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所長ブログ

所長ブログでは、CRN所長榊原洋一の日々の活動の様子や、子どもをめぐる話題、所感などを発信しています。
私は現在も週に3回、複数の病院で小児科の診療を行っています。風邪や下痢といった子どもによくある病気も診ていますが、患者さんで一番多いのが、注意欠陥多動性障害や自閉症などの発達障害の子どもたちです。

発達障害には、注意欠陥多動性障害や自閉症の一部のように、薬による治療が効果的なものもありますが、多くは薬だけでは治療できません。そのため日常生活や学校生活上の困難に対する様々な助言も私の重要な仕事になります。

就学に関する相談をよく受けますが、普通学級、特別支援学級(学校)のどちらが良いのかという相談に次いで多いのが、主題の少人数クラスか、それとも普通の大人数クラスのどちらがいいのか、という相談です。

実際には、少人数クラスと大人数クラスを対等に並べてどちらが良いのか、という質問ではなく、「地元の学校では大人数クラスなので、少人数クラスを特徴としている別の学校に通わせるべきではないか?」という聞かれ方をされます。

その背景には、少人数クラスの方が、先生(教師)の眼が行き届き、丁寧な指導をしてもらえるという「一般常識」があるようです。専門家による発達障害の成書にも、そのように書かれていることが多いようです。また、発達障害の子どもは、普通学級より特別支援学級(学校)の方が良いという考えの最大の理由も、生徒数が少ないのでより丁寧に指導してもらえる、ということです。

私は必ずしもそうではない、と常々考えています。そして、上記のようなご相談に対してしばしば「大人数のクラスの方が良いと思います」とお話ししています。

理由はいくつかあります。

第一に、大人数のクラスのほうがそこにいる子どもたちの豊かな多様性に接することができることです。子ども本人にとってストレスとなるような個性の子どももいる反面、共感性が高くコミュニケーション能力の高い子どもたちがいる確率が高くなります。子どもは言葉や、人間関係の基礎を、子ども同士のかかわり合いの中で身につけてゆきます。親が使わない言葉回しを、教師からではなくクラスの子どもたちから身につけてゆくのです。また子どもの集団の中のローカルルールや、独特の符丁(スラング)も、集団の中にいることで身に付いてゆくのです。親や教師にとっては「変な言葉遣い」であっても、子ども集団の中では、それを使うことが仲間であることの証なのです。

第二の理由は、最初の理由の裏返しになりますが、教師の眼の届かない自律的な時間が多くなることです。どうしても上下関係となる教師と児童生徒の関係は、一方通行になることが多いのです。理由はどうあれ、教師の意に沿わない行動が多い子どもは、大きなストレスを感じるようになります。教師も他の児童生徒と同じく個性をもった人間です。クラスの中で仲のよくない子どもができるのと同様に、子どもと教師の関係が悪化することがあるのです。実際私が診ているお子さんの中には、子どもの行動が不適切なのではなく、教師との関係性の問題で悩んでいる子どもがいます。少人数クラスでは、教師と児童生徒の関係の悪化は致命的になります。大人数であれば、そうしたリスクは少なくなるのです。

第三の理由は、共感性のあるクラスの子どもたちが教師と恊働して、問題を抱えてしまった子どもに対応してゆくことができるということです。教師と意思疎通ができない子どもがいると、その子どもの意図を教師以上に理解し、教師と子どもの仲立ちをするような子どもが実際いるのです。私の診ている子どもの中にも、そうした子どもにサポートされている子どもがいます。「お友達が助けてくれるんです」という言葉を母親からよく聞きます。

少人数の方がよいという考え方は、子ども目線ではなく大人(教師)目線から出てきた考え方なのではないでしょうか。担当するクラスの一人一人の子どもの個性や問題点を把握したい、という責任感に裏付けされた考え方かもしれませんが、教室は当該の子どもと教師の関わりの場所であるだけでなく、子ども同士の多様な関わりの場であることを考えれば、大人数クラスの方が少人数より勝っている部分もあるのではないでしょうか。

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刺激的なタイトルですが、最近の私の正直な気持ちです。こんな気持ちをもつようになった直接のきっかけは3つあります。

以前から日本社会では、小さな子どものデジタルメディア使用に、懐疑心を抱く意見が強くありました。小児科医の団体のなかには、子育て現場からスマホやタブレット使用をできるだけ少なくしてゆこう、というキャンペーンを行っているものもあるくらいです。子どもを取り巻く新たな環境の出現に対して、子どもへの影響を注意深く見守ってゆくことは大切ですが、まだ明らかな事実がないのに警告を発することを、科学的な事実に基づいて行動する専門家の団体がおこなうことが適切かどうか、日頃疑問に思ってきました。

