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【ドイツ】ドイツの保育政策と陶冶の概念

要旨:

1990年代以降、ドイツの保育施設は「保護」の施設から「陶冶」の施設への転換を迫られている。このような、保育施設の陶冶任務に対する新しい期待の背後にあるのは、知識社会の到来を前提とした早期教育に対する政治的経済的要請である。今日、このような転換に直面しているのはドイツの保育界だけではない。だが、ドイツにおいて特徴的なことは、専門家の間で「陶冶」について原理論的に捉えようとする試みが見出されることである。これら、陶冶に対する諸見解を一瞥し、その中から、ドイツ教育学に伝統的なフンボルトの「陶冶」論に立ち返って、それを保育の基礎概念として再生させようとする試みに焦点をあてる。彼らの提起する「陶冶/教育」観とその背後にある「子ども像」に解説を加え、一見伝統的と思えるその見方のもたらす示唆に、読者の注意を促す。

Keywords;
Bildung, Hunboldt, PISA, デルファイ法, ドイツ, ドイツの教育, フンボルト, レッジョ・エミリア, レーヴェン, 保育政策, 保育施設, 保護, 学校教育システム, 幼児教育, 陶冶, 鳥光 美緒子
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はじめに: 保育施設の課題としての「教育と陶冶と保護」

1990年代以降、ドイツの保育界は転換期を迎えている。

長らく「保護」の施設と捉えられてきた保育施設*1が、今や「陶冶」の施設であることが求められているのである。

転換の最初の標は、ドイツ統一後の1990年、それぞれ異なる保育システムを構築してきた新旧連邦州に統一の保育についての枠組みを規定した、児童青少年福祉法22条の規定だった。

その定めるところによれば、保育施設の課題は、「教育と陶冶と保護」を含むという*2

英語圏であれば、ECEC(early childhood care and education)、「ケアと教育」というところだろう。だがドイツの規定では、教育(Erziehung)と陶冶(Bildung)と保護(Betreuung)という。

このBildung、「陶冶」*3という概念はわかりにくい。単に外国人である私たちにとって、というだけではない。この概念はドイツの保育関係者にとっても、なじみの薄い概念であるらしい。

日常用語としての陶冶は、学校教育、知的教育を意味する。Bildungのシステム、陶冶のシステムといえば、学校教育システムのことである。ときには、知識の詰め込みといった、否定的な含意をこめてBildungという用語が使われることもある。他方、教育学の学術用語としてのBildungについては、また別のストーリーを語る必要があるが、それは後で触れることにしたい。

いずれにしろ、教育と陶冶と保護という、この新しい法的規定の意味するところは、これまで「社会教育」の施設として捉えられてきた保育施設を学校教育システムの基礎段階として位置づけ、それにふさわしい任務を課すことであると捉えられた。ある幼児教育の専門家の言葉を借りて言うと、保育施設が一般の学校や職業学校、大学などと「同じ俱楽部」(同じセグメント)に属するということである。「悪くはない」と、その専門家は述べている。(Laewen2002b,33)

だがどのようにして、その課題を実現することができるのか。

当時、ドイツの保育施設には、日本の幼稚園教育要領にあたるような指針は、まだ整備されていなかった*4 。課題の実現は、それぞれの保育施設に委ねられていた。

だがそもそも、陶冶とはいったい何を意味しているのか。


1.学校教育の正規の施設としての幼稚園〜1970年代の西ドイツで〜

ドイツの幼児教育界で、保育施設の陶冶問題が話題になったのは、1990年代が最初ではない。すでに今から遡ること40年ほど前、1970年代の西ドイツでも、幼児教育関係者は、「陶冶」に対する社会的政治的要請に直面していた。

当時は、西ドイツのみならず世界的レベルで就学前教育の改革が議論されていた。きっかけとなったのは、アメリカにおける「ヘッド・スタート計画」、つまり補償教育としての就学前教育の開始だった。貧困の悪循環が社会問題になるなか、それを断ち切る鍵が、教育に、とりわけ就学前教育の充実に求められたのだった。小学校に入学する以前にすでについている学力差を補償し、頭(ヘッド)をそろえて学校生活をスタートさせること(ヘッド・スタート)を目的に、教育に関しては州レベルで予算措置されることが通例のアメリカにあっては異例なことに、連邦政府の資金が投入され、中産階層の家庭であればごく自然に身につくはずの、読み書きや算数の基礎、さらには社会的に積極的な態度を育成するためのプログラムが、貧困層の子ども達を対象に実施されたのだった。

