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【子ども理解を問い直す】 第4回 届かない教師の言葉

大塚 類(青山学院大学教育人間科学部教育学科准教授)

2013年5月17日掲載

要旨:

本稿では、授業中の教師の声かけを子どもたちが無視しているように見えるエピソードに基づき、声が言葉として相手に届くとはどのようなことであるのかを考察した。語りかけた言葉が相手に届くためには、伝えたい事柄と伝えたい相手が、自分のなかに明確に存在する必要がある。そうした言葉であれば、聞き手に肯定的な思いや行動を呼び起すことができる。話し言葉に備わるこうした作用に目を向けることにより、教師の声が子どもに届くために必要な事柄を提案することができた。

第3回「授業を聴けない子どもたち」では、子どもたちは授業を意図的に<聴かない>のではなく、自分の存在感が不確かになるなかで<聴けなく>なっていることを考察した。また、ぼんやりしている子どもにとって、授業での活動が"体験済み"の過去とならないとすれば、子どもには学習内容がほとんど何も蓄積しないことになる。そこで今回は、<授業を聴けない子ども>と表裏一体の関係にある、<届かない教師の言葉>について、それが具体的にいかなる事態であるのかを明らかにしたい。

1. 届かない声

学校を訪問していると、子どもたちの活動が停滞している授業や、教師が話しているにもかかわらず、子どもたちがそれぞれ勝手におしゃべりや手遊びを続けている授業に出会うことがある。こうした授業に共通しているのが、教師の声が、教室にいる子どもたちや筆者になかなか届かない、という事態である。

<声が届かない>といっても、教師の声が小さいとか、滑舌が悪くて聞き取りにくいというわけではない。教師の声は、筆者が教室のうしろにいるときでも、充分に聞こえている。しかも、学習支援ボランティアとして教室に入っている筆者は、教師の指示を聴きもらさないようにと、常に注意を払っている。というのも、筆者の仕事は、第3回のエピソードで描いたように、机間巡視をしながら、ぼんやりしている子どもに注意を促したり、つまずいている子どもに解き方を教えたりすることだからである。しかし、教師の声が届かない授業では、注意を払っているはずの筆者でさえ、気がつくと教師の指示を聴きもらしていたり、時にはぼんやりとしてしまうことがある。このように、声が音として聞こえることと、言葉として届くこととのあいだには、大きな隔たりがある。では、声が言葉として相手に届くとはどういうことなのだろうか。

2. 教師と子どものあいだの視線触発

おしゃべりや手遊びなど、子どもたちの勝手な行動が続いてしまう授業では、しばしば、次のような光景が見られる。

例えば、小学校3年生の算数の授業。折り紙をハサミで切って二等辺三角形を作り、ノートに貼るという作業のあと、二等辺三角形の特徴について発表し合うという活動に移る。にもかかわらず、ハサミを使って折り紙を切り続けている子どもがいる。「Aさん、ハサミを使う時間はもう終わりましたよ」、と黒板の前から教師が声をかけても、Aさんは聞こえていないかのように作業を続ける。教師は何度かAさんに声をかけるが、Aさんがやめないことがわかると、あきらめて授業に戻る。

このように子どもの行動の変化を待たずに教師が声かけをやめてしまうことは、授業とは関係のない子どものおしゃべりを注意する場合、板書をノートにとるよう促す場合などにもみられる。ある事柄について、「みんなはどう思いますか?」と子どもたちに問いかけておきながら、彼らの答えを待たずに授業を進める場合も同様である。こうした場合、教師の声や言葉は、ある特定の子どもやクラスの子どもたちに向けられながらも、彼らに受けとめられる前に止んでしまっている。第2回に紹介した「視線触発」という概念に基づけば、教師の言葉は、子どもたちに対する視線触発を充分に備えていない、といえる*1

同じ事態を、子どもたちの側から考えてみよう。上述したAさんを典型例として、教師の言葉に一度で応じない子どもは多い。彼らは、教師の言葉がけによって自分の行動を変える前に、すなわち、教師からの視線触発を受け取る前に、視線触発としての教師の声が止んでしまう、という経験を重ねている。こうした経験を重ねるうちに、子どもたちは、授業における教師の言葉を視線触発として受け取る感受性を、少しずつ失ってしまうのではないだろうか。第3回で紹介したエピソードにおいて、C君は、授業中ぼんやりとしており、クラス全員に向けられた教師の言葉にも、彼だけに向けられた筆者の言葉にもすぐに応じられなかった。彼のこうしたありようも、授業において視線触発を受け取る感受性の弱さ、といえるのではないだろうか*2

視線触発を充分に備えていない言葉を発する教師。その言葉に慣れてしまって視線触発への感受性が鈍く なる子ども。こうした子どもたちを前にして、教師の言葉はさらに視線触発を失い、子どもたちはさらに視線触発への感受性を失っていく。教室のなかでは、こうした悪循環が生じているのではないだろうか。

3. 言葉の作用

では、言葉が視線触発を充分に備えているとはいかなる事態なのだろうか。このことについて考えるにあたり、まず、竹内敏晴著『ことばが劈 (ひら)かれるとき』の「はじめに」に掲載されているエピソードを手がかりとしたい。

