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所長ブログ

所長ブログでは、CRN所長榊原洋一の日々の活動の様子や、子どもをめぐる話題、所感などを発信しています。
以前、私はこの「何か変だよ、日本のインクルーシブ教育 (2)」で以下のように書きました。

文科省は、特別支援学校は一般的な教育制度内にあると宣言します。ただし文科省の自らの見解としてではなく、以下のように外務省の条約批准の担当者の意見を引用してその根拠としています。
障害者の権利に関する条約第24条にある「general education system (教育制度一般 (ママ) ) 」について、外務省に照会したところ、以下の回答があった。

条約第24条に規定する「general education system (教育制度一般) 」の内容については、各国の教育行政により提供される公教育であること、また、特別支援学校等での教育も含まれるとの認識が条約の交渉過程において共有されていると理解している。したがって、「general education system」には特別支援学校が含まれると解される。 (第5回特別委員会資料2)

書いた当時から、外務省の解釈は乱暴だな、とは思っていたのですが、この第5回特別支援教育に関する特別委員会資料2には、現行の教育システムを変更したくないという意図が透けて見えることに最近気がつきました。

これまでに何回も書いてきているように、インクルーシブ教育とは本来「障害のある子どももない子どもも一緒の教室で学ぶ」ということです。これは、特別委員会の委員や、官庁の担当者も知っていたはずです。

また、このインクルーシブ教育を取り入れるとうたった国連の「障害者の権利に関する条約」を日本は正式に国会で批准しています。

それでも、インクルーシブ教育体制ではない特別支援学校(学級)を残すためにどうすれば良いのか? それは特別支援学校もインクルーシブ教育の一環であるというロジックを作り上げることです。

上記の引用文をよくご覧下さい。何か変な表現が目につきませんか。それは「障害者の権利に関する条約第24条にある「General education system (教育制度一般 (ママ) ) 」という文章です。「ママ」とは、この文章で私がgeneral education systemを「教育制度一般」としたのではありませんよ、ということを皆さんに知らせるために書いたのです。なぜ、「ママ」としたのでしょうか。それはgeneral educationには普通教育という意味があり、特別支援学校などで行われている特殊教育special educationの対語であるからです。

試しに、辞書で普通教育の英訳を引いてみてください。general educationあるいはcommon educationとでてきます。また特別支援学校の英訳には、special support education schoolやschool for special needs educationがあるようですが、special educationという言葉は共通しています。そしてspecial educationを行う学校が、general education (system) の中にあるというのは、明白な論理矛盾になってしまうのです。

そしてその論理的矛盾を見えないようにするために、意図的かどうかは分かりませんが、general education systemを「教育制度一般」と翻訳することによって、その中に特別支援学校があるという矛盾しない論理を組み立てたのではないでしょうか。

下に文科省ホームページ上の訳と私の訳を示します。

第24条2(a)
障害者が障害を理由として教育制度一般から排除されないこと及び障害のある児童が障害を理由として無償のかつ義務的な初等教育から又は中等教育から排除されないこと(文科省ホームページより)

障害があることによって、障害をもつ人が普通教育制度から排除されないこと、そして障害をもつ子どもが無償の初等義務教育、あるいは中等教育から障害をもつことによって排除されないこと(筆者訳)

原文は以下のとおりです。

2(a) Persons with disabilities are not excluded from the general education system on the basis of disability, and that children with disabilities are not excluded from free and compulsory primary education, or from secondary education, on the basis of disability;

微妙な違いに見えますが、この違いによって、日本では特別支援学校も、インクルーシブ教育の一環とすることの矛盾が消えるのです。

24条の第一項には、「国は生涯学習とあらゆる教育段階でのインクルーシブ教育を保障しなくてはならない(筆者訳)」と書かれており、その文脈から判断すると、the general education systemが普通教育体制を示していると考える方が自然ではないでしょうか。

いまさら言葉の揚げ足をとっても仕方がないかもしれませんが、前回に引き続き、やりきれない気持ちでこのブログを書きました。

※過去の「何か変だよ、日本のインクルーシブ教育」シリーズは以下よりご覧ください。
何か変だよ、日本のインクルーシブ教育 (1) ~ (3)
何か変だよ、日本のインクルーシブ教育 (4)
何か変だよ、日本のインクルーシブ教育 (5) 大いなる誤解
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親の因果が子に報い?

