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小林登先生讃

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CRNの創設者の小林登先生が、昨年末に92歳で安らかに永眠されました。

本来ならば、小林登先生追悼とすべきですが、小林登先生の足跡を振り返ると表題のほうがふさわしいと考えました。

小林登先生のご経歴と視点
「子ども学」を提唱され、「日本子ども学会」やチャイルド・リサーチ・ネット(CRN)の創設者である小林登先生は、海軍兵学校在学時に終戦に遭い、その後で東京大学医学部に進学するという特異な経歴をおもちです。広島に原子爆弾が投下された時に、小林先生は江田島で修練中でした。被爆後間もない広島の町を通って、下級生を引き連れて東京に戻られたときのお話をお聞きしたことがあります。

東京大学医学部をご卒業後、小児科学教室に入局してしばらくして、当時はまだ珍しかった海外での研修をめざし、アメリカのシンシナティで小児科研修を受けられます。

戦後アメリカへの留学はまだ珍しく、大勢の医学部同級生が留学希望者として登録したそうですが、いざ実際に留学するという時に将来の不安等で辞退者が続出し、結局小林先生ともう1人だけが実際に留学を果たしたそうです。若き小林先生に、すでに進取の精神が顕われていたエピソードだと思います。その後、今度はイギリス・ロンドンのグレート・オーモンド・ストリートにある小児病院で研修を継続されます。東京大学小児科に戻られたあとは、国際小児科学会会長に就任され、世界の小児科学を率いられました。こうしたきらめくばかりのご経歴を通じて、世界中の小児科学そして子どもについての想いを深められたのだと思います。

東京大学小児科学教授を定年を待たずにやめられ、国立小児病院の院長に就任された後も、日本でまだ珍しかった子どものための院内学級の設置や、長期入院児の親のための宿泊施設(ドナルド・マクドナルド・ハウス)の開設や、全国の難病の子どもたちのネットワークの設立など、子どもたちのためのグローバルな活動を展開されます。そして学際的な子どものための学会として「赤ちゃん学会」と「子ども学会」を設立され、「子ども学」という新しい視点を導入されたのもまさに小林先生の業績です。

現役を退いた後、悠々自適の生活を送っておられる小林登先生を先日お訪ねしましたが、これだけのことを成し遂げられながら、「ぼくは何か少しでも世の中に役立つことをしたかね?」と言われました。小林先生の気取らぬ姿勢に感銘を受けたものです。

まだ当時は社会的な認知が進んでいなかったインターネットの有用性にいち早く気付かれ、子どもに関する情報を世界に発信し、学際的な情報交流の場としてチャイルド・リサーチ・ネット(CRN)を創設されたのも、小林先生の進取の精神の発露だったといってよいでしょう。CRNは、小林先生が国立小児病院を退官した1996年に、ベネッセコーポレーションの福武總一郎社長(当時)のご支援により設立されました。

そしてCRNの活動の一環として、中国の幼児教育専門家との共同で、中国・日本で交互にカンファレンスを行い自由な意見交換を行う場として、東アジア子ども学交流プログラムを始められました。このプログラムは現在、CRNA(CRNアジア子ども学研究ネットワーク)として、東南アジアに舞台を広げて続いています。

小林先生の言葉
ここで小林先生の先見的なお考えを、小林先生が提唱された言葉から振り返ってみたいと思います。

「学際的」
今では学際的という言葉は、どこでも枕詞として使用されますが、小林先生は早くから学問の「学際的」という在り方の重要性を主張されていました。英語でいうとinterdisciplinary、つまり多分野がその垣根を越えて協働するという意味ですが、小林先生のそれは子どもに関わる学問が、それぞれの専門性の枠の中にこもらずに、協働して研究しよう、という志向性を示した言葉です。小林先生は、子どもを対象とする学問領域が、医学、教育学、発達心理学、脳科学、社会学などの、異なった歴史的背景をもつ領域に分かれている状態を、学際的な学問の場所にしたいと思われ、「赤ちゃん学会」と「子ども学会」を立ち上げられました。

当時はむしろ個々の専門学会が、例えば専門医や学会認定資格などの制度を次々に制定し、専門性を深める動きが盛んでしたので、ある意味で時代に逆行するような斬新なアイデアだったと思います。

