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【読者参加型共同研究「日本、中国と韓国、何がどう違う?」】 第6回-⑦「常識から立ち上がる『文化』」

前回は文化集団というものが、曖昧なものであるにもかかわらず、とても安定的で固定的なもののようにイメージされるのはなぜなんだろうという話の中で、「違う文化」を感じるときにはその人たちのふるまいに自分の持っている「常識」とのズレを感じることが出発点になっている、という話をしました。実はこのことが文化差とか文化集団というものを考えるうえでの一番のミソなのだ、というのが私たちの考え方です。

そこで「常識」って何だろう、ということから話を始めてみましょう注1。「常識」というのは「こう振る舞うのが当然だよね」とか「こう感じて当たり前だよね」「こう考えるのが普通だね」といったものでしょう。逆に言えば、誰かがそれに反したふるまいや感じ方、考え方、評価の仕方などを行う時には「非常識」と見られ、時に厳しく叱責されたり攻撃されたりします。

また、「常識」というのはだいたいが空気のような存在で、普段はほとんど意識されません。お店屋さんに並んでいる物を欲しい時にはお金を払うと思いますが、その時「お金を払うことが常識的だからそうする」なんて全然意識しませんよね。意識されるのは、その常識が破られたときです。

ご飯を食べるときに、おにぎりやパンなどは別として、お箸やスプーン、フォークなどの食器を使って食べるのが日本では常識になっています。東アジア地域では、だいたいそうであるようですね。だからいちいち箸を使うときに「これこそが常識だから」なんて考えもしません。

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それをしないのは離乳食が始まったころの子どもぐらいのもので、手づかみで食べたりします。そういう時には親はそれをとどめてスプーンで口に運んであげたり、食器を持たせて、それに大人が手を添えて食べさせてあげたりしています。そういうときは、まだこの子は小さすぎて「常識」が「わからない」から仕方ないよね、と大目に見られますが、いずれ常識が身につくことが期待されています。

ところが大人になるとそうはいきません。結婚披露宴などのパーティーに参加した人が、いきなり手づかみでおかずを食べ始めたとしたら、周囲の人たちはビックリして、「なんと常識はずれな人なんだろう!」と思うでしょう。中には怒り出してその人を攻撃する人も出てくるかもしれませんし、パーティーから追い出される可能性だってあります。またその人の友達や家族の人がその場に居合わせたら「何と恥ずかしい」と感じることでしょう。 たとえば手づかみで食べたその人が、その時点でものすごく酔っぱらっていてほとんど前後不覚に近い状態だったとしたら、その人自身も酔いがさめた後に、そのことを思い出したり、周りから指摘されたりして、「なんと恥ずかしいことをしてしまったことだろう」と、穴があったら入りたいような気持ちになることも考えられます。

ということは、「常識」というのは、あまりにも当たり前すぎて普段はそんなに意識することもないけれど、それを侵すと周囲から非難され、自分自身も精神的にダメージを受けるようなものだと言えます。そんな風に「常識」には、周りからの圧力や自分自身の心理的な仕組みで、それに従うことをその人に強制するような力があります。社会学的に言えばサンクション(sanction)注2という仕組みです(行動主義の心理学で言えば強化子注3でしょう)。

さて、すでにお気づきの方も多いと思いますが、この「手づかみでは食べない」、という習慣は、別に「人間ならみんなそう」というわけではありません。手づかみで食べる習慣を「手食文化」というようですが、世界の人口の44%の人が、この手食文化に属しているそうです(北岡正三郎(2011)『物語 食の文化』中公新書)。

lab_08_37_02.jpg Richard from kansas city, united states, Ethiopian food, CC BY 2.0

手食文化の世界では、手食は「非常識」でも「礼儀知らず」でもありません。逆にそれが常識で礼儀正しいふるまいとなります。

もし、みなさんがそこに行って食事を振る舞われ、「郷に入れば郷に従え」の精神で、慣れないながらも決心して手づかみで食べたとします。ところが、それを見た周りの人たちがびっくりすることもあり得ます。たとえばそれは、左手で食べたときなどです。なぜなら文化によって、左手は不浄の手と考えられ、食事に使うことはとんでもないことと思われたりするからです。つまり手食には手食の作法があり、侵してはならない決まりがあり、それが常識になっているので、それを無視したふるまいは周囲にショックを与え、場合によっては強い非難攻撃の対象にもなりうるわけです。

そろそろポイントをまとめましょう。
私たちは日ごろいろんな「常識」をもって生きています。それはあまりに当たり前のことで、日ごろ気付くこともないくらいなのですが、相手が常識的にふるまわないことがあると驚き、ショックを受けたり怒りを感じたりしますし、自分が何かの理由でそれに反したことをすれば、自分自身にショックや怒りを感じたりして、お互いに常識に従って行動するようになっています。

ここで大事なことは、「常識」というのは私個人がもっているものではない、ということです。周りの人たちも当然にその「常識」をもっていて、それに従って生きていると、私たちは改めて言うまでもなくそう思い込んでいます。それは私だけではなく、「みんなが当然に従うべきもの、尊重すべきもの」なのです。