2018年11月 2日掲載
どのような成育環境が子どもの発達に良い影響を与えるのか、という課題は子どものウェル・ビーイングを考える上で最も重要な課題と言ってよいでしょう。より良い環境を探索するために、世界中で毎年たくさんの調査研究が行われています。

成育環境と一言でいっても、その要素は極めて多数あり、個々の要素が子どもの発達に及ぼす影響を見るためには、多数の子どもの対象者を長年にわたって追跡調査する「コホート研究」という方法が最も一般的です。

コホート研究では、種々の環境要因が子どもの発達に及ぼす影響を、さまざまな発達尺度(知能検査、言語発達検査等々)によって判定しますが、その際に忘れてはならないのは、一人ひとりの子どもとその親の属性とよばれる因子(交絡因子といいます)です。例えば、性別、未熟児であったかどうか(在胎週数)、出生順位、これまでにかかった病気の種類(既往症)、障害の有無などです。さらに、子どもにとって親は重要な環境の一つですので、親の教育程度、就労の有無、年収そして婚姻形態(未婚、既婚、別居、離婚、死別)などの交絡因子を調べ、環境が子どもの発達に与える影響の統計的な分析の際にそれらを考慮した分析方法を使います。

世界中で行われているコホート研究の論文をよく読みますが、最近特にアメリカで行われるコホート研究の交絡因子に、見慣れない因子が加わるようになりました。親の属性の中にincarceratedという項目がよく登場するのです。最初にお目にかかったのは、以前このブログでご紹介した、ストレスによって遺伝子が変わる、という内容の論文でした。父親の属性として、離婚、死別、そしてこのincarceratedが入っていたのです。

Incarceratedとは「収監されている」という意味で、親が犯罪を犯して刑務所に入っていることを示しています。アメリカでは収監者は220万人もおり、当然子どもたちの親の中に多数の収監者がいることになります。そして以前ご紹介した論文にもあるように、親の収監は子どもにとって大きなストレス(逆境)になります。

親が収監されている子どもは、親の収監による貧困家庭という逆境に加え、「犯罪者の子ども」という世間の冷たい目の中で生きてゆくという心理的外傷体験にもさらされています。犯罪者の子どもには、「世代を超えた犯罪的な行動傾向」があるという根拠のあやふやな風評がありますが、それはむしろ貧困や世間から受ける心理的外傷によるものである、という研究結果も報告されているのです。

翻って日本の収監者の子どもはどのような人生を送っているのでしょうか。日本の収監者数は70,000〜80,000人とアメリカと二桁違いますが、子どものいる収監者も大勢いるのではないでしょうか?

交通遺児に対しては、奨学金を支給する制度がありますが、収監者の子どもは、親の因果が子に報い、といった社会通念の中で、社会的な援助が受けられない立場にいるのではないか、と心配になります。交通遺児と同じく彼らにも何の責任もないのです。


参考文献
  • Mason DJ. Forced Separation of Children From Parents: Another Consideration. JAMA. 2018;320(10):963-964. doi:10.1001/jama.2018.12154
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注射と社会情動的スキル

2018年10月26日掲載
子どもの発達というと、昔はもっぱら認知(知能)や運動発達のことを意味していましたが、現在は社会情動的スキルの発達にも関心がもたれています。社会情動的スキルの例として有名なマシュマロテストがあります。子どもにお菓子のマシュマロを見せて、すぐに食べずに一定時間我慢できたらもう一つあげると約束して、子どもの我慢を見る心理テストです。マシュマロテストを考案した心理学者のミシェル博士は、我慢できた子どもの10年後の発達が、我慢できなかった子どもより全般的に良いことを示して大きな反響を呼びました。

今や教育の専門家の中では、子どもの社会情動的スキルをどうすれば伸ばすことができるのか熱心に検討が行われています。

小児科医として、我慢を含めた情動コントロールの個人差をまざまざと見せつけられる場面を経験してきたので、ここでご紹介します。

その場面とは、子どもに注射をする時です。子どもに痛い思いをさせたくないというのは万人に共通の感情ですが、検査や治療のために痛い注射をしなくてはならない、というジレンマに小児科医はいつも向き合っています。まだ若い頃は、子どもを安心させるために「いたくないよ」とか「ありさんにかまれた時みたいにチクッとするだけだよ」といった常套句をよく使ったものですが、ある時から子どもをだますのは良くないことに気づき、今は「いたいけど我慢しようね」といっています。

