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研究室

【脳と教育】第2回 乳児の言葉の学習と文字能力(前編)

榊原 洋一 (CRN副所長、お茶の水女子大学大学院教授)

2012年1月27日掲載

要旨:

長年乳児の言語獲得に魅せられ、多くの成果を積み重ねつつあるアメリカの発達心理学者であるパトリシア・キュールが、自身の長年の研究成果をもとに、乳児の言語獲得の謎を解き明かそうとした論文を取り上げる。キュール氏は、乳児が母国語の母音を聞き分けることができるようになるのは生後何か月くらいなのかを確かめるために、人工の乳首の工夫をして、乳児が吸うと電気的なスイッチが入ってスピーカーから音が出る仕組みを利用した。この方法で、アメリカ人と日本人の乳児を対象に、「r」と「l」の発音の違いを聞き取る能力の発達を調べたのである。その驚くべき発見とは・・・。
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今回は、Mind, Brain, and Education 誌第5号に掲載されている論文、Early Language Learning and Literacy: Neuroscience Implications for Education(Patricia K. Kuhl, Volume 5, Number 3, pages 128-142, September 2011)を取り上げて私見を述べようと思う。


生まれたばかりの乳児の出せる声といえば、泣き声と、「あーあーうっくん」といった初期の喃語くらいしかない。乳児は、泣き声や笑い顔を通じて感情を他人に伝えることができるが、人の言語のもつ限りなく豊かな情報伝達を乳児に望むことはできない。

ところがその乳児が、1年もたたないうちに、数十以上の言葉を理解し、まだ数は少ないがいくつかの言葉をしゃべるようになることには驚かざるを得ない。

人の高次脳機能の王様あるいは女王様が言語であることは誰も否定しないだろう。そしてその言語を、教わらなくても人の乳児は誰でもやすやすと身につけてゆく。

乳児が初期の言語を獲得してゆく方略とその背後にある脳機能の発達は、多数の発達心理学者の関心を惹きつけてきた。そして近年は脳科学者が、発達心理学者に加わって、乳児の恐るべき言語獲得能力の謎に迫ろうとしている。

本論文は、長年乳児の言語獲得に魅せられ、多くの成果を積み重ねつつあるアメリカの発達心理学者であるパトリシア・キュールが、自身の長年の研究成果をもとに、乳児の言語獲得の謎を解き明かそうとした論文である。私見になるが、解説者(榊原)が、近年読んだ子どもの発達に関する総説論文の中で、本論文はもっとも刺激的だった。1回の解説では終わらない内容を含んでいるので、2回に分けて紹介したい。

本総説は内容的に三部に分かれている。第一部はキュール氏の最大の研究テーマである言語音の聞き取り能力(phonetic learning)研究から明らかになった乳児の脳の言語獲得の方略について、著者の推論も含めて述べている。本総説の最大の山場である。第二部は、第一部の研究成果をもとに、バイリンガル学習の特徴と、バイリンガルの人の脳機能についてきわめて興味ある論を展開している。そして第三部で、乳児期の言語学習(環境)と後の言語発達の関連について論を進めている。


言語の暗号を解く乳児

では第一部から見てゆくことにしよう。冒頭で述べた乳児の言語獲得の驚くべき能力の謎を、キュール氏は「乳児は会話の暗号を解読する」(cracking the speech code)という表現を使って表している。

乳児は過去経験を何ももたないでこの世に生まれてくる。見ること、聞くこと、触るものがすべて未知のこと、ものである。そんな乳児は、周りの人が発する音(声)がこの見知らぬ世界にあるものやその属性(色、大きさなど)、行為(食べる、歩く)に対応していることをどのように「解読」してゆくのだろうか。これは、未知の文字や暗号を解読(crack)する作業に似ている。未解読であった古代エジプト文字(ヒエログリフ)が解読できたのは、偶然にギリシア語との対照を可能にするロゼッタストーンが発見されたからだ。しかし乳児にはロゼッタストーンのような理解の助けになるものはない。

