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所長ブログ

所長ブログでは、CRN所長榊原洋一の日々の活動の様子や、子どもをめぐる話題、所感などを発信しています。

遊びとスポーツ

2018年2月16日掲載
2年後に東京オリンピックを控え、日本中の老若男女のスポーツへの熱気が高まっています。スポーツは、体力増強や健康増進にも役立つ活動であるだけではなく、認知能力や心理状態にも良い影響を与えることが知られています。本ブログでも、運動経験が認知テストに良い影響を与える事について取り上げたことがあります(所長ブログ:運動すると頭が良くなる!)が、確かにスポーツは観てもやっても楽しく、身体にとってもまた脳にとっても良いといういいことずくめの身体活動といえます。

学校教育の「体育」以外の身体活動にあたるのが、子どもの外遊びです。私の外来を受診されるお子さんには初診時に必ず聞くことがあります。本人の理解度や社会性を確認するための質問の一部ですが、「何の遊びが好き?」という質問です。「ゲーム」という回答も多いのですが、結構多いのが「鬼ごっこ」という回答です。単純な鬼ごっこだけではなく、そのバリエーションの「高おに」とか「色おに」と答える子もいます。単純なルールで、スリルと興奮が伴う鬼ごっこは、子どもの心を引きつけてやまない外遊びなのでしょう。私も小学生時代に、鬼ごっこのバリエーションである「水雷艦長」に夢中になっていた記憶があります。ご年配の読者にも、遊んだ記憶のある方がいるのではないでしょうか。ルールを知らない方のために簡単に説明すると、まず子どもたちは2群に分かれます。それぞれのグループに艦長役が一人、そして数名ずつが駆逐艦と水雷役になります。敵の駆逐艦に味方の艦長がタッチされると負けですが、逆に水雷は駆逐艦にタッチして駆逐艦を沈めることができる、というルールです。敵味方、そして何の役であるのか帽子をかぶったりして分かるようにして遊ぶのですが、単純な鬼ごっこと違って、仲間同士のチームワークが試されるところが面白く、興奮して遊んだ記憶があります。

こうした興奮するほどの楽しさと身体活動が伴った外遊びに比べて、体育の時間に義務としてする身体活動には必ずしも楽しさは伴いません。駆けっこが速かったり、跳び箱の高い段が飛べたり、逆上がりがうまい子どもは、自己肯定感が得られるかもしれませんが、うまくできない子どもにとってはつらい経験でしかありません。私の子どもの一人は、縄跳びがうまくできず、担任の教師から、親が一緒に練習するようにいわれ、放課後開放された校庭に出かけて一緒に練習したことがあります。うまくできない本人も、指導する私も全く楽しくなかった思い出だけが残っています。縄跳びではなく、逆上がりができない子どもには、親との練習ではなく、鉄棒の前に置いて逆上がりをしやすくする逆上がり支援ボードでの練習が待っています。逆上がりや縄跳びができなくっても一生何の損もしないのに、などという不遜な考えをもつのは私だけでしょうか。

さて、こうした子ども時代のスポーツなどの身体活動経験が、青年期以降のスポーツなどの身体活動の習慣にどのように影響するか検討したカナダでの研究があります。小学5~6年生の子どもを、スポーツクラブなどの指導者のいるスポーツ活動をしているグループ「専門的スポーツ群」と、指導者のいない雑多な身体活動をしているグループ「多種スポーツ群」に分け、5年間追跡調査を行い、どの位余暇活動としてスポーツをしているか調べたのです。その結果、予想に反して、青年期になると「多種スポーツ群」の方が「専門的スポーツ群」より10~30%、スポーツによる身体活動量が多かったのです。

専門的スポーツ群には厳しい指導があり、また一部の子どもは上達が芳しくなくドロップアウトしてしまうなどの試練があるために、青年期以降になると却ってスポーツ活動から身を引いてしまうのではないか、というのが私の推論です。やって観て楽しむアマチュアスポーツと、厳しい鍛錬と競争がつきもののアスリートの行うスポーツは、別のものなのでしょう。


