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【インドの育児と教育レポート~チェンナイ編】 第10回 インドの特別支援教育とインクルーシブ教育

<本稿について>

※CRN編集部より:インクルーシブな社会を目指すために、今年度は世界各国の子育て現場の事例を収集しています。日本で展開するインクルーシブ教育の現場の課題解決にヒントになればと願っています。
本コーナーでは、フィンランドカナダBC州ノルウェードイツNZ、インド(本稿)などの園や学校現場の取り組みをご紹介します。


はじめに

インド・チェンナイに住む日本人家族の多くが、インターナショナルスクールの2カ月の長期夏期休暇中、母子で日本へ一時帰国をします。小学生の中には、一時帰国中に日本の地元の公立小学校へ通う子どもたちがいます。夏休み期間中の6月と7月に「体験入学」という形で日本の学校生活を送ることができます。海外のインターナショナルスクールに在籍していると、日本では経験のできないような多くの学びがありますが、一方で、日本でしか学ぶことのできない集団生活を体験することができず、駐在が終わり日本の学校に戻った時に大きな隔たりを感じて、なかなか適応できない子どもたちがいます。

例えば、集団で配膳し、同じ献立の給食を食べたり、清掃活動を行ったりするような日本の学校では当たり前の風景が、インターナショナルスクールに通う子どもたちにとっては、とても珍しい光景に映るようです。「どうして給食は好きなものを選ぶことができないの?」「どうして、子どもなのに教室やトイレを掃除しなくてはいけないの?」「お掃除のスタッフはどこにいるの?」など数々の疑問に、体験学習を受け入れる学校の先生方も苦笑する場面があるそうです。「ここは日本だからです」という一言で子どもたちに理解を促すのは難しいことだと思います。たとえ短期間でも日本の公立学校という環境でクラスの子どもたちや多くの先生方と触れ合い、日本人としての意識や行動を肌で感じることができるというのが「体験入学」の制度の良さであると思います。

日本語を用いた授業の中でもとりわけ「国語科」の音読や漢字の読み書きは、在外の子どもたちにとっては、とても貴重な学習要素となります。また、「生活科」「社会科」など日本の歴史や地理や風土・風習に基づく文化の学習を通して、日本や地域社会を知ることができます。筆者の暮らすインドと日本では、あまりにも文化や習慣が異なります。日本で過ごす2カ月の夏休み中だけでも、多くの経験を通してたくましく成長した子どもたちを見て嬉しく思いました。

今回は、様々な障害や困難を抱える子どもたちがインドの学校ではどのような教育を受けているのかについて「インクルーシブ教育」にスポットを当ててレポートします。

1. インドの学校教育 私立学校と公立学校の違い

まず、インドの教育について述べる際に、筆者がいつも留意していることがあります。 インドは様々な言語・宗教・文化をもつ州が集まる「共和国」であるため、各州によって教育行政の制度や学習内容や子どもたちの数に対する配置教員の数などが大きく異なります。また、貧困層から富裕層まで大きな格差があり、さらに宗教ごとに分かれている学校をすべて同じくして語ることができない難しさがあります。そこで、今回は現在筆者の住んでいるタミル・ナドゥ州チェンナイ市の例を挙げて解説します。

インドの公立学校(Government School、以下ガバメントスクール)には、多くの貧困層の子どもが通っています。チェンナイ市内には281校のガバメントスクールがあります。インドの都市部であるデリーやムンバイ、コルカタやバンガロール、そしてチェンナイなどの大都市には、多くのインターナショナルスクールやローカルプライベートスクール、いわゆる私立学校があり、両親が定職に就いて安定したサラリーを得ている家庭のほとんどの子どもたちはプライベートスクール(私立学校)に通っています。その数はチェンナイ市内及び近郊で3,000校にのぼります。私立学校といってもその規模は様々で、ビルの一角にある学校もあれば、広大な敷地に施設を備える大規模校もあります。年間授業料が12,000ルピー(日本円で約23,000円)から400万ルピー(日本円で約750万円)の学校があり、種別もローカルプライベートスクール(言語はタミル語)とインターナショナルスクール(言語は英語)と分かれます。この授業料の格差の幅には驚かれる方も多いと思いますが、インドの経済格差は日本も含め諸外国との比ではありません。

