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【読者参加型共同研究「日本、中国と韓国、何がどう違う?」】 第6回-⑨「あいまいな文化が固定的な物のように見える仕組み」

前回は人と人とのそれぞれのやりとりの中で、そのやりとりを成り立たせる前提になる「常識」として人々の間に生み出され、共有され、維持、変化していくもの、という視点で文化を考えてみました。現実問題、文化集団の境界など普通はあいまいですし、文化集団として機械的に決められた集団の中ではみんなが同じ「常識」をもつわけではなく、例外だらけですし、どういう「常識」をその文化の特徴と言うかについても人によって見解が違ったり、時と共にどんどん見方が変わったりもします。文化というのは、もともとがそういうものなのだと考えた方が、実態にもよく合っています(山本登志哉 (2013) 文化の本質的な曖昧さと実体性について:差の文化心理学の視点から文化を規定する 質的心理学研究 No.12 44-66)。
今回はこの「常識」というものが、本来曖昧なはずの集団を、境目が明確で固定的なものとしてイメージさせる仕組みについて考えてみます。

私たちは、自分のそれまでの経験の中で「常識的」とか「普通」と思っていたふるまい方や暮らし方からは予想もしなかった、とても異なるふるまいをしている複数の人々に出会ったとき、驚きを感じます。その人たちのふるまい方、暮らし方が自分とは違う別の常識によって行われていることを知ったとき、自分が実際に直接間接に出会った人々や場面は限定的なものなのに、なんとなくそれを共有する人々の広がりをその背後に感じ取ります。(図で言えば、こたつに入っている人たちの背後に、こたつに入っている人たちと同じような生き方をしている人々を予感する)

lab_08_39_01.jpg

そのように見えたとしても、その背後の人たちがどこまでの広がりをもつのかについては、実際はわかりません。「同じような生き方をしている人々」をどういう範囲の人たちとして思い浮かべるかは、さまざまな状況によって異なっていきます。たとえば、海外から日本に来た人なら、こたつに入っている人々を「日本」という枠で考えるかもしれません。沖縄から本州に来た人なら「やまとんちゅう」という枠で考える場合もありうるし、アイヌの方なら「しゃも」みたいな枠になるかもしれませんし、関西から東北に来た人なら「雪国」といった枠かもしれません。つまり、自分が直接体験した「その人たち」が「自分たち」と比べてどの集団に帰属していると感じるか、によって範囲が変わっていきます。その線引きはそういう意味で、あくまで当人(たち)の主観による便宜的なものとなります。

範囲はそんなふうにあいまいで流動的だとしても、大事なことは、そこでまず自分のもっている常識と異なっている人たちに出会い、そしてリアルにそこに存在する、異なる常識の「人々」のつながり、集団を感じ取るということです。

比較文化的な研究では、そのように「違う常識の人々」が見えてきたときに、あらかじめその範囲は決められないので、とりあえずなんとなくの推測でその人が住んでいる地域や、あるいは国、宗教の種別、母語の違いなどを手掛かりとして集団の範囲を設定して調べていくことになります。やはり便宜的なものなのですね。

ですから、「この常識はこの集団の人たちの特徴」と最初思っていたことも、調べていけばそれ以外のところにつながっていくことがわかることも当然あります。たとえば納豆を食べる「納豆食文化」というものを考えてみましょう。

lab_08_39_02.jpg 納豆の本場は、今は水戸でしょうか。もともと東日本の食文化で、西日本にそれが拡がったのは最近のことです。これは欧米や中国などからやってくる人たちにとっては驚きの食べ物の一つで、「とてもではないが食べられない」と感じる人も少なくないようです。私自身、納豆はすっかり日本の食文化であると思い込んでいました。
ところが、横山智さん(名古屋大学大学院環境学研究科教授)によれば、納豆は作り方や食べ方にバリエーションはあるものの、ラオス、タイ、ミャンマー、ネパールなどの国でも食べられ、ミャンマー・カチン州と中国雲南省徳宏で作られるものは、食べ方も日本の納豆と同じとのこと。このことを知ると、「納豆を食べる文化」というものの集団を「東日本」や「日本」といった概念で線引きすることはできなくなってしまいます。

