『子どものための計画』と基本政策
2007年にブレア首相からブラウン首相に政府の首班が交代したあと、イギリス政府はそれまで「教育と技能省」と名付けられていた中央の省を再編制して「子ども・学校・家族の省」(Department for Children, Schools and Families: DCSF)と命名し、その後同年12月に『子どものための計画(以下計画)』(Children's Plan)を公にした。2008年から10年間を見越したこの基本計画の目的は、"イギリスを子どもと若者が育つうえで世界最良の場所にすること"にあるとされている。DCSFの国務大臣に任じられたエド・ボールは「その目的のために省の名を改め、かつて立てられたことのなかった"子どものための計画"を策定した」2)と述べていた。
2007年にブレア首相からブラウン首相に政府の首班が交代したあと、イギリス政府はそれまで「教育と技能省」と名付けられていた中央の省を再編制して「子ども・学校・家族の省」(Department for Children, Schools and Families: DCSF)と命名し、その後同年12月に『子どものための計画(以下計画)』(Children's Plan)を公にした。2008年から10年間を見越したこの基本計画の目的は、"イギリスを子どもと若者が育つうえで世界最良の場所にすること"にあるとされている。DCSFの国務大臣に任じられたエド・ボールは「その目的のために省の名を改め、かつて立てられたことのなかった"子どものための計画"を策定した」2)と述べていた。
もっとも、ブレア政権当時からイギリス労働党は子どもの養育と教育と職業訓練については積極的な方策を導入していて、2004年児童法(Children's Act 2004)は0歳から19歳までの子どもの養育、教育、職業訓練、福祉についてすべての子どもたちを大切にする方針を具体的に制度化していた。
実は、2004年の児童法改正に先立って、イギリスには痛ましい児童虐待死事件があった。2000年にヴィクトリア・クリンベ(Victoria Climbie)が虐待を受けて死亡したことが報じられると(死亡時8歳3ヶ月)、それは社会に深刻な影響を与えた。政府の調査委員会が置かれ、やがて詳細な報告(Laming Report, 2003)が世に問われた。報告書には「これまで見られたことがないようなひどい児童虐待であった。」3)という一節がある。この報告書を契機に、教育と児童福祉関係者や機関団体との間で協議が広がり、政府は市民との対話を重ねて児童法を改正したのである。改正児童法は子どもの教育、健康、社会福祉、社会復帰などに関し、広範囲にわたる専門家たちの協議と協働を求めている。同時に、地方教育当局(地方自治体)にも少なからぬ責任を課した。
『計画』の主な内容
クリンベ事件を背景にしてイギリス政府が打ち出した政策は『どの子も最優先』(Every Child Matters)と呼ばれる。子どもと若者たちに影響するすべての政策を見直し好ましい成果を生み出すようにしようとする総合政策である。10億ポンドの予算措置を伴うこの『計画』もその延長上に位置づけられるが、概要として、以下のような事柄が揚げられている4)。
①子どものニーズをⅰ)0~7歳、ⅱ)8~13歳、ⅲ)14~19歳の各成長期に即して把握評価し、最も適切な対応策を講じること。
②カリキュラムを個別化して(personalized)、7~14歳期間の標準化された学力テストに替わる個別評価(single-level testing)を導入すること5)。
③「遊び場」(playgrounds)3500ヶ所の内容を豊かにし、「探検区域」(adventure play areas)を増設(30施設)すること。
④誕生日が夏季にあたる子どもに対して、就学開始期を弾力化すること。
⑤低所得者層の子どもたちを2歳から無償で保育すること。
⑥学校に性教育を導入し、青年期の生徒の心の問題に対応すること。
⑦すべての中等学校に「親協議会」(parents' council)を設置して、学校と親たちの情報交流を促進すること。
⑧教師の基礎資格を修士に格上げすること。
両親揃って出生届けを!
