CHILD RESEARCH NET

HOME

TOP > 論文・レポート > 子ども未来紀行~学際的な研究・レポート・エッセイ~ > 【子ども理解を問い直す】 第3回 授業を聴けない子どもたち

このエントリーをはてなブックマークに追加

論文・レポート

Essay・Report

【子ども理解を問い直す】 第3回 授業を聴けない子どもたち

要旨:

本稿では、授業中にぼんやりしてしまう子ども(小学2年生)のエピソードを取り上げる。こうした子どもは、自分の意志で授業を<聴かない>のではなく、<聴けなく>なってしまっている。なんらかの活動が“体験済み”になることや、自分の過去として蓄積することを手がかりとして考察することにより、授業中にぼんやりしている子どもがどのような状況を生きているのかを明らかにする。本稿における考察から、子どもが集中しているときの在りようや、子どもの集中力の持続に合わせた授業の工夫の意義を捉えなおすことができる。
1.授業中ぼんやりとしている子ども

複数の小学校に学習支援ボランティアとして関わるなかで、筆者は、子どもたちが授業を聴けなくなっていることが、教室の「荒れ」や、授業の停滞や、子どもたちの低学力に通底する問題である、と感じるようになった。子どもたちは、教師の言葉や授業の内容を意図的に<聴かない>のではない。そうではなく、彼らは、自分の意志とは関わらず<聴けなく>なっている。そこで今回は、授業を聴けなくなってしまう子どもたちはいかなる状況を生きているのかを、以下のエピソードに基づき考えていきたい*1

2年生の国語の授業。教室にはどこか弛緩したような雰囲気がただよっている。「教科書に絵が載っているよね。このなかでどれがカタカナでも書けるかな」、という先生の問いかけにも、AちゃんやBちゃんなど、決まった子どもしか手を挙げない。子どもたちは答えがわからなくて手を挙げないのか、先生の言葉をきちんと受け止めていないのか、私にははっきりとわからない。C君は、教科書もノートも閉じて重ねたまま、前をぼんやりとながめている。「黒板に先生が書いている言葉を、ノートにも書くんだよ」。私がそう声をかけると、C君は、「あ、そっか」、とは言うものの、手が動かない。そこで私は、教科書の該当ページとノートの白紙の部分を開き、黒板を指さして、「アメリカ、から書くんだよ」、とC君に改めて伝える。C君は、鉛筆をもって黒板を眺め、その姿勢のまま動かない。しばらくすると、C君は、目が覚めたかのように、「...なんだっけ?どこから書くんだっけ?」、と私に聞いてくる。「アメリカから、黒板(の文字を)全部書くんだよ」、と伝えると、C君はようやくノートをとりはじめる。教室のうしろから見ると、ほとんどの子どもたちは前を向いているのだが、背筋を伸ばして座っている子どもは少ない。たいていの子どものからだは、頬杖をついたり、背中が丸まった状態で、弛緩して右に左に傾いている。

C君のように、授業内での全体に向けた指示を受け取れないだけではなく、自分に直接向けられた言葉にもぼんやりしていてすぐに対応できない子どもは、学校や学年を問わず複数いる、というのが筆者の実感である。つい先ほどまで一緒に話をしていたにも関わらず、ふと見ると、電池が切れてしまったかのようにぼんやりとしている子どもの様子に驚かされたことも、一度や二度ではない。

2."体験済み"になること

現象学では、目覚めているあいだの私たちの意識は、なんらかの知覚(見る・聴く・触れる・味わう等々)を常に行いながら、絶えず流れ続けている、と考える。こうした意識の絶えざる流れが、なんらかの観点から時間的・言語的にまとめあげられ(分節化され)、意味を与えられることによって、一つの体験となる(中田1997)。体験は、"体験済み"の過去となり、私たちのなかに蓄積していく。例えば、上述のエピソードにおいて、先生の問いかけに挙手をしているAちゃんが、指名されて正答したとしよう。このとき、Aちゃんにおいては、一連の活動が授業で発言して正解した営みとして"体験済み"になる。このように"体験済み"になった営みは、意識の絶えざる流れのなかで沈殿し、Aちゃんを形作る過去の一つとなる*2