一方、ガバメントスクールに在籍している子どもたちのほとんどは貧困家庭の出身で、無償の学校教育を受けています。ただし、先に示した都市部以外の山村や漁村のエリアには、プライベートスクールが少ないため、家庭の経済状況にかかわらず、ほとんどの子どもたちがガバメントスクールに在籍しています。このガバメントスクールを巡り、現在タミル・ナドゥ州ではちょっとした論争が巻き起こっています。タミル・ナドゥ州のR.N.ラヴィ知事は、ガバメントスクールの子どもたちの学力低下についてかなり厳しく問題提起をしました。9年生(中学3年生)で2桁の数字を認識できない、計算できない子どもが75%いること、また40%の子どもが小学2年生相当の文章の読み書きができないことなどを例に挙げて、公立の学校教育のカリキュラムを批判し、子どもたちの将来の就職を危惧し窮状を訴えました。すると同州の有力な権力者であるM.K.スターリン州首相が「タミル・ナドゥの教員やカリキュラムを侮辱するとは何たることか! 我が州からは優秀な人材が多数輩出されており、ドラビダ人のモデル政府はそのような侮辱を許さない!」と強烈な反対声明を出しました。この論争はきっとしばらく続くことと思います。この論争を機に教員の士気が高まるのか、はたまた下がるのか皆目見当がつきませんが、正直なところラヴィ知事のおっしゃっていることに筆者は「同意します」と小さく手を挙げたい気持ちです。

チェンナイ市内にはガバメントスクール、ローカルプライベートスクール、インターナショナルスクールの他に「ろう学校」「盲学校」「特別支援学校」があります。これらの支援学校は市の中心部に位置しているため、市街地から遠い筆者の住むエリアでは、街まで通学できない子どもたちが地域のガバメントスクールに入学します。このようなケースでは通常学級の担任が、子どもたちのサポートに対する十分な知識がないまま、一人で特別支援の必要な子どもたちをケアしながら、通常の授業や学級運営を行っています。特にインクルーシブ教育を意識して受け入れているわけではなく、そうせざるを得ない現状にあります。

2. インドのインクルーシブ教育(ガバメントスクールの場合)

チェンナイ市内には特別支援を専門とする学校が10校あります。ほとんどが州政府の補助を受けています。あるクリスチャン系のガバメントスクール女子学校では、1つの広大な敷地に、「盲学校」「ろう学校」「肢体不自由特別支援学校」「知的障害・情緒障害特別支援学校」が校舎を分けて設置されています。昼休みになると、それぞれの校舎から介助のメイドさんを伴って子どもたちが広場に集まり、日向ぼっこをしたり、読書をしたり、おいかけっこをしたり、緩やかな時間が流れています。教員の多くはクリスチャンで、同じタミル・ナドゥ州の別の市にある特別支援学校や職業訓練学校との交流も盛んです。交流会ではハンドメイドの刺繍やレースなどの販売会を行っており、筆者も積極的に品物を購入して日本にいる友人や研究の仲間などへのお土産としてストックしています。

丁寧に編んだベルギーレースのコースターやインドらしいゾウさんのアップリケなど、少し懐かしいような作品に心を奪われて、実際に作品を生産している作業場のある女子校まで足を延ばして見学に行きました。生まれつき肢体不自由な生徒や精神障害や知的障害のある生徒、聴覚障害のある生徒やその学校の卒業生などが校舎の一部の広い部屋に集まり、大きなテーブルをぐるりと囲むようにして、黙々と作業をしていました。教員でもあるキリスト教のシスターが巡回し、彼女たちの作業を見守ります。このように学校の中で、障害の種類にかかわらず、同じ特別支援学校の中で共同作業をし、技術を学ぶ機会は「インクルーシブ教育」の1つと捉えても良いでしょう。これ以外にも私立の特別支援学校があります。規模は小さいですが、先生方の丁寧な寄り添いと介助のメイドさんの関わりがとても優しく、にぎやかなインドの学校というイメージとはかけ離れています。点字や手話を学ぶことができるのは、このような特別支援学校ならではです。