 「凍っていたノド」というエピソードの主人公は、心身障害児の療育施設にいる小学校6年生のチヨコちゃんである。チヨコちゃんは、声は出るけれども言葉にならず、知能指数不明とされている、とても小柄な女の子である。そんなチヨコちゃんに、担任は次の三段階の発声練習を行なう 。第一の課題は、「アー」という声を、正面の黒板を突き通して隣の教室の先生のおでこにくっつけること。第二の課題は、頭の上の蛍光灯に正面を向いたままの「アー」で届かせること。第三の課題は、やはり正面向きのまま、うしろの壁を突き抜いて 隣の教室に「アー」を入れる。チヨコちゃんは、「アー」の息の長さ、集中の良さではクラスの第一人者になる。しかし、担任が、"アイウエオの歌"を歌わせようとすると、とたんにかすれ声になって声は途切れてしまう。このエピソードを受け、竹内は、チヨコちゃんのように言葉に困難を抱えているひとは、「一言一言自分の中に、こえを発する衝動が動くまで集中し、話しかける対象がはっきり見えるまで集中しなくてはなら」ず、「だから、興味を持てぬことば、的確でない対象を指示されると、まるで動けない」、と述べている。というのも、「ことばとは、発する前にまず体の中に、ある動くものが」あり、「それが体の動きとして外へ現われ、あるいはこえとしても発する」ものだからである。すなわち、話し手のなかに伝えたい事柄が明確にあり、伝えたい相手がいるからこそ、言葉が声に乗って出てくるのである。言葉が他者に届くためには、伝えたいという思いと相手が必要なのである。

現象学者フッサールによれば、言葉による伝達においては、以下のことが生じているという(Husserl,1973)。すなわち、聞き手である私は、他者の言葉の意味を理解するだけではなく、その言葉を裏打ちしている他者の思いを捉えている。と同時に、他者の言葉を聞くことによって、私自身のなかでも新たに何かが呼び起される、と。例えば、授業中に教師が、「少し静かにして」と子どもたちに伝える場合。子どもたちは、静かな雰囲気のなかで大切な話を聞いてほしい、といった教師の思いを捉える。と同時に、子どもたちのなかでも、騒がしい雰囲気を不快に思ったり、教師の言葉を静かに聞きたいといった思いが呼び起される。こうしたことが生じるのは、フッサールが述べているように、他者がある願いを言葉にすると、聞き手である私のなかで、その願いを受け入れたり、場合によっては、他者の代わりにその願いを実現してあげたいという思いが呼び起されるからである。このように話し言葉には、聞き手へと働きかけ、語られた言葉を受け入れるような行動へと聞き手を促すような作用も備わっている。

4.言葉が届くためには

3.で竹内を手がかりとすることにより、語りかけた言葉が相手に届くためには、伝えたい事柄と伝えたい相手が、自分のなかに明確に存在する必要があることが明らかになった。また、フッサールを手がかりとすることにより、語りかけられた言葉、特に、何らかの願いは、「その願いを実現してあげたい」という聞き手の思いを呼び起し、その願いを受け入れ、場合によって実現するような行動へと聞き手を促すことが明らかになった。話し言葉に備わるこうした作用が、すなわち、聞き手へと直接届き、聞き手を揺り動かす作用が、村上のいう視線触発であるといえる。

本稿での考察から、授業において教師の声が子どもになかなか届かないことは、以下のように捉えなおすことができる。すなわち、いささか厳しい捉え方になるが、教師の届かない言葉は、「このことを子どもたちに伝えたい、このことを子どもたちに学んでほしい」という強い思いに裏打ちされていない、と言わざるをえないように思う。当然のことながら、授業のすべての時間において、そうした思いを持つことは不可能であろう。さらには、小学校の担任ともなれば、週に5日間毎日、すべての教科を教えなければならないわけであるから、なおさらである。だからこそ筆者が提案したいのは、1時間の授業のなかで、「これだけはこの授業で子どもたちに伝えたい」という事柄を1つだけでも考える、ということである。こうした事柄は、おのずと、教師の思いや願いに裏打ちされることになる。こうした事柄を語る教師の言葉は、充分な視線触発を伴って、子どもたちに届くはずである。授業のなかで教師の言葉を受け取り、自分自身のなかで何かが呼び起されるという体験を、一つの授業のなかで1回でも体験し続けること。こうした体験の積み重ねにより、子どもたちは、教師の言葉を受け取る感受性を、少しずつでも取り戻していくのではないだろうか。


引用・参考文献
  • Husserl,E. 1973 Zur Phänomenologie der Intersubjektivität DritterTeil:1929-1935, Martinus Nijhoff
  • 竹内敏晴1988『ことばが劈かれるとき』ちくま文庫
  • *1 視線触発とは、視線、声かけ、接触といった、他者から自分へと矢印のように一直線に向かってくるエネルギーを受け取ることのできる感受性のこと(村上2008)。触発される能力といえる。他方、本稿ではさらに、自分から他者へと一直線に向けられるエネルギーに本来備わっているはずの、他者の感受性を触発する能力のことも、視線触発と呼んでいる。
  • *2  教育現場では経験的に、授業中のおしゃべりや立ち歩きなど、教室の「荒れ」といわれる事態において、他の教師が教室に入ったり、代わりに授業をしても子どもたちのありようが変わらなくなったりした場合、危機的状況であるとみなされる。こうした状況において、子どもたちは、担任教師の視線触発だけではなく、他のひとびとの視線触発さえも受け止められないほどに、<聴けない身体>になっているといえる。
筆者プロフィール
Rui_Otsuka.jpg大塚 類(青山学院大学教育人間科学部教育学科准教授)

東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。日本学術振興会特別研究員PDを経て、現在は、青山学院大学教育人間科学部教育学科・准教授。専門は、教育方法学、教育実践の質的研究、臨床教育学。『施設で暮らす子どもたちの成長』(東京大学出版会、2009)、『現象学から探る豊かな授業』(共著、多賀出版、2010)、『家族と暮らせない子どもたち』(共著、新曜社、2011)などの著書がある。
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