参考文献
  • François Gallant, Jennifer L. O'Loughlin, Jennifer Brunet, Catherine M. Sabiston, Mathieu Bélanger. Childhood Sports Participation and Adolescent Sport Profile. Pediatrics. December 2017, VOLUME 140 / ISSUE 6.
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私は小児科医ですが、長らく子どもの発達や教育分野にも関わってきたためか、医学・医療を少し離れた視点から見ることができるようになったと思っています。そういう目でみると、医者のある本性に気がつきました。

医師はもちろん子どもや大人の健康増進にも関わっていますが、もっとも中核的な仕事は、やはり「病気を見つけ、治療すること」です。治療するためには、様々な症状の背後にある原因を見つけることが前提です。言い方を変えると、医師は患者さんの体の「あら探し」、つまり悪いところを見つけることに長けていることになります。

診断がつくと、病名がつけられます。病名には、客観的な事実を述べただけの「肺炎」「膀胱炎」「腸炎」(肺、膀胱、腸の炎症)といったものから、症状をそのまま病名にしたもの(糖尿病、高血圧症、肥満)、さらには発見した医師の名前をつけたもの(アルツハイマー病、川崎病)など様々なものがあります。

私も経験がありますが、診断が下り診断名を告げた時の患者さんの反応はいろいろです。ガンと聞くと多くの患者さんは、驚くとともに、なんとか治療で治したいと切に願うようになるのが普通です。でも、症状もなくたくさんの人がかかっている糖尿病や高血圧などの診断名は、多くの患者さんはそれほど驚かず、また苦痛がないために、まじめに治療を受けてくれないことが多々あります。治療を受けるかどうかは、患者さんが判断すべきことですが、他人ごとながら治療を受けるように患者さんを説得にかかるのは、医者の「本性」と言ってよいと思います。

放っておくと大変だよ、ちゃんと治療を受けてほしい、という医者の本性が時に診断名に反映されることがあります。もちろんそういった診断名は、患者さんを驚かそうとして告げるのではなく、体の「悪いところ」を治して欲しいという純粋な気持ちからでているのです。

最近新聞で「口腔崩壊」という恐ろしい病名をみました。よく読むと「未処置の虫歯が10本以上あり、そのために口腔機能が損なわれた状態」のことを言うようです。そしてそうした状態の子どものことを「口腔崩壊児」というのです。

「ちゃんと歯磨きをしてほしい」「虫歯が増えると大変だよ」という歯科医の正直な気持ちが現れた診断名だと思いますが、そこまでして親や子どもをびっくりさせたり、怖がらせる必要があるのでしょうか。確かに「崩壊」という形容詞は迫力があり、国民の関心を強く引きつける力があります。病気ではありませんが、これまでも「家庭崩壊」とか「学級(校)崩壊」という言葉によって国民の関心や懸念が一気に高まりました。虫歯を予防したいという一心から「口腔崩壊」という命名がなされたのではないかと推察されますが、あなたの口腔は崩壊している、あるいはあなたは「口腔崩壊児」だと言われた時の、親や子ども自身の気持ちはどうでしょうか。

私の専門の小児神経学にも、似たような診断名がいくつもあります。たとえば子どものてんかんの中に、「破局型てんかん」という診断名があり、自閉症に似た障害の中に「小児期崩壊性障害」という診断名があるのです。前者はcatastrophic epilepsy、後者はdisintegrative disorderという英文診断名の和訳ですので、直訳した人に責任はないかもしれません。

ともあれ、診断をもらった本人や親をびっくりさせるような診断名はやめて欲しいというのが、ちょっと医療を外からみる機会の増えた私の気持ちです。

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11月末から10日間ほど、ヨーロッパのいくつかの日本人学校で、子どもの発達の巡回相談会に行ってきました。

海外に在住する日本の子どもの医療相談を行っている海外邦人医療基金が主催する相談会で、以前は子どもの身体の問題についての相談が主体でしたが、近年では現地の医療機関での相談が困難な、発達障害などの子どもの相談が主体になっています。約10年前に、相談会への参加を打診された時に、できればクリスマスマルクトが楽しめる年末ならお引き受けする、とはなはだ不謹慎な希望をお許しいただき今日に至っています。