そんな私が、タイトルのような気持ちをもつようになった第1のきっかけは、CRNの名誉所長である小林登先生の後を引き継いで、デジタル絵本の国際賞を授与する団体の審査委員をお引き受けしたことでした。以前、国内の絵本の専門家を育てるカリキュラムの委員をしたことがありますが、絵本の専門家を育てるというその団体の主旨には、デジタルメディアの普及を憂える意見が表明されていました。つまり、(紙の)絵本の普及で、デジタルメディアの(悪い)影響から子どもを護りたいといった主旨だったのです。ところが、このコンテストで実際に世界中から何百点も応募されるデジタル絵本を初めて見た時に、さまざまなインタラクティブ(相互作用的)な工夫のこらされたデジタル絵本の美しさに感動しました。世界中の絵本作家たちが、紙の絵本では実現できない動きや音だけでなく、子どもや親が実際に画面に触ることによって、絵本の世界に関わってゆくことのできる仕組みを豊かな美術性と両立させているのです。絵本が提供する静止した視覚情報だけでなく、動画や音声、そしてインタラクティブな情報が提供できるデジタル絵本には、子どもの発達に資する大きな可能性があると思いました。

さらに、2つ目のきっかけとして、日本のデジタルメディアに対する概して後ろ向きの姿勢を強く感じさせる経験がありました。中国の貴陽という内陸部の都市で開催された、メディアと教育のシンポジウム「ネット時代の子どもとメディア」に参加したことです。まだ3回目という日の浅い学会が主催したものですが、中国の教育の専門家と、デジタルメディアの開発者や研究者が、デジタルメディアの教育における潜在的な役割について熱い議論を交わしていました。シンポジウム初日の夕方には、幼児教育専門家と、デジタルメディアのアプリの制作者などによる自由討論会が開催され、例えばアプリの制作者が、子どもの学習への意欲を増すようなアプリの内容について提案し、発達心理学や教育学の専門家と熱心に議論を重ねていました。また教育におけるデジタルメディアの実践研究の報告も行われ、中国におけるこの課題への高い関心がうかがわれました。テレビやゲームというと、子どもの学習を阻害する要因ととらえる風潮のある日本とは大きな差があると感じました。

このブログを書くきっかけの3つ目は、シンガポールの幼児教育者学会が、今年の秋に発表する予定の、幼児教育とコンピューターテクノロジーに関する立場表明(Position Statement)の草案を読んだことです。草案の内容については、まだ公にされる前なのでご紹介することは控えますが、その結びに書かれていた文章に、シンガポールの幼児教育の先進性がはっきり示されていると思いました。

「私たち(幼児教育者)には2つの選択肢しかありません。1つは新しい形態のテクノロジーに圧倒され、恐れおののき、そして無力化されてしまうという選択肢であり、もう一方は新しいテクノロジーを有利に、私生活や仕事を助ける強力な道具として使いこなすという選択肢です。」

こうしたアジア諸国のコンピューターなどの新しいテクノロジーと向かい合う姿勢を見るにつけ、日本が近い将来ガラパゴス化してしまうのではないかと心配になります。

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幼児教育における遊びの大切さは、よく知られています。フレーベルの影響を受けた日本の幼児教育では、遊びを中心とした実践が基本になっています。幼児教育の父であるフレーベルは多分直感的に、遊びの重要性を理解していたのでしょう。

なぜ、遊びは子どもにとってそんなに重要なのでしょう。ある幼児教育の理論家は、「それは、遊びが子どもの本質的な行動様式であるからだ」と説明しています。

私もかつて、ある保育園の園長さんに、なぜ遊びが大切なのですか、と聞いたことがありますが、その園長さんが、そうした質問をすること自体が理解できないという表情をされたことを思い出します。

小児科医である私は、医療においてエビデンスに基づいて判断することに慣れています。ですから、子どもにとって遊びが大切だ、というからには、子どもの発達に遊びが何らかの利得をもたらすエビデンスを知りたくなります。

アメリカの発達心理学者ハーシュ・パセック(Kathryn Hirsh-Pasek)先生は、遊びの中でもガイドされた遊び(guided play)が、子どもの認知発達や言語発達、あるいは社会性の発達を促進すると、多くのエビデンスをもとに主張しています。これまで、遊びが子どもの発達に及ぼす影響については、ハーシュ・パセック先生のような明確な立場の方はあまりいなかったので、密かに注目していました。

最近、早期育児支援の意味について講義をすることを求められたため、乳児期の遊びのもつ意味についての過去の研究を探していたところ、イギリスのスーザン・ウォーカー(Susan Walker)さんが、カリブ海のジャマイカで長年にわたって行ってきている研究論文に行き当たりました。今回はそれをご紹介します。