さて、現在、筆者はガバメントスクールで英語の読み聞かせと、音楽教育のクラスとの2クラスを受け持っています。年長クラスと小学校3年生のクラスにはそれぞれ、特別支援の必要な自閉症及び知的障害のある子どもと、聴覚障害の子どもがいます。8月に初めて教室でそれぞれの子どもに会った時には、初めて見る外国人の筆者を警戒していましたが、今ではすっかり慣れてみんなと一緒に活動に参加できるようになりました。年長組に在籍している自閉症の男の子は、実年齢は他の子どもたちより2歳年上ですが知的な学習が困難であるため、学年を下げて入学しています。新年度は、担任の先生もかなりご苦労されていました。常に彼の手を握って、ずっとそばに引き寄せながら板書をしたり、本を読んだりしていました。筆者が授業に入る際は、彼が先生のそばから離れないよう、筆者の邪魔をしないよう、とても気を遣っているように見えました。「インクルーシブ教育」という言葉を今まで知らなかったという担任の先生と話し合いながら、彼が自由に表現できる時間を作ろうということになり、言語を発することができなくてもみんなが分かり合えるジェスチャーを使って、1日の保育時間のうちの30分だけ、彼を中心とした学級づくりを進めてきました。

3カ月ほど経過した現在は、筆者が読み聞かせをしている間も、ちょこんと隣に座って静かに絵本世界に入り込んで楽しんでいる様子が見られます。そして、10月にハロウィンに関連した絵本の読み聞かせを行った際に、筆者の「魔女」の仮装に興味を示し、絵本の中に描かれた魔女と筆者の黒いマントを交互に指さしながら「アッ!」「アッ!」と声をあげました。興奮して椅子に座ったままおしりを浮かせて、何度かぴょんぴょんと身体をゆすっていました。こんなにも意思を強く表したのは初めてでした。また、普段はあまり視線が合わないことが多いのですが、この時は筆者の顔をじっと見たり、目を合わせて声を発したりしていたことがとても印象的でした。驚いたことは彼を受け入れる子どもたちの寛容さです。多様性という意味では、他のどの国にも引けを取らないほど個性の強いインドの子どもたちです。障害があることを特別なことと思っておらず、誰でも受け入れる優しい環境が自然と生まれているように感じます。多言語・多宗教、そしてカーストの名残などそれぞれの子どものバックグラウンドが異なっています。ただクラスの子どもたちに共通しているのは、貧困層の出身であることだけです。純粋にクラスの仲間として彼を受け入れる子どもたちの様子を見ていると、こちらも優しい気持ちになります。

現在の日本の場合は、特別支援の必要な子どもたちが通常学級で学習をするときには、支援員の先生が付き添ったり特別な配慮をしたりして個別の指導計画をもとに進めていきますが、インドのガバメントスクールでは、そのような配慮はなく、とにかくクラスの中に放り込むという少し荒々しい方法で学校生活がスタートします。本人も教員もクラスメイトも迷いながら、もみくちゃになりながら少しずつ成長し、集団生活になじんでいく様子を目の当たりにし、筆者は自身をとても恥ずかしく思うようになりました。「インクルーシブ教育とはこうあるべき」と学術的な知識や日本での自身の経験をもとに研究したり、理想を描いたりしてきたことは、現在のインドのガバメントスクールではほとんど役に立ちません。インドにはインドの、タミル・ナドゥにはタミル・ナドゥの、チェンナイにはチェンナイの、そしてこのガバメントスクールにはガバメントスクールのそれぞれの文化や教育に対する価値観があり、ひとつとして同じでないことを学びました。あえて「多様性」という言葉を用いなくとも、自然と他を受け入れる土壌が育っている国家であることを痛感しました。担任の先生が「インクルーシブ教育」という言葉を知らないのではなく、ガバメントスクールにおいてはすでに「インクルーシブ教育」が普通に行われていたのではないかと思うほど、垣根のない学級運営をされていることに驚きました。

しかし、一方で、期末試験の過度なストレス、大声による叱責や体罰、教員の研究不足や低賃金など、ガバメントスクールの教育課題は山積みです。ガバメントスクールを取り巻く教員や保護者に経済的な余裕がないがための「課題放置」であるとしたならば、それは決して美談にはできません。筆者ができる支援はわずかですが、子どもたちのためにできることを先生方に提案したり、支援の必要な子どもたちに適切なケアをしたりすることができるよう今後も努めたいと思っています。

3. インドのインクルーシブ教育(プライベートスクールの場合)

