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所長ブログ

所長ブログでは、CRN所長榊原洋一の日々の活動の様子や、子どもをめぐる話題、所感などを発信しています。

フンザの泥おむつ

2017年6月 9日掲載
おむつ(使用)とトイレトレーニングは、人間の歴史や文化と、子どもの発達が密接に結びついた営為であり、子育てや子どもの発達とは切り離して考えることのできない事柄です。

おむつとトイレトレーニングに関する大きな課題にはこれまでに以下のようなものがありました。

「布おむつか紙おむつか?」
「おむつ外しか、おむつ外れか?」
「トイレトレーニングの最適な開始時期は?」

最初の「布おむつか、紙おむつか?」は今ではあまり顧みられないテーマですが、私がまだ駆け出しの小児科医のころは、マスコミを巻き込んだ大きな問題でした。子育ての専門家が、布おむつ派と紙おむつ派に分かれて大議論を展開していました。布おむつ派曰く、紙おむつではおむつ外れの時期が遅くなる、資源の無駄遣いや環境汚染につながる、母親が子どもの便の様子を観察しなくなるなど、侃々諤々の議論がありました。最も強い反対意見は、肌触りがさらさらの紙おむつでは、濡れても不快感がなく、おむつ外れが遅くなるというものでした。その後、実際に調査が行われ、紙おむつがおむつ外れの遅れにはつながらないことが明らかになりましたが、当時は大きな課題でした。

二つ目の「おむつ外れか、おむつ外しか?」は、初めて聞かれた方もおられると思います。おむつ外しは、その主語が母親であるのに対し、おむつ外れは、主語がおむつであるという違いがあります。これはある著名な小児科医が、おむつ外しというと、子育てのストレスを感じている母親が「いつ(自分が)外さなくてはならないのか」とさらにストレスを感じてしまうので、おむつはとれる時に(自然に)とれるようになるのですよ、という母親を気遣った言葉使いとして推奨してから広まったものです。私は、そうは言っても、そもそもおむつをさせるのは親であり、子どもが自分からおむつを外すことはないので、事実と反するし、正しい情報ではなくリップサービスなのではないかと反論した覚えがあります。いまはどちらの言葉使いが主流になっているのでしょうか。試しに、グーグルで検索したところ、「おむつ外れ」は59万件、「おむつ外し」は49万件と、両者伯仲しているようで、私のむなしい反論はあまり効果がなかったようです。

おむつ外し(外れ)の最適な時期と方法については、たくさんの科学的な検証研究があります。ここでは詳細に触れることはできませんが、世界中で次第にトイレトレーニング開始時期が遅くなってきていること、トイレトレーニングの開始時期が早ければ、おむつ外し(外れ)の時期は少し早くなるが、トイレトレーニングの期間が長くなること、などが明らかになっています。アメリカ小児科学会がまとめた研究では、トイレトレーニングの最適な開始時期は、何歳何カ月という子どもの年齢で決めるのではなく、子どもの発達段階を目安に決める方が合理的である、という結果もでています。

さて、このようにおむつやトイレトレーニングは、子育てにとって重要な事柄であり、また発達に関連した科学的な行為に思えますが、タイトルの「フンザの泥おむつ」はそうした常識を覆すような経験でした。

前回ブログで書きましたように、私の青春時代は山とともにありました。その集大成が、臨床研修を終わってすぐの26歳の時に、カラコルムのバツーラという山(標高7800メートル)へ登った東京都庁の登山隊に、随行医師として参加した経験です。

パキスタン北部のカラコルムには、世界第二の高峰であるK2などがあり、また高峰に囲まれた谷間のフンザ地方には、昔ながらの風習が色濃く残った伝統的な人々の生活があります。

私の仕事は登山メンバーの健康管理と通訳でしたが、パキスタン政府から国境近い地域の山への入山許可の条件として、地元の村民から医療の要請があった場合は、できる範囲で対応することが求められました。

空港のあるラワルピンジーから、飛行機でゆける最奥の町であるギルギットまで小型機で行き、そこから足のすくむような断崖絶壁の上の道を一日かけてジープで行った小さな山村が登山のスタート地点でした。そこから、谷に沿って5日かけてベースキャンプまで行きましたが、毎朝、登山隊(荷物を運ぶポーターをいれると100人以上の大部隊)のキャンプ地の周りには「本物」の医者に見てもらおうと100人位の村民が集まってきていました。とても私1人では100人診察できませんので、数の多い目の疾患(ほとんどが結膜炎)は、登山隊員の中に「目医者」を指定し目薬をさしてもらい、同様に多い切り傷、擦り傷は、「外科医」を指名し、消毒と抗生物質軟膏の塗布をしてもらいました。