ジャマイカでは、以前から身長の伸びや体重の増えの悪い子どもの、その後の発達が良くないという調査結果がありました。そうした体の小さい子ども(stunted children)の原因には、低身長のようにホルモン異常のあるものもありますが、多くは乳児期からの低栄養と考えられていました。そこで低栄養状態の子どもの多い低所得家庭の乳児に、粉ミルクを配給するという事業が行われることになりました。低所得家庭で生後9ヶ月から24ヶ月の乳幼児のいる家庭に、1週間に1kgの粉ミルクを2年間無償で配給することになりましたが、家庭訪問をして粉ミルクを届ける保健師が、その時に2時間、親も交えて子どもと遊んでみてはどうか、とウォーカーさんは考えたのです。

対象となる身長が平均より2SD(標準偏差)以上低い子ども(129名)を、「ミルクの配給だけ」、「ミルクの配給と2時間の遊び」、「2時間の遊びだけ」、「なにもしない」、の4つのグループに分けました。また同年齢の身長が低くない乳幼児(84名)も対照として調査対象に加えました。5つのグループの子どもたちのうち、17歳〜18歳まで追跡することができた167人の青年に対し、ウォーカーさんは包括的な発達心理検査を行いました。詳細は省略しますが、知能検査、記憶力検査(ワーキングメモリーの検査)、語彙数、読解力、図形描写力、数学力などについて、5つのグループで比較したのです。

結果は驚くべきものでした。「ミルク配給のみ」、「なにもしない」、のグループの子どもたちは、身長の低くない対照と比べて、すべての検査で得点が統計的に有意に低かったのですが、乳幼児期に1週間に2時間遊んでもらった青年は、知能検査に含まれる3つの小項目(言語類推、言語知能、総合知能)以外は、身長が低くない対照と差がありませんでした。また、「ミルク配給のみ」のグループに比べて、ワーキングメモリーなどの3項目以外は、乳幼児期に遊んでもらった青年の方がスコアが有意に高かったのです。

ウォーカーさんは、さらにこの青年たちが22歳になるまで追跡しました。その結果、乳幼児期に遊んでもらった青年は知能が高く、一般知識が多く、さらに教育歴が高いだけではなく、大きな喧嘩歴、暴力行為が少なく、うつになる率が低かったのです。

この研究で重要な点は、遊んでもらった時期は2年間だけ(1週に2時間、計200時間)であり、遊びは特別なものではなく保健師が普通に遊んであげただけだ、ということです。特殊な英才教育を行ったのではないのです。

さあ、皆さんどう思われますか。私は、乳幼児期の遊びは、その子どもの人生を変えてしまうほど大きな力をもつ、といっていいのではないか、と思いました。


参考文献
  • Susan P Walker, Susan M Chang, Christine A Powell, Sally M Grantham-McGregor. Effects of early childhood psychosocial stimulation and nutritional supplementation on cognition and education in growth-stunted Jamaican children: prospective cohort study. Lancet 2005; 366: 1804-07
  • Susan P. Walker, Susan M. Chang, Marcos Vera-Hernández, Sally Grantham-McGregor. Early Childhood Stimulation Benefits Adult Competence and Reduces Violent Behavior. Pediatrics May 2011, vol. 127 Issue 5
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フンザの泥おむつ

2017年6月 9日掲載
おむつ(使用)とトイレトレーニングは、人間の歴史や文化と、子どもの発達が密接に結びついた営為であり、子育てや子どもの発達とは切り離して考えることのできない事柄です。

おむつとトイレトレーニングに関する大きな課題にはこれまでに以下のようなものがありました。

「布おむつか紙おむつか?」
「おむつ外しか、おむつ外れか?」
「トイレトレーニングの最適な開始時期は?」

最初の「布おむつか、紙おむつか?」は今ではあまり顧みられないテーマですが、私がまだ駆け出しの小児科医のころは、マスコミを巻き込んだ大きな問題でした。子育ての専門家が、布おむつ派と紙おむつ派に分かれて大議論を展開していました。布おむつ派曰く、紙おむつではおむつ外れの時期が遅くなる、資源の無駄遣いや環境汚染につながる、母親が子どもの便の様子を観察しなくなるなど、侃々諤々の議論がありました。最も強い反対意見は、肌触りがさらさらの紙おむつでは、濡れても不快感がなく、おむつ外れが遅くなるというものでした。その後、実際に調査が行われ、紙おむつがおむつ外れの遅れにはつながらないことが明らかになりましたが、当時は大きな課題でした。

二つ目の「おむつ外れか、おむつ外しか?」は、初めて聞かれた方もおられると思います。おむつ外しは、その主語が母親であるのに対し、おむつ外れは、主語がおむつであるという違いがあります。これはある著名な小児科医が、おむつ外しというと、子育てのストレスを感じている母親が「いつ(自分が)外さなくてはならないのか」とさらにストレスを感じてしまうので、おむつはとれる時に(自然に)とれるようになるのですよ、という母親を気遣った言葉使いとして推奨してから広まったものです。私は、そうは言っても、そもそもおむつをさせるのは親であり、子どもが自分からおむつを外すことはないので、事実と反するし、正しい情報ではなくリップサービスなのではないかと反論した覚えがあります。いまはどちらの言葉使いが主流になっているのでしょうか。試しに、グーグルで検索したところ、「おむつ外れ」は59万件、「おむつ外し」は49万件と、両者伯仲しているようで、私のむなしい反論はあまり効果がなかったようです。

