はじめに
インドのタミル・ナドゥ州の新年は、1月1日よりも少し後に「ポンガル」というお祭りで、盛大に新しい年を祝い豊作を祈る儀式が行われます。2025年はインドの暦により、ポンガルの時期は1月13日から15日と設定されていましたが、直近になって州政府からの命令で、学校は前後の週末の休暇を含めた9日間が休みとなりました。筆者は娘とともに日本に一時帰国をして年末年始を過ごしておりましたが、インドへ戻るための飛行機の日時を変更し、延長した冬休みを日本で楽しむことができました。
タミル・ナドゥ州チェンナイ市のような大都市では、地方の市町村から出稼ぎに来ている人々が多く、この時期は故郷に帰省したり旅行に出掛けたりして、お盆の東京都心のように、人がまばらになり道路が空いています。筆者家族のように仕事で駐在している外国人のほとんどは、一時帰国や海外旅行に出かけています。チェンナイ市内に暮らす地元の人々は、大きなイベントや花火をあげてお祝いをします。今年の我が家は、ポンガル明けにインドに帰国したため街の様子は分かりませんでしたが、例年、老若男女がきれいな衣装に身を包んで街の寺院やパーティーホールなどで盛大にお祝いしています。
さて、このような長期休み明けの学校では様々な問題が発生します。子どもたちはお祭りムードから一転して、すぐさま試験期間に入ります。特にローカルのプライベート・スクールの中でも進学校や大学付属の高校に通っている子どもたちにとっては、この時期の成績はとても重要で、本人のみならず親の期待に押しつぶされそうになる子どもが多くいます。また、お祭りや旅行気分から抜け出せず、登校を渋ったり欠席したりする子どもも少なくありません。今回は、このような子どもたちのメンタルケアを担うスクールカウンセラーにスポットを当ててレポートします。
1. 10代若者の「自殺」を止めるために! スクールカウンセラーの配置
みなさんはインドにおける自殺の多さをご存知でしょうか。悲しい話ではありますが、労働環境の過酷さ、病気、貧困、差別など、様々な社会の課題とともにインドの自殺問題は年々深刻化しています。特に10代の若者の自殺率がコロナ明けに急増した*1背景には、受験による競争の過熱や将来への不安など、世界中の多くの若者が経験している得体のしれない恐怖がありました。不安を押し殺してひたすら勉強に取り組み、誰とも交流できずに苦しさを吐露する場所もなく、最終的には一人で命を絶ってしまうというケースがニュースで取り上げられました。
2019年5月のTimes of India紙の記事*2の中で、「インドでは3億1500万の学生に対して150万人のカウンセラーが必要である」ということが語られています。
インドの学校の試験制度の厳しさや学校教育における学力重視で、子どもの心への無関心な状況が子どもたちを孤独に追いやっている、と教育学者たちは指摘しています。また、狭い職業選択の観念で、社会的地位や高収入の職業にしか目を向けない若者の実態が明らかとなっており、学校における心理カウンセラーだけではなく、キャリアカウンセラーの必要性を説いています。
そしてインドの民間企業の調査によると、インドにはおよそ250種類以上の職業があるにもかかわらず、14歳から21歳の学生の93%が認識しているのはわずか7つの職業だけである*3という内容に驚きます。その主なものは、AIやソフトウェアのエンジニアや医者やコンサルタント、会計士などであり、高学歴で高収入を目指す若者が、小学校高学年から試験勉強に耐えながら大学進学を目指す姿が浮き彫りになっています。まだ、コロナが流行する前のインドの社会においてもこのようにカウンセラーの必要性が訴えられていたわけです。
インド政府は、コロナ禍を経て、都市部のプライベート・スクールにはスクールカウンセラーの配置を要請しました。スクールカウンセラーを雇う余裕のない多くの学校は、一人で複数校兼任しているカウンセラーに非常勤として来てもらっています。筆者の子どもが通っているアメリカン・インターナショナルスクール・チェンナイには、幼稚園、小学校、中学校、高校に教育心理のカウンセラーがそれぞれ常駐しています。また、高校にはキャリアカウンセラーや、医療連携のできる臨床心理士のカウンセラーも複数名勤務しています。
富裕層の住居は、戸建ての一軒家または広いマンションなどです。部屋数が多く面積が広いため、家族が揃って食事をしたり、リビングでくつろいだりする以外の時間は、子どもたちが自室に入ってしまうと、部屋の中の様子は全く分かりません。子どもの部屋にもトイレや洗面所、お風呂やシャワーも備わっていますので、ある程度の食料を蓄えておけば、いわゆる「引きこもり」の環境を簡単に作ることができます。そうした中で、苦悩を抱えて自傷行為や自殺に及んでしまう富裕層の若者も少なくありません。