このようなアメリカの動向の影響下、ヨーロッパやアジア諸国などにおいて就学前教育の本格的な整備が、幼児教育の専門家や行政関係者を中心に議論された。ちなみにわが国でも、このときおそらく史上初めて、幼児教育の問題が、幼児教育の関係者の範囲を越えて教育学者や世論の注目を浴び、広く議論されたのだった。

西ドイツも例外ではない。就学前教育に対する世論は明らかに変わりつつあった。

一つには、大学紛争のさなか、バリケードの中で反権威主義的教育をスローガンとする共同保育所運動が起こったことを契機に、就学前教育に対する関心が高まっていたという事情もあった。共同保育所運動そのものは、学生運動の枠を越えて広がることはなかったが、それでも反権威主義的教育は幅広い層からの関心を集めていた。(エアニング1999,185)

他方、そのような反権威主義教育の主張とは一見、裏腹とも思えることだが、市場では、学習おもちゃや学習教材などが出回るなど、一種の早期教育ブームという形で就学前教育に対する関心が広がりつつあった。(エアニング1999,185)

さらに、政策レベルでは、社会民主党(SPD)の政権下、「すべての市民に教育を」という民主化の徹底を掲げて大規模な教育改革が推進されつつあり、その改革は、幼稚園教育にも及んでいた。それまで幼稚園は、貧困層への援助を目的とした「社会教育施設」として考えられてきたのに対して、今や幼稚園は、3歳から6歳までのすべての子どもが通う「正規の施設」として認められるようになった。1965年から1980年の間に、幼稚園の就園率は32%から80%に上昇したという。幼稚園は、学校教育システムの第一段階、「基礎領域」として認知されたのである。(エアニング1999,183)

その際、専門家たちの間でとりわけ議論が集中したのは、5歳児問題だった。5歳児の教育は幼稚園で行われるべきなのか、学校においてか、あるいはそれとも移行クラスにおいてなのか。(エアニング1999 ,186: Zimmer1984,Vorwort)

この5歳児論争の背後にあったのは、学校教育的文化を支持する勢力と社会教育的文化を支持する勢力の間の相互の綱引きであったとみることができる。つまり5歳児の教育を学校教育の領域に取り込むのかそれとも、これまで通り社会教育領域において行うのかという論争である。(Zimmer1984,Vorwort)

1970年から1975年にかけて、5歳児にはどの設定での教育がもっとも効率的なのかをめぐって連邦政府主導で実験が行われ、結果的には社会教育を支持する勢力に軍配があがった。従来通り5歳児の教育は幼稚園で行われることになったのである。

だが論争は、制度的な改変の問題だけでは決着がつかなかった。幼児期にふさわしい教育という問題に対して最終的な解決として提案され、専門家たちの合意を得たのが、「状況的アプローチ」だった。(エアニング1999,193)

注目すべきことにこのアプローチは、幼児期の子どもを学習の主体として捉えることを基本にするものだった。状況と学習を、つまりインフォーマルな、生活状況と学習を密接に結びつけることをその特徴としていた。

だが1980年代の初頭にはすでに、就学前教育に対する政策的、社会的風土は変化していた。出生率は低下し、就学前教育の量的な拡大は優先的な政策課題ではなくなった。さらに経済危機に起因する経済的なひっ迫によって就学前教育を推進する基礎的条件も失われた。状況的アプローチもまた、理論的にも実践的にも十分に展開されることのないまま、いつのまにか議論の後景に退いていった*5。(Laewen2002a,22)


2.早期から陶冶を〜1990年代のドイツで〜

1990年代に入ると状況は再び変化する。幼児期の陶冶に対する要請が、本格化するのである。

その最初のサインが、冒頭に紹介した1990年の児童青少年福祉法22条の規定、保育施設の援助課題は「教育と陶冶と保護」を含むという規定だった。

さらに1990年代半ば以降になると、就学前期からの早期の陶冶、早期教育を要請する連邦政府や経済界からの声が相次ぐ。(Fthenakis2003a,12以下, Gisbert2003,79 以下)