キュール氏の研究室が長年かけてこの謎を解くために取り組んだのが、乳児の言語音聞き分け学習(phonetic learning)の仕組みである。世界中の言語には、600の子音と200の母音があるという。もちろん一つの言語にこれらがすべてあるわけではなく、例えば英語では約40の言語音(音素:phoneme)がある。乳児が、会話を解読するために最初に始める作業が、この40の言語音を「聞き分ける」ことだ。違う音を聞き分けることなど、そんなに困難ではないと多くの方は思うかもしれない。ところがこれがとんでもない大難行なのだ。なぜならば、言語によって2つの音を区別する境目が異なっており、さらにどこに境目があるかを誰も教えてくれない。

日本語を聞いている乳児はアイウエオの5つの母音の境目を聞き分ければよいのだが、英語では30近い(諸説がある)母音の境目を聞き分けなければ、英語の理解ができない。「ア」と「エ」の聞き分けのコツを体得した日本人の乳児は、英語を聞いても聞き分けができない。なぜなら日本人が聞くと「ア」と聞こえる英語の母音にはæ ʌ ɑ ə の4つがあるからである。もちろんこの4つの音は異なった音である。私たち日本人が学校で始めて英語を習うと、英語を母国語とする人にとっては明らかに違う4つの音の聞き分けに苦労することになる。「apple」「up」 「art」「earth」は日本語で表記すると「アップル」「アップ」「アート」「アース」とすべて「ア」となってしまうが、英語ではこの4つの「ア」は皆違う発音になる。日本人の乳児ならすべて「ア」という音として分類しているのに、アメリカ人やイギリス人の乳児は、もっと細かく分類しているのである。もちろん、日本人の乳児でも、アメリカやイギリスで生まれ、英語を母国語とする人に育てられれば、4つの「ア」を聞き分けられるようになる。


乳児はすべての語音を聞き分ける能力を学習によって失う

キュール氏は、まず乳児が母国語の母音を聞き分けることができるようになるのは生後何か月くらいなのか、確かめることにした。キュール氏は、人工の乳首を工夫して、乳児が吸うと電気的なスイッチが入ってスピーカーから音が出る仕組みを利用した。乳児には、自分の吸う行為と音が出ることの因果関係にすぐ気が付き、音を出すために一生懸命吸う行為を続ける特徴がある。しかし吸い続けると次第に飽きてきて、吸う回数が減ってくる。ところが、ここで吸うことによって生じる音が変化すると、その変化によって乳児の「関心」が高まり、再び強く吸うようになることが知られている。キュール氏はこの乳児の性質を利用したのである。

たとえば乳児が乳首を吸うごとに「ア」「ア」「ア」という語音が聞こえるようにセットしておく。乳児はしばらく吸っているがそのうちに飽きてくる。そこで聞こえる語音を「エ」に変化させるとまた強く吸うようになる。逆に強く吸うようになるということは、「ア」と「エ」の語音の違いを乳児が区別したということになる。たとえばアメリカあるいはイギリスで育った乳児は「æ」と「ʌ」を判別して乳首を強く吸うようになるが、日本の乳児はその違いが判らないので、強く吸うようにならないのである。

キュール氏はこの方法を使って、アメリカ人と日本人の乳児を対象に、「r」と「l」の発音の違いを聞き取る能力の発達を調べたところ、次のような驚くべき発見があったのだ。
生後10か月以上の日本人の乳児は、同月齢のアメリカ人の乳児がやすやすと聞き分ける「r」と「l」の聞き分けが、日本人の大人と同様にできなかった。ところが、日本人の乳児でも月齢が6~8か月だと、ちゃんと「r」と「l」を聞き分けているのだ。

英語と日本語以外でも、こうした乳児の聞き分けの特徴がみられる。スペイン語では英語の「b」と「p」の間にその中間の子音があるが、「r」と「l」を見事に聞き分けるアメリカ人の乳児でも、10か月以降だと聞き分けができない。しかし日本の乳児と同じく6~8か月以前だと、アメリカ人乳児でも「b」と「p」の中間の語音を別のものとして聞き分けることができるのである。

