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【日本】「見守る」の先にある「受け止める」ということ -秋田大学教育文化学部附属幼稚園での保育実践-

要旨:

日本の保育の特徴として、保育者の「見守る」ということがあげられます。しかし、日本の保育では、子どもの思いや考えを「受け止める」という保育者の援助もまた大切にされており、日本の保育の特徴としてあげることができるのではないかと考えています。 本稿では、秋田大学教育文化学部附属幼稚園の4歳児クラスのY君の姿と保育者の語りや観察記録から、「見守る」保育の先にある、保育者が子どもの思いを「受け止める」ということについて考察します。そして、子どもの思いを「受け止める」ということは、保育者の子どもの思いに寄り添い続ける覚悟が必要であることと、積極的で専門的な保育者の援助であることを述べたいと思います。

キーワード

日本,保育実践,見守る,受け止める,保育者
はじめに

第一著者(瀬尾)は、今から約2年半前、アメリカジョージア大学で在外研究を行いました。その際、ジョージア大学附属の就学前教育施設である、マクフォール・センター(McPhaul Center)の保育者の方々に、日本のある幼稚園の映像を視聴していただく機会を得ました。その視聴していただいた映像は、4歳児クラスの子どもたちが給食の準備を自分たちでおこなっているものでした。

その映像の冒頭部分には、給食の準備が少し遅くなったAくんと、給食の準備を早々に終えて、Aくんにちょっかいを出しているBくん、AくんとBくんのやり取りを気にかけながら、お味噌汁をよそっている保育者が映っていました。その映像を見た時に、保育者の方々から、「AくんとBくんが揉めているのに、なぜ保育者は止めないのか?」「なぜ、AくんとBくんの所に行かずに、汁物を注ぎ続けているのか?」という質問が出ました。

私は、その時「そこで、保育者がいざこざを止めることは簡単です。でも保育者はすぐには止めることをしません。日本の保育者は、いざこざが起きた時に、子どもたち同士で解決することができると信じている、期待しているように思います。それは、無視しているわけでもなく、ただ見ているだけでもなく、見守っているんです」といった、ニュアンスのことを必死に伝えたことを覚えています。そして、「見守るって何?」という、至極素朴な質問に上手く回答することが出来ずに、何となくその時の会話が終わってしまった、という苦い思い出があります。

幼稚園教育要領解説(2018)には、幼児が充実感をもって幼稚園生活を行うための教師の配慮事項の第一として、幼児のありのままの姿をそのまま受け止め、期待をもって見守ることが大切であることが述べられています。そして、「見守る」ということは、幼児のすることをそのまま放置することではなく、幼児が他者を必要とするときに、それに応じる姿勢を常にもつことが大切であることが記載されています。それは、幼児の発達に対する理解と自分から伸びていく力をもっている存在としての幼児という見方に支えられて生まれてくる教師のまなざし、あるいは言葉や配慮であると書かれています。「見守るって何?」について答えるためには、保育実践から、日本の園での教師の子どもへのまなざしや、かかわりを丁寧に記述して伝えることが大切だと考えています。

これまでも、日本の園での遊びの場面では保育者は頻繁に介入するより見守ることが多いことや、見守る保育が、日本の保育者の専門性であることが示されています(e.g.,中坪,2016;Hayashi&Tobin, 2015)。しかし、日本で行われている保育とアメリカで行われていた保育を比較すると、「見守る」ことだけでなく、その後の保育者の援助にも特徴的な違いがあるように思います。

マクフォール・センターで保育を観察させていただいた時にも、Tobinら(1989)が指摘しているように、子ども同士でいざこざが起こりそうな時に、直ぐに保育者が「介入」し、自分の要求を友達に自分の言葉で表現するように保育者が求め、問題解決を図っていました。また、クラス全員で手遊びを行う一斉活動の際、一人の女児が保育者の指示に従わなかったとき、保育者が「◯◯さん、あなたが加わらないならば、好きにすればいい」といって、集団から距離をとり、保育者がその子どもに寄り添う援助はしていませんでした。

それに対して、日本では、子ども同士のいざこざが起きた時に、保育者が直ぐには「介入」せずに子どもたちを見守り、子どもの気持ちや行動を「受け止める」援助が行われています。また、保育者の指示に従わない場合や大人側から見ると一見困った行動をする子どもに対しても、集団から距離を置くようなことをするのではなく、保育者が状況に応じて寄り添う援助をしていました。つまり、保育者は子どもの一見困った行動の裏にある気持ちをおしはかり、子どもの気持ちや行動を「受け止める」援助をしています。