寒い北ヨーロッパのクリスマスマルクトでは、冬のどんよりとした天気にもかかわらず、きれいなイルミネーションで飾られた町の広場で、老若男女が、数多くの屋台で売られているお菓子やハーブ入り赤ワイン(グリューワイン)を飲みながら楽しみます。

10年間ほぼ欠かさずにドイツのいくつかの都市のクリスマスマルクトを見てきており、毎年定位置に出店している屋台を覚えてしまっているほどです。今年もグリューワインを飲み、またシナモンの香りのするリース(輪飾り)を買いました。

寒空の下、皆楽しそうにしていましたが、日本の外務省からは「テロの危険性があるからできるだけ行かないように」と警告がでていました。

来年こそ、こうした警告が無用になることを祈念しながら、今年最後のブログをお送りします。

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遊びとイノベーション

2017年12月 1日掲載
前回のブログでご紹介したTobin先生との知己を得た上海の学会での私の講演のテーマは「innovative mind」でした。子どもの発達と脳科学でイノベーションを説明しようと、イノベーションに必要な能力についてこれまでの研究をいろいろあたって調べました。

その中で二つの興味深い研究(調査)発表を見つけ、講演の中で紹介しました。

一つは、私の友人でもある産総研(産業技術総合研究所)の仁木和久博士の研究です。仁木先生は脳画像を使って広範な研究を展開しておられますが、その中の一つが、人が何か新しい事を思いついた時に働く脳の部位についての研究です。私たちは何か新しいことを思いついたり、解決法を見つけた時に「ああそうか!」と思います。これを「AHA(ああ!)」体験と呼びますが、仁木先生は「AHA」体験をした時の脳機能を調べました。その結果「側頭・頭頂接合部(Temporo-Parietal Junction: TPJ)」と呼ばれる部位が活性化することが分かったのです。興味深い点というのは、このTPJは私たちが他人の気持ちを読む時に活性化する部分であるということです。他人の気持ちを読む(心の理論)脳の働きは、人の社会的スキルにとって最も重要な働きです。何か新しい事を見つけたりする脳の働きは常識的には「認知的働き」に属すると考えますが、イノベーションに社会性が関係しているというのは、なんとなく分かるような気もします。なぜなら、イノベーションは、「人の役に立つ物(事)」を発見することだからです。

もう一つの興味深い研究は、アメリカのTony Wagner(トニー・ワーグナー)氏の著書の中にありました。Wagnerさんは、これまでの研究と自分自身で行った多数のイノベーター(イノベーションを成し遂げた人)へのインタビューの結果を紹介しています。ワーグナーさんによると、イノベーションに必要な要素は、「知識」「創発的思考」そして「動機」だといいます。さらに「動機」は、外発的動機と内発的動機に分けられますが、この内発的動機(自分自身のなかからわき上がる動機)が特に重要です。興味深い点は、この内発的動機を決定しているのが「情熱」「目的意識」と「遊び」だというのです。以前このブログで、遊びは人生を決める、と書きましたが、なんと遊びはinnovative mindにも関連しているのです。


参考文献
  • Tony Wagner, Creating Innovators: The Making of Young People Who Will Change the World, Scribner 2012
  • トニー・ワグナー「未来のイノベーターはどう育つのか―子どもの可能性を伸ばすもの・つぶすもの」英治出版 2014
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共感性を育む異年齢保育

2017年11月17日掲載
先月上海で開催された中国幼児教育学会では、日本の幼児教育者の間ではよく知られたJoseph Tobin先生(アメリカ・ジョージア大学教授)とも親しくなることができました。

Tobin先生は著書「Preschool in Three Cultures: Japan, China, and the United States」で有名なアメリカの幼児教育研究者です。日本と中国、アメリカの幼児教育(保育)を文化人類学者の眼で観察比較したこの著書の中で、日本の保育の特徴として「見守り」を挙げています。京都の保育園での観察の中で、子どもたちの間にいさかいがあった時の保育者の見守る姿勢を高く評価しています。

この有名な著書の第2版「Preschool in Three Cultures Revisited」の中では、初版から20年以上たって、初版で観察した保育園の変化について報告しています。