おむつ外し(外れ)の最適な時期と方法については、たくさんの科学的な検証研究があります。ここでは詳細に触れることはできませんが、世界中で次第にトイレトレーニング開始時期が遅くなってきていること、トイレトレーニングの開始時期が早ければ、おむつ外し(外れ)の時期は少し早くなるが、トイレトレーニングの期間が長くなること、などが明らかになっています。アメリカ小児科学会がまとめた研究では、トイレトレーニングの最適な開始時期は、何歳何カ月という子どもの年齢で決めるのではなく、子どもの発達段階を目安に決める方が合理的である、という結果もでています。

さて、このようにおむつやトイレトレーニングは、子育てにとって重要な事柄であり、また発達に関連した科学的な行為に思えますが、タイトルの「フンザの泥おむつ」はそうした常識を覆すような経験でした。

前回ブログで書きましたように、私の青春時代は山とともにありました。その集大成が、臨床研修を終わってすぐの26歳の時に、カラコルムのバツーラという山(標高7800メートル)へ登った東京都庁の登山隊に、随行医師として参加した経験です。

パキスタン北部のカラコルムには、世界第二の高峰であるK2などがあり、また高峰に囲まれた谷間のフンザ地方には、昔ながらの風習が色濃く残った伝統的な人々の生活があります。

私の仕事は登山メンバーの健康管理と通訳でしたが、パキスタン政府から国境近い地域の山への入山許可の条件として、地元の村民から医療の要請があった場合は、できる範囲で対応することが求められました。

空港のあるラワルピンジーから、飛行機でゆける最奥の町であるギルギットまで小型機で行き、そこから足のすくむような断崖絶壁の上の道を一日かけてジープで行った小さな山村が登山のスタート地点でした。そこから、谷に沿って5日かけてベースキャンプまで行きましたが、毎朝、登山隊(荷物を運ぶポーターをいれると100人以上の大部隊)のキャンプ地の周りには「本物」の医者に見てもらおうと100人位の村民が集まってきていました。とても私1人では100人診察できませんので、数の多い目の疾患(ほとんどが結膜炎)は、登山隊員の中に「目医者」を指定し目薬をさしてもらい、同様に多い切り傷、擦り傷は、「外科医」を指名し、消毒と抗生物質軟膏の塗布をしてもらいました。

私はそれ以外の訴えの村民を、通訳を通して診察しました。「本物」の医者に見てもらいたいだけの人もおり、受診理由を聞くと「その胸にかけている器具(聴診器)を自分の胸にあてて欲しい」とか、「足が悪くて歩けない」という訴えなのに、山向こうから峠を越えてやってきた人がいたりなど、日本では絶対にない貴重な経験をしました。

下痢をしている乳児も何人も診ましたが、そこで今回の主題である「泥おむつ」に出会ったのです。

下痢の診察は、便を見ることが必須です。下痢の乳児をつれてきた父親(母親は異教徒の前には姿を見せません)が、ヤギの皮やぼろ布でできているおむつカバーを外した時に、今でも私の目に焼き付いている光景が飛び込んできました。乳児の腰のあたりが、真っ黒な泥にくるまれているのです。「え、これが全部便!?」とびっくりしてよく見ると、それは尿や便を吸い込んで真っ黒になった泥だったのです。フンザ地方は乾燥地帯で、地面の土はフカフカに乾燥しています。尿や便でしめった泥を取り除き、代わりにさらさらの土を入れたおむつだったのです。見かけは汚いのですが、不潔というわけではなく、さらさらの土のおかげで、乳児のお尻は乾燥した状態に保たれ、おむつかぶれを防ぐ、経済的なおむつだったのです。

布おむつか紙おむつという二者択一しか頭になかった私にとって、大きなカルチャーショックであるとともに、日本で常識と思われていることが、かならずしも世界では通用しないことを知った貴重な経験でした。

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パキスタン・カラコルムにて

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自然的知能

2017年5月12日掲載
ハーバード大学のガードナーは、1983年にそれまでの知能(IQ)の概念を打ち破る「多重知能」説を打ちだしました。人の知能は、いわゆる知能指数(IQ)で示される知能だけではなく、7つの異なった知能に分類することができるというものです。近年の脳科学による脳機能の解析方法の進歩によって、ガードナーの多重知能は支持されています。