情動コントロールの個人差というのは、痛い注射をしている時の子どもの反応です。絶対に注射など受けたくない幼児は、看護師や親が腕を抑えていても、全力で腕を引っ込めたり、腕をぐりぐりねじって注射をさせまいとします。幼児とはいえ、全力をだすととても抑えていることはできません。

ところが、大声で泣いていても、腕は動かさず注射を「あえて」甘受する幼児も多いのです。多くの場合母親も「いいこだから我慢するのよ」といった励ましの言葉をかけています。子どもは痛みに対して泣き声はあげるものの、注射をすることには反抗していないのです。

そして、全力で抵抗する子どもの母親は「ほんとにいたい注射なんていやだよね」と子どもに言ったり、注射をする私を非難するような目つきで見たりすることがよくあるのです。痛いけれど注射は必要なんだよ、と親が真から納得している場合には、大声で泣きながらも腕は動かさない、という子どもの行動につながっているように感じられるのです。

子どもの発達を何が何でも母親のせいにする風潮には賛成できませんが、親子のしっかりした愛着関係と、つらい事であっても治療や検査のために注射が必要であるという母親の社会場面の理解力(これも社会情動的スキルですね)は、子どもの社会情的動スキルの発達に重要な役割があるのではないか、という個人的経験からの推測です。

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このブログで以前数回にわたって日本のインクルーシブ教育の問題点について私の思うところを述べてきました。先日ある講演会で、ブログに書いたのとほぼ同様の内容でお話をしましたが、講演後に一人の女性が私のところにきて、「私は先生のお考えに賛成できません」と言ってこられました。さらに「私の娘は自閉症で特別支援学校に通っていますが、そこで大変良くしていただいています。娘は普通学級に通うなんて考えられません。きっとストレスが大きすぎて耐えられないと思います。」と言われました。

その時に私がどのようにお話ししたかを、以下のある記事について触れたあとに述べようと思います。

ある記事とは、特別支援教育の専門雑誌に掲載されたものです。著者である特別支援学校の教員の方が、日本のインクルーシブ教育について、特別支援学校の教員の会話に託して書かれた記事です。以下にその会話の概要を示します(一部改変しています)。

教員A「その子に合わせた学習内容が用意できていないのに、ただ通常の学級に居させればよいというのは、教育という名を借りた指導放棄だと思います」
教員B「フル・インクルーシブを目指す立場の人の言うことは『特別支援学校に通うことは差別にあたる』と言っているようで悲しくなります。うちの学校の子どもが通常の学級にいったら大半はパニックになりますよ。」

講演会での女性の意見と、この記事の中に述べられている考え方には、大きな誤解があります。皆さんはそれがどのような誤解であるのか、お分かりになるでしょうか。

私は講演会の会場で意見を言ってこられた女性に、以下のようにお答えしました。

「誤解がないようにお話ししますが、私は娘さんのようなお子さんを、現在の普通学級にそのまま入れるのが良いなんて一言も言っていません。私がお話しした『真のインクルーシブ』は、現在の普通学級とは全く異なる普通学級を作り上げた後に初めて実現するものです。発達障害をもつお子さんなど様々なニーズのある子どもに対応するために必要な教員と設備が整った『普通学級』に、地元のすべての子どもが通うのです。そのためには、現在の学校のシステムを大きく変える必要があり、お金も手間も大変にかかる制度改革が前提になります。」

意見を言われた女性が、私の説明で納得されたかどうかは分かりませんが、雑誌に掲載された教員の会話に託した考え方の背景にも全く同じ誤解があります。それどころか、私もその一員である「フル・インクルーシブを目指す人」の真意を曲解しているのではないかとさえ言いたくなります。なぜなら特別支援学校(学級)の児童生徒を、そのまま現行の普通学級に移すことが、インクルーシブの目標ではないことくらい、特別支援教育に関わる上記の記事を書いた教員の方には分かっているはずだからです。

