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【読者参加型共同研究「日本、中国と韓国、何がどう違う?」】 第6回-②「所有の違いから文化差を考える視点」

山本 登志哉(日本:心理学)
姜 英敏 (中国:教育学)
呉 宣児(韓国:心理学)

2019年2月22日掲載

前回は文化について、「〇〇文化というものはあるんだけどない」という、わけのわからない性格をもっているという話をしました。でも「〇〇文化の研究」とか「〇〇文化論」「〇〇文化の歴史」といった感じの本はたくさんありますよね。もちろん日本だけではありません。

さて、ここで不思議なのは、「ある」んだけど「ない」というわけのわからない対象である文化をどうやって研究できるのでしょう?

所有という現象から考える

少し私自身の研究の流れから、その問題を考えていきたいと思います。

私は大学院の修士時代に修論研究で幼児のおもちゃをめぐるやりとり(取り合い、譲り合い、共有など)について、パートで保父をしながら子どもの観察研究をしていました。それでおもちゃをめぐるもののやりとりには1歳ごろからものすごく大きな発達的な変化が起こっていることを見出しました(山本登志哉1991「幼児期に於ける『先占の尊重』原則の形成とその機能:所有の個体発生をめぐって」教育心理学研究、39,122-132)。簡単に言えばそれまで他の子のおもちゃを何も言わずにいきなり使い始めていた子どもが、お互いに相手にお伺いを立てたり、顔色を窺ったりしながら獲得しようとし始めるわけです。

一応「所有」の研究ということで位置づけたので、関連する領域で、ひとつは動物の中での所有の問題を学びました。人間以外の動物にも「所有」とみられる現象はいろいろあって、その在り方は種によって大きく異なるし、そこに進化の道筋をある程度見ることもできます。まあ、だんだん複雑に高度になっていくわけですが。そういう動物の世界を知りたくて、伊谷純一郎さん(故人。今西錦司のお弟子さんで、サルや狩猟採集民の研究で有名。人類学のトーマス・ハックスリー記念賞受賞者)のゼミに出させていただいたりしていました。

また人間の所有と言えば法律の問題でもあるので、民法学者で法社会学のリーダー的な位置にいた川島武宣さん(故人)の「所有権法の理論」という古典的な名著にはまり、川島さんのほか関連する法学者の本を読み漁るようにもなりました。そこでは「所有概念は歴史的に変化するものだ」ということ、そして「その変化はその社会の社会経済的なシステムに依存して(あるいは連動して)決まっている」ということが述べられています(山本登志哉1990「所有の観念化と幼児の集団形成:法社会学と心理学の接点から」奈良女子大学文学部研究年報、34巻89-107)。

というわけで、どうやら人間の所有というのはほかの種との違いをもっていて、しかもその大きな特徴は、ほかの動物とは違って、同じ種なのに社会によって実にいろんな形態の所有があるんだということでした。

社会によって所有のありかたが違うということ

川島さんの議論はその違いが「歴史的な展開をしている」ということがメインでしたが、もう一つ大きな問題は「日本の所有はどうも西洋的な近代的所有の概念から外れるところが多い」ということでした。これも簡単に言うと、ローマ法に淵源をもつ西欧近代の所有権の考え方は、基本的に「私のモノは私のモノ、それをどうしようが私の勝手で、ほかの人は口出しできない」という「個人の所有権」を基礎に作られています。

ところが日本ではこの「ほかの人は一切関係ない、私とモノとの関係だ」というのがどうも完全には当てはまらなくて、川島さんが挙げている例でいえば「ほかの人に本を貸すと、まるでその人が自分の本になったと思ったかのように、なかなか返ってこない」という感じで、「私のモノ」と「あなたのモノ」の区別があいまいになったりします。

ということもあって、私はどうしても違う社会の子どもたちの所有関係が見てみたくて、日本の中ではある独特の考え方で「村」を作って共同生活をしている団体に見学や「研修」に行かせてもらってみたりもしました。ここでは村人は全財産を村に渡してしまい、「私有財産」全くなしで暮らします。必要なものは必要に応じて「村のお店」から持っていきますが、お金はいりません。そういうところで農業その他をしてそれを売ってお金を稼いでいるのですが、それも村のお金となり、個人のお金にはなりません。

私もそこで1週間ほどの「研修」を体験したことがありますが、面白いことにそういう生活を続けていくと、だんだん自分の「所有」の感覚が変わってくるんですね。なんとなく「共有」の感覚が強くなっていく(もちろん元の世界に戻ればまた元の感覚に戻ります)。で、そういうところで育った子どもたちは、やっぱり「私のモノ」という感覚が薄いようなのです。

違いの原因は何?