2. スクールカウンセラーの学校内での位置づけと役割
インドのスクールカウンセラーは、担任や授業をもたない教員として配置されることが多いです。日本の保健室の養護教諭のような立場で、学校教員の一員として子どもたちに関わる仕事をしています。中にはキャリアカウンセラーを兼任している先生もいます。子どもの心のケアについては知識があり、プロではあるけれども、実際にそのカウンセラーの先生たちも、過酷なインドの試験勉強や厳しい大学受験を乗り越えて、その後アメリカやイギリスなどへの海外留学を経て資格を取得してその職業に就いているため、子どもたちに対する姿勢はとても厳しいです。「勉強しなければ良い就職はできません」「そのために何をしなければならないか」「スマホから離れましょう」というアプローチで心身の健康と受験勉強の両立を促し、ゴールはやはりキャリア形成であるという点が、インド特有であると感じます。
保護者との面談は、早朝の授業前か放課後に行われることが多く、授業時間中に保護者と面談をするというのは、懲罰を伴うような問題行動や緊急を要する場合のみです。基本的に、カウンセラーの仕事は、子どもと向き合うための仕事と考えられているので、保護者が学校で直接カウンセラーと話をしたり相談をしたりする機会は少ないそうです。
日本の場合は、スクールカウンセラーと保護者との関係性がとても重要に思いますが、インドではとてもドライな関係であることを知り、意外だったのを記憶しています。私の知人のインド人の女性は「なんで私が自分の子どものことをスクールカウンセラーに相談しないといけないのよ? 赤の他人なのよ? あの先生が私たちの家族の何が分かるの? 子どもが相談したいならすればいいんじゃないの? 私は関わりたくないわ!」と悪戯っぽい笑みを浮かべながら、冗談交じりに毒づきます。「ああ、スクールカウンセラーや臨床心理士などの職業が認識されていない世代の母親も、同じく7つの職業しか認識していないのだ」と納得した場面でした。
3. インドの「不登校」事情 ―インドには不登校という言葉がない?
インド人の多くが通う私立進学校においては、「不登校」の子どもというのは、ほとんどいません。みんな良い成績を取るために、一コマたりとも授業を聞き逃さないように通います。また膨大な課題に追われて、「日曜日は宿題完遂の日」と公言する子どもが多くいます。もし、たくさん欠席をして課題が進まなかったり、テストで悪い点数を取ったりすると落第します。そこで退学して学力レベルの低い学校に転校するケースもありますが、ほとんどの子どもたちは必死に勉強して学校に行くというのが当然と考えているようです。
しかし、中には学校の生活の規律に沿うことが難しく、ドロップアウトしてしまう子どもがいます。芸術や音楽やスポーツなどで秀でた才能のある子どもたちなら、ホームスクーリングという方法で自分のペースで学習を継続して、見事に大学進学や芸術家としての道を切り拓いていくこともあります。学校に行ったり行かなかったりを繰り返す、中途半端な在籍は「時間の無駄」と合理的に考える教員や保護者もいます。それぞれが自分で生活や学習の管理ができるのであれば、「ホームスクーリング」も一つの学びの方法であるとは思います。
インドの公立の小学校や中学校では、筆者が見ている限りでは、日本で言うところの「登校渋り」「不登校」という概念がないように思います。学校は行くべきところという文化が定着しているので、カウンセラーも不登校の支援という仕事は担っていません。しかし、インターナショナル・スクールの場合は、少し状況が違っています。知らない土地で始まる新たな生活への不安を抱え、適応できないインドの文化に戸惑う子どもたちがたくさんいます。ここでは、気候も言語も宗教も食事も服装も、何もかもが自国とは異なっています。登校後に泣きながら家に帰りたいと訴える低学年の子どもがいますし、食事がとれず、熱中症で倒れてしまう子どももいます。そのような子どもたちは、学校に常駐するナースやスクールカウンセラーが親身になって寄り添います。
あるインターナショナル・スクールのカウンセラーに、病欠や遅刻の多い子どもにどのようなアプローチをしているのか、インタビューをしました。登校不安を抱えている子どもに対しては、まず「何が一番不安で苦しいのか」を子どもが自覚し、教員がその気持ちを把握することが大切だ、と言いました。次に「その不安を取り除くためにはどうしたら良いか」を問いかけて、子ども自身に考えてもらい、解決の糸口を一緒に探していくそうです。現在の状況と原因が分かったら、次に何をすべきかを考えていくそうです。「学校や教員に対しての要望は何か」を具体的に書き出してもらったり、「自分が努力できることは何か」を考えてもらったりして、できることから実行していくように子どもに伝え、時には保護者にも協力を要請するそうです。精神的な不安や病気などで登校できない子どもたちだけでなく、発達障害の子どもたちへの支援も、スクールカウンセラーが入り口となって専門の医療機関に繋いでいます。
