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【子ども理解を問い直す】 第2回 どうして突然乱暴になるの?

要旨:

本稿では、他の子どもからにらまれたと思い込み、その子どもを殴ってしまう男の子(8歳)のエピソードを取り上げる。こうした乱暴なふるまいは、他者関係に困難を抱える一定数の子どもにみられるものである。視線触発という概念に基づくことにより、以下の3つのことが考察できる。すなわち、(1)上述の子どもたちは否定的な視線触発に非常に敏感である。(2)彼らにとって他者からの否定は、単なる<思い込み>ではなく実際に体験されている。(3)彼らの乱暴なふるまいは、否定的な視線触発から逃れるため、つまり、否定から自分を護るためである。子どもたちのふるまいをこのように捉えることは、彼らの他者関係の悪循環を断ち切るために有効である、と筆者は考える。
1. 突然、乱暴なふるまいに及ぶ子どもたち

学校教育現場や養育現場には、いわゆる<思い込み>から、他者を殴る・叩く・蹴るといった乱暴なふるまいに及ぶ子どもが一定数いる*1。子どもたちが抱える他者関係の困難さについて語るうえで、彼らの<乱暴さ>は避けて通れない。そこで今回は、典型的な事例を取り上げながら、子どもたちが乱暴なふるまいに及んでしまう背景に迫りたい。

以下のエピソードは、児童養護施設での一場面である。

お風呂からあがったばかりのA君(8歳)は、リビングでB君(7歳)とすれ違った瞬間、眉や目が吊り上がった攻撃的な表情をして、B君の頭を殴りつけた。突然のことに立ち尽くすB君の頭や顔を、A君は何度も殴り続ける。「何やってんの!やめて!」、と私〔=筆者〕が両腕をつかむと、A君は、真っ赤な顔で私のことをにらみつける。A君は、「何すんだよ!離せよ!」、と荒々しい声をあげ、私の腕を振り払おうとする。「A君こそ、何で急にB君のこと殴るのよ!B君のことまだ殴るんだったら、離せないよ!」。そう言いながら、私が、A君の腕をつかんでいる手にさらに力を込めると、A君は、「だって、Bが俺のことにらんできたからだよ!」、と口をとがらせる。そしてA君は、「離せ!」、と叫んで私の腕を力いっぱい振りほどくと、私のお腹を思いきり殴った。私は、強い衝撃に息ができなくなり、腹部を押さえて背中を丸めてしまう。私を殴ってすっきりしたのか、A君は、私と私の背後に隠れるようにして立っているB君を一瞥すると、どこかへ歩いていった*2

2. <思い込み>はなぜ起きるのか

このエピソードの直前まで、A君とB君は、離れた場所で別のことをしていた。にもかかわらず、A君は、B君のなにげない視線を自分に対するにらみつけと受け取り、乱暴なふるまいに及んでしまう。しかも、こうしたふるまいは、A君に限ったことではない。筆者は、児童養護施設だけではなく、保育園、幼稚園、小学校でも、これまで何度もこのような場面に居合わせてきた*3。そのなかには、虐待を受けてきた子ども、発達障害の(あるいはその疑いのある)子ども、家庭的養育基盤が脆く落ち着かない子どもがいた。彼らに共通するこの<思い込み>は、なぜ起きてしまうのだろうか。

視線、声かけ、接触といった、他者から自分へと矢印のように一直線に向かってくるエネルギーを、私たちはいつも自然に受け取っている。現象学者の村上(2008)は、私たちに備わるこうした感受性を、「視線触発」と呼ぶ。言ってみれば、私たちは、他者から向けられるエネルギーに常に「触発」されているのである。視線触発のおかげで、私たちは、何らかの行為や対話の<相手>としての他者と出会い、さまざまに関わり合うことができる。視線触発は、私たちの対人関係の基礎を成しているのである。

この視線触発という観点から、A君のエピソードを考えてみよう。A君には、相手のなにげない視線が、自分に対するにらみつけと感じられてしまう。このようにA君は、否定的な視線触発に非常に敏感である。しかも、A君は、そもそもは否定でも肯定でもないB君からの視線触発に、自分で否定的な意味合いを加えて、否定的な視線触発として受け取っているようにみえる。目が合っただけで殴られたB君からすれば、A君のふるまいは、言いがかり以外のなにものでもない。しかし、こうした場面に何度か居合わせるうちに、筆者は、「A君や、彼と同様のふるまいに及ぶ子どもたちは、勝手に思い込んでいるわけではないのでは...」、と感じるようになった。

A君や、彼と同様のふるまいに及ぶ子どもたちは、他者関係に少なからぬ困難さを抱えている。エピソードからも見て取れるように、否定的な視線触発に過敏であること自体が、彼らと他者との軋轢を生んでしまう。すると、他の子どもたちやおとながA君に向けるまなざしや言葉には、彼とのトラブルが特にない場合でも、向けている当人さえ気づかないような否定的なニュアンスが、混じってしまうのではないだろうか。そしてA君は、そうしたごくわずかな否定的なニュアンスを敏感に感知し、触発され、乱暴なふるまいに及んでしまうのではないだろうか。だとすると、A君にとっては、B君ににらまれたという体験は、単なる<思い込み>ではないことになる。自分の意志とはかかわらず、視線触発に含まれるごくわずかな否定的なニュアンスでさえ受け取らざるを得ないとしたら、それはどれほどの苦痛であり、どれほどのおびやかしだろうか*4