『計画』は次のような原則に立って書かれていた。"政府が子どもを育てるのではなく、親が育てる。それゆえ、政府は親と家族をこれまで以上に支える必要がある。"子どもたち一人一人にかけがえのない可能性があることを認め、どの子どもも健やかに成長して社会的役割を果たし幸せになれることを政策の目標にしながら、イギリス政府は子どもの養育と教育に基本的な責任を持つものは「親」であることを再確認している。
イギリス(厳密にはイングランドとウエールズ地方)では、毎年約45,000人の赤子の出生登録が片親によって行われている。登録に際して父親の名前が記録されないと、子の父にあたる男性はその子の養育に関する責任を自動的に免れてしまう。言い直せば、そのような場合、父親となるはずの男性は子どもの生涯を左右するような重要事項について、発言する機会と母と同等の権限を失うことになっている。子どもが生まれるときに男女が結婚していれば、母が出生届けをすれば、その子の母の夫が父であることを法的に推定できるが、結婚していない場合は、母親が出生届けをおこなったときに父たるべき男性がその子の父であることを当該男女双方が正式に認めていないと(あるいは法廷でそのように決定されていないと)、別な言い方をすれば未婚の父親が出生証明書に記載されていないと、その男性は養育の責任を免れるが、将来子どもについて何事にせよそれを決める権利を失ってしまう。この問題を解決したいとイギリス政府は考え、「二親揃った出生登録」(Joint birth registration)を未婚の男女に義務付ける法案を用意した。
白書『二親揃った出生登録:責任を記録しよう』
2008年6月2日に、DCSFの白書が公にされた。見出しに掲げた表題をもつこの白書は、未婚の親が誕生した子どもの出生登録を行う方法を改め、子どもの出生証明書に父親にあたる男性の氏名を記載することを法的に義務付けることを求めたものであった。同時に、法制化はしないが関連する諸方策を提案していた。
政府がこのような方針を示した背景は、政府自身が子どもの福祉の質を高めていくことを重要な施策としており、子どもが自分の親を知ることは子どもの権利であると評価している事実がある。子どもの幸せを大切にする文化と、母であることと並んで父であることには権利と義務が伴うことを確認しあう文化を培いたいとする労働党政府の方針がある。
イギリス政府が示してきたこれまでの方針を政府が公にした白書と緑書(green paper)によってたどると、そこにはおおよそ次のような流れがあった。
①2006年12月、白書『子どもを守る新しいシステム』(A New System of Child Maintainance; Cm67976))
この白書では、従来からの出生登録方式を改め、子どもの両親の名前を出生証明書に記載するように求め、そのことが著しく合理性を欠く場合や、法廷がその例外措置を認める場合のほかは、全ての未婚男女にそのことを義務付けることを提案した。この提案にそって市民各層の意見が聴取された。
②2007年6月、協議資料『二親揃っての出生登録:親の責任を全うするために』(Joint birth registration: promoting parental responsibility; Cm7160)
緑書とも言い習わされている市民各層の意見を聴取するための協議資料が政府から公刊された。2008年12月にも再刊されている。政府は現行法の不備を補うことで、ともすれば弱くなりがちな未婚の母とその子の立場を強化することができ、そのことを通じて子どもの成長発達とその保護のうえで最も決定的な時期である乳幼児期を安全に過ごさせることが可能になると想定していた。つぎのような主張が盛られていた7)。
・ 母親と父親の平等な立場
・ 父親の子どもへの関係を強化
・ 父親の母と子へのつながりを強めて、父親として子どもを守る働きを強化
・ 子どもに対し父親がもつべき責任について父親の理解を高める
・ 弱い立場や危機の中に在る母子を識別して助ける
・ 親としての役割を子どもの生涯を通じて果たすことを支援する
緑書の内容は詳細で、子を生む母が不妊のために人工妊娠その他の手だてによって母になる場合についても生まれた子の母親であることや、同性のカップルの場合の子の誕生についても親としての地位についてそれを保全する提案が盛られていた。
③2008年6月、白書『二親揃っての出生届け:責任の登録を』(Joint birth registration: recording responsibility; Cm7293)
正規の結婚をしている両親の場合や、養子または同性のカップルの場合は現行法で対応するが、未婚の母と父については親が二人して子どもの出生届けに際してその名を出生証明書に記載することを法的な義務とする旨強調した。
この白書の中核に据えられている主張は、「子どもへの福祉を強化し、どの子にも両親を知る権利を保障すること。本来、子どもが子どもとして認められ相応しく介護されるべき子どもの権利が両親の人間関係によって阻害されるべきではない。父に父親としての生き方を法的に保障することで、子どもが幸せになることを大切にし、母も父も子の養育について同等に責任と権利を持つのだという文化を拡げ培いたい。」8)というものである。白書は、また、親権者の責任を明確にし、判りやすくするような立法措置が望ましいこと、あるいは親権そのものを宣言するような法令が必要であることを主張として掲げた。
