2010年9月27-29日にロシア連邦モスクワ市において開催された世界幼児教育会議(The World Conference on Early Childhood Care and Education)に日本政府代表団の一員として出席し、全体討議や個別部会に参加した際の議論の様子などについて報告します。
今回の会議は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が主催し、ロシア連邦政府ならびにモスクワ市がホスト国・市を務め、アフリカ教育開発協会(Association for the Development of Education in Africa: ADEA)の共賛で開かれました。130カ国以上からの代表団に加えて、国際機関やNGOなどから多数の参加者があり、3日間にわたって幼児教育の現状や課題について熱のこもった議論が交わされました。
こうした幼児教育に焦点をあてた世界会議は、今回が初めての開催でした。主催したユネスコの事務局職員によれば、「教育分野における国際的な議論のなかで学校教育や生涯教育などについてはさまざまな会議が開かれ、かなりの議論が積み重ねられてきたが、幼児期の教育に関する議論が必ずしも活発に行なわれてきたとはいえず、今回の会議を契機に各国で議論が盛り上がることを期待したい」とのことでした。そうした考えのもと、幼児期の教育やケアの問題が多くの国で政治的にも重要なアジェンダとなることを目指して、この世界会議が開かれました。
会議での議論を通して、先進国・途上国を問わず多くの国で、幼児教育に関して共通した課題を抱えている状況が明らかになりました。たとえば、会議の名称にも表されているように、幼児期の「教育」と「ケア」のそれぞれの領域について、どのようなバランスをもって政府が支援を行なうべきなのかといった問題は、多くの国が頭を悩ませているところです。これは、日本でも幼保一元化の議論などで、教育と保育の兼ね合いについてさまざまな意見がみられると思います。
今回の会議で最も強調されたことは、質の高い幼児教育をすべての子どもたちに提供することは、人権にかかわる問題であるという点でした。すなわち、「幼児教育へのアクセスはすべての子どもにとっての基本的な権利であり、各国政府をはじめ社会全体で幼児教育の拡充に努めることが必要なのだと改めて国際的に合意をしましょう」ということが、今回の会議の最も重要な目的のひとつでした。
また、幼児教育の質をどのように高めるのか、さらにはその質をどのように評価するのかといった問題についても、かなりの議論が交わされました。幼児教育の質を考えるときに、認知的な側面(記憶、知識の獲得、知識の表現、概念の形成など)を重視するのか、情動的な側面を重視すべきなのか、国によっても考え方が異なり、非常に複雑な問題であることを実感しました。ましてや、どのようにその質を評価すべきかとなると、いわゆる学力テストに準じるような形式で認知面での発達を測定している国もあれば、そういった方式による評価は幼児期の子どもたちに対する働きかけの成果を理解するうえでは不適切であるという考え方も広くみられました。なお、幼児教育の質をみるうえで、「教育学的な質」(教育の原理や方法などの適切さ)、「教師やその他の従事者の質」、「プログラムの質」という3つの側面を、それぞれ分けて考えることの重要性などについても議論が交わされました。
ただし、教育内容に関する評価を行なう以前に、多くの途上国ではそもそも幼児教育がきちんと普及していないという問題があります。そこで、今回の会議での議論にもとづき、主催者のユネスコが重要な成果として強調したことが、「子ども開発指数」の開発に合意したという点でした。この指数は、5歳未満の乳幼児死亡率や5歳未満の低体重児、初等教育への就学率などの指標を組み合わせて、各国で幼児をめぐる環境がどのような状況にあり、幼児教育がどの程度普及しているのかを測定するものです。そのために、1990年に国際NGOである「セーブ・ザ・チルドレン(Save the Children UK)」が開発した指数をベースに、いくつかの必要と思われる項目を追加しながら、ユネスコとして統計の専門家たちと協調しながら今後開発を進めていくとのことです。
さらには、幼小接続の問題も議論され、日本でも問題になっている「小1プロブレム」と似た現象が、韓国などでも起こっていることがわかりました。つまり、小学校入学後いつまで経っても学校のやり方になじめない子どもが増えており、教師の話を聞かなかったり、授業中に勝手に歩き回ったりするなどして、長期間にわたり授業が成立しない状況が、日本だけでなく他の国でもみられるというのです。こうした問題への対応として、幼稚園・保育園から小学校への移行をスムーズに行なうための準備を幼児教育において行なう必要性が、会議の場でも指摘されました。
会議の最終日には、「モスクワ行動計画(The Moscow Framework of Action)」が採択されました。「モスクワ行動計画」のなかでは、とくに途上国を中心に「(幼児教育への支援を強化するための)政治的コミットメントの不足、公的財源の不足、幼児教育の質向上の難しさ、そのための(開発援助などの)外部支援の少なさ」といった課題が、今日の幼児教育にとって大きな問題となっていることが確認されました。また、途上国の幼児教育に対する財政支援を各国が増やすために、先進国や国際機関による国際的な開発援助を活発化させることが欠かせない、といったことが指摘されました。