私はそれ以外の訴えの村民を、通訳を通して診察しました。「本物」の医者に見てもらいたいだけの人もおり、受診理由を聞くと「その胸にかけている器具(聴診器)を自分の胸にあてて欲しい」とか、「足が悪くて歩けない」という訴えなのに、山向こうから峠を越えてやってきた人がいたりなど、日本では絶対にない貴重な経験をしました。

下痢をしている乳児も何人も診ましたが、そこで今回の主題である「泥おむつ」に出会ったのです。

下痢の診察は、便を見ることが必須です。下痢の乳児をつれてきた父親(母親は異教徒の前には姿を見せません)が、ヤギの皮やぼろ布でできているおむつカバーを外した時に、今でも私の目に焼き付いている光景が飛び込んできました。乳児の腰のあたりが、真っ黒な泥にくるまれているのです。「え、これが全部便!?」とびっくりしてよく見ると、それは尿や便を吸い込んで真っ黒になった泥だったのです。フンザ地方は乾燥地帯で、地面の土はフカフカに乾燥しています。尿や便でしめった泥を取り除き、代わりにさらさらの土を入れたおむつだったのです。見かけは汚いのですが、不潔というわけではなく、さらさらの土のおかげで、乳児のお尻は乾燥した状態に保たれ、おむつかぶれを防ぐ、経済的なおむつだったのです。

布おむつか紙おむつという二者択一しか頭になかった私にとって、大きなカルチャーショックであるとともに、日本で常識と思われていることが、かならずしも世界では通用しないことを知った貴重な経験でした。

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パキスタン・カラコルムにて

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自然的知能

2017年5月12日掲載
ハーバード大学のガードナーは、1983年にそれまでの知能(IQ)の概念を打ち破る「多重知能」説を打ちだしました。人の知能は、いわゆる知能指数(IQ)で示される知能だけではなく、7つの異なった知能に分類することができるというものです。近年の脳科学による脳機能の解析方法の進歩によって、ガードナーの多重知能は支持されています。

ガードナーが提唱した7つの知能とは、①論理数学的知能、②言語的知能、③対人的知能、④内省的知能、⑤身体運動的知能、⑥音楽的知能、⑦空間的知能です。提唱時は7つでしたが、ガードナーはその後「自然的知能 naturalistic」(あるいは博物的知能)という第8の知能を付け加えました。

この自然的(博物的)知能とは、自然の中にいて、自然界の仕組みとそれが人に及ぼす影響や、それらに対応するための行動を司る知能です。私たちは人工的に調整された屋内や都市の中で生きてゆくことについての知識(知能)があっても、大自然のなかではそれだけでは不十分です。

例えば山の中で、雲行きが怪しくなったら、どこかに避難しなくてはなりません。コンビニやレストランがないところでは、食物や調理用具を携帯するだけでなく、自ら食物を調達(木の実や果実の採取、釣魚、狩猟)してゆくことも必要になります。

先日日本のスキー場で、ドイツ人らがゲレンデ外の雪の中で遭難するという事故がありました。不幸な結果にならなければ良いが、と心配していましたが、翌日無事に生還しほっとしました。

ドイツを初め北ヨーロッパの国には、森の幼稚園とよばれる幼稚園がたくさんあります。徹底した園では、園舎はなく一年中森の中で過ごすそうです。そこで園児たちは、雨がふればどのくらい寒いのか、夕方になると森の中はどんなに暗くなるのかといった知識や、食べられる木の実、食べてはいけないキノコなどについて体験を通じて自然的知能を伸ばしてゆきます。

遭難したドイツ人も、もしかすると森の幼稚園に通った経験があったのかもしれない、などと思いを巡らせました。


私事になりますが、私は大学生時代ワンダーフォーゲル部に所属し、一年を通じて山登りをしていました。ワンダーフォーゲル活動は、ドイツに始まった山だけでなく野原を何日も歩いて過ごす活動ですが、日本の大学のワンダーフォーゲル部は、ほぼ山岳部と同義です。一年を通じてと書きましたが、実際に年間何日くらい山の中でテント生活をしていたか数えてみたところ、約60日も過ごしていました。私の所属していたワンダーフォーゲル部の基本活動方針は、道のない山に登ることでした。登山道を歩くのではなく、地図と磁石を片手に、猛烈な薮を漕ぎながら1週間くらい尾根や沢を遡行するのです。また緊急事以外は、コンロは使わず、枯れ木や倒木を集めて火をおこし、沢からくんできた水で米を炊いて食事をしました。薮が濃いところでは、一時間に100メートルくらいしか進めませんし、一番近い登山道まで数時間かかるので、悪天候だからといって下山することもありません。動かずそこでやり過ごす方が安全だからです。