新しい総合的な子ども保護政策へ―『福祉改革法案』(Welfare Reform Bill)
2008~2009年度の会期を迎えて、イギリス議会では女王陛下が同期に協議を要する重要案件について発言した(注(5)参照)。2008年12月11日のことであった。翌2009年1月14日に、法案「福祉改革」が議会に提出された。庶民院(House of Commons)では同月の27日からその討議が開始され、今日に続いている。
この法案は、貧困児童対策法案(child poverty bill)と関連するところが多い。また、緑書『誰一人取り残されてはならない:責任を負うことを可能にする福祉』(No one written off: reforming welfare to reward responsibility: Cm7376)が市民各層に向けて2008年7月に公刊されているので、それに寄せられる市民の反響が法案の審議に影響するところが少なくないといわれている。
法案に盛られる根本的な考え方は、補助を受ける必要がある人々は残らず支援し、しかしその支援を受けた人々がやがて自立してそれぞれに自分の責任を果たせるようになるような福祉政策を選ぼうという主張と思想である。支援と自己責任とを一体化した法案といえるかもしれない。法案の扱う事項はその範囲が広いが、子どもの保護という点から読むと、次のような点が留意事項である。
(ⅰ)障碍をもつ人々がサービスを選択し要求することを可能にする法的な措置
(ⅱ)子どもの保護
(ⅲ)子どもの出生登録
なお、上記3項の内容には種々論議を呼ぶ事項が含まれているが、詳細な説明は稿を改めたい。また、貧困な状況に置かれている子どもの諸問題についても、主題を改めて論ずる事としよう。
父の親権と父親としての責任-子どもの保護
生まれた子の出生に伴う手続きを改正しようとする動向は、取りあえずは男性の親の責任を法的にも制度的にも明確にしようとする意図に基づき促された政策選択であるようにみえる。10代の女子の妊娠が減少しない事実を踏まえて、イギリスは生まれる子どもとその母の健康や子どもの誕生後のケアについて諸方策を講じながら、男性の責任について社会全体で考え、課題に取り組もうとしている。母子関係が子どもの成育にとって大事であると同時に、子どもを守り育てる父親の役割についても親になる男女に改めてその大事さを再確認してもらおうとする政策である。細かく読むと、生まれてくる子どもの父であることを承認しない男性の主張を十分に配慮する法的措置も含まれていて、未婚の若者たちの性とその関係について慎重な配慮も伺われる。子どもの権利として親を知る権利が位置づけられている点も重要な視点である。
地域住民の人口構成が多民族化し、それに伴って文化的宗教的にも多様化するイギリス社会全体の将来像についてどのように構想するか、基本的でかつ緊迫した価値選択の問題がイギリスにはある。ブレア前首相は退任に先立って『尊敬されるイギリス』と題する一文を労働党党首として公にしていた。そのなかで、犯罪に対しては毅然として臨むとしながら、英国社会に伝統的に受け継がれてきた暮らし方があることを強調して、地域の人々の新しい暮らしの形をそこから再建しようと訴えて、その際に家族の重要性を強調していた9)。そのような意味では、地域の再生と家族関係の再編制を基礎にした福祉政策のなかの「子ども」保護策として、出生届出制改善の一連の提案が行われていると考えるべきであろう。
ところで、英国では「親権」を父親に認める判例が18世紀に確定していて、コモンローの法体制のなかでは、「父」には伝統的に子の保護者としての責任が権利と共に前提とされていた。他方、男女の性関係に関して公的な関与や介入を出来るだけ抑制すべきであるとする主張もあり10)、男女の性関係の新しい形をめぐる政策的提案として上記の諸提言を読むこともできる。
注
1):イギリスという場合、正確にはイングランドであることがしばしばある。現在、イングランド・スコットランド・ウエールズ・北アイルランドには地方政府ばかりか議会に相当する仕組みが設けられていて、教育政策ではそれぞれ別個な方針が採られていることもすくなくない。 地方分権のありかたも議論されている。
2):Ball, Ed 'Forward', in The Children's Plan, Building brighter future, 2007, Cm7280, p.3.
3):The Victoria Climbi / Inquiry: report of an inquiry by Lord Laming, 2003、第一部三章にヴィクトリアが受けた虐待の詳報がある。読むと胸がつぶれるような思いにとらわれる。 引用は3.84節から。
4):'Executive Summary', The Children's Plan, op. cit. pp. 5-14.