以前のブログで、日本のインクルーシブ教育が、制度設計の段階でいわば骨抜きにされたことを述べました。今回紹介した2つの事例は、制度設計に係る審議会の中で、ある委員の方が主張された内容と奇しくも同じです。その委員の方は、自身の経験として、かつて自閉症をもつ子どもが普通学級でパニックを起こした事例を根拠に、子どもたちを「分ける」ことを強く主張されていました。この委員の方も、現行の普通学級そのままをインクルーシブ教育における「普通学級」と見なすという大いなる誤解に基づいていたのです。

結局、特別支援学校もインクルーシブ教育体制の一部であるとか、日本のインクルーシブはパーシャルインクルーシブ(一部だけのインクルーシブ)であるといった奇妙な理論(?)の上で、日本ではインクルーシブ教育が行われていると主張する背景には、現行の教育体制は変えたくない、という一致した強い意志があるとしか言いようがありません。

こうした日本の教育体制の前に私が感じるのは、一抹のむなしさだけです。

※過去の「何か変だよ、日本のインクルーシブ教育 (1)~(3)」はこちら、(4) はこちら
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赤ちゃんポスト

2018年9月14日掲載
正確には「こうのとりのゆりかご」と呼ばれる試みが熊本市のある病院で始まって11年になります。望まぬ妊娠のために中絶をしたり、子どもを捨てたりするような不幸な事例を減らすことができるのではないかという観点から賞賛する声もありましたが、同時に「無責任」な妊娠、出産が増えるのではないか、あるいは自分の生みの親を知らないで育つ子どもの知る権利はどうするのだ、といった批判も聞かれました。

当時私は数人の新聞記者から電話取材を受け、意見を聞かれましたが、子どもの知る権利はどうなるのだ、といった質問が多かったように記憶しています。考えてみれば、それが当時の新聞記者や新聞社の意見だったのでしょう。どのように答えたのかよく覚えていませんが、中絶されればそもそも生を受けなかったわけですし、親のことを知っていても捨てられれば、親が誰であるかどうかということはその子の人生の幸福につながらないのではないか、などと言ったような気がします。ただ記者の質問がなんとなく詰問調で、私に「子どもの知る権利を侵しておりけしからん」と言わせようとしているように感じたことを覚えています。

小さな子どもは自分の気持ちをうまく周囲に表明することができないので、大人は子どもの代弁者(アドボケート)として子どものために発言しなくてはならない、と言われますが、では「子どもは知りたいはずだ」という仮定は本当にいつでも正しいのでしょうか。

以前、子どもの知る権利に従って真実を知らせることが、必ずしも子どもの幸福につながらないある事例をアメリカで見聞したことがあります。やや専門的になりますがここで紹介したいと思います。

遺伝病の多くは子どもの時から症状が出ますが、大人になってはっきりした症状がでるハンチントン舞踏病という病気があります。発症後数年で不随意運動が進行し、寝たきりになってしまうことも多い病気です。この病気は優性遺伝という形式で遺伝し、親がこの病気だと子どもは2人に1人(50%)が発症します。現在では遺伝子検査でこの発症前でも診断がつきますが、私が見聞した時はまだ遺伝子による診断はできず、ある特殊な検査で発症前の子でも診断する方法が開発された時でした。アメリカで問題になったのは、この方法で30歳くらいになると自分がこの病気を発症してしまうことを知った若者の自殺が多いことでした。そして、子どもが幼少のうちに親の判断でこの検査を受けさせることが倫理的に許されるのか、ということが問題になったのです。検査をして陰性であれば良いのですが、陽性であれば早晩その子は結果を知ることになります。また親がそれを子どもに隠したとしても、30代過ぎに病気が発症することが分かってしまえば、それが子育ての態度になんらかの影響を与えてしまうことが予想されます。裁判になったこの医の倫理の難問は、確か親の判断で子どもの検査をすることは許されない、という結論だったように思います。赤ちゃんポストに預けられた子どもは、大きくなってから真実を告げられているそうですが、無前提に子どもの知る権利は当然だ、と言い切るのは難しいのかもしれません。皆さんはどう思われますか。

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子ども大学

2018年8月24日掲載
私は長年大学で学生に対して授業や実習などの教育を担当しました。教育に関わったことのある人は皆知っていることですが、幼稚園、小・中・高校で教員となるためには、国家資格である教員免許の取得が必須ですが、大学の教員になるためには、教員免許は要りません。普通に考えると、大学での教育には小中高より高度な内容を含んでいるはずですから、大学の教員に免許が必要ないことは不思議に思えるかもしれません。こういう私も、大学時代、教員免許に必要な科目は一つも受講しておらず、当然のことながら教員免許は取っていません。

