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【読者参加型共同研究「日本、中国と韓国、何がどう違う?」】 第6回-⑩「この連載が目指していること」

さて、この連載が目指していることを説明する前提として、「文化とは何か?」ということを理解する必要があり、だいぶん長い回り道をしてきました。

なぜそういう、迂遠とも思える理論的な問題にここまでこだわるのか、というと、やはりそこを整理しなおすことが、これからの世の中にとって、とても重要だろうと思うからです。

(1)「子どもは未来」が難しくなる―経済対立から文化間対立へ

ご承知のように、今の世界では激しい文化対立の状況が展開されています。1990年ごろまでは、世界の対立は資本主義対社会主義(東西対立)とか、豊かな北と貧しい南(南北対立)というような、「経済システム」と「政治システム」の問題として意識されることが中心でした。

ところが東西対立の収束以降、改めてまるで中世に戻ったかのように、宗教対立とか、あるいは民族対立という問題が世界を突き動かす要素として強く意識されることになりました。2001年の同時多発テロは、そういう世界の変化を象徴するような歴史的出来事として人々に記憶されています。まさに「文化」という要素が世界の対立の中心的な問題として現れてきていると考えることができます。

世界中で「文化間対立」の様相を示しながらたくさんの悲劇が生み出されています。当然子どもたちもその悲劇の中で、体と心に深い、生涯消すことが難しいような傷を負い、あるいは命を失っている状況があります。

CRNの「子どもは未来である」という基本的な理念が脅かされるような厳しい状況がそこにあり、そしてそこには「文化」という重大な問題が横たわっている、それが今の世界なのだと考えられるわけです(注1)

もちろん様々な対立の背後には経済的な利害の対立があります。経済は単に「儲け」の問題ではなく、私たちがご飯を食べて生きていくためには欠かすことができない社会的な仕組みですから、経済の対立はそれこそ「生きていくための対立」というシビアな面をもっていて、そこに文化が絡むのです。

(2)お小遣いに見る経済と文化の関係

ではこの「経済」と「文化」はどういう関係にあるのでしょうか。実はここでも何度か取り上げた私たちの「お小遣い研究」の重要な検討課題の一つがそこにありました。

お金というのは一見、文化とは全然関係ないように見えるかもしれません。実際アメリカ人が1万円札を使って買い物をしても、中国人がそうしても、日本人がそれで払っても、まったく同じように商品を買うことができます。そこに文化は関係しません。

ところが、そもそもお金を何のために稼ぐのか、お金は何のために使うべきなのか、どういうことには使ってはいけないのか、どうやって稼ぐことが正しいのか、といったお金に関わる行動の「価値観」の問題に分け入っていくと、途端にそこに「文化」が絡んでくることがわかるのです。

価値観は、人が「生きることの意味」に当然関わる問題で、「文化」はまさに私たちがそれぞれの社会の中でほかの人と一緒に生きることの意味に深くかかわってくるのです。

この連載でも最初に取り上げた「友達に授業料支払いのためにお金を借りる」という行為についての評価は、そういう「お金の使い方」に関する文化的な価値観の違いが良く表れている例の一つになります。つまり、「お金を友人関係の中でどのように使うことが正しいことなのか」ということについて、日中韓の感覚(価値観)の違いが調査からもはっきりと見えてくるのです。

(3)「助け合い」の仕組みの進化と多様な「文化」

私たちは社会を作って生きています。それはお互いに助け合って生きていく仕組みとも言えます。その仕組みで大事な問題は、「限られた資源をどのようにお互いに融通し合い、分かち合って生きるか」ということです。

これは経済行為を成り立たせる基盤となる所有のシステムの問題だとも言えます。そしてこの「(生きるうえで欠かせない)資源をどう分配・共有するか」という仕組みは、人間に限らず動物の進化の中で常に大問題になることでした。そしてそれぞれの種がそれぞれの種に特徴的な分配の方法をもち、それが彼らに特徴的な「生き方」を決めています。

人間の社会になると、その「助け合い」の仕組み、「資源の獲得と配分・再配分」の仕組みは一つではなくなります。それは集団ごとに大きく異なり、また歴史的にも常に変動しています。実はここに「文化」が絡んでくるのです。

他の動物種の所有の仕組みは、なわばり制や順位制といった形での資源利用の優先権の決定や、それを可能にする儀式的闘争などの行動にみられるように、基本的に遺伝的に決定されていると考えられ、したがってその仕組みは種ごとにおよそ一様になっています(注2)。その仕組みが変わるには、種が変わる必要があります。これは基本的には「先天的な仕組み」なのです。

ところが人間は、その仕組みを生まれた後に学んでいきます。だから学ぶ内容が変われば使える仕組みが変わります。誰から学ぶかといえば周囲の大人からです。つまり人間の所有は「後天的に学習される仕組み」なわけです。