近年、インドでは子どもの発達に関する研究会や発達支援事業を行う企業などが増えており、自閉スペクトラム症(ASD)や注意欠如・多動症(ADHD)のお子さんをもつ親を対象とした「ペアレントトレーニング」や「子どものソーシャルスキルトレーニング」の講座がSNSの広告で拡散されています。また、アレルギーのある子どもたちの食育講座も頻繁に開催されています。富裕層の家庭であれば、大きな病院の小児科で発達に関する診察やスクリーニングや知能検査を受け、これらの情報を得て子どものために積極的に社会と関わることができます。

一方、先述のガバメントスクールに通う子どもの多くの親は、スマートフォンを持っていませんしSNSなどを目にすることもなく、自分の子どもに何かの障害があることを知らされたとしても、「神に祈ります」とか「神の生まれ変わりです」というだけで、適切な診断や治療を受けることなく、近くのガバメントスクールに入学させているケースがほとんどです。インドの教育学者の学会においても、公立のろう学校や盲学校や肢体不自由特別支援学校については記述がありますが、通常学級における特別支援教育はガバメントスクールを視野に入れていません。先のような保護者の言葉に見える宗教上の心情に学術的に寄り添うことは難しいからです。

インドのプライベートスクールの中でも、特にインターナショナルスクールは、特別支援の配慮についてスクールポリシーに掲げている学校が増えてきました。例えば、発達障害やアレルギーやジェンダーに関する課題を抱えている子どもは、入学時にその課題に応じて、医師からの診断書や知能検査のWISC-Ⅳなどの提出を義務付け、特別支援専門のカウンセラーによる審議が行われ、入学を許可するか加配を付けるか、あるいはお断りするかについて、念入りに議論する学校が増えました。入学後は、通常学級で他の入学生と同じ授業を受ける子どもがほとんどです。特別支援教育について学んだことのある教員のクラスに配属されています。加配の支援員の先生と別室で授業を受ける場合には、年間の授業料とは別に加配の料金を支払う決まりのある学校もあります。公立の学校とは違い、教員を一人支援のために雇用し、その教員のために施設を整えるには経費がかかりますので、それを当該学生の保護者が負担するというのは、公平でごく自然のことと考えられています。筆者もそれを聞いた当初はとても驚きましたが、特別な支援を受けることが当たり前ではなく、保護者も学校も相互に協力をして、子どもの学習環境を整えるという側面では、なるほど公平ではあるなと最近は納得しています。その方が、保護者も子どもも権利を主張しやすいというメリットがあります。

また、障害の度合いによって、サポートを行う範囲や時間数が定められていますので、入学前にどの程度支援を受けることができるのかを保護者も子どもも知ることができます。また、料金が明確に表示されるのでとても合理的なシステムであると思う反面、長らく日本の公立小学校で特別支援教育に携わり、現場の先生方を見てきた筆者には、少しばかり切なく映ります。日本の公立学校の現場の先生方は、子どもの障害の有無や、障害の程度にかかわらず、いつでも全力で子どもたちのために尽力しています。このように時間やお金で割り切るビジネスライクな教育方針には、日本では反対の意見を唱える先生方も多いのではないかと推察します。

チェンナイのインターナショナルスクールの多くが、各クラスに2人までは発達障害の子どもを受け入れていますが、もともと自己主張の強いインドの子どもたちですので、例えば軽度のADHDのお子さんならば、それほど目立たずクラスに溶け込んでしまいます。パソコンや電子黒板を利用した授業では、デバイスに集中して過ごすと離席率も低く、衝動的な行動も少なく学習活動に専念できる子どもが多いようです。

しかし、ローカルプライベートスクールといわれるインドの伝統的な教育を行う学校は、黒板を利用して、机といすがきっちりと並び、教師が前に立って授業を行います。加配の仕組みも整っていないため、発達障害の子どもたちが学習活動を行うには少し窮屈な環境です。筆者がピアノを教えている一人のADHDの生徒は、ローカルプライベートスクールに通っています。毎月のように学校でケガをします。椅子から落ちて頭を切ったり、つまずいて転んで足をケガしたり、直近では走り回って腕を壁にぶつけて骨折をして重傷を負っています。本人の不注意はもちろんですが、未然に事故を防ぐという教員の意識や配慮が不足していることは否めません。保護者にはソーシャルスキルトレーニングの例を示し、子どものケアだけでなく学校の管理に対しても改善を求めるように話をしますが、それは筆者の傲慢なのでしょうか。インドの社会においてはとても力の及ぶところではないことを実感します。