上海でのTobin先生の講演の中では、京都の保育園の様子が動画で紹介されました。動画では年長児が年少児を抱いて運んだり、トイレで年少児の手伝いをしている様子が映し出されていました。動画を見ながらTobin先生は、「幼児同士が世話をするのは危険と思うかもしれないが、この京都の保育園では事故は起きていない。年少児の世話は、子どもの共感性(empathy)を養うことのできる優れた保育の在り方だ」と賞賛されていました。

今、幼児教育のみならず、子どもの教育現場では「社会情動的スキル」を涵養する事の重要性が認識されていますが、共感性はその中でも重要な位置を占めています。

Tobin先生は、人類学者の透徹した眼で、日本の保育のもつ特質を指摘しています。「異年齢保育における共感性の涵養」は、江戸時代の末期に日本を訪れた欧米の研究者(モース、ツェンベリー)などが、江戸時代の日本の子どもが自分の兄弟をおんぶするのを見て、その社会性涵養の意義を見いだしたことと通じるところがあります。

Tobin先生とは、会議後の会食の場でも、ワインを飲みながらいろいろお話をし、意気投合することができました。二人ともすこし飲み過ぎてしまいましたが・・・。

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ストレスは遺伝子を変える

2017年11月10日掲載
長い間謎であった遺伝の仕組みの発見は、人類の科学発見の中でも最も大きな成果の一つです。遺伝を司っているのは、DNAという化学物質であり、一旦親から受け継いだDNAは一生変化しない、というのが現代の科学の常識になっています。

しかし、その常識はエピジェネティックスという学問によって塗り替えられました。DNA自身は変化しないけれど、母親の胎内の環境によって、DNAに化学結合が起こり、遺伝情報の発現が変化するという新しい常識です。一卵性双生児でも、DNAの化学結合が違うために、微妙な差があることも実証されています。

それでもこうした遺伝子の化学的修飾は、生まれる前のことであり、生後の生活環境は遺伝子に影響を与えないと思われてきました。

そうした常識が覆される研究成果が、アメリカの小児科学の雑誌"Pediatrics"に報告されています。

DNAのかたまりである染色体の端末(4箇所)にある遺伝子は、テロメアと呼ばれていますが、それは細胞が分裂する際に次第に短くなってゆくことが知られています。すべての体細胞は、経時的に細胞分裂を繰り返して再生していますが、テロメアは分裂毎に短くなり一定の長さになると、体細胞は分裂ができなくなります。こうした事実から、テロメアの長さは、その個体の寿命を決めていると考えられています。

Pediatricsに発表された論文は、子どもの父親の喪失(死別、離婚、収監)経験が、子どものテロメアの長さにどのような影響をあたえるかを検討したものです。2,420人の子どもの親に対して、生後48時間に子どもと親の属性を聴取し、引き続いて1、3、5歳時に、家族の状況の聞き取りを行いました。そして9歳の時に子どもの唾液を採取し、唾液中の表皮細胞のテロメアの長さ(染色体あたりの塩基列TTAGGGの個数の平均値)を遺伝学的な手法(詳細は省略)によって測定したのです。

結果は驚くべきものでした。9歳までに父親喪失体験のある子どもでは、経験のない子どもに比べて、平均14%もテロメアの長さが短くなっていたのです。父親喪失の種類によっても短縮度は異なり、死別では16%、父親の収監では10%、離婚による離別では6%の短縮が認められました。また男児では女児よりも40%短縮の程度が強く、またうつ病などに関連のあるセロトニン遺伝子に関連するテロメアの短縮率が最も高い事が分かりました。テロメア短縮のメカニズムは不明ですが、父親喪失によるストレス増大が関連していると論文の著者は推定しています。

ストレスが多いと、寿命が短くなるのかどうかについては、まだ研究がありませんが、経験によって遺伝子が変化する(テロメアが短くなる)という発見に驚きました。科学は新しい発見によって書き換えられることを目の当たりにした思いです。


参考文献
  • Mitchell C, McLanahan S, Schnener L, et al. Father loss and child telomere length. Pediatrics 2017 Aug; 140(2).
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最近メキシコと中国で開催された幼児教育の学会に連続して参加してきました。日程が近かったので、メキシコから上海まで20時間、飛行機を3便乗り継いでの強行軍でしたが、幾つかの大変興味深い知見を得ることができました。数回に分けて報告します。