とりわけ幼児教育の専門家たちの議論に影響を与えたのが、次の2つの提言だった。ひとつは、1996年から1998年にかけて行われた未来の知識社会の知と陶冶についての、デルファイ法を用いて行われた調査にもとづく提言、そしてもう一つは、連邦政府と州政府の合同で開催された「教育フォーラム」の結果として出された提言である。

デルファイ法とは、計量的な手法では予測できない未来を予測する方法として、しばしば用いられる手法である。当該の問題の専門家集団を対象に書面調査の集計と分析、フィードバックを繰り返して、予測に関する見解を洗練させていく。

この調査法を用いて、ドイツ連邦政府は1996年から1998年にかけて、未来社会の知と学校教育についての調査を行った。2020年の学校教育システムでは、どのような知識、能力、資格が伝達されるべきなのか。そして、そのような知識などのリストのトップにあげられたのが、「学習の学習」の能力、学習技術に関する能力だった。

このデルファイ調査の結果を受けて、1999年、「教育フォーラム」が開催された。2年間にわたって討議が行われ、その結果が2001年、12の提言にまとめられたのだが、注目に値するのはその第1の提言で、保育施設の陶冶任務の意義と、早期からの学習課程の強化が挙げられたことである。(http://www.bmbf.de/_media/press/1128_01ForumBildung(1).pdf)

これらの提言が一般に公表されたのが2002年、そしてその直後に、PISA調査*6の結果が公表された。この調査は読解を主要分野として行われたものだったが、その結果、ドイツは参加32カ国中、読解力で21位、さらに数学的リテラシーと科学的リテラシーで20位という不本意なものだった。

もちろん、調査そのものは15歳のコーホートを対象とするものであり、15歳の学力低下の要因が早期の教育にあるという証拠があるわけではない。だがそれにもかかわらず、行政はその直後より、小学校入学前からのドイツ語授業の強化など、就学前を対象とするドイツ語教育に関する施策を矢継ぎ早に展開していった。

この間、以上のような連邦政府、州政府の動向と並行して、保育施設とその担い手に対しても、行政主導で、陶冶課題を実現するためのリソースを提供することに向けての動きが活発化した。

その中核を担ったのは、連邦政府に主導された保育施設の「教育的質」の標準化をめざす動きである。1999年、連邦政府の家族・高齢者・女性・青少年省が、国家的かつ標準的な質を確立することに向けて議論を開始するよう専門家たちに要請した。(Laewen2002b,35. Gisbert2003,85以下)

すでにその数年前から、いくつかの研究グループが、保育施設の諸活動の質の評価と測定尺度についての経験的研究を開始していた。それらの研究を通して実際に、それぞれの施設の活動の「教育的質」の実態がさまざまであることが明らかにされていたのだった。

1999年以降、連邦政府の要請をうけて5つの研究グループが分担して作業を行い、2002年には、施設面積や子どもの人数に対応する保育者数などの外的、構造的な条件についても、また保育者と子どもとの間の相互作用に関わるような、活動の質的プロセスに関わることについても、一定の評価基準が公開され、利用できるようになっている。(Laewen2002b,35)

だがその一方では、本来は測定されるべき陶冶の内実そのものについての議論を先行させ、それに基づいて教育活動の測定の尺度を作成するべきところを、行政主導で、測定の尺度がまず作られ、結果的に、その尺度に基づく測定が一般化することで自動的に陶冶の質が規制されていくことへの懸念、つまり、陶冶の内実そのものの議論がなかったという事態への懸念もまた、専門家たちの間では表明された。(Fthenakis2003a,14)


3.陶冶とは何か(1):三つの試み

もちろん専門家たちもその間、手をこまねいていたわけではない。陶冶の内実を定義しようとする専門家たちの試みとして、以下の三つをあげることができるだろう。

一つは状況的アプローチに、陶冶の可能性を期待する試みである。

1990年代の半ば、就学前期の陶冶に対する経済的政治的要請が高まる中、専門家たちの議論はまずは、状況的アプローチに集中した。(Fthenakis2003a,9. Gisbert2003,85)

だが、前述したように、このアプローチはもともと、民主主義的な価値へと子どもたちを形成していくことをめざす学校教育改革の動向の影響のもとに、形成されたものだった。その提唱者たちにおいて、認知的教育の課題に関する自覚は強いとはいえない。議論が進展していくにつれ、提唱者たちの関心は社会的なテーマに収斂していった。