こういう食生活上の習慣などは、「ある集団だからそれを食べる」のではなく、「それを食べる習慣をもった人たち」を集団として見ているだけなので、当然そういうふうに線引きが変わってしまうことが起こります。食生活上の常識をもつ人たちをどういう集団として区切るかは、基本的にその時々の知識やその他の事情で便宜的に作られた線引きでしかないわけで、固定的な実体としての集団がそこにあるわけではありません。

にもかかわらず、それがなにかはっきりとした境界線をもった実体的なものとして私たちに見えてくるのには、当然理由があります。それは「常識」というものが人々に対してもっている、ある種の強制力のせいなのだ、というのがここでの私の考え方です。

この強制力については、以前にご説明してある通りで、「常識」から外れたふるまいに対しては、周囲の人々からも、自分自身の気持ちによっても、非難や攻撃が生じ、それを抑止したり抑制したりすることから生み出されます。あるいは、その常識を一般的な基準を超えて非常に見事に実現した場合には、人々から称賛が与えられることもあります。つまりサンクション注1の仕組みがそこに働いています。

なぜそういう仕組みがそこに成立するかと言うと、人々がやりとりをするときに、そのやりとりをスムーズに進めるには一定のルールが必要だからです。それを守ってくれないとお互いに困るのです。また一緒に何かを成し遂げようとするときには目標の設定も必要で、その目標の設定のためには、それが「価値あるものである」ということについての感覚の一致が必要になるからです。

つまり、常識というのは人々が他の人たちと一緒にやりとりして生きていくうえで、そのやりとりを支える基盤として必要とされているものです。その人々の中に居て一緒に生きていこうとする限り、その中での常識を共有していくことが求められることになります。人のアイデンティティもそのような常識を取り込んで成立していきます。このように、人のふるまい(そしてそのふるまいに意味をもたせる価値観)を共有するように周りからの要求が働き、またその常識を内面化することで自分自身がそれに従おうとする、という力が働く。それが常識のもつ強制力の実体です。

さて、この常識は、これもすでに述べたように、「私個人の考え」ではありません。「私が従うべき基準」であり、そして「まわりの人々もそう考えている基準」です。つまり、私が勝手にどうこうできるものではなく、私の外部から、私をコントロールする力として働いてくるものとして意識されるものであるわけです。さらにそのような外部からのコントロールを取り込みつつ成立するアイデンティティによって、「内部から」もコントロールを受けることになります。

実はこの話、文化集団の実体化ということにとどまらず、社会集団というものが意識される場面ではどこでも見られる、一般的な現象だと考えることができます。そのことを「文化」の問題をいったん離れて、よりわかりやすい例で説明してみたいと思います。私は法心理学の中で、裁判等での人の供述の信用性評価を行う供述心理学にもかかわっているので、その場面から考えてみましょう。

常識を外れた行為として重大なものとしては、犯罪に分類される行為があります。たとえば盗みを働くと、何が起こるかと言えば、お巡りさんがやってきて逮捕されます。警察と検察の取り調べを経て容疑が固まれば起訴され、裁判にかけられて刑が科せられます。これは強力な強制力をもった仕組みになっています。

lab_08_39_03.jpg ところでこの強制力を働かせているのは一体誰なのかと言えば、逮捕の時にはお巡りさんですね。逃げようとすれば、それこそ実力で体を押さえつけられるという「有形力」の行使で、無理やり従わせられます。取り調べは警察官や検察官がそれぞれ行い、検察官が起訴の判断をして訴状を書き、処罰を裁判官に対して要求します。起訴するかどうかは検察官が決めることで、容疑者にはその点で何の自由もなく、ただその決定に従うしかありません。そののち裁判官が処罰を決定し、自由刑注2になれば刑務所に入れられて、自分の気持ちがどうあろうが関係なく、刑務官の監視の下、不自由な生活を強いられることになります。

これらのプロセスの一つ一つは具体的な人(警察官、検察官、裁判官、刑務官など)によって強制力が働いているわけですが、その人たちも別に個人的な思いでそうしているわけではなく、法律という常識の一つの形に基づいて、社会的な役割としてそれを行っているだけです。そういう法という常識に従って、お互いに連携して動く人々のつながりから、その背後に「国家」という社会集団が感じられるようになります。

そうすると、この強制力を発揮させているのは、自分を捕まえている目の前の人ではなく、強制力の「真の主体」はその人の背後にある「社会(国家)」なのだ、と感じられるようになります。強制力が個人にではなく、社会集団に帰属されるわけですね。