会議のなかでは、とりわけ途上国における基礎教育の普及と質の向上といった観点から幼児教育を考えることの重要性が、しばしば指摘されました。しかし、日本を含めた先進国が自国の幼児教育の問題を考えるうえでは、こうした会議の議論と自国の状況との間に少し距離を感じざるを得なかった面もあったと思われます。その意味では、さまざまに異なる状況にある国々が集まる世界会議で、焦点化された議論を行なうことの難しさを感じざるを得ませんでした。
たとえば、今回の会議は「幼児期のケアと教育」と題されていますが、途上国からの参加者の多くは「教育」面に関する改善の重要性を強く意識しつつも、貧困や劣悪な衛生状態といった途上国社会に広くみられる現実を踏まえたうえで、「ケア」の側面により多くの時間を割いて議論が交わされた印象を抱きました。ここには、途上国の社会経済面での現実が、色濃く反映されています。
とはいえ、先進国と途上国の幼児教育を比較したときに、教育の質の向上、評価手法の開発の必要性、幼小接続のあり方、省庁間での連携の欠如など、多くの課題を共有していることも、改めて強く感じました。とくに、先進国と途上国の別を問わず、幼児教育分野に対して公的な財源が十分に配分されていないことが大きな課題として取り上げられており、日本でもまさに議論の渦中にあるだけに、幼児教育への財政問題が国際的・国内的にもっと議論される必要性を感じました。
なお、今回のさまざまな発表・報告のなかで、初日の全体会合で行われたハーバード大学のジャック・ションコフ教授(Prof. Jack P. Shonkoff)による基調講演が非常に印象的でした。最新の脳科学の知見にもとづき、とてもわかりやすく幼児期・子ども期の発達について解説がなされたのですが、とくに「さまざまな社会で昔から伝わる子育てに関する諸々の言説の正しさが科学的に証明されるようになったのは、実はここ10年程のことである」という指摘がとても印象深かったです。それぞれの社会で、昔から人々は次の世代を育てるうえで大切なことを経験的・本能的に理解し、それを実践してきたのであり、今日の科学はそれらの実践の正しさを証明するうえで重要な役割を果たしていると、ションコフ教授は指摘しました。この指摘は、幼児期の教育やケアを考えるうえで、常に新しいことばかり追い求めるのではなく、それぞれの社会で積み上げてきた経験・知見(さらには知恵)のなかからも多くのことが学べるはずであると示唆しています。ただし、そうした経験・知見を、現代社会に生きる子どもたちに適した形で応用することが必要でしょう。
今回の会議では、幼児教育に関する幅広い観点からの議論を聞くとともに、さまざまな国や機関からの参加者たちと意見交換の場をもつことができ、非常に実り多いものとなりました。また、私自身の専門分野である途上国への国際教育協力の観点から、幼児教育に関する論点を改めて整理する貴重な機会にもなりました。
こうした幼児教育に焦点をあてた世界会議は、今回が初めての開催でした。主催したユネスコの事務局職員によれば、「教育分野における国際的な議論のなかで学校教育や生涯教育などについてはさまざまな会議が開かれ、かなりの議論が積み重ねられてきたが、幼児期の教育に関する議論が必ずしも活発に行なわれてきたとはいえず、今回の会議を契機に各国で議論が盛り上がることを期待したい」とのことでした。そうした考えのもと、幼児期の教育やケアの問題が多くの国で政治的にも重要なアジェンダとなることを目指して、この世界会議が開かれました。
会議での議論を通して、先進国・途上国を問わず多くの国で、幼児教育に関して共通した課題を抱えている状況が明らかになりました。たとえば、会議の名称にも表されているように、幼児期の「教育」と「ケア」のそれぞれの領域について、どのようなバランスをもって政府が支援を行なうべきなのかといった問題は、多くの国が頭を悩ませているところです。これは、日本でも幼保一元化の議論などで、教育と保育の兼ね合いについてさまざまな意見がみられると思います。
今回の会議で最も強調されたことは、質の高い幼児教育をすべての子どもたちに提供することは、人権にかかわる問題であるという点でした。すなわち、「幼児教育へのアクセスはすべての子どもにとっての基本的な権利であり、各国政府をはじめ社会全体で幼児教育の拡充に努めることが必要なのだと改めて国際的に合意をしましょう」ということが、今回の会議の最も重要な目的のひとつでした。
また、幼児教育の質をどのように高めるのか、さらにはその質をどのように評価するのかといった問題についても、かなりの議論が交わされました。幼児教育の質を考えるときに、認知的な側面(記憶、知識の獲得、知識の表現、概念の形成など)を重視するのか、情動的な側面を重視すべきなのか、国によっても考え方が異なり、非常に複雑な問題であることを実感しました。ましてや、どのようにその質を評価すべきかとなると、いわゆる学力テストに準じるような形式で認知面での発達を測定している国もあれば、そういった方式による評価は幼児期の子どもたちに対する働きかけの成果を理解するうえでは不適切であるという考え方も広くみられました。なお、幼児教育の質をみるうえで、「教育学的な質」(教育の原理や方法などの適切さ)、「教師やその他の従事者の質」、「プログラムの質」という3つの側面を、それぞれ分けて考えることの重要性などについても議論が交わされました。