本稿では、「受け止める」援助を、幼児一人ひとりと直接触れ合い、子どもの表情や言動から、子どもの思いや考えをおしはかる援助と定義をします。そして、秋田大学教育文化学部附属幼稚園(以下、附属幼稚園とする)での4歳児クラスの半年間の保育観察記録と保育者の語りから、「見守る」の先にある「受け止める」という保育者の援助に着目して、日本の保育実践について考察したと思います。

 
1.「見守る」という保育

幼稚園教育要領(2018)には、保育者の望ましい行動として、幼児の行動を温かく見守り、適切な援助を行うことが明記されています。そして、日本の保育の特徴や保育者の専門性を語るとき、「見守る」について、誰もが言及することのように思います。Hayashiら(2015)は「見守る」には2つの意味があり、1つは、保育者が見ていることで、子どもたちに自分自身で物事を解決しようと挑戦する自信と安心を与え、子どもたちの社会的関わりを支援すること、もう1つは、保育者の存在を感じさせるという意味合いがあると考察しています。また、中坪(2016)は、日本の保育文化が大切にしてきた「見守る」という行為の実践的意義のポイントとして4つをあげています。

1つ目は、介入はしないが決して関与をしないわけではないということ。2つ目は、保育者が感情を表出したり抑制したりして保育者の感情を操作し、子ども自身で問題解決すること。3つめは、保育者のポジショニングで、子どもたちの視界の外にあえてポジションをとることで自律的問題解決を促すこと。4つ目は、問題解決が難しい場合に、こう着状態を打破するために、ごく短い言葉で一次的に介入して、子どもが自分で考えて問題解決するように導くことです。

先に紹介をさせていただいた、給食の準備中のいざこざの場面でも、保育者はAくんとBくんに対して「もうすぐご飯だよ、みんなで食べようね」とだけ問いかけて、あくまでも子ども同士で問題解決を図ることを信じて、見守っていました。その後、1人の男児が、AくんとBくんの間でいざこざが起きているのを見かねて「ねぇねぇ、何やってるの(もうご飯だよ)」という問いかけをしたことをきっかけに、2人は自分の席に戻っていきました。ここで、AくんとBくんのいざこざ場面は終わっていますが、その後、「いただきます」の挨拶の後、保育者はAくんの所に、そっと駆け寄り、背中に手をあてて、Aくんと目をあわせて、にっこりしました。この事例では、単に保育者は「見守る」という援助をしているわけではなく、その後の、Aくんの気持ちや行動を「受け止める」援助をしていることがわかります。

「見守る」という保育者の援助は、子どもたち自身で問題解決するように促すことはできます。しかし、子どもたち同士で問題解決をした後に、それぞれの子どもが気持ちを立て直し、その後の活動へと主体的に取り組むためには、保育者の温かな「受け止める」援助が大切であると思います。日本では、幼児理解が保育の原点といわれています。そして、『幼児理解に基づく評価』(文部科学省,2019)では、幼児理解のためには、幼児と生活を共にする中で、その幼児が今、何に興味をもっているのか、何を実現しようとしているのか、何を感じているのか等を捉え続けなければならないと書かれています。このように、日本の保育では、子どもの思いや考えを「受け止める」援助が大切にされています。

もちろん、アメリカでも幼児理解が大切にされ、子どもの個々の発達に応じて保育者が子どもに関わっていました。しかし、私が観察させていただいた、マクフォール・センターでは、先生方のかかわりは「教え導く」が主であり、先生方に子どもへのかかわりについて伺ったところ、「子どもがキンダーガーデン、小学校に進んだ時に困らないように、恥ずかしい思いをしないように指導をしている」と話していました。これは、幼児の主体的な体験を重視して発達を包括的に捉える生活基盤型の保育スタイルをとっている日本と幼児教育の主目的が小学校就学に向けた準備にあり、就学レディネスの涵養に重点を置いている就学準備型の保育スタイルをとっているアメリカといった保育スタイルの違いが、保育者のかかわりの違いとなっている一要因と言えるでしょう。

日本の保育では、「受け止める」援助が大切といわれていますが、実際に日本の保育実践で、「受け止める」援助は、日常的に行われているのでしょうか。附属幼稚園での観察と保育者の語りから考えたいと思います。