3. 自分を護るための乱暴なふるまい

最後に、否定的な視線触発を受け取った子どもたちの乱暴なふるまいの意味について、考えてみたい。エピソード時のA君は、B君の顔や頭を何度も殴っていた。A君のように、否定的な視線触発を受けて、相手の顔や頭を殴ったり叩いたりする子どもは多い。例えば、C君(小学2年生)は、授業中の態度の悪さについてクラスメートから注意を受けた際、クラスメートの言葉が終わる前に、真正面から顔を殴りつけていた。また、筆者自身にも次のような経験がある。筆者はDちゃん(2歳)を抱っこして遊んでいた。そこに来た子どもと筆者が話そうとすると、Dちゃんは筆者の気持ちを自分に向けようと、筆者の腕にツメを立てた。「Dちゃん、痛いよ。やめて」、と筆者が顔をしかめると、Dちゃんは今度は、「や~や!」と言いながら、筆者の顔をひっかいたのである。

相手のまなざしにハッとさせられたり、居心地の悪さを感じたりする、という経験は誰もがもっている。視線触発というネーミングにも示されているように、相手から向かってくるエネルギーを一番強く感じるのが、視線・まなざしである。だからこそ、A君をはじめとする子どもたちは、相手の顔や頭を攻撃するのだろう。顔や頭を殴ったりひっかいたりすれば、相手の視線は自分から外れる。視線が外れてしまえば、否定的な視線触発にこれ以上おびやかされずに済む。上述したように、A君をはじめとする子どもたちは、ごくわずかな否定にも敏感である。彼らは、乱暴なふるまいによって、相手からの視線触発をすぐにでも遮らなければ、自分自身を護り、支えることができなくなってしまうのではないだろうか。すると、子どもたちの乱暴なふるまいは、単なる意趣返しや身勝手さではないことになる。このことは、上述のエピソードの続きの場面からもうかがえる。

B君と遊んでいると、「大塚お姉さん」、と背後で呼ぶA君の声がする。私は、戸惑いながら立ち上がって振り返る。A君は、私を上目遣いに見つめながら、「......ごめんね」、とつぶやくと、そのまま私に抱きついてきた。A君は、私のウエストに両腕を回し、彼自身のからだを私のからだに埋没させようとするかのように、強い力で抱きつき続ける。私がA君の両肩に自分の両手を重ねると、彼は私に抱きついたまま顔を上げ、にっこりと笑う。私も少し微笑み返すと、A君は、「ごめんね...」、とはにかんだように再び言う。

上述のエピソードから10数分後の出来事である。この場面で筆者が戸惑っているのは、A君の声がしたときに、彼が再び殴りに来たのではないか、と一瞬思ってしまったからである。筆者のこうした心の動きもまた、A君を苦しめる否定的な視線触発のひとつであろう。しかしA君は、筆者の戸惑いをよそに、筆者に抱きついて謝り続ける。こうしたふるまいからも、上述のエピソード時のA君は、筆者の否定的な視線触発から逃れるために筆者を殴ったのであり、殴りたくて殴ったわけではない、といえるはずである。

このように、子どもたちは、<思い込み>や<言いがかり>から他者に乱暴なふるまいをしているのではない。彼ら自身にとっては、自分の感じた否定はリアルなものである。そしてその否定から自分を護り支えるために、彼らはとっさに乱暴なふるまいに及んでしまう。周囲の私たちが彼らのあり方をこのように理解し、適切に対応することが、彼らが受け取らざるを得ない否定的な視線触発を減らし、<他者からの否定を感じる→乱暴なふるまい→他者との齟齬→他者からの否定を感じる...>という彼らの他者関係の悪循環を断ち切ることになる、と筆者は考えている。


  • *1 高機能広汎性発達障害児の5~10%に、暴力的な噴出を繰り返す児童が存在する、という知見もある(杉山・原2003)。
  • *2 この事例の詳しい考察については、大塚(2009)第六章を参照いただきたい。
  • *3 目が合っただけでにらまれたように感じたり、他者の笑い声が自分への嘲笑のように感じたりすることを、精神医学の領域では、「被害関係念慮」と名付け、主として薬物による治療を行なっている(山崎2006)。他方、本稿では、被害関係念慮がそもそもなぜ起こるのかを、現象学に基づき考えてみたい。
  • *4 A君は、他の子どもが、「バカ」などの否定的なニュアンスの言葉を発すると、どんなに遠くにいてもそれを聞きつけ、「俺の悪口を言っている!」、と殴りかかっていくこともしばしばあった。こうしたエピソードからも、日常生活のあらゆる場面においてA君が感じてしまう苦痛やおびやかしが透けてみえる。

引用・参考文献
  • 村上靖彦 2008 『自閉症の現象学』勁草書房
  • 大塚類 2009 『施設で暮らす子どもたちの成長』東京大学出版会
  • 杉山登志郎・原仁 2003 『特別支援教育のための精神・神経医学』学研
  • 山崎晃資 2006 「高機能広汎性発達障害の診断マニュアルと精神医学的併存症に関する研究」 石井哲夫編 『高機能広汎性発達障害にみられる反社会的行動の成員の解明と社会支援システムの構築に関する研究』 厚生労働科学研究費補助金こころの健康科学研究事業平成17年度報告書(PDF, accessed on 18th January)
筆者プロフィール
Rui_Otsuka.jpg大塚 類(青山学院大学教育人間科学部教育学科准教授)

東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。日本学術振興会特別研究員PDを経て、現在は、青山学院大学教育人間科学部教育学科・准教授。専門は、教育方法学、教育実践の質的研究、臨床教育学。『施設で暮らす子どもたちの成長』(東京大学出版会、2009)、『現象学から探る豊かな授業』(共著、多賀出版、2010)、『家族と暮らせない子どもたち』(共著、新曜社、2011)などの著書がある。
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