バフチンが捉える対話と文化
まずバフチン(1999)は、人々が唯一でかけがえのない自己意識をもち、その独自の視点から外界を解釈するという前提から議論を行いました。バフチンが独自の意味を込めて論じる「対話」とは、話者がそれぞれ独自の自己意識を維持しながら、相手の応答に応じて、自らの視点を変更していく知的柔軟性をともなうコミュニケーションを指すものといえます。
しかし現実には、この話者らの自己意識の独自性が見えにくくなる相互交流が展開されることも多いのです。例えば、社会集団の慣習に従い、仲間同士で特殊なジャーゴン(社会的言語)をあうんの呼吸で使用し、同じ世界観の下、自動的に物事を理解し処理することが期待されるようなやりとりです。「社会的言語」ないし「言葉のジャンル」とも呼ばれる、このような言語実践を行う共同体は、バフチンの捉える「文化」の単位になると考えられます。
そしてバフチンは人々が、文化集団内の自動的な言語実践に没入しすぎることに対して警鐘を鳴らしてもいます。この危惧は彼が紹介する、固有の社会的言語を抱える異なる文化集団の間を行き来していながら、それぞれの言語実践との関係について意識的に考えることのなかった人々のエピソードからも読み解くことができます。
彼はある言語(教会スラヴ語)で神に祈り、別の言語で歌い、家庭では、第三の言語を話した。......しかし、これらの言語は農民の言語意識において対話的に相関してはいなかった。彼は一つの言語から他の言語に、何も考えずに、機械的に移行していた。つまり、それらのどの言語も、自分の場所においては葛藤を知らず、どの言語の場所も議論の余地のないものだった。彼はまだある言語を(そしてそれに対応する言語世界を)他の言語の眼で見ること(つまり日常生活の言語と生活世界を、祈祷または歌の言語で見ること、またその逆)ができなかった。(バフチン, 1996, p.71)
このように特定の文化集団に閉じた言語実践を、バフチン(2018)は「自家中毒」とも呼んでいます。文化集団内の自動的な言語実践に対する彼の批判は、このような言語活動に没入することにより、話者個々人の自己意識の独自性が損なわれかねないという危惧があったからだと考えられます。
言語認識の異化をもたらす異文化コミュニケーション
一方、バフチン(1996)は、言語認識を特定の文化集団のくびきから解放し、話者が自覚的に自分の住む環境と他の世界との関係について考える(上記の事例でいえば「対話的相関」が生じる)有り様を、話者の言語認識の「異化」と呼びました。そして異文化を背景とする他者との異文化コミュニケーション的な対話を、この異化をもたらす機会として捉えました。
他者の文化をよりよく理解するためにはいわばその文化のなかに移り住み、自分の文化を忘れて他者の文化の眼で世界を眺める必要があるといった、きわめて根強いものの、一面的で、それゆえにまちがった考えが存在している。......創造的理解というものは、自分自身や、時間上の自分の場、自分の文化を放棄せず、何ひとつ忘れはしない。理解にとってきわめて重要なのは、研究者〔理解者〕が、自分が創造的に理解しようと望んでいることにたいして―時間、空間、文化において―<外部に位置している>ことである。......その者の真の外貌を眼にし理解できるのはほかの人びとだけであり、それはその人びとが空間的に外に位置しているおかげであり、かれらが他者であるおかげなのである。(バフチン, 2013, pp.345-346)
その意味では、異文化に触れるという経験が生産的なものとして機能するためには、単に新しい知見を蓄積するだけではなく、外部世界の視点から、話者自身の住む世界をより自覚的に理解するという思考が生じなければならないということになります。なおバフチン(1995)は、「外国の事情は外国のもの、自分の住む世界とは関係ない世界」というように、外在世界の異質な考え方の存在を認めつつも自分の考えとは関わりのないものとして切り捨てることも「相対主義」と呼び、避けるべき態度であると指摘しています。
生産的な異文化コミュニケーションと自己意識の揺れ動き
以上の議論を踏まえるならば、バフチンの言う、生産的な異文化コミュニケーションとは、異文化を背景とする他者との出会いを通じ、相手の異質な視点を知ると同時に自分の既存の考えを異化的に再認識する対話過程を伴うものだといえます。それは、異質な他者の視点と自分自身の視点との間で揺れ動く自己意識の「とまどい」を通じ、その独自性を失うことなく他者と付き合い続ける、対話的相関として現れるものと考えられます。
