で粗大という言葉は、ほぼ粗大ゴミ以外にはつかわれません。もう定着してしまった粗大運動ですが、それを「全身運動」に変更する全国運動を始めたい位ですね(笑)。

私がなにか変だよ、と感じるところの多い発達障害の分野でも誤訳にお目にかかります。以前のブログでもご紹介した、精神疾患の診断と統計マニュアル(DSM)の日本語版にも、明らかな誤訳がありました。ADHDの診断基準の中に、「しばしば日常生活を忘れてしまう」という項目がありました。日常生活を忘れる、とはどういう意味だろうと疑問に思った私は、英語の原文を読んでみてびっくりしました。原文は Often forgetful in daily activities. で、翻訳すると「しばしば日常生活の中で忘れっぽい」となります(現在はそのように修正されています)。定評のある医学出版社から出されているDSMの翻訳書でしたので、よもや誤訳はないだろうと思っていたのですが、このような初歩的な間違いがあるのです。

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S君が教えてくれたこと

2018年4月27日掲載
私の小児科医としての約40年の臨床経験の中で出会った多数の子どもたちの中に、どうしても忘れ難い子どもが何人かいます。その中でもS君のことは、ほんとうに鮮烈な印象として残っています。

中学生だったS君の病気は、神経芽細胞腫という悪性のがんでした。長期入院で強い抗がん剤による治療を続けていましたが、全身に転移を起こしていました。

病棟医長だった私は、院内学級の開校にこぎ着けることができ、しばしば病院内の教室での授業の様子を見に行ったり、教師の方々と院内学級の運営について相談したりしていました。S君も院内学級を楽しみにして熱心に通っている生徒の一人でした。S君は他の子どもに親切で人気者でしたが、彼の人気度をいやが上にも高めていたのが、音楽の授業で合唱をするときの彼の存在でした。斉唱ならいいのですが、S君以外は主旋律しか歌えなかったので、S君がいないと二重唱ができなかったのです。

最初のうちは歩いて院内学級まで通っていたS君ですが、病状が悪化し、ベッドに寝たままでしか授業に参加できなくなってきました。S君のがんの転移は、頭蓋骨への転移で、本人を含めてだれにも彼の頭に複数のこぶができているのを認めることができました。S君自身もそのことに気づいていたはずです。

亡くなる数ヶ月前に、私はS君の担任の教師から相談を受けました。相談の内容は、S君の余命はあとどの位かということと、彼に英語の宿題を出すべきか、という相談でした。前者の相談の意味はよくわかりますが、後者の相談の意図が分からず怪訝な顔をしている私に教師は相談の意図を次のように説明しました。「S君は本当に体がつらいのに、一生懸命英語の宿題をやってきます。でも、S君の余命を考えると、学んだ英語を実際に使う機会はないでしょう。使う機会のない英語の宿題を彼にやらせることがいいのでしょうか?宿題を出さずに、好きなことをさせてあげたい。」

一瞬、熱心に宿題をやっているS君の姿を思い浮かべ、胸がつまる思いをしながら、次のように答えたことを覚えています。「S君にとっては、当たり前の中学生がやっている生活をすることが一番やりたいことなのではないでしょうか」。

痛みのために常時鎮痛剤が必要になった最期の日々も、S君は音楽の授業だけは、ベッド上で点滴をしながら出席を続けました。なぜなら彼なしでは二重唱ができないからでした。

彼はその後しばらくして亡くなりましたが、S君が音楽の授業に出続けた理由が分かるような気がします。それは、そこで彼が「必要とされている」ことを知っていたからではないでしょうか。人から必要とされている、という気持ちがS君を最期まで支えていたのだと思います。

S君の生き方は、その後読んだ「人間の土地」(サンテグジュペリ)の中で私が感銘をうけた、一人の 園丁 えんてい の死の記述と重なります。死の床でこの園丁は言います。「私は、土を掘って掘って掘抜きたいほどです。土を掘るってことが、いい気持ちなんです。もし私が土を掘らなかったら、誰が私の樹木の手入れをしてくれましょう」

テグジュペリは、「彼は自分がそれをしなかったら、一枚の畑が 荒蕪地 こうぶち (荒れ野)になるように思えるのだ。彼は自分が耕さなかったら、地球全体が荒蕪地になるように思えるのだ。(中略)彼こそは仁者であり知者であり王者であったのだ」と書いています。