学際的な学問の場を保証するためには、それぞれ独自の学問のやり方をもつ異分野の研究者同士が対等に議論ができる場所を確保しなくてはなりません。子どもについてそうした場所を保証するため創設した「子ども学会」への小林先生の準備は周到なものでした。複数の異なった分野の専門家を講師に呼んで、勉強会を開催されましたが、その講師の専門分野は、医学、教育学、発達心理学、脳科学、社会学など多岐にわたりました。

「子ども学会」が無事にスタートした後で、私が会員を増やすために、小林先生と私の専門分野である小児科医を積極的に勧誘することを提案した時にも、「医師が全体を先導するような会になってはいけない」と私に話されたことを思い出します。

「子どもは未来である」
小林先生の言葉の中で最もよく知られているのが、この「子どもは未来である」です。CRNのホームページ巻頭にもこの言葉が掲げられています。

小林先生がこの言葉に込められた意味はとても広く一言では説明できませんが、現在は大人が世の中の物事を決定しているが、近未来にはその世の中で生きてゆくのは現在の子どもたちであることを、決して忘れないようにしよう、という意味ではないかと思います。子どもに関わる私たち大人は「子どものため」と言いつつ、実は子どもの本当の気持ちを理解していないことがあるのだ、という自戒を込めた言葉だと思います。子育て、しつけ、教育の現場でよく見られる父権主義的な見解や実践に対する鋭い批判が込められています。

小林先生が既存の学会のなかで、子ども学を展開されようとしなかったのは、既存の学会の中にある父権主義的な視点を感じていたからではないかと思います。

「チャイルドケアリング・デザイン」
「子ども学会」が設立され、そのミッションをどのように定義するかという議論の中で、小林先生が提案されたのが「チャイルドケアリング・デザイン」というコンセプトです。「子ども学会」はただ議論するだけでなく、この社会を、子どもをケアする構造に変革してゆく行動の先頭にたつべきである、という考え方です。

小林先生がチャイルドケアリング・デザインというコンセプトを提案されたきっかけになったと思われる事件があります。それは2004年に起こった、回転ドアに6歳の子どもが挟まれて死亡したという事故です。世の中の構造が大人を基準にして作られているために、子どもの行動特徴や視点への配慮が不足している現状を変革するためには、社会構造をチャイルドケアリング・デザインにしなくてはならないという視点です。

日本の子どもの死亡原因のトップは、交通事故を含む室内外での事故による死亡であることは以前から知られており、様々な対策が行われてきましたが、まだ不十分です。事故は現在でも子どもの死亡原因のトップであり続けているという事実から、まだチャイルドケアリング・デザインは徹底されていないのです。

チャイルドケアリング・デザインは、幼児期の子どもが過ごす保育園や幼稚園で最も必要とされていますが、単に子どもの安全性だけを考えれば良いわけではありません。保育者からすべての子どもの行動が見通せる園の構造は、子どもの安全を確保するためには良いのですが、園児の行動を観察すると、保育者から目につかない陰を好む園児がいることが分かります。狭いところに入り込んだりする探索的行動が、見晴らしの良い「大人にとって都合の良い」構造によって疎外されてしまうのです。探索的な自由な遊びの場と子どもの安全性確保の両者を保障するという難しい方程式を解く作業が、チャイルドケアリング・デザインなのです。

「joie de vivre」
小林先生が好んで使われる言葉です。フランス語で生きる喜びという意味です。小林先生は、小児科医は子どもの病気を治すだけではなく、子どもの生命の質(クオリティ・オブ・ライフ:QOL)を高めるという使命があると感じておられました。慢性の難病の子どものQOLを高めることをミッションとしたNPO法人「難病のこども支援全国ネットワーク」の創設や、児童虐待の研究機関である「子どもの虹情報研修センター」の理事長を務められたのも、病気を治すだけではだめだ、というお考えの表れだったのでしょう。

「難病のこども支援全国ネットワーク」のプロジェクトの子どものQOLを高める活動では、quality of life (QOL)を味気ない「生命の質」ではない和訳名として「命の輝き」と命名されたのはこのjoie de vivreを意識されたからではないでしょうか。

チャイルド・リサーチ・ネット(CRN)のミッション
「子ども学」や「子ども学会」の設立に至った小林先生の視点を概観したのは、CRNのミッションはこうした小林先生のお考え抜きには語れないからです。

小林先生が国際小児科学会の会長をつとめられたことは冒頭でも触れましたが、私はパナマで開催された昨年の国際小児科学会に参加して、小林先生が小児科医は子どもの病気を治すだけではいけないのだ、という視点に立たれた理由が分かったような気がしました。