2.附属幼稚園での保育実践-「見守り」「受け止める」ということ

(1)秋田大学教育文化学部附属幼稚園の特徴と保育
多くの国立大学附属幼稚園がそうであるように、秋田大学教育文化学部附属幼稚園も、幼稚園教育要領にうたわれている「子どもの自発的な活動としての遊び」を保育として体現しようとしています。子どもの主体性を重視し、子どもが遊びの中で見せる姿に寄り添い、その姿から幼児期に獲得されるであろうことを環境にしみ込ませながら、結果として発達していく姿を大切にしながら、保育を行っています。

就学前の保育施設は、保育時間も預かり保育の時間等を含めると比較的、長時間の保育をしている園が多い中、附属幼稚園は、保育時間が4時間という短時間保育の中で、本来の子どもの発達や幼児期にふさわしい保育を考えています。

現在は、年少児2クラス、年中児、年長児は1クラスずつの計4クラスです。いずれのクラスも担任1名、副担任1名で構成されています。担任は県との人事交流によって配属されています。幼稚園教諭の免許状は保有されていますが、幼稚園教諭として現場にたたれることは初めての、小学校教諭、特別支援教諭です。そのため、最初は戸惑うことも多いようです。たとえば、多くの先生方は小学校や特別支援学校で「一斉授業」を基本とした授業をされてきています。もちろん、小学校や特別支援学校でも一人ひとりの子どもに応じて授業は組み立てられてはいますが、幼児教育・保育とはまた違うようにも思われます。

(2)4歳児クラスのYくんの姿と保育者
第一著者は、2021年6月から2021年11月にかけて、附属幼稚園で4歳児クラスのYくんを中心とした保育観察を6回実施しました。附属幼稚園の特徴でも述べさせていただいたように、担任は県との人事交流によって配属されており、4歳児クラスの担任の今野先生も特別支援学校教諭で、附属幼稚園に配属されて2年目です。また、副担任の小野先生は、附属幼稚園に赴任して5年目となりますが、11年間の保育経験があります。

ここでは、①Yくんの姿や保育者とのメールのやり取り、②保育者の語りを通して、「見守る」の先にある「受け止める」援助について考察したいと思います。

①Yくんの姿について保育者の記述と観察の記録から
本稿では、4歳児クラスのYくんと保育者のやりとりから、「受け止める」援助について考えてきますが、はじめに、4歳児クラスの担任の今野先生と副担任の小野先生が4歳児クラスになったYくんの姿をどのようにとらえてかかわってきたのか紹介したいと思います。

以下の文章は、担任の今野先生が4歳児クラスになってからのYくんの姿と、Yへの保育者のかかわりについて記述したものです。

Yくんはとにかく体を動かして遊ぶのが大好きな元気な男の子です。何事にもまっすぐで、一生懸命で、自分の興味のあることにはまっしぐらという感じです。

4歳児になって担任が2人とも替わり、保育室も替わり、Yくんはとても不安な様子でした。緊張した様子で毎日登園し、私たち担任と話すときも目を合わせず、恥ずかしそうに敬語を使って話していました。そうかと思えば、元同じクラスの友達に「◯◯くん、今日幼稚園に来るのぼくより遅かったね」とわざと言いに行ったり、身支度で少しうまくいかないことがあると「もう嫌だ! 何にもしたくない!」と泣いたりしていました。友達ともよくもめていて、手を出してしまうこともしばしば。戦いごっこのつもりがだんだん本気になることが多く、鉄砲玉のように飛んでいくYくんを私たち担任は必死で止めに走っていました。友達との戦いに敗れ、大泣きしているYくんを抱っこしようとすると、いつも「やめて! 降ろして!」と抱っこさせてはくれませんでした。この頃のYくんの体には常に力が入っていて、さわると固く緊張していました。

まずは私たちがYくんのことを好きだということが伝わるように、安心して何でもしてもいいよということが伝わるように、Yくんにたくさん話しかけ、Yくんの話をよく聴くようにしました。また、「やめて! 降ろして!」と言うものの、Yくんには触覚過敏等の特性は見られず、これまでの幼稚園生活で家族以外の人に心地よく体を預けたりスキンシップをしたりする経験が少なかったのではないかなと感じました。そこで、人に触れられることや、体を預けることが心地よいと感じられるように、様々な機会にYくんと手をつないだり、話をするときに優しく体に触れたりするようにしていました。