S君は中学生ながら私たちに生きてゆくことの意味を教えてくれたと思っています。

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子どもの目と大人の目

2018年4月20日掲載
子どもは白衣を怖がるということは誰でも知っています。私が研修医として臨床研修を行った東大病院の小児科教授は、アメリカとイギリスでの長い臨床経験をおもちの新進気鋭の小林登先生でした。いうまでもなくこのCRNの創始者の小林先生です。小林先生の先生でもある、イギリスのグレートオーモンド通りにある小児病院の指導者のジョリー教授は、白衣を着ないことで知られていました。多分ジョリー先生もできるだけ子どもに威圧感を与えないようにという配慮でそうされたのでしょう。

小林先生は研修医を含めた医師に白衣を着ることを強制されず、一人一人の医師の判断に任せておられましたが、それもジョリー先生のやり方を踏襲されたのだと思います。

小林先生の不肖の弟子を自認する私は、それ以降も基本的に白衣は着用せずに今日まで小児科医を続けてきました。もちろん清潔を要する未熟児室は例外でしたが。

ところで、子どもは(医者の)白衣を怖がる、というのは本当なのでしょうか?

調べてみるとちゃんと研究があるのです。

1999年のClinical Pediatrics(臨床小児科学)という雑誌*に、5歳から15歳の子どもとその親に、白衣を着た医師と着ていない医師の写真をみせ、どちらのほうが好きか、アンケート調査を行った調査結果が発表されています。調査した医師は、当然大部分の子どもが、白衣を着ていない医師の方を好ましいと答える前提で調査を行ったのです。ところがふたを開けてみると、子どもの54%がむしろ白衣の方が好きだと回答していたのです。親では白衣の方を好むのは35%で、3分の2が白衣を嫌っていました。この調査では、立っている医師と、ひざまずいて子どもの顔の高さに顔のある医師の写真も見せて、子どもがどちらが好きかも聞いています。これでも予想に反し、68%の子どもが立っている医師の姿の方をより好ましいと答えています。しかし親は約60%が、ひざまずいた姿勢を好ましいとしていたのです。子どもを上から見下ろすと威圧的になるので、できるだけ子どもの顔の高さで子どもと接した方が良いと一般的には信じられています。しかし、子どもの正直な気持ちは、このアンケートが正しいのかもしれません。よく考えてみれば、自分の好きな人の顔はそばで見たくても、知らない人や時に痛いことをする人の顔はあまりそばで見たくないのではないでしょうか?

このアンケート調査だけで、すべてを判断してはいけませんが、「子どもはきっとこう思っているはずだ」という私たち大人の思い込みと、子どもの本当の気持ちは違うかもしれない、という謙虚な気持ちが必要なのかもしれません。

乳幼児の発達心理学の巨人であるピアジェは、そのことに気づいていたようです。彼の講演録**の中にこういう一節があります。

「私たちの(乳児への)関心は、彼らが何を考えているか、というところにあるので、私たち大人の経験から導かれる意識に関する知識を使って、乳児の行動の中に見ることと私たちの間をアナロジーで結びつけてしまうのです。」「ここで、私たちは乳児を研究するときの、最初の方法論の規則に突き当たります。それは、乳児の行動と大人の行動を比較すること−それは皆さんが望むのであれば一種の「大人中心主義」と呼んでいいと思いますが−に注意しなくてはならないということです。」

ピアジェの優れた洞察力には感心しますが、すでに100年近く前に彼が警告していた過ちを、私たちは往々にしておかしているのではないでしょうか。


参考文献
  • * McCarthy JJ et al. Children's and parents' visual perception of physicians. Clinical Pediatrics, 38:145-152, 1999.
  • ** Piaget J. The First Years of Life of a Child. British Journal of Psychology, 18, 97-120, 1927-1928
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前回は、日本のガイドラインが、ADHDの診断に不必要な検査を行うことを勧めるような内容になっていることの問題点を書きました。