ガードナーが提唱した7つの知能とは、①論理数学的知能、②言語的知能、③対人的知能、④内省的知能、⑤身体運動的知能、⑥音楽的知能、⑦空間的知能です。提唱時は7つでしたが、ガードナーはその後「自然的知能 naturalistic intelligence」(あるいは博物的知能)という第8の知能を付け加えました。

この自然的(博物的)知能とは、自然の中にいて、自然界の仕組みとそれが人に及ぼす影響や、それらに対応するための行動を司る知能です。私たちは人工的に調整された屋内や都市の中で生きてゆくことについての知識(知能)があっても、大自然のなかではそれだけでは不十分です。

例えば山の中で、雲行きが怪しくなったら、どこかに避難しなくてはなりません。コンビニやレストランがないところでは、食物や調理用具を携帯するだけでなく、自ら食物を調達(木の実や果実の採取、釣魚、狩猟)してゆくことも必要になります。

先日日本のスキー場で、ドイツ人らがゲレンデ外の雪の中で遭難するという事故がありました。不幸な結果にならなければ良いが、と心配していましたが、翌日無事に生還しほっとしました。

ドイツを初め北ヨーロッパの国には、森の幼稚園とよばれる幼稚園がたくさんあります。徹底した園では、園舎はなく一年中森の中で過ごすそうです。そこで園児たちは、雨がふればどのくらい寒いのか、夕方になると森の中はどんなに暗くなるのかといった知識や、食べられる木の実、食べてはいけないキノコなどについて体験を通じて自然的知能を伸ばしてゆきます。

遭難したドイツ人も、もしかすると森の幼稚園に通った経験があったのかもしれない、などと思いを巡らせました。


私事になりますが、私は大学生時代ワンダーフォーゲル部に所属し、一年を通じて山登りをしていました。ワンダーフォーゲル活動は、ドイツに始まった山だけでなく野原を何日も歩いて過ごす活動ですが、日本の大学のワンダーフォーゲル部は、ほぼ山岳部と同義です。一年を通じてと書きましたが、実際に年間何日くらい山の中でテント生活をしていたか数えてみたところ、約60日も過ごしていました。私の所属していたワンダーフォーゲル部の基本活動方針は、道のない山に登ることでした。登山道を歩くのではなく、地図と磁石を片手に、猛烈な薮を漕ぎながら1週間くらい尾根や沢を遡行するのです。また緊急事以外は、コンロは使わず、枯れ木や倒木を集めて火をおこし、沢からくんできた水で米を炊いて食事をしました。薮が濃いところでは、一時間に100メートルくらいしか進めませんし、一番近い登山道まで数時間かかるので、悪天候だからといって下山することもありません。動かずそこでやり過ごす方が安全だからです。

こんな不便な登山でしたが、夜星空を見ながら、藪の中で寝ていると、えも言われぬ自然との一体感を感じました。こうした体験の中で、山の地形や天気、動植物に関する理解が深まりましたが、今から思うと私の自然的知能を大いに発達させた経験だったのかもしれません。


今でも時々、尾瀬ヶ原の背景にある山のさらに向こう側にある大白沢の池で過ごした一日のことを思い出します。大白沢の池まで行く道はもちろんなく、少なくとも2日猛烈な藪漕ぎをしなければたどり着くことはできません。周りに湿原のある、自分たち以外誰もいない天上の楽園で、真っ青な空を行く雲と、満天の星を見ながら寝転がって時間の経過を忘れて過ごしました。

池の向こう側の薮の奥でガサガサいう音が聞こえ、熊か、と身構えたところ、薮をかき分けて登山靴ならぬ地下足袋をはいた京都大学探検部の一団が現れたのも、忘れ得ぬできごとでした。

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学びに向かう力

2017年4月14日掲載
私事ですが、この3月で大学を定年退職しました。年度末の繁忙と引き継ぎなどで、しばらくこのブログを書く時間もとれませんでした。今日から、新たな気持ちで、人生の第3クオーターを開始しますので、よろしくお願いします。


さて、今回のテーマの「学びに向かう力」は、ベネッセ教育総合研究所が、social-emotional skills(社会情動的スキル)というやや固い用語を一般の方に分かりやすくするために考案した用語です。

子どもを含めて私たちが、言葉や人間関係のルールだけでなく、学校で教科を学ぶために必要な能力は何でしょうか?すぐに思いつくのは、知能です。文字を読んだり計算したり、あるいは記憶したりする能力の中枢は、大脳皮質と呼ばれる脳の表面にあります。皆さんも、側頭葉に聴覚性言語中枢があるとか、前頭葉には運動性言語中枢がある、といった記述を見たり聞いたりしたことがあると思います。また、記憶には海馬という脳の奥にある部位が関連していることもご存知かもしれません。海馬は脳の奥にありますが、これも大脳皮質の一部なのです。