この違いがなんで起こるのか、ということについては、割とシンプルな考え方は「日本は遅れた社会で、近代的な権利概念が浸透しきれていないからだ」というようなものになります。実際前述の団体の社会では、ある意味で昔の村に近い形で(正確には違いますが)、「私のモノ」の世界がなくて「みんなのモノ」の世界が強いので、子どもも「私のモノ」という観念が育ちにくくなる。これは「前近代」的な生活だからという理解もありえます。

同じように川島さんが活躍されたころなどは、まだ日本は村社会がそれなりに生き続けていましたから、そういう前近代的な社会の状況の結果「私のモノ」という観念が薄くなったのだ、というふうな解釈もありえます。でも本当にそういう理解で済むのだろうか、というのが私の疑問としてあったわけです。

つまり、単に「社会が近代化するとみんな西欧近代のようなものに変わっていく」という単純な話ではないのではないか、経済が近代化してもそこにしつこくその社会の文化が残り続けるのではないか、という可能性が出てくるわけです。

今でいえばこのことは一見すると当たり前の話になりますよね。たとえば中国は今や世界で2番目の巨大な経済力をもっていますが、その中国の人たちが西欧近代的な所有の考え方をしているかと言えば、全然そうではないわけです。そのことはこれまでここでお示しした調査や議論でかなりわかっていただけるのではないかと思います。

ただこういう反論はありうるでしょう。日本の経済力は中国の次になりましたが、その日本は中国や韓国に比べると一見すると「ほかの人のモノをいきなり使わない」といったところに「西欧近代的」な感じが見えなくもありません。なぜそうなるのかというと、「日本は近代化が早かったので、中国や韓国よりも所有の考え方もより早く近代的なものになったのだ」という説明の仕方が思いつきます。さらに中国は国家単位の経済力は世界2位でも、個人当たりのGDPを見ればまだまだ相当低くて、全然西欧近代的な生活になっていないから、所有の観念もまだまだ前近代的な遅れた段階にいるんだ、という考え方です。

で、本当はどうなの?という問題もあって、とにかく違う社会に行って調べる必要を感じ、博論研究で中国に行って幼稚園・託児所に通い、観察研究をしたわけです(山本登志哉1997「婴幼儿"所有"关系行为及其认知结构的发展 日中跨文化比较研究」、北京師範大学研究生院)。違いは歴然としたものでした。

日本の子どもは2歳にもなると、まず相手の意向を確認してから相手のモノを獲得しようとする行動が目立ち始めて、4歳ではそれが当たり前になっています。ところが中国では2歳でそういう行動が出始める点は同じなのですが、その割合が日本よりだいぶ低く、4歳では日本の半分くらいの割合になります。つまり、何も言わずに相手のモノを使い始めたりするのが目立つわけです。この感じ、ここでも議論してきた友だち同士のやり取りの仕方の日中差にもつながる感じがありますよね。その差が実に2歳の段階でもう見え始めるわけです。

差は何の差?

ということで、とりあえずこの所有をめぐる基本的なやりとりについて、すでに2歳の段階からはっきりした文化差が見いだされ始めることが確かめられました。でもそれ、何の差なのでしょうか?文化の差といってもその文化って何なのでしょうか?

とりあえずこの研究は「日中比較」というタイトルで行われているのですから、日本文化と中国文化の違いでしょうか。でも上に書いたように、それは日中の文化の違いというよりも、社会の近代化のレベルの違いの問題で、「前近代的文化」と「近代化された文化」の違いかもしれません。また前回も書いたように、中国には実に多様な文化の人たちが暮らしていますし、漢民族と一口に言っても南と北では話す言葉から違います。私が観察したのは北京の幼稚園・託児所の子どもたちなので、ほかのところではまた違う可能性だってあります。だとすればこの比較は実は北京文化と京都文化の違いだったかもしれません。

ということで、「何の文化の違い」なのか、これだけではなんとも言えないじゃないという話になります。

もう一つ、別の角度からいうと、このモノのやりとりの仕方の違いは個人によってももちろん違います。日本でもわりあい人のモノを自由に使う人がいそうです。逆に中国でも自分のモノと人のモノをきっちり分けたがる人もいるでしょう。実際私の研究でも「違いがある」と言っている根拠は「平均値の差」です。平均値ですから、個人の中でもそれをしたりしなかったりがありますし、個人間でもそのレベルに違いがあります。ただ合わせて平均してみると、やっぱり統計的には傾向の違いが見えてくるよね、ということに過ぎません。

この平均値で見てしまう、というのは、心理学の多くの研究が抱えた深刻な問題の一つです。それは大体の傾向を表しますけど、実際には一人一人の抱えている性格や状況は様々で、平均値から一人の個性的な人を理解するには限界があります。せいぜいが「平均的な人よりこのくらい違う」という形で個人の特徴を表せるだけです。そしてその「平均的な人」というのは、あくまで統計的に人工的に作られた「モデル」であって、実際にそういう「完全に平均的な人」がいるわけがありません。その意味ではどこまで行っても大量のデータから作られたヴァーチャルな世界でのヴァーチャルな人間の話から逃れられないわけです。