今回は、発達障害の一つである自閉症スペクトラムが、過剰に診断・治療されてしまっているのではないか、という疑問についてです。

「自閉症スペクトラムという診断を受けた」多数のお子さんが私の外来にこられます。私の外来を受診される理由は、診断を受けたが実際には日常生活でどのようなことに注意すればよいのか、小学校は普通学級にいけるのか、そして本当に自閉症スペクトラムなのか、といったものが多数です。もちろん、お子さんが他院での見立て通り自閉症スペクトラムであることも多いのですが、半数近くのお子さんが、自閉症スペクトラムとは考えられないのです。

自閉症スペクトラムと診断された根拠には、「集団での指示が入らない」「こだわり行動がある」「言葉の遅れがある」などの、自閉症によく見られる症状がある、というものが多いのですが、中には行動評価スケール(M-CHATなど)で自閉症スペクトラムの範囲と判断されたというお子さんもいます。

前回のブログにも書いたように、ADHDと同じく自閉症スペクトラムにも、診断確定のための検査はありません。ADHD同様に子どもの行動特徴から診断をつけるのです。

私のところにこられたお子さんも、集団の中で指示が入りにくい、こだわりがある、という理由で診断がつけられてきています。しかし、私がそのお子さんと一対一で話をすると、私の意図をすぐに理解でき、また子どもの社会性の現れを示す行動である「他人の顔の参照」などの行動が十分に見られるのです。また、こだわりの内容を聞いてみると、自動車ばかりで遊んでいる、遊び方に決まりがあるなどの行動の特徴はあるのですが、こうしたこだわりは普通の子ども(定型発達児)にも見られるものなのです。自閉症スペクトラムの診断基準(DSM)には、こだわりの内容について「非常に制限され、程度や対象が異常なこだわり」とちゃんと書かれています。特定のものへのこだわりが強いからといってすぐに自閉症スペクトラムと診断してよい訳ではないのです。

では自閉症スペクトラムの評価尺度(M-CHAT)などで、自閉症スペクトラムが疑われている子どもはどうでしょうか。M-CHAT(Modified Checklist for Autism in Toddlers)のtoddlersはよちよち歩きの子どものことで、1歳半位で子どもの自閉症スペクトラムのリスクを知ることのできる便利なチェックリストです。リスクを早期に知ることはできるのですが、結果が陽性にでたからといって、その後その子どもが自閉症スペクトラムに必ずなるのではないことが、調査によって明らかになっています。

子どもの行動の一部あるいは、チェックリストだけで診断を受け、私が自閉症スペクトラムとは見なせない、と判断した子どもは、念のためにその後の経過を確認していますが、その後問題なく幼稚園や普通学級に通っている子どもがほとんどなのです。

どうしてこんなことになっているのか、私にも訳が分かりません。もしかすると、私の診断の目が節穴で、見逃しているのではないか、などと心配になるくらいです。

私自身の心配だけであればそれでよいのですが、以前のこのブログ「何か変だよ、日本のインクルーシブ教育」で書いたように、自閉症スペクトラムなどの発達障害、と診断がつくと、インクルーシブではなくエクスクルーシブに特別支援学校に行くことになります。いったん特別支援学校(学級)に行くと、普通学級に戻ることは難しいこと、つまりその子どもの人生の生き方まで変えてしまう可能性があると思うと身震いしてしまいます。

過剰検査や過剰診断については、以前から私の悩みの種でしたが、最近「過剰治療」もあるのではないかと、あらたな悩みが増えました。

もちろん、過剰診断があれば、その過剰な診断のもとに治療が行われる訳ですので、過剰治療になります。でも今回私が心配している過剰治療は、それとは少し様相が異なります。

それは、私が勤めるある発達支援センターへ相談にこられるお子さんのこれまでの経過の中から明らかになりました。発達障害を専門とするある医院での診療経過(診断、治療)を、支援センターの心理相談員が聞き取った問診票を見ていて、「えっ」と目を疑うような診断治療内容を目にしたのです。それも、一回きりではなく、何人もの子どもが、ほぼ同じ診断名と服薬内容で紹介されてきているのです。診断名は「自閉症スペクトラム、アスペルガー症候群、ADHD」です。なぜ、私はこの診断名を見て驚いたのでしょうか。自閉症スペクトラムとADHDは併存(合併)することがありますので、この2つが同時に書かれていてもおかしくありません。問題は、自閉症スペクトラムとアスペルガー症候群が併記されていることです。ご存知の方もおられるかもしれませんが、DSMの診断基準が最近(2013年)改訂され、もはやアスペルガー症候群という診断名は使わず、自閉症スペクトラムに含めることにしたのです。たまたま、あるお子さんの診断にこの2つを不注意で併記してしまったのかもしれないと最初は思いましたが、同じ医院にかかっている複数の子どもに、この三者併記の診断名がついているのです。良いたとえではないかもしれませんが、診断名に「脳血管障害」と「脳梗塞」を併記するようなものです。