ただし、教育内容に関する評価を行なう以前に、多くの途上国ではそもそも幼児教育がきちんと普及していないという問題があります。そこで、今回の会議での議論にもとづき、主催者のユネスコが重要な成果として強調したことが、「子ども開発指数」の開発に合意したという点でした。この指数は、5歳未満の乳幼児死亡率や5歳未満の低体重児、初等教育への就学率などの指標を組み合わせて、各国で幼児をめぐる環境がどのような状況にあり、幼児教育がどの程度普及しているのかを測定するものです。そのために、1990年に国際NGOである「セーブ・ザ・チルドレン(Save the Children UK)」が開発した指数をベースに、いくつかの必要と思われる項目を追加しながら、ユネスコとして統計の専門家たちと協調しながら今後開発を進めていくとのことです。
さらには、幼小接続の問題も議論され、日本でも問題になっている「小1プロブレム」と似た現象が、韓国などでも起こっていることがわかりました。つまり、小学校入学後いつまで経っても学校のやり方になじめない子どもが増えており、教師の話を聞かなかったり、授業中に勝手に歩き回ったりするなどして、長期間にわたり授業が成立しない状況が、日本だけでなく他の国でもみられるというのです。こうした問題への対応として、幼稚園・保育園から小学校への移行をスムーズに行なうための準備を幼児教育において行なう必要性が、会議の場でも指摘されました。
会議の最終日には、「モスクワ行動計画(The Moscow Framework of Action)」が採択されました。「モスクワ行動計画」のなかでは、とくに途上国を中心に「(幼児教育への支援を強化するための)政治的コミットメントの不足、公的財源の不足、幼児教育の質向上の難しさ、そのための(開発援助などの)外部支援の少なさ」といった課題が、今日の幼児教育にとって大きな問題となっていることが確認されました。また、途上国の幼児教育に対する財政支援を各国が増やすために、先進国や国際機関による国際的な開発援助を活発化させることが欠かせない、といったことが指摘されました。
会議のなかでは、とりわけ途上国における基礎教育の普及と質の向上といった観点から幼児教育を考えることの重要性が、しばしば指摘されました。しかし、日本を含めた先進国が自国の幼児教育の問題を考えるうえでは、こうした会議の議論と自国の状況との間に少し距離を感じざるを得なかった面もあったと思われます。その意味では、さまざまに異なる状況にある国々が集まる世界会議で、焦点化された議論を行なうことの難しさを感じざるを得ませんでした。
たとえば、今回の会議は「幼児期のケアと教育」と題されていますが、途上国からの参加者の多くは「教育」面に関する改善の重要性を強く意識しつつも、貧困や劣悪な衛生状態といった途上国社会に広くみられる現実を踏まえたうえで、「ケア」の側面により多くの時間を割いて議論が交わされた印象を抱きました。ここには、途上国の社会経済面での現実が、色濃く反映されています。
とはいえ、先進国と途上国の幼児教育を比較したときに、教育の質の向上、評価手法の開発の必要性、幼小接続のあり方、省庁間での連携の欠如など、多くの課題を共有していることも、改めて強く感じました。とくに、先進国と途上国の別を問わず、幼児教育分野に対して公的な財源が十分に配分されていないことが大きな課題として取り上げられており、日本でもまさに議論の渦中にあるだけに、幼児教育への財政問題が国際的・国内的にもっと議論される必要性を感じました。
なお、今回のさまざまな発表・報告のなかで、初日の全体会合で行われたハーバード大学のジャック・ションコフ教授(Prof. Jack P. Shonkoff)による基調講演が非常に印象的でした。最新の脳科学の知見にもとづき、とてもわかりやすく幼児期・子ども期の発達について解説がなされたのですが、とくに「さまざまな社会で昔から伝わる子育てに関する諸々の言説の正しさが科学的に証明されるようになったのは、実はここ10年程のことである」という指摘がとても印象深かったです。それぞれの社会で、昔から人々は次の世代を育てるうえで大切なことを経験的・本能的に理解し、それを実践してきたのであり、今日の科学はそれらの実践の正しさを証明するうえで重要な役割を果たしていると、ションコフ教授は指摘しました。この指摘は、幼児期の教育やケアを考えるうえで、常に新しいことばかり追い求めるのではなく、それぞれの社会で積み上げてきた経験・知見(さらには知恵)のなかからも多くのことが学べるはずであると示唆しています。ただし、そうした経験・知見を、現代社会に生きる子どもたちに適した形で応用することが必要でしょう。
今回の会議では、幼児教育に関する幅広い観点からの議論を聞くとともに、さまざまな国や機関からの参加者たちと意見交換の場をもつことができ、非常に実り多いものとなりました。また、私自身の専門分野である途上国への国際教育協力の観点から、幼児教育に関する論点を改めて整理する貴重な機会にもなりました。