こうした脳の部位(大脳皮質)が、言語学習や記憶など知能の大事な働きに関連していることは間違いありません。こうした能力は、心理学では「認知能力」と呼ばれており、これまで脳科学者や心理学者が、学習や教育との関連で関心をもって研究してきました。

ところが、近年の研究や調査によって、認知能力が発達するだけでは、効果的な学習はできないことが分かってきたのです。

そうした研究の嚆矢は、ウォルター・ミシェルという心理学者が行った、俗に「マシュマロテスト」と呼ばれる実験です。

5歳くらいの子どもの前にマシュマロをおいて、「すぐに食べていいよ。でも、5分間我慢したら、もう一個マシュマロをあげるね」と言って、子どもを一人きりにします。すぐに食べてしまう子どもと、我慢して待ってもう一個もらう子どもに分かれますが、ミシェルはこの実験の10年後に、実験に参加した子どもたちの詳細な心理テストを行いました。5歳時点での子どもたちの知能(IQ)は、すぐに食べてしまった子どもも、待てた子どもも同じですが、10年後に調べると、学業成績だけでなく、社会性や共感能力など、すべて「待てた」子どもの方がよい成績を納めたのです。

この「我慢できる」能力こそ、社会情動的スキルの一つであり、「学びに向かう力」の一部なのです。学びに向かう力は、教室で教師が黒板に書いた内容を一生懸命写し、記憶することでは身に付きません。では、どうやって、身につけることができるのでしょうか?

実は、まだよくわかっていないのです。世界中の教育や心理学、脳科学の研究者が、その回答を必死に追い求めているところです。


さて、昨年の秋に、日本子ども学会の学術集会が、浜松で開催されました。その基調講演で、安西祐一郎さんが話されたことをご紹介します。安西さんは、中教審の委員長をつとめ、また今は日本学術振興会の理事長をされています。いわば、日本の教育や研究の大方針を決定する重要な位置におられる方です。

講演のタイトルは「未来に生きる子どもたちのために―おとなは何がしたいのか?」でした。

皆さんは、このタイトルをみて、おやっと思いませんか?私も、サブタイトルは「おとなは何をすべきか?」ではないのか、と思いました。しかし、実際にお話を伺って、安西さんはこの「何をしたいのか?」に大きな気持ちをこめていたことが分かりました。

何をすべきか、と何をしたいか、の差はなんでしょうか?些細な差のように見えます。しかし、この2つの疑問には心理学的にも、脳科学的にも大きな差があります。

「何をすべきか?」という問いに応えるためには、自分が置かれている状況を分析し、その結果から「自分には何が求められているのか」を導きだす必要があります。この分析的な頭の働きは、まさに認知的な過程です。

翻って、「何をしたいのか?」という問いに応えるためには、自分に何が求められているのか、分析する必要はありません。自分の内面からわき上がってくる気持ちに従って、決定すれば良いのです。内面からわき上がって来るのは、単純な知識ではなく、情動そのもの、あるいは情動で色濃く染められた知識です。


安西さんの詳しい話の内容は忘れましたが、瀬戸内海の小豆島に住む子どもたちの実話を使って、子どもたちも「するべきことをする」のではなく、「やりたいことをする」方がいいのだ、というメッセージが込められていました。


まさに、学びに向かう力についてのお話だったのです。

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変わらないもの

2017年1月13日掲載
明けましておめでとうございます。本年もCRNをよろしくお願い申し上げます。

昨年2016年は、世界に大きな変化のあった年でした。紛争や戦争の絶えない世界を解決する人類の大きな実験の一つとみなされていたヨーロッパ連合(EU)に、大きな亀裂を生じさせる英国の離脱は、EU加盟国の国民だけでなく、世界中の人々を驚かせました。そしてアメリカの大統領選挙で、多くの人が確信していた結果と異なる結論が出ました。

私たちは、常に新しいものを求めながら、一方で急激な変化の前には尻込みしてしまいます。イノベーションを唱える一方で、自然破壊を嫌い、絶滅危惧種の保存に力を入れています。

社会や自然といった私たちの棲む環境だけでなく、私たち自身も経験によって変わっていきます。日本では毎年虐待が増えてきています。また増え続けるいじめや不登校なども、育児や教育に関わる人々にとって悩ましい事態です。このまま行くと子どもはどうなってしまうのだろう。そしてその子どもたちが大人になる未来はどうなってしまうのだろう、という危惧を感じるのは、私だけではないと思います。

しかし、世の中に心配の種がいかに増えて行こうとも、何百年何千年と変わらない人々がいます。それはどんな人々で、どこに住んでいるのでしょう。

それは皆さんの周りにいる、小さな子どもたちです。

世界中のどの国、どのような境遇の家庭に生まれようとも、ヒトの赤ちゃんは、全て初めて経験する世界に旺盛な好奇心で関わっていきます。どのような家族の元に生まれようとも、自分の世話をしてくれる人との間に強い愛着関係を築いていきます。