5):2007年当時、学校に導入されていた「ナショナルカリキュラム」では、7才、14才の折に、標準学力テストが児童生徒に課されていた。
6):Cm6797という記号のCmはCommand paperの略記号である。議会に下付される勅令書の意味。女王陛下の命によって議員に配布される政策文書。なお、英国議会では政府の立法方針は議案が提案される議会の会期冒頭に国王陛下あるいは女王陛下の勅語(King's Speech / Queen's Speech)としてその概要が説明される慣わしがある。
7):House of Commons Library, Joint birth registration, Standard Note: SN/HA/4916, 2008, pp. 3-4.
8):Cm7293、p.5.
9):参照:Respect, Labour Party, 2006
10):参照:A.S. Neil et al, Children's Right, 1971、『子供の権利』鈴木慎一・庄子信訳(南窓社)、1973年
実は、2004年の児童法改正に先立って、イギリスには痛ましい児童虐待死事件があった。2000年にヴィクトリア・クリンベ(Victoria Climbie)が虐待を受けて死亡したことが報じられると(死亡時8歳3ヶ月)、それは社会に深刻な影響を与えた。政府の調査委員会が置かれ、やがて詳細な報告(Laming Report, 2003)が世に問われた。報告書には「これまで見られたことがないようなひどい児童虐待であった。」3)という一節がある。この報告書を契機に、教育と児童福祉関係者や機関団体との間で協議が広がり、政府は市民との対話を重ねて児童法を改正したのである。改正児童法は子どもの教育、健康、社会福祉、社会復帰などに関し、広範囲にわたる専門家たちの協議と協働を求めている。同時に、地方教育当局(地方自治体)にも少なからぬ責任を課した。
『計画』の主な内容
クリンベ事件を背景にしてイギリス政府が打ち出した政策は『どの子も最優先』(Every Child Matters)と呼ばれる。子どもと若者たちに影響するすべての政策を見直し好ましい成果を生み出すようにしようとする総合政策である。10億ポンドの予算措置を伴うこの『計画』もその延長上に位置づけられるが、概要として、以下のような事柄が揚げられている4)。
①子どものニーズをⅰ)0~7歳、ⅱ)8~13歳、ⅲ)14~19歳の各成長期に即して把握評価し、最も適切な対応策を講じること。
②カリキュラムを個別化して(personalized)、7~14歳期間の標準化された学力テストに替わる個別評価(single-level testing)を導入すること5)。
③「遊び場」(playgrounds)3500ヶ所の内容を豊かにし、「探検区域」(adventure play areas)を増設(30施設)すること。
④誕生日が夏季にあたる子どもに対して、就学開始期を弾力化すること。
⑤低所得者層の子どもたちを2歳から無償で保育すること。
⑥学校に性教育を導入し、青年期の生徒の心の問題に対応すること。
⑦すべての中等学校に「親協議会」(parents' council)を設置して、学校と親たちの情報交流を促進すること。
⑧教師の基礎資格を修士に格上げすること。
両親揃って出生届けを!
『計画』は次のような原則に立って書かれていた。"政府が子どもを育てるのではなく、親が育てる。それゆえ、政府は親と家族をこれまで以上に支える必要がある。"子どもたち一人一人にかけがえのない可能性があることを認め、どの子どもも健やかに成長して社会的役割を果たし幸せになれることを政策の目標にしながら、イギリス政府は子どもの養育と教育に基本的な責任を持つものは「親」であることを再確認している。
イギリス(厳密にはイングランドとウエールズ地方)では、毎年約45,000人の赤子の出生登録が片親によって行われている。登録に際して父親の名前が記録されないと、子の父にあたる男性はその子の養育に関する責任を自動的に免れてしまう。言い直せば、そのような場合、父親となるはずの男性は子どもの生涯を左右するような重要事項について、発言する機会と母と同等の権限を失うことになっている。子どもが生まれるときに男女が結婚していれば、母が出生届けをすれば、その子の母の夫が父であることを法的に推定できるが、結婚していない場合は、母親が出生届けをおこなったときに父たるべき男性がその子の父であることを当該男女双方が正式に認めていないと(あるいは法廷でそのように決定されていないと)、別な言い方をすれば未婚の父親が出生証明書に記載されていないと、その男性は養育の責任を免れるが、将来子どもについて何事にせよそれを決める権利を失ってしまう。この問題を解決したいとイギリス政府は考え、「二親揃った出生登録」(Joint birth registration)を未婚の男女に義務付ける法案を用意した。
