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【読者参加型共同研究「日本、中国と韓国、何がどう違う?」】 第6回-④「文化が立ち現われることと『原因帰属』」

前回はCさんのエピソードについて書きましたが、ここでちょっと視点を引き気味にして、もう一度その「困ったCさん=困った中国人」という理解について、それが何を意味するのかを少しずつ考えてみましょう。

そしてその問題を考えるために、一つの手がかりとして、心理学の「原因帰属」という考え方を使ってみます。まず物理的な「原因」と心理的な「原因」の違いについての簡単な説明から始めます。

物理的な世界の出来事は、高いところに物があれば(位置エネルギーという原因)、物は落下する(位置エネルギーが運動エネルギーに変化することの結果)など、「因果関係」が客観的に存在していて、実験その他でその原因を明らかにできる、と考えるのが普通です。

ところが心理世界はなかなかそう単純に事が運びません。例えばある人が泣いていた(結果)として、なぜ泣いているのか(原因)を考えてみると、失恋したからかもしれません。あるいは何かに失敗して、自分の情けなさに泣いているのかもしれません。「今泣いている」ことは分かっても、その原因はじつに多様です。

ではその原因を知るには相手に聞いてみたらいい、ということになるでしょうか? しばしば「本当の気持ちは本人にしかわからない」とも言いますし。

とりあえず話を簡単にするために、その人は「嘘」は言わないという風に単純に考えてみましょう(もちろん私の専門のひとつである供述分析ではそんな仮定は成り立つわけもないのですが)。その場合なら聞いてみれば原因がわかるでしょうか?

ところがそうは問屋が卸しません。本人だって「私にだって分からない。ただ訳もわからず、涙が出て止まらないんだ」と答えることもあります。実際私もある映画のあるセリフを聞いた瞬間に涙が止まらなくなったことがありますが、自分でもなぜなのか今もってわかりませんし、二度目に見たときは、なんとも感じなかったのです(笑)。

まあそういうこともあるだろうけど、それは例外で基本的にはわかるはず、と言えるでしょうか? 確かに自分が何で泣いているのか、あるいは怒っているのか等、自分の感情の理由が分からないと、混乱して日常生活も送れなくなるので、そう思いたいところです。

けれども仮に「私はこれが理由で悲しんでいる」と本人が確信していても、実は他人から見て「それは違うだろう」と感じることもあるし、あとから自分自身で「本当はそうじゃなかった」と思い直すこともあります。その極端な例は、精神分析で議論されてきた「抑圧」という話です。神経症の症状は、実は本人も意識したくない自分の欲望等を抑圧して意識しないようにし(無意識)、その代わりに何かに置き換えてこっそりと表現していることだと考えて、分析者はその隠された葛藤を読み解くわけです。荒唐無稽に思える夢もその表現と考えます。

そのような他人による分析を経て、本人も「真の情動」に気づくことで、訳もわからずに振り回された症状も、コントロール可能になるというわけです。フロイトはその隠れた欲望をみんな性のエネルギー(リビドー)で理解してしまおうとする、汎性欲論と呼ばれたような、かなり無理な議論を展開しましたので、それは置いておきましょう。でも別に神経症の話ではなくても、私たちの日常生活でもなんだかわからずにしんどい思いをしている時に、何がその「原因」かに気づくことで問題解決に至ったり、気持ちが落ち着いたりすることがありますから、それから考えると精神分析の話もそうかなあと思えるかもしれません。

その考え方の妥当性については考えると大変に面白いのですが、そこに入り込むと本題になかなか戻れないので、今はここまでにしておきましょう。ただ少なくとも次のことは言えることになりそうです。つまり、物理的な世界の因果関係と違って、人間の心理が絡む出来事は簡単に原因と結果がわかるようなものではないということ。そしてある人が「これが原因」と思ったとしても、他の人は別の事が「原因」と思うこともあるし、行為の本人が分かるとも限らない、ということです。

というわけで、人の行動の理解にはどうしても「解釈」という「主観的」な部分がついて回ります。ということは、ある人が「これが原因」といってもそれはその人にそう見えるだけで、「客観的にそうだ」とはなかなか断言できません。

でも面白いことに、「その人が何を原因と考えたか」によって、その人の行動がある程度予測できるのです。例えば最近凄く太っちゃった、と気にしている人がその原因を「最近食べ過ぎだからな」と理解したとすると、「ダイエット」に走る可能性が見えてきます。けれどもその人が「最近ストレスが溜まってたから」と、ストレス太りと考えたとすると、今度はストレス解消の工夫をする可能性が見えてきます。「親も中年になるとそうだったし、遺伝だな」と思えば、特に行動を起こさないだろうと予想できます。

つまり人間にとっては「本当の原因」ということよりも「何を原因と考えたか」の方が心理学的には大事な問題です。この「その人が何を原因と考えたか」ということを「何に原因を帰属したか」という風に表現し、それを「原因帰属」と呼んで研究の対象にするわけです。物理的な世界の因果関係とは異なる理屈をもった、心理的な世界の主観的な因果関係理解の仕組みの研究とも言えます。しかも人は実際にその理解に基づいて行動するわけで、それは人間理解には欠かせないのです。


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コミュニケーションも同じです。たとえば誰かからプレゼントをされたとします。誕生日なら「誕生日プレゼント」と思うでしょう。お盆のころなら「お中元」として、暮れのころなら「お歳暮」として、12月25日(または24日)なら「クリスマスプレゼント」として理解するでしょう。つまりそれをくれた人の「プレゼントの原因」をだいたいそういう形で理解します。そして機会があればそれに見合ったお返しをしたりもする。そういう「因果関係理解」に基づく応答が行われる。

でも、たとえばクリスマスに異性から花束を贈られたらどうでしょうか? かなり微妙になりそうですね。もしそういう相手の行動の原因を「相手が自分を好きだから」と理解して「愛の告白」と解釈したら、喜びと共にそれを受け入れるか、あるいは緊張して拒否するか、みたいな形で対応するでしょう。でもその原因を「クリスマスのプレゼント」として理解すれば、割と気楽に「ありがとう」と言っておしまいのはずです。


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つまり人のコミュニケーションというのは、「こういうふるまいを相手の人はなぜしたのか」ということについての、その人なりの解釈に基づいて行われています。そして解釈が異なれば応答の仕方も変わってくる。言い換えれば「原因帰属」を、私たちはコミュニケーションの中で無意識のうちに常に行っているわけで、その帰属の性質がコミュニケーションの方向を決定しているわけです。

では次回は、この「帰属」の仕組みから文化の立ち現れを説明してみましょう。


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筆者プロフィール

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山本 登志哉(日本:心理学)

教育学博士。(一財)発達支援研究所 所長。1959年青森県生まれ。呉服屋の丁稚を経て京都大学文学部・同大学院で心理学専攻。奈良女子大学在職時に文部省長期在外研究員として北京師範大学に滞在。コミュニケーションのズレに関心。近著に「ディスコミュニケーションの心理学:ズレを生きる私たち」(高木光太郎と共編:東大出版会)


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