さらに大事なことは、その大人がもっている仕組みもまた、時代によっても変化していきます。たとえば、江戸時代の土地所有に関する考え方と、現在の考え方は劇的に変化しています。現代の常識は当時の非常識です。時代が変わり、産業の仕組みが変わっていく過程で、周囲の大人の考え方もそれにあわせて変化していくわけです。

(4)社会・経済の変化と価値観の仕組みとしての文化の変化

しかもそこで変化する仕組みを身に着けるかどうかは、個人の自由に任されているわけではありません。実際、時代の変化に合わせられない人は「あの人はもう時代遅れ」と非難されたりもしますよね。そういう一昔前の生き方は今風に言えば「オワコン(注3)」みたいに扱われてしまうでしょう。

ですから、時代が変わって生まれる新しい生き方にもある種の強制力、つまり「こういう時にはこうふるまうべきである」という価値観が成立し、そこから外れたときにはサンクションの仕組みが働くわけです(注4)

そのように社会的・規範的な強制力をもった仕組みが、その社会、その時代の「助け合い」の仕組み、「資源の獲得と配分・再配分」の仕組みを生み出し、それに沿って人々を行動させて、その時々の経済的な活動を社会的に機能させていきます。

この仕組みがほかの動物とは異なり、「後天的に学習される」ものであるため、同じホモサピエンスというたった一つの種であるにもかかわらず、社会によって、時代によって、異なる様々な「生き方」が生まれてき、また変化してきたのです。その社会で人々の行為を方向付ける価値観の仕組み、すなわち「文化」がそこに関わっていることになります。

「おもちゃの使い合い」で見てみた「私のもの」と「みんなのもの」についての感覚の違いは、「資源(おもちゃ)をどういう風に分かち合うべきか」ということについての規範的な意識の違いを現しています。まさにそういう所有の仕組みの違いが現れたものの一つになります。

そういう所有感覚の差は、私たちの日常的な行為の中に、ほとんど意識されることもなくしみこんでいるのですね。だからその感覚にズレがあると、お互いにそれまで考えもしなかった形でそのやりとりにトラブルが生じます。

そして自分とは異なる感覚の相手のふるまいに対して、強い違和感をもったり、怒りを感じたりすることも起こります。何しろ自分にとっての常識(という文化的な規範感覚)を相手が平気で破るわけですから、とても居心地が悪かったり、許しがたく感じたりするのです。

そこで相手を「非常識な人間」と感じたりするのは、上記のようなお互いの感覚にしみ込んだ「生き方」の違いによるものであり、それが文化的なサンクションの仕組みを発動させて厳しい対立関係にも進展することがあります。

(5)助け合いの仕組みの文化差

助け合いの感覚の違いについては、「困っている時にどうする?」の回でも見てきました。お互いに相手の心理的な困難をどこまで踏み込んで共有すべきなのか、どうやって友達とは助け合いの関係を作るべきなのか、ということについての感覚の文化差がそこには現れています。

この感覚は自他の境界線の引き方、自己意識の問題にかかわってきます。積極的に相手の困難に立ち入ろうとする生き方は、自他境界を超えた「私たち」という強い共同的な絆を作ります。逆に立ち入ろうとしない生き方は、自他境界を重視して、「私」と「あなた」の距離を保ちながらの関係を重視します。

自己意識という、極めて個人的なものに思えるものが、実はその社会のもつ文化的な仕組みに対応して生み出されていることが、こういうことからもわかります。

通常はこのような感覚の差は「近代化した個人主義」VS「前近代的な集団主義」の差として理解されることが多いのですが、私たちのお小遣い研究でも、そんなに単純な話は成り立たないことが明らかになっています。

それは単に「経済が進んでいるかどうか」の問題ではなく、その社会の人々が歴史的にどういうふうな「助け合い」の仕組みを「文化的に」作り上げてきたのか、ということに関わっています。その文化的な性格は、経済的な仕組みが「表面的には」変わっても非常に根強く、対人関係の感覚のとても深いところでその社会の人々の特徴を維持させるものであることが、私たちのお小遣い研究からも見えてくるのです。

そういう根深い対人関係の文化的な感覚の違いは、「親友とは?」という回でも垣間見ることができました。つまり、こういった日中韓比較からは、それぞれの社会の中で重視されている生き方(当然個人差もあります)の差が決して「経済」によって単純に説明可能なものではなく、まさに「文化」の問題として見るべき部分があることがわかるのです。

そういう感覚の違いは、繰り返しになりますが、先天的なものではなく、後天的に周囲の影響を受けながら作り上げられていくものです。そうすると、そのような「大人から子どもへの伝承」もまた、文化的な特徴をもつことが当然想像されます。「生徒のほめ方」についての検討がそこに関わる問題だったことになります。