4. スクールカウンセラーと医療機関との連携
子どもたちの中には、集団生活で困り感や生きにくさを抱えている子どもが多くいます。授業中に集中できずに学習が定着しない子どもを、いくら大声で叱責しても、体罰を加えても、決して学力向上や学校生活への適応は望めません。学校側が必要と判断した場合は、保護者の同意のもとに外部の医療機関に連携します。低学年の場合には丁寧に時間をかけて行いますが、高校生や受験生などで事案がとても緊急性のあるときは、速やかに外部の医療機関に連携を取ります。また、子どもや保護者のいずれかもしくは両者が、学校のカウンセラーとの信頼関係を築くことができなかったときにも、外部連携が行われます。
先に述べたような自殺願望が現れたり、薬物乱用をしていたり性被害などを受けたりした子どもたちに対しては、学校だけで対処することは難しく、本人の気持ちを優先するというよりも保護者の意思を優先して、外部機関と連携されるケースが多いようです。
例えば、性被害や妊娠などが発覚した場合、周囲への流布を止めるために、できるだけ情報を知っている人の数を少なく抑えなくてはなりません。インドの社会では、まだまだ将来の結婚に備えて、貞操を守ることが親の義務と考えられています。子ども同士の噂を教師が聞いたら、すぐさま本人を呼び出してスクールカウンセラーへと繋ぎ、母親も学校に呼んで事情を説明した後に、その場で医療機関に繋ぐほどの迅速さです。警察に被害届を出すと事件が公になるため、ほとんどのケースでは被害を訴えることはありません。富裕層の通う学校であれば、家庭で隠密に中絶処置を行って学校に復帰し、無事に卒業を迎えられるケースがあるとのことです。しかし実際には、発覚した時点で即退学という学校も多いため、このような事案ではスクールカウンセラーが公に子どもや保護者と関わるのは難しいと言われます。と同時に、インドは私立校がとても多いため、容易に別の学校に転校をして新たに学びの環境を得ることができます。
また、一方で男子学生が当事者であった場合、校内で校長、担任、スクールカウンセラーなどで構成される特別な委員会が開かれて、退学処分や停学処分などが決められるのですが、ほとんどの富裕層の男子学生は不問となります。保護者の財力が大きいので、私立校においては寄付金という名目で免罪符を買うかのように筆者の目には映ります。
上記はとてもまれなケースですが、受験のストレスによる精神不安を抱える子どもや、心身への負担が大きい子どもたちの多さには、とても驚かされます。進学校の多くの高校生が受験勉強のストレスを感じていることをニュースで知りました。中でも、自傷行為や自殺の問題は深刻です。実際に私が関わる生徒の中にも、無数のリストカットの傷跡がある子どもがいます。本気で自殺を考えているようには見えないのですが、とても心配で、スクールカウンセラーのところに相談に行くように伝えるのが精一杯でした。
チェンナイ市内でも、精神科のドクターらが子どもたちの自殺防止の取り組みを始めています。スクールカウンセラーを通して予約する方が緊急対応してくれるという利点があるため、まずは学校の先生に相談をするのが一番良いのですが、公立の学校や学費の安いプライベート・スクールにはスクールカウンセラーが常駐していませんので、そのような場合は直接親が精神科医の病院の予約を取ることになります。この場合は、早くても1か月以上も先の予約しか取れないことが多く、その間に自殺を食い止められず残念な結果を迎えるケースもあります。インドには経験の豊かな小児精神科医がまだ少ないため、患者の受け入れの人数も限られてしまいます。そこでインドでは、海外に拠点をもつ民間企業の臨床心理士によるオンライン・カウンセリングの利用が増えています。中間層以上の家庭では英語を公用語として話しますので、アメリカやシンガポール、ドバイなどで活躍するインド人や外国人のカウンセラーを頼って、相談する家庭も増えました。
また、アメリカで修士号や博士号を取得して、インドで開業している臨床心理士のカウンセラーのクリニックがチェンナイ市内に3軒あります。ただし、臨床心理士によるカウンセリングでは薬の処方ができないため、重篤な場合には医師に繋がなくてはなりません。結果、近年では子どものメンタルヘルスに関して、薬物療法に頼るよりも、家族関係や基本的な生活習慣の見直しなど、子どもの心へのアプローチを早い段階で行い、重篤な状況になる前に食い止める方向に動いています。