では誰でも大学で教育できるのかというと、そうではなく、大学に就職する時にその人に教育をする能力があるかどうか、大学独自の審査があります。しかしそれは国家資格ではないために、例えば様々な分野(スポーツ、政治等)で活躍した人が、大学教員として招かれることは良くあります。私の知人の外交官は、退職後、ある大学の国際関係の学科で教えていますし、オリンピックに出場したアスリートで体育系の大学教員をしている人はたくさんいます。

冒頭に堅苦しい話をした理由は、小中高では教員に必要な資格を厳密に国が管理しているのに対し、大学では教員の資格は国で管理せず、大学に任せているという違いをはっきりさせておきたかったからです。大学ではそれだけ自由度の高い授業が可能なのです。

今回のテーマである子ども大学の意義はそこにあります。

子ども大学は、2008年に埼玉県川越市で産声を挙げたNPO活動です。小学4、5、6年生の希望者を対象に、様々な専門分野の大学教員や、社会で活躍している多分野の専門家が教師となって講義や実習を行うという活動です。現在では日本各地に子ども大学ができています。CRNの名誉所長の小林登先生が、横浜市で2014年に立ち上がった「子ども大学よこはま」の学長になられ、私も誘われてそこの副学長をお引き受けしています。

現代は情報の時代であり、テレビやインターネットあるいは一般の講演会などで、小学生も小学校のカリキュラム以外の知識に接する機会はあります。しかし専門家が小学生向けに語りかけ、小学生が自由に質問できる双方向的な授業の機会は滅多にないのではないでしょうか?

「子ども大学よこはま」では、子ども大学としては先輩格の「子ども大学かまくら」の学長である養老孟司先生にも特別講義を受け持っていただいています。年間の講義回数は6回と少ないのですが、毎回保護者の方と一緒に元気な小学生が参加しています。今年度初回の講義は2本立てで、養老先生が虫の話、私が「なぜ医者になったか」というテーマで講義を行いました。

養老先生の講義は「今日は何の話をしようかな」で始まりました。話す内容を事前に考えずに、その場で自由に決められたのです。洒脱な語り口で、昆虫標本の作り方や、なぜオサムシという何の変哲もない虫を好きになったかから始まり、世界中には500万種類の昆虫がいるが、そのうち400万種はまだ同定されていない新種であることなど、気持ちの赴くままのまさに自由度いっぱいの話をされました。足が6本の昆虫は好きだが、足がたくさんあるクモやムカデは大嫌いであるという個人情報も聞かせて頂きました。養老先生のお話には、小学生だけでなく同伴している保護者の方々も熱心に聞き入っていました。

私は、世の中の様々な場所をあげて「この中に医者はいるかな?」というクイズ形式の講義をしました。病院や国会、拘置所や客船の中に医者がいることは多くの子どもが正解しましたが、オリンピックや海外遠征の登山隊などにも医者が随行することを話し、いろいろなところで働けることを強調することで、医者といえば病院にいるというイメージを壊してもらうことが講義の一番の目的でした。登山隊に参加する医師という話から、私自身のカラコルム登山隊での経験談、そしてその後のネパールやガーナの国際医療の話と私自身の経験に引きつけた話をしました。正直に白状すると、できれば受講生の中から医者(できれば小児科医)を目指す小学生がでればいいな、という下心もありました。

大学生や一般社会人を対象とした講演会では、講演後の質問は数人からあれば良い方ですが、子ども大学では、質問はありますか、と聞くとほぼ全員が元気いっぱい手を上げます。この旺盛で正直な好奇心が、どうして大学生や社会人になると陰を潜めてしまうのか、本当に不思議です。大人になって分別がついたのだと説明したくなりますが、小学生ほどではないものの外国の学生はよく手を挙げますから、日本独特の「分別」なのかもしれません。

授業の後、養老先生の所に何人かの子どもがサインをもらいにいったことで火がつき、ほぼ全員が養老先生と私の前に行列をなしてサイン会になってしまいました。

私にサインをもらいにきたまだ幼さの残る4年生の女の子が目を輝かせながら、「私も小児科医になりたいです」とうれしい告白をしてくれました。心の中で快哉を叫んだことはいうまでもありません。