こんな不便な登山でしたが、夜星空を見ながら、藪の中で寝ていると、えも言われぬ自然との一体感を感じました。こうした体験の中で、山の地形や天気、動植物に関する理解が深まりましたが、今から思うと私の自然的知能を大いに発達させた経験だったのかもしれません。


今でも時々、尾瀬ヶ原の背景にある山のさらに向こう側にある大白沢の池で過ごした一日のことを思い出します。大白沢の池まで行く道はもちろんなく、少なくとも2日猛烈な藪漕ぎをしなければたどり着くことはできません。周りに湿原のある、自分たち以外誰もいない天上の楽園で、真っ青な空を行く雲と、満点の星を見ながら寝転がって時間の経過を忘れて過ごしました。

池の向こう側の薮の奥でガサガサいう音が聞こえ、熊か、と身構えたところ、薮をかき分けて登山靴ならぬ地下足袋をはいた京都大学探検部の一団が現れたのも、忘れ得ぬできごとでした。

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学びに向かう力

2017年4月14日掲載
私事ですが、この3月で大学を定年退職しました。年度末の繁忙と引き継ぎなどで、しばらくこのブログを書く時間もとれませんでした。今日から、新たな気持ちで、人生の第3クオーターを開始しますので、よろしくお願いします。


さて、今回のテーマの「学びに向かう力」は、ベネッセ教育総合研究所が、social-emotional skills(社会情動的スキル)というやや固い用語を一般の方に分かりやすくするために考案した用語です。

子どもを含めて私たちが、言葉や人間関係のルールだけでなく、学校で教科を学ぶために必要な能力は何でしょうか?すぐに思いつくのは、知能です。文字を読んだり計算したり、あるいは記憶したりする能力の中枢は、大脳皮質と呼ばれる脳の表面にあります。皆さんも、側頭葉に聴覚性言語中枢があるとか、前頭葉には運動性言語中枢がある、といった記述を見たり聞いたりしたことがあると思います。また、記憶には海馬という脳の奥にある部位が関連していることもご存知かもしれません。海馬は脳の奥にありますが、これも大脳皮質の一部なのです。

こうした脳の部位(大脳皮質)が、言語学習や記憶など知能の大事な働きに関連していることは間違いありません。こうした能力は、心理学では「認知能力」と呼ばれており、これまで脳科学者や心理学者が、学習や教育との関連で関心をもって研究してきました。

ところが、近年の研究や調査によって、認知能力が発達するだけでは、効果的な学習はできないことが分かってきたのです。

そうした研究の嚆矢は、ウォルター・ミシェルという心理学者が行った、俗に「マシュマロテスト」と呼ばれる実験です。

5歳くらいの子どもの前にマシュマロをおいて、「すぐに食べていいよ。でも、5分間我慢したら、もう一個マシュマロをあげるね」と言って、子どもを一人きりにします。すぐに食べてしまう子どもと、我慢して待ってもう一個もらう子どもに分かれますが、ミシェルはこの実験の10年後に、実験に参加した子どもたちの詳細な心理テストを行いました。5歳時点での子どもたちの知能(IQ)は、すぐに食べてしまった子どもも、待てた子どもも同じですが、10年後に調べると、学業成績だけでなく、社会性や共感能力など、すべて「待てた」子どもの方がよい成績を納めたのです。

この「我慢できる」能力こそ、社会情動的スキルの一つであり、「学びに向かう力」の一部なのです。学びに向かう力は、教室で教師が黒板に書いた内容を一生懸命写し、記憶することでは身に付きません。では、どうやって、身につけることができるのでしょうか?

実は、まだよくわかっていないのです。世界中の教育や心理学、脳科学の研究者が、その回答を必死に追い求めているところです。


さて、昨年の秋に、日本子ども学会の学術集会が、浜松で開催されました。その基調講演で、安西祐一郎さんが話されたことをご紹介します。安西さんは、中教審の委員長をつとめ、また今は日本学術振興会の理事長をされています。いわば、日本の教育や研究の大方針を決定する重要な位置におられる方です。

講演のタイトルは「未来に生きる子どもたちのために―おとなは何がしたいのか?」でした。

皆さんは、このタイトルをみて、おやっと思いませんか?私も、サブタイトルは「おとなは何をすべきか?」ではないのか、と思いました。しかし、実際にお話を伺って、安西さんはこの「何をしたいのか?」に大きな気持ちをこめていたことが分かりました。