それでも、インドならではの死生観に対する古い考え方が定着している農村部と都市部とでは人々の考えが異なります。羞恥から逃れるための「自殺」などは黙認されている地域があるため、インド全土で若者の自殺を食い止めるのは難しいのかもしれません。しかし、インド政府の働きかけにより、学校現場も子どもたちの見守りに関心をもち、特に10代の若者が定期試験や受験勉強で心身を衰弱させることが無いように、学校や家庭で子どもを守ることを教育のスローガンに掲げて以降は、少しずつ若者の自殺が減少しているとみられます。
筆者は子どもの発達科学に関する研究や実践に携わっており、スクールカウンセリングの領域を学ぶ機会を得ました。現在は、アメリカン・インターナショナル・スクールのボードメンバーとして活動しています。教員や子どもたちの入れ替わりの激しい学校のため、「学校を去る子どもと、残る子どものそれぞれの心のケアをどのように行うのか」という課題を柱に、スクールカウンセラーとともに、イベント企画や保護者とのミーティングなどの活動にできる限りの協力を行っています。
最後に
インドでは、子どもたちの心身をサポートするスクールカウンセラーの役割や意義が未だ多くの人々に認知されておらず、むしろ宗教や占いに頼る文化が根強く残っています。しかし、幼児や小学生の子どもに対しては、話に耳を傾け、褒めたり励ましたりする母親の姿を日本よりも多くの場面で見かけます。子どもを抱きしめて「あなたはできるよ」「あなたのことを誇りに思うわ」「あなたが今苦しんで頑張っていることを神様が見ているよ」「ママはあなたを世界で一番愛しているのよ」などの素敵な言葉が、日常生活の中にたくさん溢れています。筆者も日本では恥ずかしくてなかなか口に出して言えない言葉を、インド人のママたちを真似して時々口にするようになりました。不安を心に溜めたり、言葉にしたりするよりも、「あなたはきっと大丈夫! 願いましょう」と言葉にすることで、親子で不安が解消されることを学びました。インドに限ったことではありませんが、幼児や児童に対しては、母親がカウンセラーの役割を担い子どもの不安を軽減している場面が多いように思います。そして、思春期になると少しずつ親の干渉が減り、子どもたちは自立していきます。感情や欲求をコントロールしたり、自分自身の価値を学校の成績や評価に委ねたりして、葛藤の時間を過ごします。苦しい時や不安な時に頼れる親以外の大人の存在は、思春期の子どもたちの大きな支えになります。インドでは日本よりも親戚付き合いがとても親密で、ほとんどの親族が同じエリアに住んでおり、三世代同居も多いため、身近に頼れる大人がいるというのは心強いことです。スクールカウンセラーの存在がまだ浸透していない社会ですが、こうした身近な大人に心を開き、子どもたちが悲しい選択をしないように、貧困や受験勉強に負けずに強く生きて欲しいと願っています。
- *1 Sadh K, P. Reddy B, George S, Christopher AD, Mosale A, Gupta N, et al. Samaashraya: An Initiative to Address the COVID-19 and Pandemic-Related Psychosocial and Mental Health Concerns in India. Indian J Psychol Med. 2021;43(2):181-183.
- *2 Rajlakshmi Ghosh, "India needs 15 lakh counsellors for 315 million students," May 6, 2019. The Times of India. https://timesofindia.indiatimes.com/education/news/india-needs-15-lakh-counsellors-for-315-million-students/articleshow/69201566.cms
- *3 Roshni Chakrabarty, "93% Indian students aware of just seven career options: What are parents doing wrong?," Feb 4, 2019. India Today. https://www.indiatoday.in/education-today/news/story/93-indian-students-aware-of-just-seven-career-options-what-are-parents-doing-wrong-1446205-2019-02-04