ある日、またしても友達とのいざこざで号泣しているYくんのところに駆けつけ、そばに寄って肩を抱くと、これまでのようには嫌がらず、私に肩を抱かれたままでYくんは泣き続けました。次第に私の体に寄りかかり、そのまま気持ちが落ち着くまでYくんは泣いていました。ほぼ毎日Yくんは友達ともめごとになり、その度に大泣きして、という日々が続いていましたが、このあたりからYくんはだんだん私たちに抱っこさせてくれるようになりました。抱っこすると、怒りやいらだちで固く緊張したYくんの体から次第に力が抜け、私たちに体を預けていることがわかり、うれしくなりました。Yくんが泣き止んだ頃に、「Yくんの気持ちはわかるけどさ、あれはちょっとやりすぎだよ」などと落ち着いた口調で話すと、Yくんも落ち着いた声で「うん」と言い、今日の天気や誰かが遊んでいる様子について、たわいもない話をしていると、Yくんはまた遊びに向かうのでした。その後、私たちがYくんともめ事になっていた子と話をしているのを気に掛けて見に来たり、その友達の様子をうかがいながらそれとなく話し掛けに行ったりと、友達の様子に心を寄せている様子がうかがえました。Yくんが気持ちを立て直して自分から遊びに立ち上がるまで、私たちはYくんと体をくっつけて一緒にいるようにしていました。

自分の思いを存分に表現し、号泣するYくんに、保育者が存分に関わっていることが記述されています。そして、Yくんが安心して身体も気持ちも預けることができて、はじめて保育者の「受け止める」援助ができるように思います。

次に、「受け止める」援助について、附属幼稚園でのYくんと保育者のかかわりを中心に保育観察を行った結果から考えたいと思います。6回の観察を通して、保育者の援助として、顕著に見られたのは、子ども同士でいざこざが起こった後の、子どもに駆け寄り、その後の子どもの気持ちを立て直すための子どもの思いや考えを「受け止める」援助でした。

写真1は、6月下旬、Yくんが、4人の友達とジャングルジムで遊んでいる時の写真です。写真2は、ジャングルジムで遊んでいる途中で、一人の友達とケンカになり、3人の友だちが、Yくんから離れていってしまった直後の写真です。この写真には、副担任の小野先生に、背中をずっとさすってもらっているYくんが映っています。また写真3は、7月中旬、5歳児クラスの子どもたちが、4歳児クラスに戦いを挑みに来た時の様子です。Yくんは、果敢に5歳児に立ち向かっていくのですが(写真3)、5歳児には到底かなわず、大泣きしてしまいます(写真4)。写真5は、その様子を、少し離れた所から見守っていた担任の今野先生が、その後、Yくんをずっと抱っこしている時の写真です。

今野先生の記述でも、Yくんが気持ちを立て直して次の遊びへと向かえるように、Yくんと体をくっつけて一緒にいるようにしていたことが書かれています。第一著者が観察を行った際も、保育者は一貫して、Yくんに心も身体も寄り添い、「受け止める」援助をしていました。

これまでの研究で、日本の保育者は、子どもがストレスを感じている時には、言葉少なく控えめに「触れる」ことを行うことが示されています(Burke & Duncan, 2014)。附属幼稚園での遊びの場面においても、子どもがストレスを感じている、友達同士のやりとりの中で気持ちを立て直すのが難しいと保育者が考える時、保育者は積極的に、子ども一との直接的な触れ合いを大切にして保育をおこなっていました。そっと、背中をさすったり、なでたり、また、大泣きしている時には、ぎゅっと抱きしめたり、「触れる」よりも深いかかわり、子どもを「受け止める」援助がおこなわれていました。日本の保育の特徴は、子どもの思いや考えを「受け止め」、誰も集団から外さないところにあるのではないかと思います。

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写真1 友達とジャングルジムで遊ぶYくん
 
写真2 保育者と共に

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写真3 5歳児に立ち向かうYくん
 
写真4 戦い後のYくん

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写真5 保育者と共に
 

②保育者の語りから
次に、「見守る」の先にある保育者の「受け止める」援助について、今野先生とのメールのやりとりから考えたいと思います。ここで紹介するメールのやりとりは、私がその日の保育を参観しての、感想を送り、それに対して返信をいただいたものの中から、Yくんに言及したものを一部抜粋したものです(表1)。なお、表1では、第一著者が「見守る」「受け止める」援助を表現していると感じたところに下線を引いています。