何をすべきか、と何をしたいか、の差はなんでしょうか?些細な差のように見えます。しかし、この2つの疑問には心理学的にも、脳科学的にも大きな差があります。

「何をすべきか?」という問いに応えるためには、自分が置かれている状況を分析し、その結果から「自分には何が求められているのか」を導きだす必要があります。この分析的な頭の働きは、まさに認知的な過程です。

翻って、「何をしたいのか?」という問いに応えるためには、自分に何が求められているのか、分析する必要はありません。自分の内面からわき上がってくる気持ちに従って、決定すれば良いのです。内面からわき上がって来るのは、単純な知識ではなく、情動そのもの、あるいは情動で色濃く染められた知識です。


安西さんの詳しい話の内容は忘れましたが、瀬戸内海の小豆島に住む子どもたちの実話を使って、子どもたちも「するべきことをする」のではなく、「やりたいことをする」方がいいのだ、というメッセージが込められていました。


まさに、学びに向かう力についてのお話だったのです。

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変わらないもの

2017年1月13日掲載
明けましておめでとうございます。本年もCRNをよろしくお願い申し上げます。

昨年2016年は、世界に大きな変化のあった年でした。紛争や戦争の絶えない世界を解決する人類の大きな実験の一つとみなされていたヨーロッパ連合(EU)に、大きな亀裂を生じさせる英国の離脱は、EU加盟国の国民だけでなく、世界中の人々を驚かせました。そしてアメリカの大統領選挙で、多くの人が確信していた結果と異なる結論が出ました。

私たちは、常に新しいものを求めながら、一方で急激な変化の前には尻込みしてしまいます。イノベーションを唱える一方で、自然破壊を嫌い、絶滅危惧種の保存に力を入れています。

社会や自然といった私たちの棲む環境だけでなく、私たち自身も経験によって変わっていきます。日本では毎年虐待が増えてきています。また増え続けるいじめや不登校なども、育児や教育に関わる人々にとって悩ましい事態です。このまま行くと子どもはどうなってしまうのだろう。そしてその子どもたちが大人になる未来はどうなってしまうのだろう、という危惧を感じるのは、私だけではないと思います。

しかし、世の中に心配の種がいかに増えて行こうとも、何百年何千年と変わらない人々がいます。それはどんな人々で、どこに住んでいるのでしょう。

それは皆さんの周りにいる、小さな子どもたちです。

世界中のどの国、どのような境遇の家庭に生まれようとも、ヒトの赤ちゃんは、全て初めて経験する世界に旺盛な好奇心で関わっていきます。どのような家族の元に生まれようとも、自分の世話をしてくれる人との間に強い愛着関係を築いていきます。

不幸な経験を記憶として溜め込んで行く大人が増え続ける世の中であっても、新たにこの世に生を受けた赤ちゃんは、新鮮な気持ちでこの世の中に生まれ出てくるのです。いわばこの世界は赤ちゃんの誕生によって、ミクロレベルでリセットされ続けているのです。

変化の多い2016年でしたが、新しい2017年を迎え、赤ちゃんのもつ世の中を浄化する力を改めて思い出すとともに、CRNの原点にある「子どもは未来である」という言葉をかみしめたいと思います。

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おんぶ再考

2016年11月 4日掲載
昔はおんぶは日本のどこでも良く見られましたが、最近はほとんど見ることがなくなりました。代わりに、子どもの顔をみることができる対面抱っこが推奨されています。

私はひそかに、おんぶには子どもの社会性を涵養する効果があると思っていますが、江戸時代に子どもをおんぶする母親や父親、あるいは年長の兄弟を見た、ヨーロッパやアメリカの知識人は、大いに驚き、感激しています。彼らの残した文章を読むと、単に驚いただけでなく、そのおんぶの優れた効用にも気づいています。

大森貝塚の発見で有名なモースは、1877年に来日し、海洋生物の研究をしています。彼の日本での生活を書いた「日本その日その日」(東洋文庫)では、当時の日本人の生活の様子の生き生きとしたスケッチを残しています。彼のおんぶに関わる文章を紹介しましょう。

「この子どもを背負うということは、至る処で見られる。婦人が5人いれば4人まで、子どもが6人いれば5人までが、必ず赤坊を背負っていることは誠に著しく目につく。(中略)赤坊が泣き叫ぶのを聞くことはめったになく、又私は今迄の所、お母さんが赤坊に対して癇癪を起こしているのを一度も見たことはない。私は世界中に日本ほど赤坊のために尽くす国はなく、また日本の赤坊ほどよい赤坊は世界中にないと確信する」(同書11ページ)