実際の具体的なサンクションの行為は、ひとりひとりの行為として成り立っているにもかかわらず、その行為は「社会」が要求したものとして意識されるわけです。つまりそこに「要求の主体」としての「社会集団」が現れることになります。注3

このように、自分がリアルな形で他者から与えられる強制力が、個人を超えた主体によって与えられたものなのだというイメージの中で、社会集団があたかも一人の人のような主体として意識されてきます。そして文化的な現象に働く強制力も、よりマイルドな形ではあっても、集団が実体化されるという点では同じ仕組みを生んでいくことになります。

まとめましょう。
文化の主体のようにイメージされる文化集団は、実体のある、まとまったひとつのものではありません。人々がやりとりしつつ一緒に生きていく上で、その人たちが共有する「常識」が作られていき、その常識を守ることが周囲から求められ、自分もそこから外れないようにふるまうべきだという思いにかられさせるものです。その意味で、その常識は、人に対してそれに従わせる力をもちます。

実際に誰かのふるまいがその常識から外れてしまったときには、周囲の人々がそれに対処することになりますが、その場合も個人的な意思によってではなく、「みんなの常識」によって対処していると意識されるわけなので、その「みんなの常識」をもって対処する主体が、個人を超えたものとしてある実体性をもった「主体」のようにイメージされることになります。それが文化の「主体」としての文化集団になる訳です。

lab_08_39_04.jpg 実際にはその文化集団という「主体」は、人々のやりとりの中にその都度生み出されているもので、固定的なものではないし、実体的な主体でもないのですが、文化に感じられる強制力の主体を理解するために、人々の間に線引きをして、「これが文化の主体としての集団なんだ」と決めて、その理解を人と共有するようになります。

そうやって人々の間に、一種の観念に過ぎない「集団」があたかも実体であるかのように共有されるようになると、それは個人の主観を超えてみんなが認識できる、という意味で客観的な存在のように思えてきます。そうすると、それが改めて人のふるまいを方向付ける観念、社会的な意識として働き始め、人をコントロールするようになる訳です。

これが文化集団が実体化する仕組みということになります。このように、ある意味では人の観念の中にしかないものを、人々の協働的な関係の中で人々の行動を外部から方向付けるような形で実体化して見えてくる現象を、私たちは「機能的実体化functional substantialization」と呼んでいます。それは物理的実体ではなく、人々に共有された一種の理念的な存在なのですが、けれどもその理念によって人の行動が方向付けられることで、人々が集団的に動くようになり、機能的な実体として働き始めるようになるわけです。注4

最後は国という集団のことまで出てきて、少し話が大きくなりすぎたかもしれません。次回はこの連載の本旨に戻って、日中韓の人たちの素朴な感覚のずれから文化を理解する、ということの意味を考えてみたいと思います。それはこれから重要性をますます高めていくと思われる「対話的な文化間理解」の意味を考えるために必要な視点のひとつだろうと思います。