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スイスから涼風を

2018年8月 3日掲載
もう60年以上生きてきた私ですが、これほどの夏の猛暑は初めてです。これを読んでいる皆さんも、このじりじりするような熱が過ぎ去るのを待ち望んでおられるでしょう。

そんな皆さんに、今回はスイスの山から涼風をお届けしたいと思います。

以前このブログにも書きましたが、学生時代からの山登りは私のほぼ唯一の趣味となっていました。衰える筋力やバランス感覚に逆らいながら、あと何年山登りが続けられるのか、やや焦りに似た気持ちがあります。

そうした気持ちの中で、若い頃からのあこがれであったスイスアルプスの山登りが、再び私の気持ちの中で頭をもたげてきていました。私と同じような気持ちをもっている大学時代の登山クラブの友人2人とともに、ついにスイスアルプスの登山に行ってきました。

昨年から計画を練っていましたが、なんといっても衰えた筋力をなんとかしなくてはならないということで、今年に入ってから、冬の八ヶ岳や残雪期の谷川岳、北アルプスで足慣らしをしました。学生時代であれば、登山地図に記されたコース時間の半分くらいで行けたのに、ほぼ標準時間いっぱいかかってしまうことに気を落としたり、どんどん追いこしていく若い登山者の後ろ姿を恨めしい気持ちで眺めたりしながらの登山でした。

7月初旬、友人と一緒にスイスのグリンデルワルトに向けて出発しました。目指す山は、世界3大北壁の一つ、アイガーの隣にあるメンヒ(4107メートル)です。スイスの山にはその難易度でランク付けがされており、メンヒはPD(Petit Difficile:やや難しい)で4000メートル超えの山としては比較的簡単です。でも一応ピッケルやアイゼン(クランポン)、そしてロープで身体を結び合って登る技術が必要です。

登山は、登山電車の終点であるユンクフラウヨッホから始まります。駅で登山ガイドと落ち合い、ヨーロッパで一番長いアレッチ氷河の上を約1時間歩いて、メンヒ登山の取り付き口である岩場に着きます。日本ではやや危険な岩場には、鎖やはしごが取り付けてありますが、スイスの山には、そうした設備はほとんどありません。自然な山の状態を保ちたい、という気持ちがあるのかもしれません。

登山開始の取り付きから、次の足場を探しながらの岩登りで、ロープで確保されているとはいえ、冷や汗をかきながらの登坂でした。その後は、やや楽になりましたが、ガイドの歩くスピードが速く、また高度が高いせいもあって、息を切らしながら最後の狭い雪の稜線にたどり着きました。切り立っているために「ナイフリッジ」とよばれる最後の稜線は、両側がすっぱりと数百メートル下まで切れ落ちています。下の写真は頂上から見たこのナイフリッジですが、通過している間は、緊張のあまり恐怖感を感じる暇もないほどでした。

chief2_56_01.jpg 頂上からの眺めはすばらしく、眼下にヨーロッパでもっとも長いアレッチ氷河や、前後にアイガーやユンクフラウなどの雪をかぶった秀麗な山が白く輝いて見えました。

へとへとになりながら、途中にある小屋まで降りてきましたが、60代半ばを過ぎて積年のあこがれをやり遂げたという満足感と、もうこんなに疲れる思いはしたくないという気持ちが半々でした。

でも猛暑の中で体力が回復してくると、また来年スイスの別の山に登りたいという気持ちが頭をもたげてきています。ランナーズハイならぬ、クライマーズハイになってしまったようです。

chief2_56_02.jpg
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今回は「発達障害」という名前(診断名?)に対する誤解について書きたいと思います。

発達障害という名前(診断名)は、極めて平易な言葉の組み合わせでできています。「発達」も「障害」も、誰でも知っている言葉です。そのため「発達」や「障害」という言葉のもつ意味について、誰でもその人なりの解釈をもつことができる、つまり「知っている」ことになります。

このことが、実は今回のテーマである大きな誤解のもとになっているのです。発達障害は字義通りに解釈すれば、「発達」が「障害」されている状態ということになります。発達や障害という概念はとても広い意味をもっているために、字義通りに解釈すると「発達障害」は、発達が障害されている状態すべてを包含することになります。

誤解その一:知的障害も発達障害に含まれる?