「いろいろな事柄の中で外国人の筆者たちが一人残らず一致することがある。それは日本が子供たちの天国であるということである。」(同37ページ)

「小さな子供を一人家に置いて行くようなことは決してない、彼等は母親か、より大きな子供の背中にくくりつけられて、とても愉快に乗り廻し、新鮮な空気を吸い、そして行われつつあるもののすべてを見学する。日本人は確かに児童問題を解決している」(同69ページ)

このようにモースは、こちらが恥ずかしくなるくらい、日本のおんぶを称賛しています。

モースだけでなくほかの外国人も、おんぶに大きな感動を覚えたようです。イギリスのジャーナリスト、アーノルドは "Seas and Lands" の中で、おんぶによって「あらゆる事柄を目にし、ともにし、農作業、凧あげ、買物、料理、井戸端会議、洗濯など、まわりで起こるあらゆることに参加する。彼らが四つか五つまで成長するや否や、歓びと混じりあった格別の重々しさと世間智を身につけるのは、たぶんそのせいなのだ」と述べています。

子どもの社会性の発達のなかで重要な役割を果たしている行動に「共同注視」(ジョイントアテンション)があり、発達心理学の重要な研究対象になっています。アーノルドの指摘は、まさにおんぶによる共同注視が、子どもの社会性の発達を助けていることの描写に異なりません。

私は、単なる郷愁としてだけなく、子どもの社会性発達の大切な場を提供する子育て方法としておんぶがあるのではないか、とひそかに思っています。
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発達障害の子どもといじめ

2016年9月16日掲載
いじめによる子どもの自殺のニュースをきくと、本当にいたたまれない気持ちになります。
マスコミの関心の中心は、誰がいじめの張本人だったのか、どうして周りが気がつかなかったのか、ということに集中していますが、亡くなられた本人がどのような子どもだったのか、ということについては、個人情報保護のこともあり、ほとんど何も伝わってきません。

私はいじめや、いじめによって追い詰められた子どもたちに想いを馳せる時に、いつも心に浮かぶことがあります。それは発達障害のことです。

発達障害といじめ、と聞くと読者の皆さんは、どのように思われるでしょうか?
いじめというと、真っ先に思いつくのは、注意欠陥多動性障害(ADHD)の子どもです。診断基準(DSM-5)の多動・衝動性の項目には、「しばしば他人を妨害し、邪魔をする」と書かれていますし、陥りやすい二次障害である反抗挑戦性障害の診断基準にも、「しばしば故意に他人を苛立たせる」「しばしば意地悪で執念深い」と書かれています。これだけ読むと、注意欠陥多動性障害の子どもには、いじめっ子が多いのかな、と思いたくなります。
もう一つ思いつくのは、自閉症スペクトラムの子どもです。皮肉やお世辞の理解に困難があるので、ぎこちない人間関係の中でいじめのターゲットになりやすいような気がします。

発達障害の子どもといじめと仲間はずれについての興味深い研究をアメリカのトウィマン(Twyman)さんという研究者が行っています。
そこで明らかになったのは、発達障害といじめの間には極めて密接な関連があるという事実です。以下の表をみてください。アメリカでは、定型発達の子どもの中で、いじめっ子、いじめられっ子、そして仲間はずれにされた経験のある子どもは、それぞれ全体の約7-9%であることがわかります。

chief2_26_01.jpg では、私の最初の想像は正しかったのでしょうか?表を見ると、私の想像とは全く逆で、注意欠陥多動性障害のある子どもの中で、いじめっ子の割合は定型発達児と有意な差はなく、いじめられっ子の割合が定型発達児の3倍以上になっていることがわかります。仲間はずれに至っては、約28%と約4人に1人は仲間はずれの経験があることがわかります。
私の第2の想像は、その通りで当たっていました。自閉症の子どもは注意欠陥多動性障害の子どもと同じく、定型発達児と比べていじめられっ子の割合が3倍近く多いことがわかったのです。
発達障害の子どもは、同年代の子どもたちからいじめられたり仲間はずれにされるという経験の中で、人格を形成していくのです。二次障害が起こりやすい素地がここにもあると言えます。

想像をたくましくすると、いじめで自殺に追い込まれてしまった子どもの中に、発達障害の特徴のある子がいたのではないでしょうか?
もしそうだとすれば、周囲の大人は発達障害の特徴のある子どもが、いじめの対象になっていないか、注意深く見守ることで、いじめで追い詰められる子どもを、最悪の帰結から守ることができるかもしれないのです。