ドイツの幼児教育関係者の間では伝統的に、幼児教育の主眼を認知的教育とは無縁の社会的教育におく傾向が強かったが、状況的アプローチの提唱者たちは、このような伝統的な考え方を超えて、陶冶を中心的な任務とする幼児教育の在り方についての展望を開くことには、消極的だった。

連邦政府と州政府共催の「教育フォーラム」での議論の途上でのこと、幼児教育の研究者でフリーライターでもあるエルシェンブロイヒからは、伝統的な社会的教育に固執する幼児教育関係者に対して、次のような揶揄的な発言が投げかけられたという。すなわち、「リラックスしたコミュニケーション的環境を幼稚園は提供すべきであるというわけである。芸術と科学は後の時代にとっておく。保育者は社会的なことに対して責任を負う。学習と陶冶といった『成績圧力』は早められてはならない、というのが彼女ら(幼児教育関係者)の理解した課題だった。子ども期は『学校化』されてはならないのだ!」、と。(エルシェンブロイヒの発言、Gisbert2003,85より再引用)

二つめの試みとして取り上げたいのは、社会構成主義といった、英米圏の心理学、幼児教育学において展開されている概念によって、陶冶過程を捉えようとする試みである。つまり、子どもの発達を、子どもと大人の相互作用の帰結として捉えていこうとする立場である。子どもも、また大人の側もともに能動的にこのプロセスに関わり、学習はそのような双方の能動的な関与によって構成されていくと考えるのである。

例えば、ミュンヘンの国立幼児教育研究所の所長であるエフテナキスは、移民や貧困、戦争やカタストロフィー、それに、家族システムの変容によって、子どもの生活世界そのものが大きな変動にさらされているときには、このような、幼児期を受動的な子どものための庇護期として捉える伝統的な幼児教育観はもはや機能しないと指摘する。子どもは社会的生活に参加しそれを形成していくことのできる、有能な存在として捉え直されなければならない。子どもは発達と学習の共同構成者として捉えられなければならないというのである。(Fthenakis2003a,9以下. Fthenakis2003b,27以下)

そして第三に、幼児教育に関する研究所を主催するレーヴェンらの試みがある。(Laewen2002a. Laewen2002b)

陶冶の概念規定という課題に対して、エフテナキスと、彼を中心とする国立教育研究所の研究グループが、欧米圏を中心に諸外国の幼児教育改革の情報を精力的に渉猟し、そこから得た知見をもとに、社会構成主義的な考え方を、幼児教育の基本にすることを提案しているのに対して(Fthenakis2003b. Fthenakis2004)、レーヴェンらは、発達や学習といった、心理学的な概念にではなく、陶冶、Bildungという教育学的な、それもドイツに固有の概念に着眼した。彼らは、諸外国の幼児教育改革の現状にではなく、ドイツの教育学の歴史を渉猟し、そこから掘り起こしてきたフンボルト(Humboldt,W.von 1767-1835)の陶冶概念を、現代ドイツの幼児教育の基礎概念として蘇らせようと試みたのである。

節を改めて少し詳しく、レーヴェンらの試みを追ってみたい。


4.陶冶とは何か(2):フンボルトの陶冶概念をてがかりにして

そもそも、Bildungという語がドイツ語の語彙として登場したのは14世紀のことだったといわれる。神の像、Bildを模倣することを通して神によって形成されるとの意味で、宗教的な概念として理解されていた。それを教育学の概念へと洗練させたのが、フンボルトである。

人は自らの中にあるさまざまな力を発達させることで、人として形成されていく。

そして、そのような諸力の発達を刺激する契機としてフンボルトが強調するのは、「世界の習得」である。自分の外にある客観的な世界について知り、それを学ぶことをとおして人は、自分の中にあるさまざまな力を発達させることができる、というのである。

フンボルトは、諸力の「調和的」発達を強調する。諸力がそれぞれに発達するだけではなく、それらが均衡して調和的に発達することが重要なのであり、そのような発達をとおして、人はいわば、より高い段階の自己へと形成される。このような自己形成のダイナミックな過程を、フンボルトは陶冶と呼んだ。