たとえば、知的発達が障害された状態は、知的障害(医学的には精神遅滞)ですので、知的障害は発達障害に含まれると考えたくなります。専門家も含めて、知的障害は発達障害に含めると考えている人がいるのは事実ですが、知的障害は発達障害には含まないというのが現在の考え方です。

こうした、知的障害を発達障害に含める考え方は、かつて日本精神薄弱学会という知的障害を主な研究対象とする学会が、現在日本発達障害学会と名称を変更していることや、そこで発行される学会誌の名称が「発達障害研究」であることなどが大きく影響しています。「発達障害研究」の中には、当然知的障害についての研究が掲載されています。ダウン症や脳性麻痺などに関する研究論文も載っています。こうした「発達障害」という言葉の使われ方の歴史を見れば、知的障害も発達障害の一つと考えたくなるのも無理もありません。

しかし、既に述べたように現在では発達障害は、基本的には知的障害を含みません。現在使用される発達障害の定義に大きな影響を与えているのが、平成16年に制定された「発達障害者支援法」です。発達障害者支援法には、「『発達障害』とは、自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害、その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するもの(2条1項)」と明記されています。法律がすべてではありませんが、現在は知的障害は含めずに、注意欠陥多動性障害、自閉症スペクトラム、学習障害(およびそれに類する状態)を発達障害を構成する主要な障害として考えることになっているのです。

誤解その二:「発達障害」は自閉症スペクトラムのこと?

誤解その一で説明したことが、きちんと理解できていれば、この「誤解その二」はそもそも存在しません。ところが、専門家を含めた多くの人々に、「発達障害」を自閉症スペクトラムという意味で理解、使用する強い傾向があるのです。私がそのように思う理由には、いくつも根拠があります。

先日ある障害に関するテレビ番組を見ました。100人の様々な障害をもつ人がゲストで出演しており、複数のお笑いタレントさんが、普段は聞きにくいような質問をゲストに質問する、という趣向の番組でした。しゃべりのプロであるタレントさんが、巧みに議論を盛り上げてゆく良くできた番組だと思いましたが、一つだけがっかりしたことがありました。一人一人のゲストは、胸に自分のもっている障害名(「脳性まひ」「てんかん」等)が書かれた名札をつけていましたが、その中に「発達障害」と書かれているものがあったのです。発達障害は、すでに述べてきたように3つの障害の総称であり、単一の障害を示したものではありません。この名札をつけて出演したゲストの方が、3つの障害のうちどれであるのか、まったく分かりませんでした。これは、例えば、狭心症の患者さんが「循環器疾患」、胃潰瘍の患者さんが「消化器疾患」という名札をつけるようなものです。

一般の人だけではなく、専門家にも同様の傾向が見られます。障害をもつ人が年金を申請する時に必要な診断書(国民年金・厚生年金保険 精神障害用)に、医師が記入する申請者の症状を記載する欄があります。そこで医師が、精神障害の種類と症状を選択するようになっています。その中に「発達障害関連症状」という項目があり、さらに詳しい症状を選ぶようになっています。そこには、「1.相互的な社会関係の質的障害、2.言語コミュニケーションの障害, 3.限定した常同的で反復的な関心と行動、4.その他」としか記載されていません。よく見るとすべて自閉症スペクトラム障害の症状です。注意障害や学習障害という項目はありますが、それらは知的障害等、という項目の中にあります。この申請書を作った人は専門家であるはずですが、専門家でさえこんな状態なのです。

まだまだこうした事例は枚挙にいとまがありません。歴史的な経緯や、かつて自閉症スペクトラム障害が広汎性発達障害という紛らわしい名前で呼ばれていたことなどが原因としてあるのだとは思いますが、専門家の間にこのような曖昧さがあるのでは、一般の人々の間にある誤解は当然かもしれません。

以前ある本のなかで、発達障害の専門家が、自閉症スペクトラム障害や注意欠陥多動性障害と細かな診断名を挙げるよりは、発達障害という総括的な名前で呼んでおいた方が便利かもしれない、という意見を述べていましたが、どうしてそのような考え方ができるのか、全く理解できません。共通点もあるかもしれませんが、3つの障害は病態や対応法が全く異なるのですから・・・。