白書『二親揃った出生登録:責任を記録しよう』
2008年6月2日に、DCSFの白書が公にされた。見出しに掲げた表題をもつこの白書は、未婚の親が誕生した子どもの出生登録を行う方法を改め、子どもの出生証明書に父親にあたる男性の氏名を記載することを法的に義務付けることを求めたものであった。同時に、法制化はしないが関連する諸方策を提案していた。
政府がこのような方針を示した背景は、政府自身が子どもの福祉の質を高めていくことを重要な施策としており、子どもが自分の親を知ることは子どもの権利であると評価している事実がある。子どもの幸せを大切にする文化と、母であることと並んで父であることには権利と義務が伴うことを確認しあう文化を培いたいとする労働党政府の方針がある。
イギリス政府が示してきたこれまでの方針を政府が公にした白書と緑書(green paper)によってたどると、そこにはおおよそ次のような流れがあった。
①2006年12月、白書『子どもを守る新しいシステム』(A New System of Child Maintainance; Cm67976))
この白書では、従来からの出生登録方式を改め、子どもの両親の名前を出生証明書に記載するように求め、そのことが著しく合理性を欠く場合や、法廷がその例外措置を認める場合のほかは、全ての未婚男女にそのことを義務付けることを提案した。この提案にそって市民各層の意見が聴取された。
②2007年6月、協議資料『二親揃っての出生登録:親の責任を全うするために』(Joint birth registration: promoting parental responsibility; Cm7160)
緑書とも言い習わされている市民各層の意見を聴取するための協議資料が政府から公刊された。2008年12月にも再刊されている。政府は現行法の不備を補うことで、ともすれば弱くなりがちな未婚の母とその子の立場を強化することができ、そのことを通じて子どもの成長発達とその保護のうえで最も決定的な時期である乳幼児期を安全に過ごさせることが可能になると想定していた。つぎのような主張が盛られていた7)。
・ 母親と父親の平等な立場
・ 父親の子どもへの関係を強化
・ 父親の母と子へのつながりを強めて、父親として子どもを守る働きを強化
・ 子どもに対し父親がもつべき責任について父親の理解を高める
・ 弱い立場や危機の中に在る母子を識別して助ける
・ 親としての役割を子どもの生涯を通じて果たすことを支援する
緑書の内容は詳細で、子を生む母が不妊のために人工妊娠その他の手だてによって母になる場合についても生まれた子の母親であることや、同性のカップルの場合の子の誕生についても親としての地位についてそれを保全する提案が盛られていた。
③2008年6月、白書『二親揃っての出生届け:責任の登録を』(Joint birth registration: recording responsibility; Cm7293)
正規の結婚をしている両親の場合や、養子または同性のカップルの場合は現行法で対応するが、未婚の母と父については親が二人して子どもの出生届けに際してその名を出生証明書に記載することを法的な義務とする旨強調した。
この白書の中核に据えられている主張は、「子どもへの福祉を強化し、どの子にも両親を知る権利を保障すること。本来、子どもが子どもとして認められ相応しく介護されるべき子どもの権利が両親の人間関係によって阻害されるべきではない。父に父親としての生き方を法的に保障することで、子どもが幸せになることを大切にし、母も父も子の養育について同等に責任と権利を持つのだという文化を拡げ培いたい。」8)というものである。白書は、また、親権者の責任を明確にし、判りやすくするような立法措置が望ましいこと、あるいは親権そのものを宣言するような法令が必要であることを主張として掲げた。
新しい総合的な子ども保護政策へ―『福祉改革法案』(Welfare Reform Bill)
2008~2009年度の会期を迎えて、イギリス議会では女王陛下が同期に協議を要する重要案件について発言した(注(5)参照)。2008年12月11日のことであった。翌2009年1月14日に、法案「福祉改革」が議会に提出された。庶民院(House of Commons)では同月の27日からその討議が開始され、今日に続いている。
この法案は、貧困児童対策法案(child poverty bill)と関連するところが多い。また、緑書『誰一人取り残されてはならない:責任を負うことを可能にする福祉』(No one written off: reforming welfare to reward responsibility: Cm7376)が市民各層に向けて2008年7月に公刊されているので、それに寄せられる市民の反響が法案の審議に影響するところが少なくないといわれている。