(6)「共に生きる形」の対立としての文化間対立

いったんまとめましょう。今の世界の混乱した状況は「文化」の対立という形で表れています。その対立の背景には「経済的利害」が絡んでいるのですが、それぞれの社会の「経済」というものは、実はとても「文化的なもの」でもあるのです。

文化的な感覚、価値観がそれぞれの経済的な行為を生み出すのに不可欠だからです。だからこそ、経済的な対立は文化的な対立として現れることにもなります。文化は「共に生きる形」といえますから、それは複数の「共に生きる形」の対立とも言えます。

そしてこういう対立関係が厳しくなってきたとき、ある社会的な展開が必然的に生じ始めます。それは「自文化中心主義」という思想が強まることです。これも仕組みは単純で、人は助け合いの中で生きていくしかないので、自分の生存が危機に陥ったと感じたときは、多くの場合家族や友達などに、そしてより大きな単位としては「集団」に頼ることが必要になります。

ところがこれまで説明してきたように、そもそも集団というのははっきりとした形が固定的にあるものではありません。その時その時の状況により、条件により、様々な形に「見えてくる」もので、その性質も境界もあらかじめ固定されてはいないのです。

ところが対立関係が「集団VS集団」という形で見えてくるようになると、「自分たち」を守る必要が感じられるようになるので、「私たちの集団」を確固としたものとしてイメージする必要が出てきます。そのイメージを作り上げていくことで、もともとあいまいな「私たちの集団」を強固なものとしていく必要があります。そこに「文化」という仕組みが使われるようになるのです。

文化間衝突はそのように展開していくことになりますが、そこで典型的なのは「私たちは正しい、相手が間違っている」という見方を強固にしていくことです。たしかに自分の規範的な感覚から言えば「相手がおかしい」ことになるのですが、実際には相手も相手の感覚から「相手がおかしい」と思うわけですから、お互い様の状況です。でもお互いに相手の感覚には気づきにくく、そうやってお互いに「自文化中心主義」を強めていくことになります。

そういう感覚を強めていくことで、「闘い」への準備が行われていくことにもなります。なぜなら「正義を貫く」ことは「正しいこと」なので、その「闘い」に「大義名分」が作られるからです。そこから集団間で自分を絶対化した形の争いが展開します。

集団内で考えても、そこにサンクションの仕組みが働くと、何が起こるのかは想像していただけるでしょう。それが現在、集団の中の多様性を認めないような主張の強まりのように、かなり目に見える形で起こっていることの一面という事になります。

このような形で、経済的な利害対立を背景にした集団間の対立が「文化間対立」という形で展開することになります。そして自文化中心主義がお互いを刺激し合ってお互いに強化され、対立関係を一層深刻なものとしていきます。当然、敵対感情が高まり、冷静な議論は難しくなり、とても危険な状態になります。

(7)文化間対立と相互理解

ではこの動きを少しでも緩和するにはどうしたらいいのでしょうか? そこが私たちがいつも考え、また悩むところです。

そしてここで大事になるのが、「文化とは何か」ということをいい加減に置いておかずに、もう一度根っこの原理的なところから考え直してみることなのです。なにしろ対立が文化の仕組みによって深刻化するのですから、まずはその仕組みを理解しなければなりません。

そうすると、ここまででご説明しようとしたように、そもそも文化というのは固定的なものではなく、個人間のやりとりが、機能的な実体化の仕組みの中で生み出していくものだということが見えてきます。それはやりとりの質によって変化していくものです。

もしお互いの相手に対する見方が一面的に固まってしまって、それによってお互いに勝手な思い込みで相手(の集団)のイメージを作り上げて対立関係を深めている状況が生じているのなら、その凝り固まったイメージをもう一度柔らかくして、お互いの理解を再調整していくことが必要になります。

この場でも模索している「対話的な相互理解」が重要になるのはそういう理由です。

というわけで、私たちが大事にしているのは、ひとつには文化を固定的な実体のようには捉えないことです。それは状況次第でいろいろに揺れ動き、変化していくものです。また人によっても多様な現れ方をするものでもあります。同じ集団の内部にもいろんな人がいます。その多様性を見失わないことです。

もうひとつは、そのような文化が曖昧さを本質的に含むからといって、それを「文化なんてない」と考えてしまったり、「結局個人の内部の思い込みの問題だ」と個人に帰属させたりしてしまわないことです。

なぜなら私たちはどういう形であれ、人と一緒に助けあって生きていかなければならず、それを可能にするには、「共に生きる形」としての文化を生み出していく必要があるからです。ただし固定的なものではなく、柔軟なものとして。斉一的なものではなく、多様なもののコンビネーションとして。