表1.Yくんに対する記述
6月9日 Yくんは、毎日全力で体と心をぶつけながら、少しずつ自分の居場所を感じて、安心して自分を出せるようになってきました。(...中略...)これからも子どもたちを温かく包みこんでいきたいと思っています。
7月8日 Yくんは、まだまだ他人に厳しい時があり、友達に「キモ!」とか「遅いね!」など、つい言ってしまいますが、これも彼が今まで積み重ねてきた産物ですので、ゆっくりほぐしていきたいと思っています。私たち(今野先生、小野先生)に叱られたときに、「大嫌い!」といわなくなり、「ぐぬぬ...あまり遊ばない!」などのように抑えるようになりほんとうにかわいいです。
7月16日 Yくんが泣いた時に、近くにいたHくんに「Yくんのことを頼む」と(今野先生が)いったら、(Hくんは)5歳児クラスに走っていって、「おい! そんなことする人たちはもう遊ばないからな!」とすごんでくれました。(...中略...)夏休みまであと3日となりました。子どもたちと思いっきり関わりたいと思っています。
10月7日 Yくんは、運動会で一皮むけた感じがします。足の速い男の子組でかけっこだったのですが、予行練習でスタート早々に派手に転んでしまい号泣。男の子たちがYくんのためにもう1回やろうとしたのですが、「僕もう運動会やらない」と。それから一度も練習に参加せず、本番になったのですが、当日は思い切り走り(1位ではなかったのに)、みんなでやれた運動会が本当に楽しそうでした。それからクラスの友だちへの愛情が増している感じで、友達のため、私たちのためになりたい、ほめられたいという気持ちが良く見えるようになりました。「ありがとう」「やさしいね」もよく言うようになった気がします。今日のサツマイモは年長さんが育ててとってきてくれたというお話も、Yくんなら、ちゃんと理解していそうです。この後も、子どもたち一人ひとりの成長を見逃さないようにしていきたいなと思います

4歳児の発達の特徴として、人やものとの出会いや様々な経験をする中で、心の中に"いろいろなさざ波"が広がる時期である(岸, 2008)ことが指摘されています。保育者のYくんに対する記述からは、揺れ動く心に、寄り添い、「見守る」覚悟と、子どもの気持ちを「受け止める」温かな援助が感じられるのではないでしょうか。

3.「見守る」の先にある保育者の「受け止める」援助

附属幼稚園での遊び場面の観察でも見られたように、日本の保育では、何か、子どもたち同士でいざこざが起きても、よほど、安全が確保できない場合を除いて、多くの場合、保育者が積極的に止めに入ったりすることはしていないと思います。そのような、あえて「介入」しない、「見守る」保育のことについて、中坪(2016)は、日本の保育文化が大切にしてきた高度な専門性に基づくアプローチであると考察しています。また、髙嶋(2013)は、保育の中で用いられている「見守る」という表現について、すぐに変化を期待することが難しく、時間をかけてみ続けたり、かかわりを探っていく必要がある場合に用いられることが多いことを指摘しています。そして同時に「(表面的に)その対象をただみている」とか、「現時点ではかかわりが難しいため、とりあえず変化を漠然と待っている」というだけの行為ではなく、長い時間をかけて相手に心を寄せ続け、その子の見ている世界、感じていることにともに心を揺らしながら、しかも先の見通しをもちながら「見続けていく」という大きな覚悟と責任を伴う行為(p.181)と述べています。「とりあえずただ見ている」「待っている」行為は決して「見守っている」ことにはならず、安易に「見守る」と使っていないかどうかという問題を提起しています。

日本の保育の特徴である「見守る」という行為は、保育者の積極的で専門的なかかわりであり、保育者の「み続けていく」という覚悟をもった関わりであるといえるのではないでしょうか。そして、このような保育者の「見守る」行為に支えられて、子どもたちは、子どもたち同士で問題解決を図ろうとする気持ちを育んでいるのではないかと思います。

しかし、子どもたち同士で問題解決をするということは、お互いに妥協したり、ちょっと理不尽なことでも、ある時には受け入れたりすることになります。子どもたち同士のいざこざ場面では、嫌な思いをしたり、子ども自身の心が揺らいだり、ストレスを感じたりすることが少なからず起きると思います。そのような場面では、附属幼稚園の場合も、またその他の日本の幼稚園や保育所に訪問させていただいた際にも、必ず、保育者が子どもの傍らにいて、温かなまなざしをおくったり、そっと手をあてたり、なでたり、また、ある時にはぎゅっと抱きしめたり、子どもの思いや考えを「受け止める」援助をしていました。