日本で小児科医をしていると、小児科医の第一のミッションは子どもの病気を治すことであると思うようになります。国内の小児科関連の学会に参加するとわかりますが、発表される研究のテーマのほとんどが、病気の原因の究明や治療に関するものです。もちろん小児保健学という子どもの発達や病気の予防に関する研究もあるのですが、戦争や紛争あるいは飢餓などのない平和な社会が前提になっています。今回パナマの国際小児科学会では、もちろん病気に関する研究発表もありますが、発表演題の過半は、戦争や飢餓、貧困や虐待に関するものです。日本の小児科学や心理学ではほとんど触れる事のないジェンダーに関する発表も目立ちました。現在でも世界の多くの国で、女児が男児に比べて教育の機会が少なく、その結果として低年齢での結婚、出産につながっています。パナマの国際小児科学会では、未成年の女性の妊娠や出産が重要なテーマとして取りあげられていました。単純に考えれば、未成年の妊娠(teenage pregnancy)は産婦人科の課題ではないかと思われますが、国際小児科学会では小児科医の重要な課題の一つなのです。十分教育を受けていない未成年女子の妊娠は、未熟児出産率が高いだけでなく、不適切な環境での育児につながり、結果として次世代の子どもの健康や発達に悪影響が及ぶのです。ここに小児科医が、女子の教育格差やティーンエージでの妊娠といった狭義の小児科領域以外にも関心をもち関わって行く必要があるのです。

貧困と子どもの健康と発達
子どもの健康や発達を促進するにはどうしたらよいのかを探るために、子どもの健康や発達に関連する要因を探求する調査研究が、毎年たくさん行われています。そうした調査研究の項目に必ず含まれるのが、対象児の世帯年収です。私も子どもの生育環境がQOLに与える影響について、国際比較調査を行ったことがありますが、親に答えてもらうアンケートには世帯年収を書きいれてもらっています。匿名が原則のアンケート調査とはいえ、年収は個人情報なので、記入をためらう回答者がおり、アンケートの回収率が悪くなるのですが、必ず聞いています。その理由は、世帯年収は子どもの健康や発達に関するほとんどあらゆる指標に影響を与えており、統計解析をする時に年収を入力してデータを修正しないと、正確な分析ができないのです。

年収の低い家庭の子どもは健康状態や発達、学習の進達度などが、年収の高い家庭の子どもより得点が低くなるのです。年収以外の環境要因が、そうした指標にどのような影響を与えているのかを見るためには、この年収によるデータの補正が必須です。

裏返して言えば、子どもの健康や発達を向上させることにつながることになる「貧困状態の改善、撲滅」は、小児科医や教育専門家の課題ということになります。つまり小児科医や教育者は、狭い専門分野に閉じこもらず学際的に活動しなくてはならないのです。パナマでの国際小児科学会では、ジェンダー格差の解消だけでなく、貧困家庭を減らすプロジェクトなどについても議論されていましたが、それは小児科医として当然のことということになります。

国際小児科学会の会長を務められた小林先生が、従来の小児科学や小児保健学では満足されず、「子ども学」の提唱や「子ども学会」の創設、そしてCRNの創設をしなくてはならなかったのは、小林先生にとってはいわば当然の成り行きだったのかもしれません。

CRNのミッションは、こうした小林先生の志を継ぎ、それをさらに発展させながら実現させ、子どもを取り巻く問題の解決に取り組んでゆくことに他なりません。

筆者プロフィール
sakakihara_2013.jpg榊原 洋一 (さかきはら・よういち)

医学博士。CRN所長。お茶の水女子大学名誉教授。ベネッセ教育総合研究所常任顧問。日本子ども学会理事長。専門は小児神経学、発達神経学特に注意欠陥多動性障害、アスペルガー症候群などの発達障害の臨床と脳科学。趣味は登山、音楽鑑賞、二男一女の父。

主な著書:「オムツをしたサル」(講談社)、「集中できない子どもたち」(小学館)、「多動性障害児」(講談社+α新書)、「アスペルガー症候群と学習障害」(講談社+α新書)、「ADHDの医学」(学研)、「はじめて出会う 育児の百科」(小学館)、「Dr.サカキハラのADHDの医学」(学研)、「子どもの脳の発達 臨界期・敏感期」(講談社+α新書)など。
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