こうした実験結果から、キュール氏は乳児が母国語の理解をするために最も重要な母国語の音素の聞き取り能力を身に付ける過程は次のようなものだといっている。

まず人の乳児は、あらゆる音素を聞き分ける能力をもって生まれてくる。つまり人の言語にある200の母音と600の子音を聞き分けることができるのである。しかし、母国語を話す周りの人の言葉を聞いているうちに、母国語では区別する必要のない音の差は「無視」し、逆に母国語で重要な発音の差に対して敏感になってくるのである。つまり、語音の違いのどこに境があるかということを、毎日聞いている周りの人の発音を聞く経験の中で見つけ出すのだ。キュール氏は、このような人の乳児の脳には「計算(computational)機能」があり、聞こえた語音を、「統計学的に」学習すると表現している。

英語の「r」と「l」の聞き分けが下手な私たち日本人の大人は、乳児期早期にあるすべての発音への感受性が残っていればよかったのに、と思うかもしれない。しかしキュール氏は、別の研究によって母国語以外の言語の語音への感受性が後まで残っている乳児は、母国語の獲得が遅くなることを示して、この一見鈍感になる過程が重要であることを強調している。


コンピューター脳を働かせるために必要な社会的関係

しかし、乳児は周りの人がしゃべる言語音になぜそんなに敏感に耳を傾けるのだろうか。テープやCDで一生懸命英語などの外国語を聞いても一向に上達しない大人は、乳児からコツを教わりたいと思うかもしれない。乳児の脳がいかにコンピューターのように、聞こえる語音の統計学的な分析を行うことができるといっても、どうして聞こえる語音の聞き取りにそんなに熱心に取り組めるのだろうか。キュール氏は、さらにこの問題について、別の実験を行ってその秘密を解き明かしたのである。

母国語と外国語の聞き分け能力がちょうど分かれる9か月のアメリカ人の乳児に次のような2通りの方法で、中国語に接する機会を与えた。第一のグループでは、乳児が通う保育園に中国人の保育士が来て、中国語で絵本を12回に分けて読み聞かせを行った。第2のグループには、同じ保育士が絵本を読む場面をビデオに録画し、テレビ画面を通じて子どもに読み聞かせを同回数行った。そのあとに、両群の子どもたちの中国語の語音の聞き取り能力を、行動観察法と脳波を使った方法で測定し、比較したのである。

この実験の結果も驚くべきものであった。実際に保育士が読み聞かせたアメリカ人乳児は中国語の語音の聞き分けができたのが65%であったが、まったく同じ絵本の読み聞かせをテレビ画面を通じて行った乳児は55%に留まったのである。この差は統計的に有意であった。

この結果は何を意味しているのだろうか。たった12回の読み聞かせではあったが、絵本を読む保育士と「生の」接触が、乳児の脳にある「コンピューター」のスイッチを入れたのである。つまり言語学習には、言葉をしゃべる他人との生の社会的接触が重要なのである。

次回はバイリンガルの秘密と、乳児期の言語学習がその後の言語能力に及ぼす影響についてキュール氏の論文内容に沿って解説する。


筆者プロフィール

report_sakakihara_youichi.jpg 榊原 洋一 (CRN副所長(2013年4月より所長)、お茶の水女子大学大学院教授)

医学博士。CRN副所長、お茶の水女子大学大学院人間文化創成科学研究科教授。日本子ども学会副理事長。専門は小児神経学、発達神経学特に注意欠陥多動性障害、アスペルガー症候群などの発達障害の臨床と脳科学。趣味は登山、音楽鑑賞、二男一女の父。

主な著書:「オムツをしたサル」(講談社)、「集中できない子どもたち」(小学館)、「多動性障害児」(講談社+α新書)、「アスペルガー症候群と学習障害」(講談社+α新書)、「ADHDの医学」(学研)、「はじめての育児百科」(小学館)、「Dr.サカキハラのADHDの医学」(学研)、「子どもの脳の発達 臨界期・敏感期」(講談社+α新書)など。
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