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【科研報告:日中韓交流授業で探る相互理解】第2回 違いを大事にした共生:交流授業による異文化間相互理解への新しい挑戦

世の中には個人同士から国同士の間まで、 しばしば厳しい対立関係が繰り返されています。ではその厳しい対立が生じたときにどうしたらいいのでしょうか?

文化という視点からこの問題に迫るために少し回り道をしたいと思います。

以前、アフリカの南部、グイとかガナとか言われる狩猟採集民の社会の中に入って研究を続けている人類学者の方たちからこんな話を聞いたことがあります。その社会では、家族単位でキャンプを作って狩猟採集をしながら移動して暮らしているのですが、その時いくつかの家族が一緒に協力し合ってキャンプをしたりします。

人間関係のことですから、当然折り合いが悪かったり、トラブルも起こります。小さなトラブルのうちは、お互いにまだ冷静になれますし、なんとか一緒に居られるでしょう。でも小さなことでも積み重なれば結構つらい状態になりますし、大きな問題になれば、たとえ一度であったとしても冷静さを保てなくなるでしょう。

そんな状態になってしまったとき、彼らはキャンプを解散して、また家族ごとに分かれていたんだそうです。そして別の家族と一緒になったりします。

私たちの日常生活でもそうでしょうが、感情的な対立関係になったときには「距離を置いて冷静になる」って大事ですよね。そして少しずつ気持ちを整えて、関係を立て直していきます。狩猟採集民の彼らもそんな風に「距離を置くことで感情的なトラブルを解決していく」という手法を伝統的にとって暮らしていたようです。

ところがその後、政府の定住政策によって狩猟採集と移動の生活を止める人たちが増えていきました。そうすると「距離を取って冷静になる」ことができずに対立が激しくなり、お互いに激しく傷つけあうようなことも増えたのだそうです。

社会の進化、という観点から見ると、ヒト以前のさらにシンプルな社会、というか群れの中で生きるチンパンジーの場合、問題はもっと深刻で、ほかの群れと遭遇してしまうと、激しい戦いが起こったり、あるいはひとり(一匹)でほかの群れに入ってしまうと、激しく攻撃されて命を失ったり、といったことも起こるようです。冷静になるどころの話ではありません。むき出しに近い感情の対立にすぐに発展してしまいます。

それに比べると、狩猟採集民の人たちの社会は同じ集団の中では食べ物なども分け合って平等に生きることが重視されていますし、何かを食べているほかの集団に出会ったりすると「ともだち、ともだち!」と言いながら食べ物をもらって一緒に食べたり、すごく平和な関係を作れています。一緒に暮らしていて仮に対立が厳しくなっても「とりあえず距離を取って関係を調整する」という「文化」を作ることでそれを乗り切っているんですね。

ところが定住社会になると、そういったもともともっていた文化では問題が解決できなくなってシビアな葛藤になっていったわけです。ですから、彼らの中に新しい文化が生まれてこない限り、その厳しい状態は解決していかないだろうと予想できます。

文化はそんなふうにお互いに対立状態になりがちな人々の間の関係を調整して、一緒に生きていくためにほんとに大事な働きをするわけです。

では「文化」って何でしょう? これは文化を研究する専門家の間でもみんな一致する定義があるわけではありません。むしろ「文化とは何かを問うこと自体、とりあえずやめておこう」みたいな感じで、それぞれが文化だと思うことについて研究したりしています。

lab_08_43_01.jpg 私は「文化とは何か、どこにあるのか:対立と共生をめぐる心理学」(新曜社)*1という本でその問題について具体的な事例を取り上げながら考えてみましたが、なぜ定義がむつかしいかというと、例えば「日本文化とは何?」と言われてもはっきりとした基準はないし、その社会の文化を表す内容とされるものも時代が変わると内容も全然違ってきたりします。「だれが日本文化の担い手なの?」と聞かれても、その成員の範囲は曖昧で限定できず、「その文化がある地域はどこなの?」と言われてもはっきりとした線引きができない。なんだか曖昧模糊としたもので、研究上は言い訳的に「国」とか「国民」とかで線引きしてごまかしているだけです。

そんな風にすごく曖昧だけど、でも他方で「私たちの文化」というものは、その人の生き方に大きくかかわってきますし、それは特に「異文化」の中に入ったときに切実に感じられるものとなります。それは決して単なる「ごまかし」のものではない、切実なリアリティを伴って感じられる「実体」でもあります。曖昧なんだけど実体的でもある、あるようでないし、ないようであるみたいな不思議な性格をもつのがそもそも文化ということなんだというのが私の基本的な考え方で、今回の科研プロジェクトも理論的にはその議論がひとつのベースとなっています(「文化の本質的な曖昧さと実体性について:差の文化心理学の視点から文化を規定する」質的心理学研究第12号44-63頁)。

人がお互いのぶつかり合いをなんとか調整して生きていく上で文化って大事だよね、と言いながら、他方で文化って曖昧なものだよねという話をしました。なんででしょう?

