私は前回のブログで、発達凸凹といった曖昧な言葉が広がることによって、国民の間で発達障害の理解に混乱を招く可能性があることを書きました。
前回のブログでも強調したことですが、自閉症スペクトラム障害、注意欠如多動症、そして学習障害という発達障害を構成する障害には、世界中で認められたきちんとした診断基準があります。きちんとしたとは言っても完全なものではなく、時々改定が行われ、より良い診断基準にしようという努力が不断に行われています。
医師は自閉症スペクトラム障害や注意欠如多動症などの疑いのある子どもを診た上で診断を下す際には、その子どもの行動上の特徴を診断基準と照らし合わせて判断します。現在世界中で使われている診断基準(DSM-5)*1には対象となる障害の特徴的な行動が短い文章で箇条書きに示されており、それらのうち幾つの項目(障害により異なる数が定められています)が当てはまれば診断を下すという方式で診断が確定します。
医師個人が独自の判断で診断を行うのではなく、明文化された診断基準で診断することによって、例えば有効な治療法などについての全世界から集められた情報やデータを、客観的に比較することができるようになるのです。
しかし時には、診断するのに十分な症状がそろっていないことがあります。例えばADHDではDSM-5に9つの不注意症状と、同じく9つの多動・衝動性の行動特徴が明記されており、9つの症状のうちそれぞれ6つ以上が当てはまる場合にADHDと診断します。当てはまる特徴的行動が5つ以下の場合には診断しないのです。自閉症スペクトラム障害や学習障害についても、この診断方法の原則は同じです。
診断基準を満たしていない子どもでも、もちろんその行動特徴による様々な困難があります。集中力がない、忘れものが多い、片付けができない、あるいはすぐに衝動的な行動をするなどの症状があり、家庭や園、学校現場での困難がある子どもたちがいます。医師としては、診断の基準を満たさないので「注意欠如多動症(ADHD)ではありません」と告げるだけで、診療をおしまいにするのは心苦しいという気持ちから、そういうお子さんを「発達障害もどき」とか「グレーゾーン」です、と告げて親に納得してもらいたくなる気持ちは、理解できないわけではありません。行動上の問題があるからこそ受診した親に「発達障害ではありません」と告げるのは辛いのです。
しかしそうした思いやりから出た「発達障害もどき」や「グレーゾーン」といった言葉は、一般の人にとっては一種の診断名であるかのように捉えられてしまうものであり、それに対して医師などの専門家の間での合意や定義があり、当然のことながらそれに対する治療や対応法があるものと映ってしまうのです。
しかしこれらには合意された定義や診断基準はありませんし、ましてやどのような対応をすれば良いのかのきちんとした方針があるわけでもありません。DSM-5などの診断基準を満たす障害については、この共通の基準を元に、世界中でどのような治療や対応法が有効であるのかというエビデンスがあります。ところが「発達障害もどき」や「グレーゾーン」はその定義が定かでないために、有効な対応法についてのエビデンスがないのです。
私は少なくとも医師や研究者は、社会に対して情報発信をする時にはきちんと定義された言葉(診断名)を使うべきだと強く思います。定義のはっきりしない診断名もどきは、社会の混乱を増すだけだからです。
- *1 American Psychiatric Association. (2014). DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル.(高橋三郎・大野 裕、監訳・染矢俊幸・神庭重信・尾崎紀夫・三村 將・村井俊哉、 訳 )東京:医学書院.(American Psychiatric Association. (2013). Diagnostic and statistical manual of mental disorders. text revision DSM-5 (5th ed.))
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このシリーズの過去の記事は以下をご参照ください。
- 何か変だよ、日本の発達障害の医療 【前編】過剰検査
- 何か変だよ、日本の発達障害の医療 【後編】過剰診断・治療
- 何か変だよ、日本の発達障害の医療(3) 「発達障害」に関する大きな誤解
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