前回のブログでも書きましたが、私の臨床医としてのキャリアは終わりを迎えつつあります。 この間、30年近く診療を続けていた都内の病院の外来を閉じました。病院の規定の定年をすでにオーバーしていることが理由です。
私の最後の診察ということで、たくさんの患者さんから御礼の言葉をいただいたり、お子さんから手紙やカードももらいました。
いつも短い診察の間、私に様々なことを話しかけてきた、小学低学年の女児からのカードには手書きの可愛い猫の絵と一緒に、診療の合間(私は母親と情報交換で忙しかったのですが)に私と話す時間がとても「楽しかった!」と書いてありました。もっと話をしてあげればよかったという自分の心の余裕のなさに恥じ入るとともに、この子の気持ちにわずかでも応えてあげられたという気持ちが込み上げてきました。
ある母親からは10年以上前にADHDの診断とともに、私が「薬でよくなるよ」と気軽にお答えした言葉を信じて、「10年という時間は長かったが子どもは立派に高校生になった」、と感謝の言葉が書いてある手紙ももらいました。
家で手紙を読み返しながら、こうしたお子さんや親御さんの気持ちに少しでも寄り添えたという気持ちが、暖かな思い出として湧き上がってきます。
そして、私は理解しました。医師の社会的役割の喩えに「小医は病気を治し、中医は患者という人を治す。そして大医は社会を治す。できれば大医を目指せ」という言葉がありますが、私はこれまでずっと小医を目指し、それを生きがいにしていたのだということを。
私はこれまで小医を目指し、そのことで十分に報われてきたのです。
この生きがいは、小児科医として、少しは世の人の役に立ってきたという自負につながりますが、時とするとこうした自負が拡大してやや傲慢な気持ちになったこともあったかもしれません。臨床医として、子ども自身のことや親のことはよく知っている、という自信のような物が、これまでこのブログで書いてきた、文科省や厚生省、そして医学界への苦言につながり、時には傲慢な上から目線になったこともあるかもしれません。
CRNや子ども学会の創立者であり、そして何よりも私の恩師であった小林登先生は、そうした慢心が全く感じられない方でした。今でも以下のような記憶が私の脳裏にしっかりと刻まれています。
お年を召されてから、ケア付きの老人ホームに入所されていた小林登先生をCRNのスタッフと共にお訪ねし、CRNや子ども学会の近況報告をしていたときのことです。
小林先生は私たちの方をまっすぐ見つめながら、次のように呟かれたのです。
「ボクは、何か社会に役立つことをしたのかなあ?」
私は小林先生のような方の口からそんな言葉が漏れたことで、身震いしました。
まだまだ自分の「自負」を語るような私には、到底到達できぬ境地です。