不幸な経験を記憶として溜め込んで行く大人が増え続ける世の中であっても、新たにこの世に生を受けた赤ちゃんは、新鮮な気持ちでこの世の中に生まれ出てくるのです。いわばこの世界は赤ちゃんの誕生によって、ミクロレベルでリセットされ続けているのです。

変化の多い2016年でしたが、新しい2017年を迎え、赤ちゃんのもつ世の中を浄化する力を改めて思い出すとともに、CRNの原点にある「子どもは未来である」という言葉をかみしめたいと思います。

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おんぶ再考

2016年11月 4日掲載
昔はおんぶは日本のどこでも良く見られましたが、最近はほとんど見ることがなくなりました。代わりに、子どもの顔をみることができる対面抱っこが推奨されています。

私はひそかに、おんぶには子どもの社会性を涵養する効果があると思っていますが、江戸時代に子どもをおんぶする母親や父親、あるいは年長の兄弟を見た、ヨーロッパやアメリカの知識人は、大いに驚き、感激しています。彼らの残した文章を読むと、単に驚いただけでなく、そのおんぶの優れた効用にも気づいています。

大森貝塚の発見で有名なモースは、1877年に来日し、海洋生物の研究をしています。彼の日本での生活を書いた「日本その日その日」(東洋文庫)では、当時の日本人の生活の様子の生き生きとしたスケッチを残しています。彼のおんぶに関わる文章を紹介しましょう。

「この子どもを背負うということは、至る処で見られる。婦人が5人いれば4人まで、子どもが6人いれば5人までが、必ず赤坊を背負っていることは誠に著しく目につく。(中略)赤坊が泣き叫ぶのを聞くことはめったになく、又私は今迄の所、お母さんが赤坊に対して癇癪を起こしているのを一度も見たことはない。私は世界中に日本ほど赤坊のために尽くす国はなく、また日本の赤坊ほどよい赤坊は世界中にないと確信する」(同書11ページ)

「いろいろな事柄の中で外国人の筆者たちが一人残らず一致することがある。それは日本が子供たちの天国であるということである。」(同37ページ)

「小さな子供を一人家に置いて行くようなことは決してない、彼等は母親か、より大きな子供の背中にくくりつけられて、とても愉快に乗り廻し、新鮮な空気を吸い、そして行われつつあるもののすべてを見学する。日本人は確かに児童問題を解決している」(同69ページ)

このようにモースは、こちらが恥ずかしくなるくらい、日本のおんぶを称賛しています。

モースだけでなくほかの外国人も、おんぶに大きな感動を覚えたようです。イギリスのジャーナリスト、アーノルドは "Seas and Lands" の中で、おんぶによって「あらゆる事柄を目にし、ともにし、農作業、凧あげ、買物、料理、井戸端会議、洗濯など、まわりで起こるあらゆることに参加する。彼らが四つか五つまで成長するや否や、歓びと混じりあった格別の重々しさと世間智を身につけるのは、たぶんそのせいなのだ」と述べています。

子どもの社会性の発達のなかで重要な役割を果たしている行動に「共同注視」(ジョイントアテンション)があり、発達心理学の重要な研究対象になっています。アーノルドの指摘は、まさにおんぶによる共同注視が、子どもの社会性の発達を助けていることの描写に異なりません。

私は、単なる郷愁としてだけなく、子どもの社会性発達の大切な場を提供する子育て方法としておんぶがあるのではないか、とひそかに思っています。
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発達障害の子どもといじめ

2016年9月16日掲載
いじめによる子どもの自殺のニュースをきくと、本当にいたたまれない気持ちになります。
マスコミの関心の中心は、誰がいじめの張本人だったのか、どうして周りが気がつかなかったのか、ということに集中していますが、亡くなられた本人がどのような子どもだったのか、ということについては、個人情報保護のこともあり、ほとんど何も伝わってきません。

私はいじめや、いじめによって追い詰められた子どもたちに想いを馳せる時に、いつも心に浮かぶことがあります。それは発達障害のことです。

発達障害といじめ、と聞くと読者の皆さんは、どのように思われるでしょうか?
いじめというと、真っ先に思いつくのは、注意欠陥多動性障害(ADHD)の子どもです。診断基準(DSM-5)の多動・衝動性の項目には、「しばしば他人を妨害し、邪魔をする」と書かれていますし、陥りやすい二次障害である反抗挑戦性障害の診断基準にも、「しばしば故意に他人を苛立たせる」「しばしば意地悪で執念深い」と書かれています。これだけ読むと、注意欠陥多動性障害の子どもには、いじめっ子が多いのかな、と思いたくなります。
もう一つ思いつくのは、自閉症スペクトラムの子どもです。皮肉やお世辞の理解に困難があるので、ぎこちない人間関係の中でいじめのターゲットになりやすいような気がします。