研究者としては「いろんな文化があって面白いよね」という「知的好奇心」もありますけれど、やはりそれだけではなくて、違う文化がぶつかり合ってなかなか解決できないという深刻な問題が世界中で生じているからでもあります。違う文化を紹介する番組をテレビで見て楽しんでいる分にはいいですが、身近に「異文化」の人がいて、一緒に暮らさなければならない状態になると、そう気楽なことも言っていられなくなります。

でも、なんで異文化の人とはぶつかってしまうのでしょうか? 「文化とは何か、どこにあるのか」ではそのことを理論的にも説明してみたのですが、簡単に言うと「お互いに生きていく上で大事と考えていることが深刻にずれてしまっている」ということが多いからです。人がほかの人と一緒に生きるために欠かせない「規範」が対立してしまうからです。例えばこの科研研究の大元にもなっている、日中韓越の国際共同研究「子どもとお金」*2では、子どもの友達同士のおごりがよいことか悪いことかということについて、日本と中国や韓国の考え方が正反対であることが見いだされています。「おごり」はお互いの関係を深めるのに大きな働きもしますが、やりかたによっては「相手を支配する道具」にもなるし、それこそ「わいろ」のような働きをすることもある。そのどちらの面に注目して人間関係を作っているかによって、友達同士のおごりは親によって推奨されたり禁止されたりしていました。

でも、最初は日本の研究者も中国や韓国の研究者も、そんな考え方の違いがあるなんて想像もしていませんでした。それで日本の研究者は、おごり合いを大事に子どもを育てる韓国の研究者の考え方にびっくりし、もう長いこと日本に暮らしていた韓国出身の研究者は日本人はおごり合いをしなくてケチだ、くらいに思っていて、まさかそんなにおごりを否定的に考えているなんて思ってもみない状態で、「子どものおごりは正しいのかどうか」で大変な議論にもなったのでした。(【読者参加型共同研究「日本、中国と韓国、何がどう違う?」】 第6回-①「文化の違いを考えるとはどういうことなのか?」 参照 )

そうなんです。文化は「どうやってお互いの関係をうまく作っていくのか、どうやってお互いのぶつかり合いを調整するのか」について「規範」を提供するものなのです。でも規範というのはそれを守っている人にとっては「当たり前のこと」で、それに反する別の規範があることには普通は気づきません。だから違う文化の人の振る舞いにすごく違和感を感じたり、場合によって「道徳的に許せない」という感覚をもったりして、対立状態に陥りがちになる訳です。

ここで大事なことは、「自分とは違う規範的な考え方をもって相手が生きているとは気づかない」場合に問題が深刻になるという点です。そこで私たちはこれまで日中韓で「異文化の対話的相互理解授業」を工夫して、相手の文化の中に、自分の視点からは一見すると「変なやり方」とか「ちょっと許せないように感じるやり方」があることに気づいてもらい、その上でお互いにどうしてそう思うのかを尋ね合い、相手の考え方を理解する努力をしてもらう、といった試みを続けてきました。

それができるには、まずは「異文化」を体験してもらうことが大事で、しかし単に自分の視点から見るだけだと、おごり合いの例のように相手の文化が「悪いもの」としか見えなくなって、「相手はどう考え、何を大事にしてそうしているのか」が全然見えてこなかったりします。だから「相手に聞くこと」つまりは「対話的な関係を作ること」が大事なわけです。

そして対話を通してのこの「相手が違う視点をもっている」ということへの気づき、したがって自分の視点だけで問題を理解するとコミュニケーションがうまくいかないことの自覚が作られるというところまでは、これまで私たちがさまざまな形で取り組んできた授業実践で見えてきました。