しかしこの医院にかかっている子どもの問診票でもっと驚いたことは、こうした子どもにおしなべて「コンサータ、リスパダール、エビリファイ」という3種類の薬が処方されていることです。コンサータはADHDの薬ですし、リスパダールとエビリファイは自閉症スペクトラムによく使用される薬です。しかし通常はどちらかを処方するのです。併用することも誤りではありませんが、この医院では、私が相談を受けた数名にはすべて同じ診断名(3つ)があり、最初からこの3種類の薬が処方されていたのです。さらに、この数人の子どもは、前のブログに書いたように、すべて過剰診断と思われ、自閉症スペクトラムという診断はできませんでした。つまり不必要な薬が投与されていたことになります。

過剰検査、過剰診断、そして過剰治療が、たまたま私が行きあたった2つの発達障害専門の医院だけで行われている例外的なことと願いつつ、やや愚痴っぽくなってしまった2回続きのブログをおしまいにします。

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医学は自然科学であり、その応用である診療において、できるだけ科学的な根拠に基づいた診断や治療が必要とされています。エビデンスベーストメディスン(事実に立脚した医療)という言葉が現代医療のスローガンになっているのはそのためです。

さて疾患の診断のために科学的に必要とされる以上の検査を行うことは、患者さんの負担が増えるだけでなく、高騰する医療費をさらに増加させるために避けるべきとされています。考えてみれば当たり前かもしれませんが、例えば糖尿病の診断をするのに、脳波の検査をする必要はありません。もちろん行うことはできますが、医療費を病院に支給する保険支払い機関は、審査の上で不必要な検査費用(この場合は脳波検査)を査定し、病院には支払いません。日本の保険診療の良い点は、患者さんの病気の診断や治療に不必要な検査や治療費用は病院に支払わないことによって、医師が恣意的に不必要な検査をして、収入を増やすようなことを未然に防止していることです。

さて、以上は一般の疾患についての話ですが、子ども全体の7%が該当すると推測され社会的に大きな関心がよせられている発達障害の診療においても、表題にあるような過剰な医療が行われているのではないか、という私の積年の疑問について書きたいと思います。じつはこの問題は、近年私のもっとも憂えている問題であり、考えだすと夜も眠れないほど私を悩ませている問題なのです。

まず過剰検査についてです。

発達障害(注意欠陥多動性障害、自閉症スペクトラム、学習障害)の診断には、学習障害を除いて、この検査をすれば診断ができるといった検査がありません。血液検査や脳波検査、MRIなどの脳機能画像、さらには知能検査などの様々な心理検査によって、注意欠陥多動性障害や自閉症スペクトラムの診断をすることはできません。医師や医学、心理学研究者は、注意欠陥多動性障害や自閉症スペクトラムの診断をすることのできる検査法を必死に探していますが、残念ながらまだ見つかっていないのです。注意欠陥多動性障害や自閉症スペクトラムの患者さんの脳機能画像や遺伝子検査で特徴的な知見がえられていますが、診断には使えません。例えば、注意欠陥多動性障害の人では、前頭前野や尾状核という脳の部分の機能が低下していることが多いことが脳機能画像検査で分かっていますが、それは機能の平均値が統計的に低いという程度であり、定型発達の人と明確に分けることができないのです。遺伝子検査についても同様です。専門的になりますが、発達障害にはその診断の根拠になるような生物学的な検査所見(バイオマーカー)がないのです。これは発達障害に限りません。うつや統合失調症についても同じです。うつの傾向をみることのできる心理検査がありますが、それでうつの診断をすることはできません。