われわれは揺れ動く。どうふるまうのが最適なのかわからない。われわれは自分自身と議論し、なんらかの決定の正当性を自分にたいして説得しはじめる。わたしたちの意識はあたかも、互いに矛盾する、二つの独立した声に分かれているかのようである。(バフチン, 2002, p.147)
なおバフチン(1999)は、異化をもたらす他者の特性を「外在性(トランスグレジエント)」と呼びます。外在性は「逸脱」「違反」など、既存の規範・価値観に対し侵入的な存在でもあります。その意味では他者は、話者のアイデンティティを揺るがし得る、やっかいで恐ろしい異質な部外者ともいえます。しかしバフチンはこの他者の外在性が、話者を日常性への自家中毒のくびきから解き放ち、外的世界に埋没しない話者の自己意識の独自性を際立たせ、新たな世界観を形成するきっかけとなる恩寵を与える存在になり得ると考えます。
未来の異文化コミュニケーションに向かうための対話的ワクチン
グローバル化された現代を生きる私たちは、好むと好まざるとに関わりなく、異文化接触機会にさらされることになります。その際、理解しにくい他者の異質な言動に対し、即断で「これは無理」「あり得ない」「外国人だから仕方ない」などと切り捨てるような態度では、生産的な異文化コミュニケーションにはなり得ません。バフチンの視点からいえば、「なぜ相手はあのような言動を行うのだろう」と考え、相手との付き合いを維持しながら、「相手の言動に対して違和感を抱く私の考えはどのようなものか」と自分自身を見つめなおす、対話的相関を体験することが大切です。
またこういった自己意識の揺れ動きを、安全な教育環境の中で経験することの重要性も、私たち研究班では共有しています。異文化コミュニケーションを志向した授業の中で異質な他者との対話の困難さと楽しさを学習者らが実感することは、彼らが将来、実社会において他者と葛藤状況に陥った際にも、相手の視点を切り捨てることなく生産的な対話を展開する力になると考えているのです。このような経験を、私たちは「対話的ワクチン」(Tajima, 2017)と呼んでいます。弱毒化したワクチン(教育的配慮をともなう他者との対話における葛藤)を接種することで、ウィルス(未来に出会う実在の他者との対話における葛藤)と向き合う抵抗力を得るという意図を込めています。本連載で紹介される様々な実践も、この対話的ワクチンを接種させる取り組みです。
引用文献
- バフチン, M. M. 望月哲男・鈴木淳一(訳)(1995). ドストエフスキーの詩学 筑摩書房
- バフチン, M. M. 伊東一郎(訳)(1996). 小説の言葉 平凡社
- バフチン, M. M. 伊東一郎・佐々木寛(訳)(1999). ハイル・バフチン全著作 第1巻 〈行為の哲学によせて〉〈美的活動における作者と主人公〉他:一九二〇年代前半の哲学・美学関係の著作 水声社
- バフチン, M.M. 桑野隆・小林潔(編訳)(2002). バフチン言語論入門 せりか書房
- バフチン, M.M. 桑野隆(訳)(2013). ドストエフスキーの創作の問題, 付:より大胆に可能性を利用せよ 平凡社
- バフチン, M.M. 貝澤哉(訳)(2018). 修辞学が,その嘘偽りの程度に応じて...... 東浩紀(編) ゲンロン9:第一期終刊号 (pp.142-149) ゲンロン
- Tajima, A. (2017). A Dialogic Vaccine to Bridge Opposing Cultural Viewpoints Based on Bakhtin's Views on Dialogue and Estrangement. Integrative Psychological and Behavioral Science, 51(3), 419-431.
- 田島充士(編)(2019). ダイアローグのことばとモノローグのことば : ヤクビンスキー論から読み解くバフチンの対話理論 福村出版
- 田島充士(2021a). バフチン先生は何を学生たちに教えたのか――対話理論と教育実践 コメット通信 14,(pp.13-15).
- 田島充士(2021b). 対話理論の立場から――バフチンが射程とする内的社会としての意識と異文化間交流 能智正博・大橋靖史(編) ソーシャル・コンストラクショニズムと対人支援の心理学:理論・研究・実践のために(pp.64-78) 新曜社