法案に盛られる根本的な考え方は、補助を受ける必要がある人々は残らず支援し、しかしその支援を受けた人々がやがて自立してそれぞれに自分の責任を果たせるようになるような福祉政策を選ぼうという主張と思想である。支援と自己責任とを一体化した法案といえるかもしれない。法案の扱う事項はその範囲が広いが、子どもの保護という点から読むと、次のような点が留意事項である。
(ⅰ)障碍をもつ人々がサービスを選択し要求することを可能にする法的な措置
(ⅱ)子どもの保護
(ⅲ)子どもの出生登録
なお、上記3項の内容には種々論議を呼ぶ事項が含まれているが、詳細な説明は稿を改めたい。また、貧困な状況に置かれている子どもの諸問題についても、主題を改めて論ずる事としよう。
父の親権と父親としての責任-子どもの保護
生まれた子の出生に伴う手続きを改正しようとする動向は、取りあえずは男性の親の責任を法的にも制度的にも明確にしようとする意図に基づき促された政策選択であるようにみえる。10代の女子の妊娠が減少しない事実を踏まえて、イギリスは生まれる子どもとその母の健康や子どもの誕生後のケアについて諸方策を講じながら、男性の責任について社会全体で考え、課題に取り組もうとしている。母子関係が子どもの成育にとって大事であると同時に、子どもを守り育てる父親の役割についても親になる男女に改めてその大事さを再確認してもらおうとする政策である。細かく読むと、生まれてくる子どもの父であることを承認しない男性の主張を十分に配慮する法的措置も含まれていて、未婚の若者たちの性とその関係について慎重な配慮も伺われる。子どもの権利として親を知る権利が位置づけられている点も重要な視点である。
地域住民の人口構成が多民族化し、それに伴って文化的宗教的にも多様化するイギリス社会全体の将来像についてどのように構想するか、基本的でかつ緊迫した価値選択の問題がイギリスにはある。ブレア前首相は退任に先立って『尊敬されるイギリス』と題する一文を労働党党首として公にしていた。そのなかで、犯罪に対しては毅然として臨むとしながら、英国社会に伝統的に受け継がれてきた暮らし方があることを強調して、地域の人々の新しい暮らしの形をそこから再建しようと訴えて、その際に家族の重要性を強調していた9)。そのような意味では、地域の再生と家族関係の再編制を基礎にした福祉政策のなかの「子ども」保護策として、出生届出制改善の一連の提案が行われていると考えるべきであろう。
ところで、英国では「親権」を父親に認める判例が18世紀に確定していて、コモンローの法体制のなかでは、「父」には伝統的に子の保護者としての責任が権利と共に前提とされていた。他方、男女の性関係に関して公的な関与や介入を出来るだけ抑制すべきであるとする主張もあり10)、男女の性関係の新しい形をめぐる政策的提案として上記の諸提言を読むこともできる。
注
1):イギリスという場合、正確にはイングランドであることがしばしばある。現在、イングランド・スコットランド・ウエールズ・北アイルランドには地方政府ばかりか議会に相当する仕組みが設けられていて、教育政策ではそれぞれ別個な方針が採られていることもすくなくない。 地方分権のありかたも議論されている。
2):Ball, Ed 'Forward', in The Children's Plan, Building brighter future, 2007, Cm7280, p.3.
3):The Victoria Climbi / Inquiry: report of an inquiry by Lord Laming, 2003、第一部三章にヴィクトリアが受けた虐待の詳報がある。読むと胸がつぶれるような思いにとらわれる。 引用は3.84節から。
4):'Executive Summary', The Children's Plan, op. cit. pp. 5-14.
5):2007年当時、学校に導入されていた「ナショナルカリキュラム」では、7才、14才の折に、標準学力テストが児童生徒に課されていた。
6):Cm6797という記号のCmはCommand paperの略記号である。議会に下付される勅令書の意味。女王陛下の命によって議員に配布される政策文書。なお、英国議会では政府の立法方針は議案が提案される議会の会期冒頭に国王陛下あるいは女王陛下の勅語(King's Speech / Queen's Speech)としてその概要が説明される慣わしがある。
7):House of Commons Library, Joint birth registration, Standard Note: SN/HA/4916, 2008, pp. 3-4.
8):Cm7293、p.5.
9):参照:Respect, Labour Party, 2006
10):参照:A.S. Neil et al, Children's Right, 1971、『子供の権利』鈴木慎一・庄子信訳(南窓社)、1973年