それでは医師はどうやって注意欠陥多動性障害や自閉症スペクトラムの診断をするのでしょうか。

そのために考えられ発刊されたのが、アメリカ精神医学会が定期的に発刊している「精神疾患の診断と統計マニュアル」です。定期的に改訂され現在は第5版が2013年に発行されています。このマニュアルには、発達障害を含むさまざまな精神疾患の診断基準が書かれています。「統計」という言葉がタイトルに使われているのは、その疾患の特徴的な症状を複数提示し、そのいくつ以上が該当すれば診断してよい、という統計的な基準が示されているからです。

アメリカの医学の教科書をみると、例えばADHDの診断には、本人の学校、家庭、地域等における行動の現在の特徴と、過去の経歴をできるだけ詳しく調べて、診断基準と照らし合わせることと明記されています。子どもの行動の特徴を評価するための質問紙(アンケート)も必要に応じて併用することも書かれています。しかし、特異的な検査や心理検査はないとはっきり明記されています。以下にいくつかの教科書の記載を示します。

「ADHDの確定診断のためのテストはない。むしろ診断は子どもに年齢不相応な不注意や多動・衝動性があり、そのために社会や学校で支障を来しているかを判断することにある」(Developmental and Behavioral Pediatrics)。「ADHDの診断は主に注意深い病歴聴取と面接、症状に寄与する因子の探索、身体診察、そしてもし必要ならば臨床検査によってなされる。行動評価アンケートは、症状の程度を知るために有用であるが、それだけで診断を確立するには不十分である」(Pediatrics)。もし必要ならばとあるのは、ADHDの症状を伴うような他疾患が疑われた場合に、という意味です(鑑別診断といいます)。

私はこうした標準的な診断方式を踏襲し、外来を受診されたお子さんの発達歴、現在の行動特徴を、親御さんと子どもをよく見ている保育士さんや塾の先生に上記教科書で推奨されている行動評価アンケートをお渡しして確認し、その上で診断するという方法を長年行ってきています。

しかし、最近大変びっくりした体験をしました。転居のため他院への紹介状をご家族が希望されたので、ADHDの診断と現在服用中の薬の情報を記した簡単な紹介状を出したところ、紹介先の発達障害を専門とする開業の医師から以下のような内容の返事が届いたのです。

「ご紹介ありがとうございました。初診時診断はADHDで良いと考えますが、正式な手続きで確定診断をだしてゆきたいと思います。今後当院で、厚生労働省研究班のADHD診断治療ガイドラインに従い、WISC, DN-CAS, K-ABC, BGT, (中略)頭部MRI, 血液検査を施行し今後の治療方針、学校との連携計画をたててゆきたいと思います。」

なお、正式というところには下線が引かれていました。

担当医師の熱心さは分かるのですが、なぜこのように診断に不必要な多数の検査をするのでしょうか?MRIや血液検査が、ADHD診断の正式な検査に含まれているという話は聞いたことも読んだこともありません。でも、この医師を責められないある事情があるのです。

それは、返事に書かれた厚生労働省研究班ADHD診断ガイドラインにあります。そのなかに「ADHDの医学的診断・評価フローチャート」というものが紹介されており、そこに「必須」の医学的検査として、身長・体重測定、脳波、血液検査(甲状腺機能を含む)、心電図、とあり、おこなった方がよい項目として頭部単純MRI, 頭部CTと記載されているのです。また、ADHDがうたがわれる子どもにはWISCの知能検査を必ずするようにかかれた診断のフローチャートが示されているのです。

これらの検査は、ADHDの鑑別診断(別の疾患が疑われた時に行う診断)として行われるべき検査であり、初診時に行う検査ではないのです。ADHDだけでは説明できない症状、例えば不注意や多動が次第に強くなってゆくような場合(進行性の神経疾患)、学校でまったく授業についてゆけない場合(知的障害)、けいれんなどがある場合(てんかんなど)には、血液検査やWISC、あるいは脳波検査が鑑別診断のために必要になってくるのです。

よく読むと、ADHDの診断・治療のガイドラインの文章そのものには、脳波、MRIなどは「鑑別診断のため」と書かれているのですが、それらも必須の検査であるとしている図表が示されており矛盾しています。米国などの教科書の診断の手順とはまったく異なるユニークな日本の診断の基準を、正式の診断方法と見なしてしまう医師が、例外的な存在であることを祈って一旦筆をおきたいと思います。

