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【中国】 子どもの学習を見える形で - 教育現場で子どもの権利を守ることについての研究 -

朱 家雄 (華東師範大学学前教育研究所 所長)

2006年3月17日掲載

要旨:

伝統的な教育においては、子どもの学習や生活における内容や方式は教師や保護者によって決定され、子どもが発する声を聞こうとはしなかった。だが今日、教師や保護者は子どもの権利を尊重し「子どもの声に耳を傾け」「子どもの心を読み解く」必要があることに気づき始めている。そこで本稿では子どもが自分でベッドの下の靴を取るという過程の観察と記録を提示し、それらについての専門家及び教師の対話形式での検証を紹介する。教師が日常生活の中での子どもの行動を読み解き、子どもの知識構築方式を解読するためには、観察と記録が役立つ。さらに、子どもの行動に対し「フィードバック」を行うこと、すなわち教師自身の教育行動を「進歩させる」ことが重要である。

Keywords;
中国, 子ども, 学習, 幼児教育, 教育, 日本子ども学会, 朱家雄, 権利, 潜在能力
中国の基礎データ

はじめに

従来、子どもに関わる仕事に携わる者はある仮定にもとづいて仕事をしてきた。すなわち、子どもは無能で、消極的かつ受身であり、自分の運命を決定する能力はなく、大人のしつけを受動的に受け入れるだけであるという仮定である。子どもは科学を通じて発見される存在である、自然形成される存在であるというように、さまざまな理論で説明される存在として認識されてきた。たとえば、精神分析学派は、子どもは性欲によって創造された存在であると認識し、行動主義派は子どもは訓練の産物であると認識し、認知心理学によれば子どもは適応の生物であると認識していることなどである。


伝統的な教育においては、子どもの学習や生活における内容や方式は教師や保護者によって決定され、子どもが発する声を聞こうとはしなかった。だが今日、教師や保護者は子どもの権利を尊重し「子どもの声に耳を傾け」「子どもの心を読み解く」必要があることに気づき始めている。言い換えれば、子どもが語る生き生きとした物語を分かち合い、彼らが発する声のなかから彼らの興味、彼らが必要としていること、彼らの潜在能力を見つけ出し、有意義に学習に役立てる必要があるということである。

批判教育学は「声があればこそ、権利がある」ということを強調する。幼い子どもを含む子どもの誰もが、自身の声を発する権利を持ち、自身が生活する世界に名前をつけ、自身が参加する社会生活において潜在能力を発展させることができ、誰もが自己発展、自己決定や自己実現のできる平等な機会を有しているということである。子どもは自身の生活の主体であり、保護や操作やコントロールの対象ではない。子どもはその世界や毎日の生活体験から切り離されてはならないのであり、世界の創造者であり、自身の運命の創造者なのである。彼らは自我を構築中であり、他者と共同で知識体系や人格、文化の構築を行いつつあるのだ。

近年「子どもの学習を見える形で」という研究課題に、世界中の学者たちが関心を寄せている。

2000年前後に、『子どもたちの100の言葉』の編者であるGeorge Formanが「子どもの日常」というタイトルで研究発表を行い、幼児の日常をビデオに記録し分析を行った。

 

lab_01_07_1.gif2001年、Harvard GardnerとReggioは『子どもの学習を見える形で』(Making Learning Visible)と題する本を共同出版した。
 

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「子どもの学習を見える形で」は私自身が近年、幼稚園の教師や保護者たちとともに行っている研究テーマである。教師や保護者が子どもをさらに深く認識し、理解し、子どもの権利を尊重する上で助けになるよう、教育現場からすくい上げた典型的なケース、およびそれらに対する解読や分析、そして対話を行い、それによって、教師や保護者が真実の教育環境のもとで自身の役割の転換を実現し、それによって真の意味において自身の教育レベルを上げようとするものである。

 


lab_01_07_3.gif「レッジオと中国幼児教育改革」叢書(主編者 朱家雄)


観察と記録
(実例:ベッドの下の靴を取る)