メキシコの学会での、フィンランドの算数教育の専門家であるPekka Räsänen先生の発表は大変印象的でした。講演後にもいろいろ話を聞くことができました。

講演の内容は、フィンランドの算数教育のカリキュラムが、他国、特にラテンアメリカの国に比べて進行がゆっくりしている理由についてでした。

例えば、フィンランドでは、小学校に入って初めて、数字の書き方を習います。足し算や引き算は、1年生では教えません。

Räsänen先生の説明は極めて明確でした。多くのラテンアメリカで採用されている算数教育はカリキュラムの進行スピードが速く、内容を理解できている生徒は小学校高学年になるとごく一部しかいないことがわかっている。理解を促進するために、教え方に様々な工夫がされているが、カリキュラムの進行速度は変えようとはしない。 小学校低学年は、数の理解をすることにもともと困難があるので、フィンランドでは十分に時間をかけて教えていく、ということでした。Räsänen先生は、数の概念の理解を助けるゲーム形式のタブレットソフトを開発しており、実際にそれを使いながら、数の概念を理解させる方法についてわかりやすい講演をされていました。

実際にRäsänen先生が調査を行ったラテンアメリカのある国では、結果として小学校修了時に生徒の大部分が数の基本概念や四則計算ができない状態を、カリキュラムの進行速度ではなく、教師の教授技術の未熟さに帰してしまっている、という問題点について語ってくれました。

その上でフィンランドでは、むしろ子どもの数や計算についての理解力の現実に合わせて、ゆっくりとしたカリキュラムにしているのだ、と言っていました。

ところで、Räsänen先生が開発された数や計算の理解を助けるゲーム式のソフトは、数の理解や計算が視覚イメージの作業記憶に依存しているという脳科学的知見に基づいて作られていますが、数を丸い玉で示したソフトは、そろばんの珠のように見えました。講演後そのことをRäsänen先生に伝えると、先生も「類似点について気がついていた。日本や韓国の子どもたちの算数能力が高いのはそのためかもしれない」と言っておられました。日本の算数教育でそろばんはあまり使われていないのではないかと思いましたが、嬉しいコメントでした。

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最近関東地方のある中学校で大勢の生徒が給食を残している実態が報告され、マスコミを賑わせています。市販の弁当のようなプラスチック容器が多数並べられ、そのうち半分以上食べ残された容器がおそらく過半を占める映像は、かなりショッキングでした。

異物混入などの続報も出ていますが、当初のマスコミの論調は、「薄味でおいしくない」「冷めていてまずい」といった生徒の意見をもとに、味付けや食べ物の温度管理の問題や、(飽食で?)味にうるさく、給食を残してしまう近頃の生徒に焦点があたっていました。しかし私はここに今日の学校給食の根本的な問題が隠されているように思いました。

調べてみると学校給食は、戦後約10年が経過した昭和29年に制定された学校給食法に基づいています。法律を読んでみると、近年制定された食育基本法の内容を先取りした先進的で包括的な法律であることが分かります。食材への関心や、食文化などの習得についてもきちんと述べられています。戦後間もなく、まだ栄養不良の子どもたちが多かった時代に、国民全体の栄養状態を底上げしようという当時の為政者の気持ちがにじみ出ていると思いました。

今回の多量の食べ残しの問題は、表面的にはさまざまな理由(経費等)による校内での調理の困難に起因した給食外注や、大量生産による画一的な献立、栄養バランスへの配慮による薄味、そして腐敗防止のための低温管理などにあるように見えます。学校給食法では、校内の調理過程を児童生徒が見ることによる教育効果もうたっており、外注はそうした法律の基本的精神に沿うことも困難です。

しかし私が最も根本的な問題だと思う点は別のところにあります。今回の報道のきっかけは、生徒が給食を多量に残す、という事実でした。そしてその背景にある前述の給食体制の問題点が出てきた訳ですが、私は現在の体制の給食では食べ残すことは当然予想されることであり、そのことには何の問題もなく、騒ぎ立てることこそ問題であると思うのです。