だが、このようなフンボルトの陶冶の概念は、いささか古めかしく響く。世界の習得という概念にしても、抽象的で茫漠としている。

このような、いわば大時代的な概念を現代に蘇らせようとすれば、それなりの手立てがいる。解釈という操作を介入させる必要がある。レーヴェンはフンボルトの陶冶概念を、とりわけ二つの点において解釈し直した。

一つは世界習得という概念についてである。これについてレーヴェンは、現代の心理学の用語を用いて次のように言いかえた。すなわち、それは子どもがさまざまな経験や行為をとおして「世界の像」をつくること、そして同時に、この世界の一部としての自己自身の像を造ることである、と。(Laewen2002b,40以下)

世界の像を造るというとき、その像は単純に世界の写像ではない。それは子どもの構成したもの、構築したものである。

それでもまだ、抽象的な説明に聞こえるかもしれない。だがここでレーヴェンが考えていることは、保育者たちが日々経験する事柄とそうかけ離れていない。保育者が子どもたちの活動を予測し、準備した環境を想定してみてほしい。そこにおいて子どもたちは、日々、準備されたさまざまな事象、自然や人為的に作られたもの、芸術作品や日用品などと自分たちなりにかかわり、そしてそのかかわりをとおして、彼(女)らなりの世界についての像を創る。そのような子どもの活動を捉えてレーヴェンは、「世界の習得」と呼ぶのである。

つまり、子どもたちが日々、保育施設においてさまざまな経験や活動を通して自己形成していくプロセス、それを「世界の習得」のプロセスとして、レーヴェンは捉えるのである。

そのような子どもの自己形成プロセスが成立するためには、当然ながら、保育者によって準備された環境が不可欠である。それだけではない。子どもたちが世界のどのような事象に注目し、そこからどのような像を構成していくのか。その活動を促すためには、保育者側の「テーマ期待」といったものが、重要な役割を果たすだろうともレーヴェンは指摘する。(Laewen2002b,43)

つまり子どもの「世界の習得」のプロセスは、保育者側の働きかけを不可欠のものとして初めて成立する。子どもの世界習得のプロセスが陶冶であるとすれば、それを成立させるのに必要な保育者側の働きかけは「教育」として捉えられる。

レーヴェンはフンボルトの陶冶の概念には実は、今述べたような陶冶(=世界習得のプロセス)と教育とが、その区別があいまいなままに混在しているという。フンボルト自身は、別のものとして導入した事柄が彼の思考の中で一緒になって、陶冶という概念に入り込んでいったのではないか、とレーヴェンは言う。レーヴェンの独自のフンボルト解釈の二つめはこの点に関わっている。つまり、フンボルトのいう陶冶を、自己形成としての陶冶と、それを成立させ拡張し要求する教育、つまり陶冶と教育という、二つの別個の、だが相互に不可分にからみあう概念として、捉え直すのである。(Laewen2002b,42)

この第二点目のレーヴェンの陶冶解釈は、実は、保育者たちの思考と活動を方向付ける上で、意外なほど大きな影響力をもつ考え方をはらんでいることが明らかになった。


5.陶冶と教育の関係をどう捉えるか

  これはドイツに限ったことではないが、フレーベル以来、100年以上にわたって受け継がれてきた幼児教育界に伝統的な考え方では、教育の作用に関して、粘土型モデルと区別される植物型モデルが推奨されてきた。つまり、子どもを粘土のように「形作る」のではなく、よけいな介入をせずに子どもの自発的な成長を見守ることこそが重要だと考えられてきた。

その考え方に従えば、大人の必要以上の介入は、子どもの自発性を損ね、子どもをある方向へと「もっていく」ことになると考えられたのである。

このような伝統的な考え方の背後には、庇護され保護されるべき子どもという考え方が透けて見える。子どもの尊重を提唱しながらも、そこでは子どもは、いわば、大人の介入に容易にその自発性を損なわれてしまう、か弱い存在、保護されるべき存在として捉えられていたのである。

これに対してレーヴェンは、子どもとはあえていえば「自分で自分をプログラムするシステムである」という。大人が子どもに「何かをもたらす」ことができるという考え方には別れを告げなければならないと。教育が子どもを粘土のように「形づくる」ことは、そもそも不可能なのである。(Laewen2002b,42)