この"体験済み"になるという観点から、ぼんやりしているという在りようについて考えてみたい。

上述したように、小学校でフィールドワークをするなかで、筆者は、授業中にぼんやりとしている子どもたちにしばしば出会ってきた。事実、ベネッセコーポレーションが、全国3地域(大都市・地方都市・郡部)の小学5年生を対象として隔年で実施している『学習基本調査』(第4回・2006年実施)においても、授業の受け方に関して、「ぼうっと他のことを考えている」を選択した児童は、35.2%にのぼっている。しかし、ここで注意しなければならないのは、授業中にぼんやりするという在りようには、少なくとも2種類が考えられる、ということである。1つ目は、『学習基本調査』の選択項目にあるように、授業の内容とは関係のない事柄に思いを馳せることによって、授業の内容が聞き取れなくなるという意味で、ぼんやりしてしまう場合である。この場合、確かに他者から見れば子どもはぼんやりとしている。しかし、子ども自身のなかでは、なにかについて考えている営みとして、"体験済み"になることも多いだろう。2つ目は、なにかを考えているわけでもなく、ただぼんやりしている場合である。ふと気づいたらかなりの時間が経っていて、自分がぼんやりしていたことに初めて気づく、ということは、私たちも経験することである。この場合、意識はただ流れているだけで、"経験済み"とはならない。だからこそ、ぼんやりしていた時間がすっぽりと抜け落ちてしまったかのような、不思議な感覚に襲われるのであろう。時間が抜け落ちたように感じるのは、そのあいだの意識が、眠っているときのように機能していないからである。

C君のエピソードに戻ろう。彼は、ノートをとるように筆者がうながしても、そのままぼんやりし続けている。このとき、C君には、筆者の声や、筆者が開いて提示した教科書の文字や、先生による板書は、意味を備えた言葉として捉えられていないのであろう。C君においては、周囲の状況が、電車の車窓を流れる風景のように、明確な意味を備えないままに流れ去っているのであろう。筆者の声かけに、「あ、そっか」と応じていることからして、C君は、ぼんやりしながらも、ノートをとるよう促す筆者の働きかけをそのつど断片的には知覚できている。しかし、こうした知覚の一つひとつを、<ノートをとるよう促されている>一連の持続した自分の体験として、充分に生きることはできていない。

 

このときの筆者には、C君が授業以外の別の事柄に気を取られているようには見えなかった。むしろ、彼が、起きながらにして眠っているかのような感覚を覚えた。筆者のこの感覚が正しければ、C君は、なにも"体験済み"とはならない仕方でぼんやりしていることになる。なにも"体験済み"にならない以上、C君は、身体的にはここに存在しているけれども、彼自身の存在感は不確かになっている。だからこそC君は、自分の意志とはかかわりなく、授業を聴けなくなってしまうのである。

3. 意識の向かい先を供給すること

現象学者のゲルト・ブラント(1955)は、流れ続けるという在りようで、私たちの意識がいつも「方向づけられてあることは、関心の充実へと向かって、前へと 流れている努力である」、という。上述したように、私たちの意識は、知覚したり、思考したりという形で、常になにかに関心を向けつつ流れ続けている。すると、外部の対象を知覚することもなく、頭の中でなにかを考えることもなく、意識がただ流れ続けているときには、すなわち、ぼんやりしているときには、本来目指されているはずの関心が充実されず、前へと流れようとする努力も報われていないことになる。こうしたとき、子どもたちは、言いようのない不充足感や重苦しさを感じるのではないだろうか。エピソード時の教室に、どこか弛緩したような雰囲気がただよっているのも、多くの子どもたちが、頬杖をついてからだを弛緩させているのも、意識がただ流れ続けている重苦しさと不充足感が、子どもたちの身体から力を奪っているからではないだろうか。