  • 注1 サンクションとは、ある社会の中で、望ましいとされる行為については称賛が与えられたり、肯定的に評価されます。逆に望ましくない行為には非難や制裁が与えられます。ある行為について社会の人々が与えるこれらの反応がサンクションと言うことになります。犯罪を犯すと罰せられる、偉業を達成すると賞が与えられる、などもそうですね。これらのサンクションによって人の行為が社会的にコントロールされるということになります。
  • 注2 自由刑とは、刑罰の一種で、処罰される人の自由を奪う刑罰のことです。
  • 注3 このような仕組みは、理論的に言うと、本来は自分たちの中にあるものが、あたかも外側から自分を縛るように、外部の主体として現れるという意味で「疎外現象」として理解することが可能です。あるいは実際には身体を持った主体がそこにあるわけでもなく、単に人々の行為のつながりによって起こることが、あたかも実体としての主体のもののように見えてくるということで、「物象化現象」としてとらえることもできます。物象化については、哲学者の廣松渉氏がその哲学でとても重視して論じています。
  • 注4 前回、個人と集団を二元論的に分離して考えてしまうことの問題は、その二つが存在論的に異なるレベルのものであることを無視してしまう点にある、ということを注で述べました。ここでそのことを「機能的実体化」という言葉を使って改めて説明すると、次のような話になります。まず「機能的」という言葉をつけずに説明できる「実体」としては、いわゆる物理的な存在、簡単に言えば「物(物質)」によって作られているものを想定しています。この「物」が「在る」と言うとき、私たちがそれを意識していようといまいと、「在る」ものとして考えられています。人類が存在せず、誰もそれを認識できなかったにもかかわらず、宇宙は昔から存在していた、そんな意味での「在る」で、自然科学的な意味での客観性というのは、私たちの主観に依存しない存在という意味で考えられています(ただし、現代物理学ではその存在を知る、ということは主観の働きがなければ成り立たず、さらに知るということは主観の対象に対する働きかけによって生じることですから、その働きかけによって存在の在り方が変わってしまうこと、その意味では客観的な物質は主観と完全に独立してしまってはそもそも理解できないというような考え方になっているようです。有名なシュレーディンガーのネコのたとえ話は、このあたりが深くかかわる問題になって、認識が物の存在性格を変えてしまうかどうかということまで論じられているようです。つまり、箱の中のネコが量子の確率論的なふるまいによって死んでしまうような装置を作った場合、その猫は観測するまで「生きている」と「死んでいる」のどちらにも決められず、観測したとたんに「生きている」か「死んでいる」かがわかる、ということになるのですが、では観測される前にはその猫は「本当は生きていた」か「死んでいた」かのどちらかなのだけれど、ただ観測しないとわからなかっただけなのか、それとも本当にどちらでもない状態で、観測した瞬間にそのどちらかに「決まる」のか、が問題になる、という話です。常識的には「ただわかってないだけですでに決まっている」と考えますが、主流派のコペンハーゲン解釈では、その猫は実際に「死んだ状態」と「生きている状態」を同時に重ね合わせた状態にあるのだ、と考えます)。
    これに対して文化というのは、ごく単純な話ですが、人がいなければ存在しません。宇宙とは違って、人類がいなかったころに文化があったと主張する人はまずないでしょう。チンパンジーに文化があるかどうかについてはもう少し丁寧な議論が必要なので、ここでは省略させていただきますが(簡単には拙著「文化とは何か、どこにあるのか」第二章に説明してあります)、それは人間の精神活動の産物と考えられます。
    物は主観に依存せずに存在できる。でも文化は主観(精神作用)がなければ決して存在しえない。この「物」と「文化」の二つが存在論的に同じであるわけがありません。
    そして文化という観念は、たとえばハエが餌を認識するときのように、個体レベルの認識によって成立するものではありません。それは一人の人の精神活動の中で生まれるものではなく、人々のかかわりあいの中に、他者の認識を取り込む形で生まれるのです。これを間主観的な、あるいは共同主観的な現象と考えることができます。
    そのような主観のあり方の中に文化が立ち現れてきます。そして文化をもつことで人のふるまいに影響を与え、集団的な行動が生み出されていきます。そのことで人々の集団があたかも一つの主体であるかのようなふるまいを見せることになります。そのように機能することで、文化集団はあたかもひとつの生き物のように、すなわち「実体であるかのように」立ち現れてくるわけです。つまり機能的実体化です。文化や文化集団は個人レベルの主観の中に現れる存在ではなく、他者と共有できるような、その意味でほかの人からも「客観的」に確認できるような存在として成り立っていくわけですから、「物」と「文化」が存在論的に同じものと考えることも、また当然できないということになります。



参考文献

  • 山本登志哉(2013)「文化の本質的な曖昧さと実体性について:差の文化心理学の視点から文化を規定する」質的心理学研究 No.12 44-66
  • 横山智(2014)「納豆の起源」NHKブックス No.1223
    http://www.geog.lit.nagoya-u.ac.jp/yokoyama/natto/natto_index.html
  • 廣松渉(2001)「物象化論の構図」岩波現代文庫
  • 廣松渉(2017)「世界の共同主観的存在構造」岩波文庫
  • 山本登志哉(2015)「文化とは何か、どこにあるのか 対立と共生をめぐる心理学」新曜社

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筆者プロフィール

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山本 登志哉(日本:心理学)

教育学博士。(一財)発達支援研究所 所長。1959年青森県生まれ。呉服屋の丁稚を経て京都大学文学部・同大学院で心理学専攻。奈良女子大学在職時に文部省長期在外研究員として北京師範大学に滞在。コミュニケーションのズレに関心。近著に「ディスコミュニケーションの心理学:ズレを生きる私たち」(高木光太郎と共編:東大出版会)

※肩書は執筆時のものです

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