*本稿は、東京大学医学部鉄門倶楽部 同窓会紙「鉄門だより」に、榊原洋一CRN所長が寄せたものを、転載いたしました。転載許可をご快諾くださった鉄門倶楽部に深く感謝申し上げます。
学生時代は、医学の勉強もそこそこに、山登りばかりしていました。運動会のワンダーフォーゲル部に所属し平均して年に2ヶ月は山の中で過ごしました。上越地方の登山道のない山や沢の中を、何日も藪の中をかき分けて進む藪漕ぎに魅入られていました。
上記の様に勉学に励む熱心な学生ではなく、よく臨床講堂でも最上部に席を取り、先生の目を盗んで居眠りをしていました。そんな学生の私でも、アメリカやイギリスで研鑽を積まれた小児科の小林登先生の枠に囚われない自由な講義には心動かされました。スローウイルス感染症の研究でノーベル賞をとったガジュセック博士や、チンパンジーの研究で有名なグドール博士による講義は、特に印象的でした。
小林先生の魅力に惹かれて小児科に入局しましたが、免疫学の専門家である先生は、受け持った免疫不全の患者の臨床講義をまだ研修医の私に任せたり、免疫グループに入って自分の外来を見学する様に誘ってくださったりしましたが、私は小児神経学を選ぶという不肖の弟子でした。
研修が終わってすぐ、私の医療観に大きな影響を与える事になる、都庁登山部のカラコルム登山隊に随行医師として参加しました。パキスタン北部の未踏峰であるバツーラ山(7800m)への登頂は、無残にも頂上直下のセラック雪崩に隊員が飲み込まれ一名死亡するという結果に終わりました。
ベースキャンプまでの数日間、山麓の小さな部落では、パキスタン政府が外国の登山隊の随行医師に地元民に対する医療行為を要請していたため、登山隊のキャンプは村民の診療所になりました。毎朝キャンプ場には100人を超える近隣の人々が様々な訴えを持ってやってきます。軽症の皮膚や目の感染症だけでなく、落石で頭部外傷を受け下肢の麻痺した乳児や、腹部に腫瘤があり痩せてきた青年もいました。私が一番驚いたのは、ほとんどの人が医師に診察してもらうのは人生で初めてだということです。腹部腫瘤の青年に対しては、病院にいく様に勧めましたが、悲しそうにその部落では山道で数日かかる最近隣の病院に行った人は誰もいないと首を振られました。寄生虫学の佐々学先生が、「君たちが学んでいるのは(世界の平均的な医療ではなく)お茶の水医学だ」と言われた意味と、いまだに世界全体では医療は不平等である事を理解するきっかけとなるカルチャーショックに似た体験でした。その後JICAの仕事で、ネパールやガーナの母子保健向上のプロジェクトに関わり、一時は国際医療協力を専門とすることも考えましたが、小児科に留まり小児神経学の道に進みました。
30歳を少し超えた時に、新生児神経学の大家であるワシントン大学のボルぺ教授の研究室に留学し、脳の物質代謝についての研究を行いました。私の研究論文の原稿に、10回以上にわたって細かな修正を加えるボルぺ教授の研究に対する優しくも厳しく真摯な姿勢を学びました。
障害を持つ子どもを見ることの多い小児神経学の道を進むうちに、障害児、発達障害そして子どもの発達そのものに対する興味を持つ様になった私に、小林先生は自ら創設された難病の子どもの支援団体、赤ちゃん学会、子ども学会などに矢継ぎ早に誘ってくださいました。さらにお茶の水女子大学の発達臨床学講座、子ども学研究のwebsiteであるチャイルドリサーチネットと、現在の私につながる子どもの学際的な研究へと導いてくださったのです。
学生運動の影響を受けたせいか、私は父権主義的な権威が好きになれません。所属する小児科学会や小児神経学会の改革運動に積極的に参加し、一部の大先輩からは煙たがられていたと思います。しかし気がつくと私は山と、小林先生とボルぺ先生という恩師に知らず知らずのうちに導かれていたのでした。
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