ヒロック初等中等部では、学習において競争や評価、
その理由は、「学びとは、誰かの上に立ったり、マウントをとったり、相手を打ち負かすものではない」という理念、学習観があるからです。学びや成長を、小さな手段として捉えてほしくない。それが私たちの願いです。
確かに、競争をさせた方が、子どもたちは一見楽しそうに学習に参加します。しかしそれは、競争そのものにアドレナリンが出て楽しいのであって、学問の深淵さに触れるような楽しさとは異なります。同じく評価にしても、褒められることの快感は確かに次のモチベーションにもつながりますが、それは自己成長に対する快感とは少し違う種類のように感じます。
常に誰かの上に立ち続けるのは並大抵の努力では難しいし、そこに固執するがあまりに本当に大切なものを失う可能性すらあります。勝手に他者を下の立場にして、見下してしまう危険性もあるでしょう。同様に、競争に勝ち続けることも容易でないことを私たち大人は痛いほどよく知っているはずです。勝ち続けるためには、努力して自分を磨くことよりも、相手をおとしめた方が効率が良いことの方が多いです。そんな生き方、幸せとはいえないですよね。
先日、公立小学校の先生がヒロックに授業をしに来てくださいました。香川県の先生で、讃岐弁の単語の意味を当てるという内容でした。
2人の先生が、自己紹介がてら讃岐弁で会話をします。その後、プリントを配って一人ひとりが12語の単語の意味を書いて正解を当てる、という流れでした。そこで、プリントが配られた時に私から、
「インターネットで検索するのは無しね」
と声をかけました。ゲストの先生たちは「驚いた」と、後日話してくださいました。
というのも、讃岐弁の単語はとても難しいんですね。大人でも到底分からない。だから、インターネットで調べて書き込み、ゲーム感覚で順位を楽しみながら競うような設計にしたわけです。念のために言及しておくと、私はこの方法を否定しているわけではありません。初めての場所でワークショップをやるならその方が無難に盛り上がる し、実際多くの学校現場では、学習内容をゲーム化することで、子どもたちのモチベーションを高めるような工夫をしているものです。
しかし、そこはヒロックの子どもたち。難解な課題に不満を言う子は一人もいませんでした。むしろ張り切って挑戦に燃えている様子。先ほどの会話の台本が前の画面に投影されると、前後の文脈や音の響き、会話をしているときの表情やニュアンスから、みんなで単語の予想をし始めました。抜け駆けして自分だけ正解しようとする子はおらず、みんなで知恵を出し合い、協力しながら取り組んでいました。
ゲストの先生たちにヒントをもらいに行ったりしながら、一旦全ての回答欄を埋めてチャレンジする子も。正解していた問題も、間違っていた問題もみんなでシェアします。間違いは財産、挑戦したからこそ得られた資産ですね。最後はみんな正解し、景品を山分け。互いの健闘をたたえ合いながら、嬉しそうにそれぞれの貢献について振り返っていました。
ゲストの先生たちは、難問をむしろ喜ぶ子どもたちの、間違いを恐れずチャレンジする態度、あきらめず粘り強く取り組む姿勢、みんなで協働する姿に驚かれていました。どれもヒロックでは日常の光景です。
そもそも能力は人によって違うし、全員同じである必要はありません。ましてや協働生活を送るコミュニティなら、それぞれの強みを活かし合った方が圧倒的に有利ですよね。今回で言えば、言語感覚が鋭い子、都道府県の特色に詳しい子、間違いを恐れない子、伝えるのが上手な子、推理が得意な子など、様々な長所が掛け合わされていました。その方が有効であり、楽しいということは、経験したことのある子どもたちなら誰でも知っています。
知識は無限です。誰かと奪い合わなくても、全員にいきわたらせることが可能です。全員で成長し、全員で幸せになることができます。しかし、順位は有限です。座席も有限。誰かに2位の座を奪われたら、自分は3位になってしまいます。だから、誰にも奪われないように必死になるし、他者を蹴落とす方にばかり意識が向いてしまうのです。
学びとは、全員が幸せになるためのもののはず。しかし、学校や社会は有限のものばかりを追い求めるようなアプローチをとっている気がしてなりません。繰り返しますが、知識も技術も無限です。さらに、一人一人の強みを活かし合えば、一人では到底たどり着けないところまで行くことができます。それこそが、仲間たちとともに生きる人生の喜びでしょう。教育で本当に伝えたいことは、みんなで生きていくことの良さなのではないでしょうか。