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上野の科学博物館で南方熊楠展が行われていましたので出かけてきました。南方熊楠は大きな科学的業績を挙げた訳ではありませんが、明治時代に日本、アメリカ、英国で博物学者として活躍し、当時の世界の博物学者の間では「ミナカタ」という名前はよく知られていました。私がミナカタを知ったのは、高校時代の歴史の教科書からです。明治時代に活躍した人として「南方熊楠」という名前だけが、他の文化人と一緒に書かれているのを読み、「ナンポウ」なんて変な名前だなと思ったので記憶に残っています。南方熊楠との再会は、すでに医師になり、進化論に興味をもち始めてダーウィンの著作を読むようになってからです。ダーウィンやウォレスなどと同じ博物学者として南方の著作や評伝に出会ったのです。

南方が当時の世界の博物学者の間で知られていたのは、世界中の神話や民話の共通点を、多くの欧米の学者にはできなかった漢籍の読み解きを行いながら明らかにし、それを英語でネイチャーなどの科学雑誌に相次いで発表したからです。現在にいたるまで、日本人でネイチャーに発表された論文数で南方熊楠を超えた人はいません(51編)。

南方熊楠展で驚いたことは、彼の凄まじい知識欲です。8歳ごろから漢籍を読み漁り、それを全部写し取ったノートを作り続けてきました。イギリスで大英博物館のキュレーターとして働いていたときにも、関心のある文献を細かな文字で写し取ったノートを何十冊も取り続けています。コピー機やインターネットのない時代ですから、他に方法がなかったともいえますが。

日本に帰国してからは、今度は研究の対象を粘菌という比較的研究者の少ない対象にかえ、亡くなるまで数千枚のラテン語や英語の説明付きの図譜を描いています。新種の粘菌を一つ見つけたことが、彼の数少ない「科学的業績」であり、冒頭の説明になったわけです。この間、南方熊楠は粘菌の図譜を発刊する訳でもなく、また植物学関連の科学雑誌に論文を発表もしていません。すべての図譜は和歌山県の彼の自宅に積み上げられていたのです。

南方熊楠展の展示説明にも、なぜ発表もせずにこれほど膨大な粘菌の図譜を書き続けたのか、という疑問が述べられていました。

さて、こうした私の個人的関心ごとといってよい南方熊楠のことを皆さんに紹介したのには訳があります。

山中博士による輝かしい日本の発見であるiPS細胞の研究は、医学界だけでなく政府までがその発展に力を入れています。官民が一体になって、iPS細胞の研究所を作り、たくさんの研究費と若く優秀な研究者をつぎ込んで研究を行っています。ところが、皆さんもよくご存知のように、若い研究者がiPS細胞に関する研究論文で研究結果のねつ造を行ってしまったのです。

本当の動機は本人にしか分かりませんが、任期に限りがある若手研究者が、任期延長につながる業績欲しさに、そのようなルール違反をしてしまったと言われています。

同じく科学研究ではあっても、南方熊楠の研究動機と、この若手研究者の研究動機には雲泥の差があると私は思います。世知辛い事をいえば、この若手の研究者は、研究成果で任期延長をして糊口を凌ぐために研究を行っていたのです。

南方熊楠そしてダーウィンには、その科学的業績の価値には大きな差があるものの多くの共通点があります。まず博物学者だったこと、そして亡くなるまで飽くなき知識欲に突き動かされていたことです。自宅や裏山で粘菌を探し続けた南方熊楠像と、進化論で名声を得ながらも、亡くなるまで自宅の庭でミミズの研究をしたダーウィン像は二重写しのようです。

もう一つの大きな共通点は、2人とも一生に一度もお金を稼ぐために働いたことがなかったということです(ダーウィンはビーグル号の船員として世界一周をした時には給料をもらっていたようですが)。医師であった父親とウェッジウッド家出身の妻のおかげで、ダーウィンはお金のために働く必要はありませんでした。南方熊楠の親も、作り酒屋として繁盛し、熊楠の生活資金や渡航の費用を用立てていたといいます。

南方熊楠やダーウィンが、気兼ねせずに研究を続けることができたのは、こうした事情も関係していたに違いありません。

研究者が自分の生活の事を考えなければならないことは仕方ありませんが、日本の若手研究者のおかれた苦しい立場と、ダーウィンや南方熊楠の立場を比較すると、研究への動機の大きな差を感じため息がでてしまいます。