授業が聴けなくなってしまう恐ろしさは、その授業が子どもにとって"体験済み"にならなかったり、子どもが授業中に不充足感にさいなまれたりする、ということだけに留まらない。2.で述べたように、子どものそのつどの営みが"体験済み"にならないということは、その子どもを形作るはずのある一定期間の過去が、存在しないことを意味する。筆者は、小学校でしばしば、「子どもに知識が積み重ならない」、という先生方の嘆きを耳にする。授業で学んだ事柄が"体験済み"にならず、過去として蓄積されない以上、知識が積み重なるはずがないのである。では、どうしたらいいのだろうか。

C君であっても、例えば、彼の得意な算数の授業では、ぼんやりすることなく集中していきいきと活動している。子どもが授業に集中していると私たちに感じられるときには、教科書や板書や先生からの問いかけといった知覚対象や、ノートをとる・問題を解くといった充実されるべき関心が確かに存在している。さらには、手を挙げて発言したり、ノートに文字や図を書いたりという身体活動により、意識だけではなく身体にも、そのつど向かう先が確かに存在している。授業中に子どもたちがいきいきと活動するためには、意識と身体が向かう対象が常に存在することが重要なのである。事実、学校現場では、子どもたちの集中力の持続の程度に合わせて、授業の展開や、活動内容が工夫されている。例えば、筆者が訪問したあるクラスでは、教師は約5分毎に取り組む課題を変えたり、授業の合間に気分転換のリズム遊びを導入したりしていた。こうした工夫は、子どもたちの意識と身体が向かう対象を常に提供し続けることによって、彼らが授業を自分の体験として生きることを支えている。と同時に、授業のそのつどの営みが、子どもにおいて"体験済み"の過去として蓄積されることも、すなわち、子どもたちに学習内容が蓄積されることも支えているのである。

 

次回は、授業を聴けない子どもたちと表裏一体の関係にある、子どもに届かない教師の言葉について考えたい。


  • *1 この事例の詳しい考察については、大塚類・遠藤野ゆり「子どもがいきいきとする学級集団活動についての事例研究」『研究論叢. 第3部, 芸術・体育・教育・心理 60』山口大学教育学部pp.53-63,2011を参照いただきたい。
  • *2 現象学者の村上靖彦(2008)によれば、私たちの記憶は、言語的に意味づけられているからこそ、過去として私たちのなかに沈殿しうる。他方、言語的に分節化されていない記憶は、過去という意味をもちえず、沈殿していかないために、自分の意志とはかかわりなくフラッシュバックしてくる、と考えられるそうである。つまり、ある活動が自分の過去になるためには、意味を与えられた体験として"体験済み"になる必要がある。

引用・参考文献
  • Brand,G.1955 Welt, Ich, und Zeit Martinus Nijhoff.ブラント1976『世界・自我・時間』(新田義弘他訳)国文社
  • 村上靖彦2008『自閉症の現象学』勁草書房
  • 中田基昭1997『現象学から授業の世界へ』東京大学出版会
筆者プロフィール
Rui_Otsuka.jpg大塚 類(青山学院大学教育人間科学部教育学科准教授)

東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。日本学術振興会特別研究員PDを経て、現在は、青山学院大学教育人間科学部教育学科・准教授。専門は、教育方法学、教育実践の質的研究、臨床教育学。『施設で暮らす子どもたちの成長』(東京大学出版会、2009)、『現象学から探る豊かな授業』(共著、多賀出版、2010)、『家族と暮らせない子どもたち』(共著、新曜社、2011)などの著書がある。
このエントリーをはてなブックマークに追加

TwitterFacebook

インクルーシブ教育

社会情動的スキル

遊び

メディア

発達障害とは?

論文・レポートカテゴリ

アジアこども学

研究活動

所長ブログ

Dr.榊原洋一の部屋

小林登文庫

PAGE TOP