「文化」という考え方もそういう面があります。いろんな人を集めて平均的な像を作り、それをその人たちの「文化」と考える。そうすると実際にはいろんな人がいるわけで、「あの人は当てはまらない」「この人は正反対」という例がいくらでも出てきます。なにしろ平均値で言っているだけなのですから、「個性」の問題が見失われてしまう。そしてこのやりかたがひどくなると、いわゆる「ステレオタイプ」で人を決めつけることが起こってしまいます。それこそ「日本人はみんな梅干しが大好き」とかいう話ですね。もちろんそういうステレオタイプから差別につながることも起こります。

差別ということでいえば、平均値によるものではなくて、逆に目立つ少数事例をその人が属している集団の文化の目印にする、というやりかたもあります。たとえばある犯罪が起こったとして、その犯人が○○人だと報道されると、「○○人は犯罪者だ」と主張する人が出たりするような例です。発達障がい者についても、一時期そういうことが大きな問題になりました。

差別の問題に限らず、実際は平均値ではないところで文化を考える見方も普通に存在しています。たとえば日本文化の精髄みたいなイメージで「能」という芸能がありますが、実際問題、日本人の中で能を見たことがある人がどれほどいるでしょう?能が大好きという人と、アメリカのレディー・ガガが大好きという人と、どっちが多いでしょう?......などと考えてみると、そういう人は日本の中では実は圧倒的な少数派だということになります。でもやっぱり日本文化の精髄の一つとして認められるわけです。

というわけで、心理学の研究では多数派や平均値で文化の特徴をとらえようとすることが多いですが、実際に文化はその基準でだけ決まるのでもないということになります。多くの文化論で見られるように、場合によってはごく少数の人が示している特徴がその文化のシンボルになることもあるわけです。

差の文化心理学

というわけで、ついつい前置きが長くなってしまいました。この「集団のものとも言い切れないし、かといって個人のものにもしてしまえない」というややこしい文化の性格をそのままに、文化を理解する手立てが必要になります。その方法として私たちが提唱しているのが「差の文化心理学」という新しい見方です。

手前味噌ですが、2004年に北京で開かれた国際心理学会で、文化心理学の理論家のヴァルシナーさんにコメンテーターをお願いしてお小遣い研究のシンポジウムをやったとき、彼が開口一番私たちの研究を「比較文化心理学と文化心理学の両方の限界を超える研究が現れた」と評してくださったんですが、その理由も実は個人でも集団でもどちらのものでもないものとしての文化を研究する新しいスタンスを感じ取ってくれたからではないかと思っています。

次回は「文化の現れかた」ということから説明を始めてみましょう。「文化とはこういうものだ」と勝手に決めてしまうのではなく、ごく素朴に、どういうときに私たちが文化を感じ取るのか、という体験談から文化を考えてみようという話です。


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筆者プロフィール

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山本 登志哉(日本:心理学)

教育学博士。子どもとお金研究会代表。日本質的心理学会元理事・編集委員。法と心理学会元常任理事・編集委員長。1959年青森県生まれ。呉服屋の丁稚を経て京都大学文学部・同大学院で心理学専攻。奈良女子大学在職時に文部省長期在外研究員として北京師範大学に滞在。コミュニケーションのズレに関心。近著に「ディスコミュニケーションの心理学:ズレを生きる私たち」(高木光太郎と共編:東大出版会)


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姜英敏 Jiang Yingmin(中国:教育学)

教育学博士。北京師範大学国際比較教育研究所副研究員、副教授。1988年~1992年に北京師範大学教育学部を卒業。1992~1994年、遼寧省朝鮮族師範学校の教師を経て、北京師範大学国際と比較教育研究所で修士号、博士号を取得し、当所の講師として務め、現在は副教授として研究・教育に携わっている。在学期間中、1997年~1999年日本鳴門教育大学に留学。また2003年~2005年はポスドクとして、日本の筑波大学に留学し、研究活動を行い、さらに中央大学や早稲田大学、青山学院大学の教員と積極的に日中の学生間の交流授業を進めてきた。日本と韓国、中国を行き来して、実際の授業を観察した道徳教育の国際共同比較研究。


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呉宣児 Oh Seon Ah(韓国:心理学)

現在、共愛学園前橋国際大学・教授。博士(人間環境学)。韓国済州島生まれ育ち。韓国で大学卒業後、一般事務職を経て、1992年留学のため来日。1995年お茶の水女子大学大学院家政学研究科修士課程(児童学専攻)修了、2000年九州大学大学院人間環境学研究科博士課程修了(都市共生デザイン学専攻)。その後、日本学術振興会外国人特別研究員、九州大学教育学部助手を経て、2004年から共愛学園前橋国際大学に赴任。文化心理学・発達心理学・環境心理学の分野の研究・教育活動をしている。単著「語りから見る原風景―心理学からのアプローチ」(2001) 萌文社、共著「「大人になること」のレッスンー「親になること」と「共生」」(2013) 上毛新聞社、ほか多数。前橋市の地域づくり推進活動のアドバイザーや地域の小学校で絵本読み聞かせボランティア活動等もしている。

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