けれどもそこで一つの限界もまた見えてきました。そのように頭で理解することにとどまっていては、「お互いに異質さをもつ者同士の共生」という課題には届かない、ということもますます強く私たちに自覚されるようになってきたのです。頭では違う考え方や基準があることがわかっても、「感情的に受け入れがたい」という感覚が残ったり、強まったりすることもあるからです。

そうすると違いへの気づきが「こんなに違うんだから、もうお互いに別々に生きていきましょう」という「棲み分け」のような断絶にもつながります。ちょうど狩猟採集民の方たちの対立解消法のようなものですね。

しかし親子や夫婦、職場の上司と部下のような、簡単には解消できない関係の中でその問題が起こる時、つまり、生きる場を共有しなければならない状況に置かれたときは、「違い」を頭で理解できても、感覚的に、感情的に相手を受け入れられないという問題が深刻なこととして出てきてしまいます。

昔の日本社会のように、異文化の人たちと日常的に一緒に生活の場や職場を共有する機会が比較的限られていたときには、異文化間葛藤は「国境の向こう側の問題」として距離を置いて済ませたり、例外的なこととして等閑視される場合が多かったのですが、今は全く状況が異なります。すでに身近にたくさんの文化的他者を抱え、またネット上でも日常的にそういった文化的他者と接する状況の中で、さまざまな葛藤を抱えながら日々をどうやって一緒に暮らせるのか、という、本当の意味での「共生」の在り方が問われています。

単に「理性的に違いを理解する」ことを超えて、「感情的な違和感を無視せずにこれからの共生の在り方を考える」という大きな問題にこれから少しずつ挑戦していこうと、この新しい科研研究「日中韓の大学授業を結ぶ対話的異文化交流授業の開発―共在的実践の生成に向けて」 を始めたわけです。

私たちの科研プロジェクトには日本人だけではなく、在日韓国人、日本に留学した後ずっと日本で仕事をし子育てをしてきた人、中国で少数民族として生まれ育った朝鮮族の中国人、漢族である中国人、日本人の奥さんをもつ韓国人、生まれも育ちも韓国で、韓国在住の研究者等、様々な文化背景をもつ方たちが集まっています。中韓のみなさんはいずれも日本への留学経験をもっておられる方たちです。他方日本人の側にもアメリカや中国への留学経験者が何人も参加しています。

そんな風に自分の生活感覚の中で異文化理解の問題を抱えてきたみなさんにたくさん参加していただきながら、「頭では理解できても感覚的に受け入れがたい」と感じてしまう異文化間関係をどう共生的な関係に発展させていけるのか、日中韓の大学生間の交流授業でどう道筋のひとつを見出していけるのか、そんな挑戦がこれから続きます。

失敗も成功も含め、そのプロセスの一端をみなさんにもほぼリアルタイムでお届けし、この大事な問題をみなさんと一緒に考えていけたらと思っています。お付き合いいただければ幸いです。

lab_08_43_02.jpg 2023年8月に、山西省太原で開かれた講演会の様子です。左から、華東師範大学の周念麗さん、私、東京都市大学の横山草介さんが講演後に会場とのやりとりをしています。私は日中でどれほど子育てについての考え方や感覚が異なるのかについてお話をしました。

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訪問した太原市の東大幼稚園で子どもたちが作ってくれていた歓迎の飾り物。   幼稚園児 との交流の一場面。



参考文献

  • *1:山本登志哉 (2015) 『文化とは何か, どこにあるのか: 対立と共生をめぐる心理学』 新曜社
  • *2:高橋 登, 山本 登志哉編 (2016) 『子どもとお金: おこづかいの文化発達心理学』 東京大学出版会
筆者プロフィール

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山本 登志哉(日本:心理学)

教育学博士。(一財)発達支援研究所 所長。1959年青森県生まれ。呉服屋の丁稚を経て京都大学文学部・同大学院で心理学専攻。奈良女子大学在職時に文部省長期在外研究員として北京師範大学に滞在。コミュニケーションのズレに関心。近著に「ディスコミュニケーションの心理学:ズレを生きる私たち」(高木光太郎と共編:東大出版会)、「文化とは何か、どこにあるのか:対立と共生の心理学」(新曜社)、「子どもとお金:おこづかいの文化発達心理学」(東京大学出版会)、「自閉症を語りなおす:当事者・支援者・研究者の対話」(新曜社)

※肩書は執筆時のものです

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