外注の弁当形式の給食は、薄味、低温といった問題以前に、すべての生徒に同量提供されます。私たち大人も、会議などで給食同様に弁当が供されることがあります。その時に参加者全員が完食するでしょうか?まず、そんなことは経験したことがありません。一人一人食事の量や、味には好みがあり、残しても決して非難されないでしょう。また、弁当を注文した会議の主催者に、食べ残しが多いことで参加者から苦情がでることもないでしょう。

思春期の過程にある小学校高学年から中学生は、体格の差が大きな時です。同量の給食を提供すれば、食べ残しがでることは避けられません。どうしても食べ残しを少なくしたいのであれば、方法は2通り考えられます。一つは、一番体重が少なく小食の生徒が食べる量に統一する方法です。しかしこの方法では、大部分の生徒は空腹で半日過ごさなければなりません。平均的な体重と食欲の生徒に合わせても、半数は食べきれず半数は満腹にならないことになります。

もう一つの方法は、バイキング形式にして、自分で食べる量を決める方法です。一部の学校では実施されているのだと思いますが、経費や管理などで多くの学校では導入が困難なのでしょう。

私の世代は、戦争による災禍の記憶がまだ新しい時代に給食を食べました。食事を残すことは悪徳であり、「米粒一つ残しても、目がつぶれる」というしつけの元で育ちました。あの悪評高い脱脂粉乳を飲んで育ちました(私は決して嫌いではなかったのですが)。現在も、どのような形態の給食であれ、残すことは悪いことである、という昔の考え方がまだ社会的に生きているとしか思えません。

地球規模で考えれば、「もったいない精神」は称揚すべきでしょうが、生徒一人一人の栄養所要量、味の好み、食欲が異なることを前提として考えれば、今回の給食の大量食べ残しは当然の帰結であり、少なくとも生徒たちには何の責任もないのです。

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親の幸福は子どもの幸福

2017年9月22日掲載
小児科医としての私の第一のミッションは、子どもの病気を診断し治療することです。現在でもそのとおりですが、子どもの発達に関心をもつようになり、子どもの健康を良好な状態に保つためには、病気を治すだけでは十分ではないと知るようになりました。世界保健機関(WHO)の「健康」の定義にも、「健康とは、身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない。」と書かれています。

病気の治療の第一の目的は病気を治すことですが、かつては病気の治癒率をよい治療の目安にしていた医療の領域でも、治癒するだけではなく治療後の患者の生活が精神的、社会的にも良好であることが、よい治療の目安とされるようになっています。

そうしたよい治療の目安に使われる概念がQuality of Life(QOL)です。日本語では「生命の質」となりますが、あまりよい日本語ではないので、最近ではQOLで通るようになっています。

病気は治ったけれど、精神的、社会的に病気になる前のよい状態に戻らなければ、その治療はまだ十分とはいえないのです。

現在では、病気とは関係なく、生きていることそのもののQOLを評定する尺度が考案され、診療の場面だけではなく、生活そのもののQOLを測定することができるようになりました。

私の専門である小児神経学では、近年発達障害の医療に関する関心が高まっています。発達障害の中でも、注意欠陥多動性障害(ADHD)の子どもは、不注意や落ち着きのなさといった症状だけでなく、そうした症状が原因で本人のQOLが低下していることがよく知られています。

ここ数年、私は文科省の研究補助金(科研費)を頂きながら、日本とアジアの国の子どものQOLや自尊感情に関する調査を行っています。現在その研究成果の分析を行っていますが、QOLに関する興味深い結果が得られています。そのひとつが今回のタイトルにある「親の幸福は子どもの幸福」です。5歳と7歳のお子さんの親御さんに御協力いただき、家庭生活や園(学校)生活、お子さんの行動特徴などの多くの項目に加えて、お子さんと親御さん(ほとんどが母親)のQOLについても調べています。