参考文献 Twyman KA et al. Bullying and Ostracism Experiences in Children with Special Health Care Needs. J Dev Behav Pediatr 2010
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発達障害に関するほとんどの書物、講演、ウェブサイトで、発達障害が近年増えていることが当然の事実として語られています。確かに、私のよく知っている障害児医療センターでも、かつては多かった脳性まひやてんかんなどの子どもの受診率が激減し、発達障害の子どもが受診の大部分を占めているといったことを聞くと、本当に増えているのかなと思います。私が細々と続けている小児神経外来でも、てんかんや脳性まひの子どもは1割以下にまで減っていますので、発達障害の受診者が増えていることは間違いありません。

それでも私の心のどこかに、本当は増えていないのではないか、というささやきが聞こえるのです。

ささやきは気まぐれではなく、それなりの根拠から生じています。

第一に、発達障害はまだ十分にその原因は分かっていないのですが、世界中の研究者が、遺伝子が関連していることをほぼ認めているという事実があります。自閉症スペクトラムや注意欠陥多動性障害では、ゲノムワイドアソシエーションスタディ(genome-wide association study: GWAS)、という大掛かりな遺伝子研究が行われています。1,000人近い、診断が確実な自閉症スペクトラムや注意欠陥多動性障害の人から遺伝子サンプル(血液、頬粘膜など)を提供してもらい、そのゲノム(遺伝子)配列を、多数の定型発達の方と比較するのです。その結果複数の候補遺伝子が見つかってきています。

人の遺伝子配列は、数十年で変化するものではありません。発達障害が遺伝子によるものだとすれば、最近になって増えるということはありえないのです。

もっとも、最近は遺伝子を構成する高分子化合物であるデオキシリボ核酸(DNA)に化学的な結合が起こることで、遺伝子自体は変化しなくても、遺伝子情報の発現(たんぱく質の合成)が変化することがわかってきており、それが発達障害増加の原因だ、といっている研究者もいるのは事実ですが・・・。

最近肥満が増えている、あるいはがんが増えているという場合には、多くは国や大きな研究機関が長年行っている疫学調査がその根拠となります。しかし発達障害については、経年的な疫学調査はまだないのです。

もう一つの根拠は、発達障害という診断名が、過剰につけられているという現状です。私の外来に、幼少時に自閉症スペクトラムという診断をうけた子どもがよく受診されます。多くは親御さんが診断に疑問をもって来られるのですが、私の外来に自閉症スペクトラムという診断に関する「セカンドオピニオン」を求めて受診される子どもの数割は、自閉症スペクトラムではなく、気質で説明できたり、発達の個人差の中に含まれる子どもたちなのです。

私の診断が甘いのかもしれませんが、言葉の遅れや集団に入りにくい、あるいはちょっとしたこだわりがあると、すぐに自閉症スペクトラムと診断名をつけてしまう専門家が、自閉症スペクトラムを含む発達障害を「増やしている」のではないかというささやきが聞こえてくるのです。

発達障害の外来受診者の増加の真の原因は、発達障害の社会的認識が増えたことと、一部は過剰診断なのではないか、というのが私の偽らざる感想です。

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教養ってなに?

2016年4月15日掲載
以前、なぜ勉強することが必要か、子ども達に短いメッセージを書いてくれと頼まれたことがあります。私は「知識があれば、それだけ人生の選択肢が増える」といったようなメッセージを書いたことを覚えています。

現在盛んに、従来の一斉授業ではなく、アクティブラーニングだとか、反転学習といった学習の工夫がなされているのも、多くの子どもが勉強することへの動機付けがうまく行かないという背景があると思います。

幼少の子どもであれば、どうして勉強するの、という問いへの回答は比較的容易です。以前本ブログでも紹介した自尊感情(自己肯定感)に絡めて説明できるからです。「勉強してくれると、お母さん(お父さん)はうれしいな」とか、「一生懸命勉強して良い点を取ると、皆からすごいなあ、って言われるよ」といった説明で、多くの子どもは納得します。

しかし、子どもが大きくなって学校での授業が難しくなり、宿題やテストといった精神的ストレスが大きくなってくると、自尊感情を喚起する方法はあまり効果がありません。ましてや、義務教育だからとか、子どもの本分は勉強することだ、といった決まりきった説明では子ども自身が納得しなくなります。

そんな時に使われる「勉強して教養がつけば、きっと将来いろいろ役に立つことがあるよ」という常套句があります。少し機転のきく子どもなら「教養ってなに」とか「将来っていつ?」と聞いて、大人を困らせているところです。恥ずかしながら告白すると、私はどうやらずっとこの常套句を信じて勉強してきたのではないかと思います。正直、中学高校のころは、教養の高い人の代名詞であるイギリスの紳士(ジェントルマン)のようになりたいと、まじめに(?)思っていました。