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遊びとスポーツ

2018年2月16日掲載
2年後に東京オリンピックを控え、日本中の老若男女のスポーツへの熱気が高まっています。スポーツは、体力増強や健康増進にも役立つ活動であるだけではなく、認知能力や心理状態にも良い影響を与えることが知られています。本ブログでも、運動経験が認知テストに良い影響を与える事について取り上げたことがあります(所長ブログ:運動すると頭が良くなる!)が、確かにスポーツは観てもやっても楽しく、身体にとってもまた脳にとっても良いといういいことずくめの身体活動といえます。

学校教育の「体育」以外の身体活動にあたるのが、子どもの外遊びです。私の外来を受診されるお子さんには初診時に必ず聞くことがあります。本人の理解度や社会性を確認するための質問の一部ですが、「何の遊びが好き?」という質問です。「ゲーム」という回答も多いのですが、結構多いのが「鬼ごっこ」という回答です。単純な鬼ごっこだけではなく、そのバリエーションの「高おに」とか「色おに」と答える子もいます。単純なルールで、スリルと興奮が伴う鬼ごっこは、子どもの心を引きつけてやまない外遊びなのでしょう。私も小学生時代に、鬼ごっこのバリエーションである「水雷艦長」に夢中になっていた記憶があります。ご年配の読者にも、遊んだ記憶のある方がいるのではないでしょうか。ルールを知らない方のために簡単に説明すると、まず子どもたちは2群に分かれます。それぞれのグループに艦長役が一人、そして数名ずつが駆逐艦と水雷役になります。敵の駆逐艦に味方の艦長がタッチされると負けですが、逆に水雷は駆逐艦にタッチして駆逐艦を沈めることができる、というルールです。敵味方、そして何の役であるのか帽子をかぶったりして分かるようにして遊ぶのですが、単純な鬼ごっこと違って、仲間同士のチームワークが試されるところが面白く、興奮して遊んだ記憶があります。

こうした興奮するほどの楽しさと身体活動が伴った外遊びに比べて、体育の時間に義務としてする身体活動には必ずしも楽しさは伴いません。駆けっこが速かったり、跳び箱の高い段が飛べたり、逆上がりがうまい子どもは、自己肯定感が得られるかもしれませんが、うまくできない子どもにとってはつらい経験でしかありません。私の子どもの一人は、縄跳びがうまくできず、担任の教師から、親が一緒に練習するようにいわれ、放課後開放された校庭に出かけて一緒に練習したことがあります。うまくできない本人も、指導する私も全く楽しくなかった思い出だけが残っています。縄跳びではなく、逆上がりができない子どもには、親との練習ではなく、鉄棒の前に置いて逆上がりをしやすくする逆上がり支援ボードでの練習が待っています。逆上がりや縄跳びができなくっても一生何の損もしないのに、などという不遜な考えをもつのは私だけでしょうか。

さて、こうした子ども時代のスポーツなどの身体活動経験が、青年期以降のスポーツなどの身体活動の習慣にどのように影響するか検討したカナダでの研究があります。小学5~6年生の子どもを、スポーツクラブなどの指導者のいるスポーツ活動をしているグループ「専門的スポーツ群」と、指導者のいない雑多な身体活動をしているグループ「多種スポーツ群」に分け、5年間追跡調査を行い、どの位余暇活動としてスポーツをしているか調べたのです。その結果、予想に反して、青年期になると「多種スポーツ群」の方が「専門的スポーツ群」より10~30%、スポーツによる身体活動量が多かったのです。

専門的スポーツ群には厳しい指導があり、また一部の子どもは上達が芳しくなくドロップアウトしてしまうなどの試練があるために、青年期以降になると却ってスポーツ活動から身を引いてしまうのではないか、というのが私の推論です。やって観て楽しむアマチュアスポーツと、厳しい鍛錬と競争がつきもののアスリートの行うスポーツは、別のものなのでしょう。


参考文献
  • François Gallant, Jennifer L. O'Loughlin, Jennifer Brunet, Catherine M. Sabiston, Mathieu Bélanger. Childhood Sports Participation and Adolescent Sport Profile. Pediatrics. December 2017, VOLUME 140 / ISSUE 6.
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