もし今自分たちがもっている、あるいは作り上げようとしている自他の文化の考え方が、単に対立状況を深めるだけで、お互いの共生に向かわないものであるとすれば、そのような自己中心的な文化観を柔らかくして、共生が可能な文化理解の形を模索していくことが大事になります。それがここでも模索してきた「対話的な異文化間相互理解」の試みということなのです。

(8)異文化理解は楽しい

異文化理解は、自分の常識に反する人たちの生き方を、その視点から理解しなおそうとすることですから、結構大変です。たくさん衝突も起こります。でも、そのようなやりとりの中で、あるところまで来ると「相手を理解する」ことが「自分自身を理解しなおす」ことにつながってくることが実感されてきます。

それまで自分では全然意識できなかった「自分の常識」が、それとは異なる常識に生きる他者によって浮かび上がってきます。「へえ、自分はそんなことを大事にしていたんだ」とびっくりしたりもします。そして改めてそのことの重要性を思うこともあれば、逆に「なんでこんなことに自分はここまで縛られてきたんだろう?」と、もう少し柔軟な生き方を模索するきっかけになることもあります。

そのあたりまで来ると、異文化理解の対話は面白くなってきます。新しい自己の発見、そして新しい他者とのつながり方の模索がそこから始まります。それは他者との出会いによって、自分が柔軟に、そして豊かになっていくことでもあります。

さて、以上で、ここまでのデータを使った検討と、理論的な解説についての振り返り、そしてそういうことをやる意味についての説明ができました。次回からは再びデータを使いながら、日中韓の文化的な「共に生きる形」の性質の差について考えてみたいと思います。もちろん「あの人たちはみんなこうだ」という単純な議論をしたいわけではなく、どちらの社会でも多様な人たちがいることが前提です。

ということで、次回は「友達間の葛藤をどうやって解決しようとするか」ということをテーマにデータを取ってみたいと思い、現在準備中です。私たちは誰もが人との間に葛藤を抱えながら生きていて、そこでの悩み方も様々です。そしてそれを調整する努力も常に行っています。

ではどうやって調整しようとするのか。そこにはそれぞれの人の個性も絡んできます。人によってとても違います。と同時に、それぞれの社会に特徴的な文化的なやりかたも見えてくるはずです。そういう多様性を前提にした文化的な「共に生きる形」=「葛藤の調整の仕方」に迫っていければと考えています。


注記

  • 注1:私が一番ショックを受けた事例の一つは、イラクの妊婦さんが、自爆テロを行ったニュースでした。未来の象徴、希望の象徴であるはずの子どもの命を宗教的理念のもとに母親自らが断った悲劇です。
  • 注2:なわばり制...ある範囲を個体や集団が独占するようなしくみです。なわばりにほかの個体が入らないように警告で鳴き声を上げたり、入ってくると攻撃して追い出したりします。順位制...集団内であらかじめ順位を決めておいて、資源間の争いが起こる状態では順位が上のものが獲得する権利をもつようなしくみです。儀式的闘争...争いが起こったときに闘いが起こりますが、お互いに致命的な傷を負わないように、負けたと思った個体が服従の姿勢や行動を行うと、それ以上攻撃ができなくなる、そういう性格を持った闘争です。順位制の順位の決定の場面などでもよく見られます。
  • 注3:オワコンとは「終わったコンテンツ」を略したスラング。俗に、流行を過ぎた商品やサービスのこと。
  • 注4:ある社会の中で、望ましいとされる行為については称賛が与えられたり、肯定的に評価されます。逆に望ましくない行為には非難や制裁が与えられます。ある行為について社会の人々が与えるこれらの反応がサンクションと言うことになります。犯罪を犯すと罰せられる、偉業を達成すると賞が与えられる、などもそうですね。これらのサンクションによって人の行為が社会的にコントロールされるということになります。

<自由記述欄>
(自由記述については次回以降、内容を紹介させていただくことがあります。もしお望みでない方は、記入時にその旨をお書き下さい。またご回答についての著作権はCRNに移転するもの<CRN掲載のほか、書籍への掲載など、自由に利用することができます>とさせていただきますので、ご了解のほど、よろしくお願いいたします。)

筆者プロフィール

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山本 登志哉(日本:心理学)

教育学博士。(一財)発達支援研究所 所長。1959年青森県生まれ。呉服屋の丁稚を経て京都大学文学部・同大学院で心理学専攻。奈良女子大学在職時に文部省長期在外研究員として北京師範大学に滞在。コミュニケーションのズレに関心。近著に「ディスコミュニケーションの心理学:ズレを生きる私たち」(高木光太郎と共編:東大出版会)

※肩書は執筆時のものです

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