でも基本的に地主階級であり、生活のために働く必要がないジェントルマン(在郷紳士)が、なぜ教養のある人の代名詞になっているのか、これまで分からず仕舞いでした。

ところが最近、1800年代初頭の有名な女流作家ジェイン・オースティンの「マンスフィールド・パーク」という小説を読んでいて、ジェントルマン(そしてレディー)には教養がなければならない理由の一端が分かったような気がしました。

オースティンの描く登場人物の会話は、彼女の実際にあった会話の膨大なメモに基づいて書かれているとされていますので、事実をかなり正確に反映しています。

さて、働く必要のない地主階級の人々は、領地の管理や議員などの名誉職の仕事以外は、お互いに屋敷を訪問したりして有り余る時間を過ごしていました。知人の屋敷を訪問すると、数週間から時には数ヶ月逗留するのが普通だったようです。男性は狩猟をし、女性は編み物をしながら世間話、そして一堂に会してダンスをしたり、楽器演奏を披露したりして過ごしました。

そのような有り余る時間の中では、豊富な話題を提供したり、相手の話にあわせるだけの様々な知識や、皆に披露できる歌や楽器演奏、詩の暗唱などが、ジェントルマンやレディーとして振る舞うために必要不可欠だったのです。

「マンスフィールド・パーク」の中に、当時のレディーの候補者である幼い姉妹の会話がでてきます。田舎から来た従姉妹の女の子(「マンスフィールド・パーク」の主人公のファニー)のことを母親にむかってこんな風に話しています。

「ねえママ、ちょっと考えてもみて、私の従姉妹のファニーは、ヨーロッパの地図を合わせることもできないのよ。それに、ロシアの大きな川の名前もいえないし、小アジアといってもどうだかわからないの。それにクレヨンと水溶性色鉛筆の区別もつかないのよ」「ほんとうにこんな馬鹿な子がいるなんて聞いたことがある?」

この田舎からでてきた従姉妹のファニーが、すばらしい女性に育ってゆく過程が「マンスフィールド・パーク」のストーリーです。

さて、ファニーのことは置いておくとして、このエピソードが語っていることはなんでしょうか。

私の勝手な解釈かもしれませんが、私がかつて憧れたジェントルマン(あるいはレディー)の教養とは、結局当時の地主層にとって現実生活で必要な知識だったということではないでしょうか。中学高校時代の私は、受験勉強などで暗記する知識の切れ端(世界の地図、川の名前、歴史事実など)は、「真の教養」とは全く違うものであると信じていました。でも、少なくとも私が憧れたイギリスのジェントルマンの「教養」は、私が受験勉強で覚えた詰め込み知識とそんなに変わらなかったのではないか、と今になって思います。社交界でうまく振る舞うことも、試験に合格することも現実生活に必要な業であるからです。


皆さんは、私のやや偏った「教養」論をどう思われるでしょうか。
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勇気の出る言葉

2016年1月15日掲載
私がまだ小学生だったころ、「若い日の一日一言」(青春出版社1961年、宇野一編、武者小路実篤監修)という本が家にありました。父が編者の旧制高校時代の友人だったのでもらったのだと思います。一年の365日それぞれの日に一言ずつ選んで、古今東西の著名な人とその人の言葉を説明した本です。多くはその人の誕生日や命日に当たる日にちなんで、半ページほどの簡単な説明がなされていました。「きけ わだつみのこえ」などについて初めて知ったのは、この本を通じてだと思います。内容はほとんど覚えていませんが、結構気に入った言葉をこの本の中で見つけたことを覚えています。

私は取り立てて、名言や 箴言 しんげん に関心があるわけではありませんが、折に触れて思い出す勇気や知恵を与えてくれた言葉があります。人それぞれ生き方は違いますから、他人が好きな言葉には別に関心ない、という方もいると思いますが、新年のブログということで御容赦いただき、紹介させてください。

私のような子どもでも、そのニュースを聞いて震撼したのが、1963年のケネディ大統領暗殺の事件です。以前にこのブログでも御紹介した大統領就任演説は、その当時から口ずさんでいた大好きな言葉です。個人の主体的な行動を呼びかけた「Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country」は、後日私が国際学会の会長に選ばれた時の就任の挨拶で、country を association(学会)に置き換えて無断(?)使用してしまいました。もっとも、誰もケネディ大統領の言葉のもじりであることには気がついてくれませんでしたが。