発達障害の子どもといじめと仲間はずれについての興味深い研究をアメリカのトウィマン(Twyman)さんという研究者が行っています。
そこで明らかになったのは、発達障害といじめの間には極めて密接な関連があるという事実です。以下の表をみてください。アメリカでは、定型発達の子どもの中で、いじめっ子、いじめられっ子、そして仲間はずれにされた経験のある子どもは、それぞれ全体の約7-9%であることがわかります。

chief2_26_01.jpg では、私の最初の想像は正しかったのでしょうか?表を見ると、私の想像とは全く逆で、注意欠陥多動性障害のある子どもの中で、いじめっ子の割合は定型発達児と有意な差はなく、いじめられっ子の割合が定型発達児の3倍以上になっていることがわかります。仲間はずれに至っては、約28%と約4人に1人は仲間はずれの経験があることがわかります。
私の第2の想像は、その通りで当たっていました。自閉症の子どもは注意欠陥多動性障害の子どもと同じく、定型発達児と比べていじめられっ子の割合が3倍近く多いことがわかったのです。
発達障害の子どもは、同年代の子どもたちからいじめられたり仲間はずれにされるという経験の中で、人格を形成していくのです。二次障害が起こりやすい素地がここにもあると言えます。

想像をたくましくすると、いじめで自殺に追い込まれてしまった子どもの中に、発達障害の特徴のある子がいたのではないでしょうか?
もしそうだとすれば、周囲の大人は発達障害の特徴のある子どもが、いじめの対象になっていないか、注意深く見守ることで、いじめで追い詰められる子どもを、最悪の帰結から守ることができるかもしれないのです。

参考文献 Twyman KA et al. Bullying and Ostracism Experiences in Children with Special Health Care Needs. J Dev Behav Pediatr 2010
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発達障害に関するほとんどの書物、講演、ウェブサイトで、発達障害が近年増えていることが当然の事実として語られています。確かに、私のよく知っている障害児医療センターでも、かつては多かった脳性まひやてんかんなどの子どもの受診率が激減し、発達障害の子どもが受診の大部分を占めているといったことを聞くと、本当に増えているのかなと思います。私が細々と続けている小児神経外来でも、てんかんや脳性まひの子どもは1割以下にまで減っていますので、発達障害の受診者が増えていることは間違いありません。

それでも私の心のどこかに、本当は増えていないのではないか、というささやきが聞こえるのです。

ささやきは気まぐれではなく、それなりの根拠から生じています。

第一に、発達障害はまだ十分にその原因は分かっていないのですが、世界中の研究者が、遺伝子が関連していることをほぼ認めているという事実があります。自閉症スペクトラムや注意欠陥多動性障害では、ゲノムワイドアソシエーションスタディ(genome-wide association study: GWAS)、という大掛かりな遺伝子研究が行われています。1,000人近い、診断が確実な自閉症スペクトラムや注意欠陥多動性障害の人から遺伝子サンプル(血液、頬粘膜など)を提供してもらい、そのゲノム(遺伝子)配列を、多数の定型発達の方と比較するのです。その結果複数の候補遺伝子が見つかってきています。

人の遺伝子配列は、数十年で変化するものではありません。発達障害が遺伝子によるものだとすれば、最近になって増えるということはありえないのです。

もっとも、最近は遺伝子を構成する高分子化合物であるデオキシリボ核酸(DNA)に化学的な結合が起こることで、遺伝子自体は変化しなくても、遺伝子情報の発現(たんぱく質の合成)が変化することがわかってきており、それが発達障害増加の原因だ、といっている研究者もいるのは事実ですが・・・。

最近肥満が増えている、あるいはがんが増えているという場合には、多くは国や大きな研究機関が長年行っている疫学調査がその根拠となります。しかし発達障害については、経年的な疫学調査はまだないのです。

もう一つの根拠は、発達障害という診断名が、過剰につけられているという現状です。私の外来に、幼少時に自閉症スペクトラムという診断をうけた子どもがよく受診されます。多くは親御さんが診断に疑問をもって来られるのですが、私の外来に自閉症スペクトラムという診断に関する「セカンドオピニオン」を求めて受診される子どもの数割は、自閉症スペクトラムではなく、気質で説明できたり、発達の個人差の中に含まれる子どもたちなのです。

私の診断が甘いのかもしれませんが、言葉の遅れや集団に入りにくい、あるいはちょっとしたこだわりがあると、すぐに自閉症スペクトラムと診断名をつけてしまう専門家が、自閉症スペクトラムを含む発達障害を「増やしている」のではないかというささやきが聞こえてくるのです。

発達障害の外来受診者の増加の真の原因は、発達障害の社会的認識が増えたことと、一部は過剰診断なのではないか、というのが私の偽らざる感想です。

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