 目が覚めて、イェイェは靴を履こうとした。彼は靴がベッドの下にあるのを発見して、取らなければと思った。初め、イェイェは床に腹ばいになって手で取ろうと試みた。しかし、彼の手は靴に届かなかった。そこで、彼は自分の体をベッドの縁にぴったりくっつけた。彼がこうしたのは、自分の腕をさらに長く伸ばすことができ、それによって手でさらに遠くを探ることができると考えたからにほかならない。だが、彼の手はやはり靴に届かなかった。

 イェイェは、腕の長さだけでは靴に届かないことに気づいたのかもしれない。彼は立ち上がり、靴を取るのに役立つなにか道具はないかと探し始めた。彼はベッドの下の引き出しの中から1本のひもを見つけた。ひもは長い。ひもは手より長いからきっと靴に届くと彼は考えたのだろう。だが、ひもは長さはあるが、硬さはない。ひもも靴に届かなかった。イェイェはやってはみたが、ひもを使って靴を取る方法は失敗だった。

 次に、イェイェは体を起こして腰掛け、足を使って靴を取ろうとし始めた。彼にこのような行動を取らせたのは、「足は手よりも長い」という体験から来た教訓を多少とも備えていたからだというのが合理的な解釈である。彼は片方の足をベッドの下に伸ばし、足でベッドの下の靴を取ろうと試みた。彼の足は時計の振り子にように靴の周囲を行ったり来たりした。今度は、彼の足は靴に届いたが、やはり靴を取ることはできなかった。

 彼は両足を一緒にベッドの下に伸ばし始めた。興味深いことに彼は両手でベッドの側板をしっかりつかんでさえいたのだ。このようにして、体をさらにベッドの下にもぐり込ませ、両足を靴にさらに近づけることができた。このやり方は功を奏した。彼の両足は片方の靴を挟んだ。両足を時計の短針のようにして時計回りに動かし、靴を徐々にベッドの下から出した。この後、イェイェは同じ方法でもう片方の靴も取り出した。



検証と対話

専門家A: 靴をベッドの下から取るということはとても日常的な事柄であり、人の注意を引くことは普通ありません。だが、靴を取るという行動の始めから、あなたはこの子どもに注目し、靴を取るという行動をビデオで記録しました。どうしてそのようにしようとなさったのかお話し下さいませんか。

教師A: 最初、私の考えはとても単純でした。いつもは、靴がベッドの下にもぐってしまったら、子どもは教師に助けを求めるのが普通です。あの時、私はちょっと興味を惹かれました。子どもが自分でその問題を解決しようとしたらどのような結果が現れるかと考えたのです。本当のことをいうと、イェイェが靴を取る過程を見ることにいったい価値があるのかどうか、そのとき私にも分かりませんでした。その子どもを比較的よく知ってはいても、結局のところどんなことが起こるか予想できませんでした。まさに、レッジオの教師の言うところの「子どもと一緒にいるということは、確実1/3、不確実2/3と同居しているようなものである」だったのです。

専門家A: では靴を取る過程を撮影し終わって、どのような感想を持ったのでしょうか。

教師A: このビデオを私は何回も何回も見ました。見れば見るほど驚きが増し、興奮しました。驚いたのはイェイェにこんなにも能力があったことです。彼はまだ託児組の子ども(2歳ちょっと)に過ぎません。それなのにこんなに多くの問題解決方法を思いついたんですよ。興奮したのはイェイェの靴を取る行動を観察することによって、子どもに非常に大きな潜在能力があることに気づかされたからです。

教師B: そうです、もし、この目で見たのでなければ、こんな小さな子どもがこんなに大きな能力を持っているとは想像しがたいですね。私のこれまでの子どもに対する認識では、手で取ろうとして取れなければ先生を呼びに行くぐらいにしか考えていませんでした。

専門家A: これこそ子どもの日常の時間を見つめることの価値を強調する所以ですね。アメリカマサチューセッツ工科大学のGeorge Forman教授が「日常の時を通じて、能力のある自主的な子どもを発見できるだろう」と言っています。子どもに能力があるというと、子どもが問題解決に当たってたくさんの方法を考えつくことや、能力のある問題解決者のことを指します。しかし、角度を変えてみると、問題を解決することは最もよい子どもの学習過程であり、それによって子どもは多くの経験を獲得することができます。私たちが子どもの日常に関心を注いでいれば子どもには大きな学習潜在能力があり、子どもは有能な学習者であることを見出すことができるのです。