アメリカ留学時代、実験がうまく行かずに落ち込んでいると、アメリカ人の同僚がよく「It's not the end of the world.(この世の終わりっていうわけじゃないんだから)」といって慰めてくれました。これも確かに元気の出る言葉ですが、先人にはすごい人がいるのだと感心させられ、今でも落ち込んだときのためにとってあるのが、宗教改革で有名なドイツのマルチン・ルターの以下の言葉です。「私はたとえ明日世界が滅びることが分かっていても、リンゴの木を植え続けるだろう」。リンゴの木を植えることを、彼の宗教運動にたとえたものです。リンゴの木に実がなるのは何年も先のことです。明日世界が終われば、努力は無駄になってしまいます。それでも、というルターの根性には正直頭が下がります。

最後に、勇気の出る言葉ではありませんが、科学的実証精神の鑑として最も尊敬している科学者であるチャールズ・ダーウィンの言葉を紹介したいと思います。それは「Ignorance more frequently begets confidence than does knowledge」という英文和訳の試験にもなりそうな翻訳がやや難しい言葉です。「知識のない人は、知識のある人に比べて、より自信ありげに主張するものだ」という意味ですが、子どもについての事実に基づいた知見や考えを広く社会に紹介することをミッションとするCRN所長として、忘れずにおきたい言葉だと思います。
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「あなたは全く世間知らずなんだから」と言われたら、みなさんはどう思われますか?

まあ、目上の人や、年寄りから言われたら仕方ないけれど、同年輩の人から言われたら、ムッとする人が多いのではないでしょうか。ましてや、年下の人や、部下から言われたら、誰でも血圧が上がってしまいますね。

では、世間を知ることは、良いことなのでしょうか?世間をよく知っている子どもが周りにいたとしたら、きっと私たちは「生意気な子ども」と思ってしまうような気がします。つまり、子どもが世間を知ることは、手放しで良いことばかりではないようなニュアンスがあります。なぜなら、世間には子どもが知らない方がいいことがあるからです。

なぜこんな話を始めたのかは、最後までお読みいただければ分かりますが、最初に、本稿を書くことになった二つの別々のお話をいたします。

最初は、アメリカの文学作品の話です。前世紀初頭にアンダーソンという作家による「ワインズバーグ・オハイオ」という小説がアメリカで大ヒットしました。オハイオ州の小さな架空の街ワインズバーグの住民に起こる個人的な小さなエピソードを綴った作品です。その中に、「世間知」と邦訳された一章があります。ワインズバーグで育った若い幼馴染の男女が、次第に幼馴染の友達から、お互いを異性として意識しだし、男の子が大学に入学するために町を離れる直前に恋心を打ち明ける、というストーリーです。異性を意識するということを、アンダーソンは、世間知の一つとしているのは明らかですが、私がここで取り上げた理由は、世間知と翻訳された元の英語が「ソフィスティケーション(sophistication)」であるからです。現在ではアメリカでも「洗練されている」という意味に使われることが多いのですが、英語の辞書を見ると1920年頃までは「不純な、すれっからしの」という意味で使われていた言葉であると説明されています。アンダーソンは、異性を意識することを、そういう意味で捉えていたことが分かります。子どもは、大人になるに従って、ある意味で「すれっからし」になってゆくのだというやや 諧謔 かいぎゃく 的な意味が含まれていたのだと思います。

さて、もう一つのお話は、以前本ブログでも取り上げた子どもの自尊感情の話です。私は日本の子どもの自尊感情が、外国に比べて低いということが本当かどうか、アジアの数カ国と比較する研究をしていますが、そこで新たに明らかになった興味深い事実があります。この調査では、子ども自身(5歳)の自尊感情(自己肯定感)について全く同じことを子ども自身と、親に聞いています。その結果、一部の項目を除いて、子ども自身の自己評価が、親による評価よりも明らかに高いことがわかったのです。子ども自身は、親によるある意味で客観的な評価よりも、自分自身をずっと高く評価しているのです。世界中で行われた子どもの自尊感情に関する調査では、国によらず幼稚園あるいは保育園から小学校に入学すると、自尊感情ががくんと下がることが報告されています。親以上に、小学校教員は、子どものもつ能力を客観的に評価するのです。そういった環境の中で、子どもの自尊感情が低下するのです。世間知とは、世の中を知り、自分の相対的位置を知ることですので、子どもはよりソフィスティケートされることによって、自尊感情を下げてゆくのです。世の中を知る中で、子どもは幼い頃の有能感を失ってゆくのです。

どうですか、みなさん。ピーターパンの気持ちが、わかるような気がしませんか?
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