けれども世の中にはいろんな人がいますから、その「常識」に従わない人たちもいます。まず赤ちゃんは「常識」を理解できないので、これは仕方ないこととして大目に見られるでしょう。けれども大人になってそうであれば、許されなくなり、お酒を飲んでの失態のように一時的なことであれば「酒の上でのことは許される」こともあるかもしれませんが、そうでない場合は「あの人は非常識な人だ」という形で周りから非難され、そのふるまいの理由はその人個人の人格、つまり「非常識な人間」「困った人」というところに原因帰属されることになります。

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こういう形で原因帰属が個人に向かうときには「文化の違い」は現れません。
ところがその「非常識」に見える振る舞いが、その人一人ではなく、その人を取り囲む人たちがみんなそうで、その人たちはそのふるまいを見ても全然ショックを受けないどころか、当たり前のような顔をして、場合によってはほめたたえたりすることさえある、ということを知ると、その行為はもはや「変な人」というレッテルで個人に帰属されることができなくなります。そして「変な人たち」という、集団に帰属されるようになるのです。

この時に、その人たちのことが「私たちの常識が通用しない、別の常識をもった人たち」の集団として見えてきます。それはその人たちにとっては常識なので、その常識に従わない人に対しては同じように、周りから非難されたり自分自身が恥じたりします。サンクションがそこに働くのですね。

この「異なる常識で動いている人たち」が、つまりは「異なる文化をもった人々」だということになります。そうすると、今度はその人の「非常識」に見える行動の原因は、今度はその人個人に帰属されず、「文化」に帰属されることになる訳です。ここに「異文化集団」が立ち現れることになります。

さて、このように文化の立ち現れ方を考えることで、文化というものが曖昧であり、集団のものと考えられながらも、その集団の境目もはっきりしない曖昧なものだ、という不思議な性格が、全く合理的なものとして無理なく説明できることになるのです。この理論が、私たちが作ってきた「差の文化心理学」の議論なのですが、いよいよ次回、その内容についてご説明できるところまでたどりつきました。これで文化に関する様々な議論が追い込まれてきた袋小路(アポリア注4)を解決する大事なカギが得られると考えています。



  • 注1 ここではわかりやすく「常識」という言葉で説明をしていきます。これは差の文化心理学の理論で用いているEMS(Expanded Mediational Structure:拡張的媒介構造)という概念では相互作用を調整する規範的媒介項(Normative Mediator)と述べていたものと同じです。(Yamamoto, T & Takahashi, N. (2007) Money as a cultural tool mediating personal relationships:Child development of exchange and possession. in Valsiner, J. & Rosa, A.(ed.)The Cambridge Handbook of Sociocultural Psychology.New York: Cambridge University Press. 山本登志哉(2015)『文化とは何か、どこにあるのか:対立と共生をめぐる心理学』,新曜社 ほか)
  • 注2 サンクションとは、ある社会の中で、望ましいとされる行為については称賛が与えられたり、肯定的に評価されます。逆に望ましくない行為には非難や制裁が与えられます。ある行為について社会の人々が与えるこれらの反応がサンクションと言うことになります。犯罪を犯すと罰せられる、偉業を達成すると賞が与えられる、などもそうですね。これらのサンクションによって人の行為が社会的にコントロールされるということになります。
  • 注3 強化子とは、オペラント条件付け理論(新行動主義)の基本的な概念です。簡単に言えば動物は自分がやった行動が自分にとって都合の良い結果をもたらせば、その行動をより多く繰り返すようになり、都合の悪い行動についてはそれをしなくなる、という「経験による行動の変化」を引き起こすような仕組みを持っている、と考えられるわけですが、この時に「都合の良い結果」をその行動を強める働きをする要因と言うことで「(正の)強化子」と呼び、逆にや「都合の悪い結果」をその行動を弱める働きをする因子と言うことで「(負の)強化子」と呼びます。(強化子の子は子どもの子ではなく、原子・分子・因子の子と同じ使い方で、「素になるもの」といった意味です。)賞と罰、という言い方でも同じです。なお、最近は正の強化子を「好子」、負の強化子を「嫌子」とも呼ぶようになっています。
  • 注4 アポリアとは、解決のつかない問題・事柄のことです。さらに言うと、単に解決がむつかしいというだけではなく、もともと原理的に解決がありえない問題、つまり問うべき問題としては本当は成立していない疑似問題をそのように言います。「文化は個人のものか集団のものか」というよくある問い方もそもそも問いの立て方に間違いがある、すなわちアポリアである、というのが本稿の立場になります。



参考文献

  • 北岡正三郎(2011)『物語 食の文化』中公新書

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筆者プロフィール

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山本 登志哉(日本:心理学)

教育学博士。(一財)発達支援研究所 所長。1959年青森県生まれ。呉服屋の丁稚を経て京都大学文学部・同大学院で心理学専攻。奈良女子大学在職時に文部省長期在外研究員として北京師範大学に滞在。コミュニケーションのズレに関心。近著に「ディスコミュニケーションの心理学:ズレを生きる私たち」(高木光太郎と共編:東大出版会)

※肩書は執筆時のものです

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