教師C: ビデオを見ていて、最も深く印象に残ったのは次の部分です。イェイェは手で靴を取ろうとして取れなくて、長いひもを持って来ます。ひもで靴を取ろうとしましたが、ひもも靴を取るのに役立ちませんでした。彼はひもをベッドの上に放り出して、他の方法を使おうと考えます。この部分が少なくとも私に次のような2つの教訓を与えてくれたと思います。(1)問題の解決に際して、子どもは往々にして自分の過去の経験に助けを求める。この場合、子どもの過去の経験というのは、「手は短すぎる。ひもは手より長い、だからひもで靴を取れるかもしれない」ということ。(2)やってみたら長いひもは靴を取るのに役立たなかった。この時「ひもは長いが柔らかすぎて、靴を取る道具にはならない」という経験を獲得したのかもしれない、という2つです。

専門家B: ビデオの中に注目を引く部分が何ヶ所もあります。たとえば、手やひもで靴を取るのにいずれも失敗して、子どもは足を使って靴を取ろうと試み始めますが、この行動の合理的な解釈は、そのとき「足は手より長い」という経験が多少なりともあったかもしれないということです。また、手で側板をしっかりつかみ一生懸命体をベッドの下に押し込もうとします。この行動の合理的な解釈は、そのとき彼には「体を奥へ入れれば入れるほど足は長くなる」という経験があったからだろうということなどです。

専門家A: そのような経験があってもそれは彼にそのような概念があったというのとは違うと私は考えます。つまり、年齢がわずか2歳ちょっとのイェイェは、頭の中に「手は短すぎ、ひもは手よりも長い、だからひもで靴を取れるかもしれない」や「ひもは長いがやわらかすぎて靴を取る道具として使えない」や「体を奥に入れれば入れるほど足は長くなる」などのはっきりとした概念はなかったし、ありえるはずもないということです。なぜならこれらの概念の形成は子どもの論理的思考の発達にかかっているからです。イェイェがそれら「ぼんやりとした」経験を使ってベッドの下の靴を取るという問題を解決したのを私たちはビデオで見ました。過程のすべてが彼がそれまで持っていた経験を試す過程であり、彼が新しい経験を獲得した過程であり、彼がそれまでの間違った経験を修正する過程でもあります。その過程は彼が概念を構築するのに役立ったのです。子どものはっきりした概念というものは、経験を試すというこのような多くの過程を経て次第に形成されるものであり、概念がいったん形成されると子どもは「一を聞いて十を知る」ようにそれを応用することができ、すなわち最も普通の意味において問題を解決できるようになるのです。

教師B: ビデオの多くの部分で感じたように思うのですが、子どもの学習ということから言うと、失敗は悪いことではなく、失敗によって子どもは「印象のより強い」経験を獲得するのであって、失敗によって、子どもは以前の経験を改めたり修正したりできるのですね。

専門家A: そのとおりだと思います。大人の目には、失敗はよいことではないかもしれません。しかし実は、失敗は子どもに認識の不一致を起こさせます。これは、子どもの経験獲得にとっても、そしてそれを土台に抽象的な思考を経て概念を形成していく上でも欠くことのできないことなのです。ですから、多くの機会を捉えて幼児にその手で間違いを体験するよう仕向けること、答えを安易に教えないこと、これは幼児に対する教育実践で幼稚園教師がしばしば用いる戦略です。

教師C: 幼児が自分の手を動かして間違いを体験し知識を構築することは重要であると私も思います。私の疑問は、教師の役割は何かということです。私たちは何をすべきなのかということです。それはつまり教師の役割は幼児が自身の手を動かすために材料をそろえてあげて、そばで観察し記録を行うべきなのでしょうか、それとも幼児に問題が起こったときに出て行って問題を調整してやること等々なのでしょうか。

教師A: 記録する過程で、私は何度も思わずイェイェに手を貸して、靴を取ってやりたくなりました。私たちが子どもの靴を取る過程を撮影したのは、子どもに注目し、子どもを見つめるためだけではありません。さらに重要なのは、子どもを理解し、私たち教師が子どもにそのニーズや成長段階に応じた教育的フィードバックをするためによりどころを提供することです。私も、教師はその上にさらに何かをすべきであると感じてはいますが、しかしまた、どのようにしたらいいのかは分かりません。