このように、学校の種別によって「インクルーシブ教育」の在り方は大きく異なっていますが、どの学校にも共通しているのは子どもたちの学ぶ意欲と強いエネルギーとあふれる笑顔です。そして、教員の質の差こそありますが、どの先生方も子どもたちを愛し、教育に情熱を注いでいることがわかります。

4. インターナショナルスクールのスクールカウンセラーの役割

2017年に筆者がムンバイ市内のインターナショナルスクールで調査した際には、全体の4割の学校にしか常駐していなかったスクールカウンセラーが2024年9月時点では、非常勤も含めてほぼ100%となっています。これは、コロナ禍によるオンライン学習を経た学校教育の産物と言っても良いでしょう。友達や先生と会えずに孤独に学習をする子どもたちに少しでも寄り添い、悩みを分かち合うことをインドの教育省が推奨したことも後押しとなりました。その背景には10代の若者の自殺率の上昇という課題もあり、過激化する受験勉強や大学入試に対する大きな不安やストレスをインド政府が問題視したことも、スクールカウンセラー配置を促す大きな要因となりました。

スクールカウンセラーには2種類のタイプがあります。教員免許を取得し、さらに心理学の勉強をした教員と、教員免許はもたず、国家の臨床心理士の資格をもつカウンセラーです。前者は主に教育心理を学んだ方で、学校に教員として勤務しています。後者は主に病院の精神科や心療内科あるいは小児科に勤務し、非常勤でスクールカウンセラーとして入学可否の審議などに参加しています。子どもたちの情報は両方のカウンセラーに示されていますが、それを他に漏洩することは固く禁じられているため、校内ではとても信頼できる存在です。こうしたスクールカウンセラーの多くはアメリカやイギリスなど教育心理学の歴史のある海外の大学や大学院で学んでいます。一方、これはインドならではの特殊な例ですが、インド人の比較的経験豊かなカウンセラーは、個別に子どもから聞き取った悩みや心情や苦しみをそのまま全て親に伝えます。インド人の家庭では、親の権限が非常に強く、子どもが親に隠し事をするのは許されない風潮が未だに残っています。日本のように親や先生には話せないけれど、そっと自分の気持ちを打ち明けて、傾聴してほしいという子どもたちが多くいますが、古い考えをもっているカウンセラーにそのような話をすると、すぐさま親に連絡がいき、全て筒抜けになってしまいます。日本ならば、カウンセラーの先生に裏切られたような気分になるかもしれないところですが、インド人の中学生や高校生に話を聞くと、自分ではなかなか言い出せないことをカウンセラーの先生が代弁して親に伝えてくれるのでとてもありがたいと言います。小学生ならばそのようなケースもあるだろうと思いますが、10代の恋する若者の気持ちまですべて親に筒抜けになってしまうということに関しては、少しばかり心が痛みます。

最後に

近年は、「インクルーシブ教育」という言葉は、特別支援教育にとどまらず、性的マイノリティ、移民背景、貧困、不登校などありとあらゆる多様性に配慮して教育現場で子どもたちの支援を行うという幅広い意味をもっています。インドにおけるこれらの課題は、その背景にある歴史や宗教、カースト制度などによりとても複雑になっています。今回は、広義での「インクルーシブ教育」ではなく、障害のある子どもたちを中心として記述しました。

2005年にユネスコが出した「インクルージョンのガイドライン」の中で「プロセス」が最も重要であると示されていることから、特別な支援が必要な子どもたちに、公平にその機会が届くこと、安心して教育を受けることができる環境を整備すること、そして教員やスタッフの知識や技術向上のための研修を充実させることなど、多様性の受容に向けてとどまることなく私たちは思慮していかなくてはなりません。これは、世界に共通したガイドラインです。インドのタミル・ナドゥ州のチェンナイ市の小さな学校に、その思いが届くことを願いながら筆者も子どもたちとの時間を大切に過ごしたいと思います。

筆者プロフィール
sumiko_fukamachi_2023.jpg 深町 澄子 静岡大学大学院修士(音楽教育学)。お茶の水女子大学大学院(児童・保育学)にて南インドの教育研究及びインド舞踊の研究中。 約30年間、子どものピアノ教育及び音楽教育に携わり、ダウン症、自閉症、発達障害の子どもたちの支援を行っている。2016年12月より2021年3月までムンバイ在住。2021年9月よりチェンナイ在住。
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