もちろん、世界の習得という陶冶の過程は、すでに述べたように、教育によって初めて成立する。だが教育は、子どもが獲得する世界像の在り方に直接影響を与えることはできない。教育は、陶冶過程に直接作用することはできないのである。

このような考え方は、教育することが子どもの自発性を損ねるのではないかという、根強い保育者たちの不安を解き放った。

OECDが2004年にドイツで実施した実態調査の際に、多くの保育者はインタビューで、陶冶と教育の関係を、レーヴェンを引き合いに出して、ダンスをするパートナー同士の関係にたとえて語ったという。(OECD2004,50)

陶冶と教育とは一方がその領域を広げれば、他方がひっこむような、相互に排除しあう関係にあるのではない。両者は、レッジョ・エミリア*7の指導者であったマラグッツィの言い方を借りていえば、相互に相手の出方を受けては自らの打ち方を調整する、「ピンポン・ゲーム」のようなものなのである。(エドワーズ他2001)


おわりに:幼児教育の基礎概念としての陶冶

レーヴェンらの陶冶の規定は、それ自体すでに十二分に完成されたものであるというわけではない。

レーヴェン描くところの、世界の習得を通した自己形成のプロセスは、実践者に対する説明と示唆という点から考えると、ピアジェ派の構成主義的な子ども観とさして違わない。

貧富の差や移民問題など多くの社会的問題を抱えるドイツにおいて、地域のコンテクストの違いを超えて、陶冶と教育の概念が保育者に対する方向づけとして、ほんとうに機能するのだろうか。結局のところ、学校的成績圧力の回避という伝統的な幼児教育の考え方の枠組みを抜け出ていないという、状況的アプローチに対するエルシェンブロイヒの批判は(2節参照)、レーヴェンらの提示した陶冶と教育の概念に対しても、同じように有効なのではないかとの疑念はぬぐえない。

翻ってわが国の状況を顧みるとき、カリキュラム大綱の整備にしろ、英米圏の心理学的研究の成果の受容にしろ、それだけみれば日本はドイツよりも、進んでいるといってもいい。幼稚園教育要領が整備されて久しいし、さまざまな心理学的な理論の導入についても日本はドイツに先駆けている。

ドイツの場合、保育施設の課題は「教育と陶冶と保護」を含むという、児童青少年福祉法の規定が成立した時点では、保育者の手助けとなるようなカリキュラム大綱がなかったからこそ、むしろ、陶冶とは何かと、その概念に立ち返って問うという試みもまた行われたのだと見ることもできる。

だがそれにもかかわらず、基礎概念の内実を基底するという答えの出にくい課題に取り組んだドイツの幼児教育の専門家たちの努力は、やはり注目に値する。

学校教育とは異なる幼児教育の独自性を強調した、平成元年幼稚園教育要領の論調から、幼小接続を前提とした幼児教育論へと、原理的な問いかけなしに、いつの間にか推移しているかのようにみえるわが国の幼児教育界のこの20年ほどの議論の流れを想起すると、ドイツの専門家たちの、原理に立ち返って問うその姿勢を、わが国でこそ試してみる価値はあるのではないか。