専門家B: 私もその見方に同感です。観察と記録は手段に過ぎないわけで、目的ではありません。観察と記録をすることによって教師は子どもの学習過程を見ることができます。それによって子どもを理解し、教育の過程で子どもの成長を積極的に促すことができます。実際に、幼稚園の教師であることは大変なことなのです。質の高い教師になるのはさらに難しいのです。私は、難しさは「教育には方法はあるが定法はない」というところにあると考えます。つまり、法則にしたがって教育を行わなければならないが、相当の柔軟性も備えていなければならないということです。すべては時間、場所、条件によって変えていく必要があるということなのです。

専門家A: このビデオの靴を取るという過程について言えば、教師がイェイェに対し何らかの手出しや指導をすべきだとは私は考えません。その理由は、靴を取るという全過程はイェイェ自身が発したものであり、彼には充分な動機があり、豊かな興味もあり、自身のこれまでの経験を使って問題解決に当たっているからです。本質的なことを言うと、これは一つのゲームの過程なのであり、イェイェが日常生活の中で経験を自然に獲得する過程なのです。私の提案は、このビデオをイェイェと彼の友達に見せてあげて、教師が彼らと一緒に疑問点を話し合ってみたらどうかというものです。たとえば「ひもはイェイェが靴を取るのに役立つかな」とか「イェイェが靴を取るのに何が役立つかな」とか「イェイェはどうして両足を使おうとしたのか」などです。こうすれば子どもたちのためになるかもしれないと考えます。

教師C: 本当にためになりますか?

専門家A: 実を言うと私にも分かりません。ですから、「かもしれない」と申し上げました。ためになるかもしれないし、ためにならないかもしれないということです。過程を重視する教育はそれほど効率的にはなり得ません。子どもは1人1人それぞれ異なったレベルで学習を行うものです。同じような場面で、子供たちはそれぞれ異なる体験や経験を獲得するはずだと私は信じます。ですから、教師が利用できる資源と条件のすべてを利用して幼児に質問し課題を与えることが彼らの成長に役立つことになるのです。

専門家B: このような「検証」過程に私は賛成です。そして、一つのグループ内における子どもと教師の間にその「検証」過程が発生すればさらに意義があると私は考えます。つまり、助け合って学習することは子どもが知識と人格を構築する上でさらに役に立つということです。

教師A: 私たち教師にもこのような「検証」過程が必要だと私は思います。何回もビデオを見て、特に討論の後は、子どもの行動に対して教師がどのように対応すべきかなどという問題についてたくさんの新しい考えが生まれました。これは私にとっても、学習と再認識の最も生き生きとした過程なのです。

教師B、C: 私も同じように感じました。


再認識と啓示

子どもが自分でベッドの下の靴を取るという過程は、彼の学習過程を私たちにはっきりと見せてくれた。すなわち、問題を解決する中で経験を獲得するという過程である。「ベッドの下の靴を取る」というのは日常生活の中で起こるごくごくありふれた事柄である。幼児にとって、有意義な学習はその中にこそ発生するのだ。子どもは潜在能力のあるものだということであり、その能力は私たちの想像を超えているということに人は感嘆すべきである。そして、子どもに自由な活動の余地を与え、自主的な問題解決行動に手出しをしすぎなければ、子どもはさらに多くのものを得るであろうということに人は納得すべきである。

間違いを体験するということは子どもの学習にとって価値のあることである。「間違い体験」は幼児に認識の不一致を引き起こし、知識の構築に役立つ。学習過程で子どもが失敗状態にあるとき、教師は手助けを急いではいけない。具体的な状況に応じて適切に処理しなければならない。観察と記録は教師が子どもの行動を読み解き、子どもの知識構築方式を解読するのに役立つ。観察と記録を行ったうえで、教師にとってさらに重要なのは子どもの行動に対し「フィードバック」を行うこと、すなわち教師自身の教育行動を「進歩させる」ことなのである。

*この文章は「日本子ども学会 第2回学術集会」(2005年9月開催)での発表原稿に基づきCRNが編集を行いました。

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