関連コーナー:Dr. 榊原洋一の部屋【発達障害】
https://www.blog.crn.or.jp/lab/07/02/
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障害をもつ子どもに対する無理解や偏見がなかなか無くならないことは、すでに「何か変だよ」シリーズのブログで書いてきました。私たちの中にある、自分たちと同じでない者や事に対する心理的なメカニズムがこうした偏見の根底にあるのかもしれません。

こうした偏見やそれに基づく差別をなくす試みの一つであろうと思うのが、「障害」という言葉そのものを使わないようにすることです。発達障害や、その他の障害に関わる人々の間で、このような考えに基づいて言葉の言い換えがされていることがあります。

障害をもつ子どもが、偏見や無理解の対象になるのは、文字に黙示される悪い意味のせいだ、というのです。特に「害」という字に悪い意味があるということで、「がい」とひらがなで書いたり、あるいは「害」の代わりに「碍」(発音はガイ)を使うのです。

私は、こうした考え方に賛成できません。私たちの中にある障害に対する偏見や無理解は、その言葉にあるのではなく、前述したように、自分と異質の状態を理解したくない、あるいは受け入れたくないという心理的機転にあると思うからです。

「害」を「がい」と開いて書けば、「害」という字が、私たちの中に悪いイメージを引き起こすことを防ぐことができるという思いがあるのでしょうが、問題は「害」という字ではなく、「害」という字をみると私たちの中に悪いイメージが引き起こされるという心理的機転にあるのではないでしょうか。

「障碍」に至っては、お話になりません。「碍」という字に悪い意味がないと信じているのだと思いますが、漢和辞典を見れば「碍」という字と、その元字(碍は略字)である「礙」には、「さまたげる」「邪魔をする」「さわり」といった「害」とほぼ同じ意味があるのです。中国では現在でも「障碍」という言葉が日本語の「障害」と同じ意味で使われています。多くの人になじみのない字に置き換える事によって、カモフラージュしているようにさえ思えてしまいます。

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乳幼児健診は楽しい!

2018年6月15日掲載
私は大学病院にいた頃に先輩の医師から引き継ぎ、ある保育園で毎年2回乳幼児健診を続けています。分園を含めると120人の0歳児から5歳児までの園児の健康と発達の状態を半日で診なくてはならないので、結構重労働なのですが、私にとって本当に楽しい時間になっています。

楽しい理由は大きく2つあります。

1つは、乳児期から幼児期の健康な子どもに直に接する機会であることです。私を見ればただ泣きじゃくり、保育士さんの膝の上で身体をくねらせて診察を怖がった乳児が、たった数年で言葉を話し、診察に協力する幼児に変貌するのです。

本当は嫌なのに、聴診器を当てるあいだ身体を動かさずに我慢している子どもを見ると、こうした社会性はどうやって身に付いてくるのだろう、と感動すら覚えます。発達障害の子どもの診療が私の医師としての本業ですので、社会性や共感性が豊かに育っている子どもを見る機会があまりないことも背景にあります。毎年2回見ることによって、一人一人の子どもの成長や発達を確認できることも、人の発達を専門とする私にとっては、有意義な経験でもあります。半年前はまだ歩いていなかったり、言葉がでていなかった子どもが、大人の時間のスケールからすれば「ほんの一瞬」で、歩き、しゃべれる子どもに変貌するのです。毎日接していると気がつかないくらいの速度ですが、半年に一度だと、まるで早送り写真のようにスピード感を感じることができるのです。

この保育園では、様々な障害をもった子どもを受け入れています。こうした子どもの中に、医療機関で「自閉症スペクトラム」と診断された子どももいます。しかし、前に「過剰診断」のブログで書いたように、その多くが「他人の意図の理解」や、「顔の参照」といった社会性のある行動がみられており、親御さんに、私としては自閉症スペクトラムとは思えない、と伝えた経験が幾度とあります。

つい最近の春の健診では、かつて自閉症スペクトラムと診断され、私が多分過剰診断であろうと思っていた子どもが2人受診しました。2人ともよくおしゃべりをする普通の子どもに育っていました。保育士さんに、この子たちには保育上で何か問題がありますかと聞くと、まったく普通の子どもです、といううれしい答えが返って来ました。

私が乳幼児健診が楽しい、というもう一つの理由です。

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