統計的な分析によって、子どものQOLに影響をあたえる因子を調べましたが、数多くの因子のうち、子どものQOLに影響を与える因子として、親のQOLと子どもの不注意が抽出されてきたのです。不注意はもちろん子どものQOLに負の影響を与えます。このことは調査を行う前から予想していました。しかし、親のQOLが子どものQOLに正(ポジティブ)な影響を与えることについては、調査前は予想していませんでした。調査では親御さんにお願いして、家庭の年収や親御さんの学歴など、多数の質問項目について回答していただきましたが、多数の因子の中ではこの2つ―親のQOLと子どもの不注意―だけが統計的に有意であることが分かったのです。近年の親子関係のさまざまな問題(虐待、愛着関係、過保護など)からは、親と子どもは結局他人であると醒めた見方もできますが、今回の調査で、QOLは親子で共有しているということが明らかになったのです。

子どもの幸福を願うのであれば、まず親である自分が幸福になることなのです。

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文科省が、小学校就学時の発達障害の発見のための健診を強化するという方針を打ち出したというニュースがありました。

なぜ、就学時の発達障害の発見を強化しなければならないのでしょうか?

発達障害は早期発見、早期対応が重要であり、就学後に気づくより就学時に発見したほうがよい、という理由によるものとされており、本ブログをお読みの多くの方々も、その通りではないかと思われると思います。

私の疑義は、なぜ就学時に発見しなくてはならないのかということです。発達障害は、その種類によりますがおしなべて、学校などでの人間関係や集団生活あるいは学習において、その症状が顕在化します。就学後の学級で、様々な困難が出現し、治療や療育が行われたり、教育的な「合理的配慮」が行われるというのが一般的な道筋です。もちろん、就学前から発達障害の特徴が明らかになり、就学時点、あるいはその前から、特別支援教室や特別支援学校への就学が考慮されることもあります。

就学時健診で発達障害の見立てが行われるのと、就学後に見立てられることの差はどこにあるのでしょうか。もちろん時間的には就学時健診で見立てが行われるほうが少し早いのですが、その時間的差はそれほど大きいとは思われません。就学時健診という比較的短時間のアセスメントと、就学してからの学級での行動の観察では、後者の方が明らかにより細かな見立てができると思います。

就学後の教室での行動の様子から、専門家による見立てに進んでも良いはずです。就学後に診断がついたら、そこで対応(合理的配慮)を行えば良いのです。

これは私の憶測ですが、就学時に発達障害を診断して、早いうちから「適切な対応」をするというのは、発達障害と見立てられた子どもを、特別支援教室ないし特別支援学校に就学させるということなのではないでしょうか?

すべての学校は、発達障害の子どもに「合理的配慮」をすることがすでに求められているわけですから、発達障害の見立てを就学時にこだわって行うことの合理的な理由は、私には見えません。

以前、オランダの学校教育に詳しいリヒテルズ直子さんと、ある会合でご一緒したことがあります。私はそこで、「発達障害の告知」というテーマでお話をさせていただきました。私の話を聞いたリヒテルズさんは、不思議そうな顔をしながら次のように質問されました。「どうして告知が必要なのですか。私には全く理解できません」と。

発達障害の告知とは、あるお子さんに発達障害の診断をしたときに、親だけでなく、担任の先生や本人あるいは同じクラスの子どもとその親に、診断名ないしは子どもの特徴を伝えることを言います。

日本では、発達障害の診断によって、その子どもを通級教室に紹介したり、時には普通学級から特別支援学級、特別支援学校への転校をしてもらうことがあるので、その際に告知は必要になると、私は説明しました。

オランダでは、子どもの発達障害の有無にかかわらず、親の希望で異なった種類の学校を選ぶことができます。日本の特別支援学校のような学校もありますが、それも親が自由に選べるといいます。そしてインクルーシブ教育が行われているので、発達障害の有る無しに関わらず、希望した学校に就学できるのです。当然、普通クラスに発達障害の子どももおり、子どものニーズにあった合理的配慮のもとに教育が行われるのです。

リヒテルズ直子さんが、「なぜ告知が必要か分からない」と言われたのは、オランダでは告知の有無にかかわらず、子どもに発達障害の行動特性が見られれば、学校はその特性に準じた教育を(親が発達障害について教師に告知しなくても)行うことになっているからだったのです。

さて「就学時」に発達障害の見立てを行うことの意味について、読者の皆さんはどのように思われますか?

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