*1 保育施設とは、3歳未満児を対象とする保育所、3歳から6歳までの幼児を対象とする幼稚園、7歳から12歳までの学童保育を含む。近年では、幼稚園が0歳から6歳までを対象とするか、あるいは3歳から12歳までを対象に学童の機能を合わせもつセンターに拡張される傾向がある。
*2 齋藤2011によると、1990年の児童青少年福祉法では、3つの概念は「保護と陶冶と教育」という、保護を筆頭にして述べられていたという。その後2004年の法律改訂で保護と教育の位置が入れ替わり、「教育と陶冶と保護」として援助の課題が規定され直されたという。
*3 Bildungの訳語については、教育学の基礎概念としてのBildungが本稿の主題となっていることから、「陶冶」というわが国の教育学界で古くから使われている訳語をあてた。ただし、本文でも述べたようにBildungという用語は多様に用いられており、たとえば、学校教育システムのこともドイツ語ではBildungのシステムという。このように、端的に学校教育とした方がわかりやすい場合については、学校教育という訳語をあてた場合もある。
*4 2000年代に入って、州ごとに、カリキュラム大綱の整備が進んでいる。また、新連邦州、当時の東ドイツの学校教育体系は西ドイツとは異なっており、そこでは就学前教育は、学校教育体系の一環として位置づけられていた。当然ながら、カリキュラム大綱もまた整備されていた。
*5 状況的アプローチは現在なお、ドイツ幼児教育界において多くの支持者をもつアプローチであるが、多様な試みが状況的アプローチの名のもとに試みられていて、その全体像は見通しにくい。代表的なのは「ベルリン版」として知られているものであり(http://www.ina-fu.org/ista/content/pdf/konzeptionelle_grundsaetze.pdf)、ベルリン市のカリキュラム大綱などにその影響を見て取ることができる。
*6 Programme for International Student Assessmentの略でOECDが3年ごとに行う国際調査のこと。2000年調査で日本は読解力8位、数学的リテラシー1位、科学的リテラシー2位の結果だった。
*7 「レッジョ・エミリア」は北イタリアの都市。第二次大戦後、その近郊の村で保護者主導により幼児学校が設立されたが、その後発展拡大し、現在ではレッジョ・エミリア市立の諸幼児学校・乳幼児センターとして運営されている。マラグッチL.Malaguzziはその共同設立者にして指導者でもあり、「レッジョ・エミリア・アプローチ」として知られる特徴的な幼児教育方法や地域密着型の運営方法を築きあげた。この「レッジョ・エミリア・アプローチ」は、世界的な関心を集めている。


主要引用参考文献
G. エアニング(小笠原道雄監訳)1999:『絵で見るドイツ幼児教育の150年--幼稚園の図像集--』ブラザー・ジョルダン社
Fthenakis,W.E. 2003a:Vorwort. In: Fthenakis,W.E.(Hrsg.), Elmentarpädagogik nach PISA. Freiburg.
Fthenakis,W.E. 2003b: Zur Neukonzeptualisierung von Bildung in der frühen Kindheit. In: a.a.O.
Fthenakis,W.E/ Oberhuemer,P.(Hrsg.)2004 : Frühpädagogik international. Wiesbaden.
K.Gisbert 2003:Wie Kinder das Lernen Lernen. In: W.Fthenakis(Hrsg.), Elmentarpädagogik nach PISA, Freiburg.
H.-J.Laewen 2002a: Bildung und Erziehung in Kindertageseinrichtungen. In: H.-J.Laewen/B.Andres(Hrsg.), Bildung und Erziehung in der frühen Kindheit, Weinheim/Basel/Berlin.
H.-J.Laewen 2002b: Was Bildung und Erziehung in Kindertageseinrichtungen bedeuten können. In: H.-J.Laewen/B.Andres(Hrsg.), Forscher, Künstler, Konstrukteure, Weinheim/Basel/Berlin.
C.エドワーズ/L.ガンディーニ/G.フォアマン編2001:『子どもたちの100の言葉』(佐藤学/森真理/塚田美紀訳)世織書房
OECD 2004: Country Note. Early Childhood Education and Care Policy in The Federal Republic of Germany. (http://www.oecd.org/dataoecd/42/1/33978768.pdf)
齋藤純子2011:「ドイツの保育制度--拡充の歩みと展望--」『レファレンス』平成23年2月号(http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/refer/pdf/072102.pdf
J.Zimmer1984: Vorwort. In: J.Zimmer(Hrsg.), Enzyklopädie Erziehungswissenschaft Bd.7, Stuttgart.
筆者プロフィール
鳥光 美緒子(中央大学文学部教授)

1952年9月28日生まれ。
1982年、広島大学大学院教育学研究科博士課程中退。その後、福岡教育大学、広島大学大学院教育学研究科幼年教育研究施設をへて、2005年より、中央大学文学部に勤務。
専門はドイツ教育思想史と幼児教育学。
最近の著書として、『教育思想史』(今井康雄編, 有斐閣2009年)、『ペスタロッチー・フレーベルと日本の近代教育』(浜田栄夫編著, 玉川大学出版部2009年)など。
幼児教育に関する論文としては、「レッジョ・エミリアの子どもたちはどのようにして測定の言語を学んだのか」『幼年教育研究年報』28巻2006年、「幼年期カリキュラム再構想化の現状と課題—日独比較の視野からー」中央大学教育学研究会『教育学論集』第50号2008年など。
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