そのような、子どもの心がくじけそうな時、再度、子どもが気持ちを立て直し、色々なことがあるけれども、友達っていいな、また、一緒に遊びたいなといった、回復力と適応力が養われるのは、園生活の中で、子どもの思いを「受け止める」援助があってこそではないかと私は考えています。そして、そのような保育者の「受け止める」援助は、日本の保育の特徴であって、子どもが困難な状況や問題に直面した時に上手く適応できる力の育成に寄与しているのではないかと推察しています。

また鯨岡(2010)は、行為を「受け入れること」と思いを「受け止めること」を明確に区別しています。行為としては、当然、止めなければいけないときがあり、すべてを「受け入れること」など到底できません。その行為がすぐ制止しなければならない負の行為であり、その行為が許容の範囲を超えているときには、保育者はそれに応じきれないのは当然です。「気持ちはわかるけれども、そういうことは先生、嫌だよ」と伝えざるを得ない場合もあります。でもそれは「応じきれないから受け止めなくてよい」ということにはなりません。その行為は否定するけれども、あなたの存在は否定しない、ということを何とか伝えていく必要を彼は指摘しています。

続けて、下記のように述べています。子どもの思いは、その行為とは別に、どんな内容であれ、1個の主体が抱く思いとしていったん受け止めることができるはずであり、その思いを受け止めたうえで、今度は保育者が自分の主体としての思いや願いに基づいて、その子の行為を受け入れたり、認めたり、逆にそれを拒んだり、制止したりするのが、子どもへの対応の基本であると。

保育者の「受け止める」という援助もまた、日本の「見守る」という保育と同様に、保育者の積極的で専門的なかかわりであり、保育者の子どもの思いに「寄り添い続けていく」という覚悟をもった関わりであるといえるのではないでしょうか。

おわりに

『幼稚園じほう』(2014)に安西祐一郎先生が、巻頭言に幼稚園の記憶と教育の原点について、とても印象深いことを書いていました。特に、印象に残ったのは、「幼児の記憶について、一つだけ、大事な点を挙げておきましょう。それは、記憶は温かいものでなければならない、ということです。自分を受け入れてくれた友達、教職員の方々、いろいろな行事、狭かったかもしれないけど精一杯遊んだ施設、行き帰りの道々、どれをとっても気持ちが引き剥がされるような冷たい思い出が含まれていない、温かな記憶でなければならないのです」というところです。

子どもの気持ちや思いに寄り添い、子ども自身の問題解決力を信じて「見守り」その後の、子どもの気持ちを「受け止める」保育者の援助は、子どもの心に温かな記憶として残るのではないかと思います。そして、そのような、温かで心地よい援助に支えられて、その後の人生の土壌となる、気持ちを育んでいくのではないかと考えています。


引用文献
  • 安西祐一郎(2014).巻頭言 幼稚園の記憶と教育の原点,幼稚園じほう,42,2-3.
  • Burke, S., Duncan, J.(2014). Bodies as Sites of Cultural Reflection in Early Childhood Education. New York. Routledge.
  • Hayashi, A., & Tobin,J.(2015). Teaching Embodied, Cultural Practice in Japanese Preschools. The University of Chicago Press.
  • 鯨岡峻 (2010). 保育・主体として育てる営み ミネルヴァ書房
  • 髙嶋景子 (2013). 第3章 子どもを丁寧にみるということ 子どもと保育総合研究所(編) 子どもを「人間としてみる」ということ―子どもとともにある保育の原点― ミネルヴァ書房
  • Tobin, J., Wu, D., & Davidson, D. (1989). Preschool in Three Culture: Japan, China and the United States. New Haven: Yale University Press.
  • 岸千夏(2008).4章 幼稚園4歳児.河邉貴子(編)教育課程・保育課程論,東京書籍
  • 文部科学省(2018).幼稚園教育要領解説,フレーベル館
  • 文部科学省(2019).幼児理解に基づいた評価,チャイルド本社
  • 中坪史典(2016).子どもの自律的問題解決を支える保育者の専門性-「見守る」「待つ」保育の実践的意義と奥深さ,國學院大學人間発達学研究,7,2-11
筆者プロフィール
瀬尾知子(秋田大学教育文化学部こども発達・特別支援講座准教授)
今野菜穂子(秋田大学教育文化学部附属幼稚園・教諭)
小野光代(秋田大学教育文化学部附属幼稚園・教諭)
山名裕子(秋田大学教育文化学部こども発達・特別支援講座教授)
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