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阪神発 子どもの現場~それぞれの阪神大震災~Part 2 母親編

要旨:

神戸市が災害救助法に基づく避難所を閉鎖した8月20日、乳幼児から小学生の子どものいる4人の母親にグループインタビュー法で話を聞いた。前回行った中学生のインタビューに比べて、話題の中心は現在よりも震災当時のことであった。それは小さな子を抱える母親であり、主婦である立場が現実の問題に瞬時に対応を求められていたためと言える。また、震災直後に親戚の所に身を寄せたりするなどで大家族で暮らした経験による子どものストレスに対しても、客観的に判断し対処しようとした様子が見られた。

神戸市が災害救助法に基づく避難所を閉鎖した8月20日、乳幼児から小学生の子どものいる4人の母親にグループインタビュー法によりいろいろ語ってもらった。子どもたちの年齢は、1歳5か月の女児、小学4年生の兄と5歳の妹、4歳と1歳3か月の兄弟、小学4年生と6歳の姉妹である(震災発生時)。

被災当時はそれぞれ長田区、ポートアイランド、芦屋市に居住していたが、現在、元の家に住んでいるのは2家族で、残りの2家族は実家や他市に一時転居という形になっている。それでも、震災の直後は親戚の所に身を寄せたり、逆に親戚が頼ってきたりと大家族で暮らした経験が共通している。そうした中で、子どもたちにどういう影響があったかに焦点を当ててみた。

なお、中学生と同じように、当初の約束で誰が何を話したかは、この稿では述べない。


地震直後の状況

4家族とも住宅や家財にはかなりの被害を受けている。家財の中でもとくに食器とガラス製品はほぼ全滅という。大きな家具も飛んだり、壁に突き刺さったりと想像を絶した状況である。ただ、家族にケガ人は出ていないのが幸いであった。地震が起きたとき、同じ家の中で別々に寝ていたり、たまたま、その前の日から子どもは子ども部屋で寝るようになっていた家庭もあり、安否の確認にかなりの時間がかかったところもある。

  • 「火事が両方から迫ってきて、ガソリンスタンドが近くにあったので、家はあかんやろうから出ようということで、とりあえず車に寝泊まりしたんですが、今は家だけ焼け残ったので、そこに住んでいます。主人の実家も私の実家も全壊です」
  • 「マンションだったので、建物自体は壊れたりはしなかったんですが、家の中はひどくて、タンスが倒れて主人が下敷きになって、夢中でタンスの端を上げてなんとか隙間から出ました。結局ケガはなかったんですけど、今思うと本当に怖かった」
  • 「からだが沈んでいくような、突き上げるような感じで、初めての経験で、何が起こったのかわからなくて。お向かいの家がつぶれてしまい生き埋めになってましてね、近所の人で助け出したんです。私の家も全壊ですが、4階建ての鉄骨住宅なのでなんとか脱出できました。......しゃべっていると思い出すので、また落ち着いたらしゃべります」
  • 「一部損壊なんですが、隣のアパートが倒れかかってる状態です。朝8時ぐらいまで何もすることがなくて、どうしていいのか全然わからなくて。避難しようにも、近所の方たちが公園でボーッと立ってて、あっちで人が埋まっているかもしれないからって男の人たちは行かれるんですけれども、女の人たちは子どもを抱えてずっと公園にいたんです」

一番困ったことは何か

この問いに対して異口同音に返ってきた答えが「水」であった。1人がそのことを口にすると皆、一斉に頷いてそのことで座が盛り上がった。飲み水もさることながら、お風呂も冬場であったのが幸いして毎日の要求にはならなかったもののなかなか入れず、なかには熱帯魚の水槽のヒーターを利用して風呂をわかそうとしたがうまくいかず、苦労した人もいた。小さな子どもを抱えている人が多いため、水の確保もままならず、夫や小学生の働きに期待する以外は動けないため、しばらくは近隣の親戚の家に避難していた人もいた。その準備で一家揃ってインフルエンザにかかった家庭もあった。

  • 「水が出なかったこと。いつ給水車が来るのかわからなくて、ペットボトル1本の水のために3時間も4時間も並んでいました。給水車が常にいるようになっても何回も行かなくてはならないので、大変でした」
  • 「ガスが出ないのでお風呂に困りました」
  • 「水洗トイレが普段当たり前になっていたので、食器を洗った水をまたトイレに使ったりしたらトイレが壊れて大変でした」
  • 「スーパーはすぐに開いたんですが、朝9時に並んで夕方の4時に中に入れたくらいで、えらい疲れてしまって」
  • 「子どもがアトピーなので食事制限があって備蓄はしていましたが、いつかなくなるのが心配で、実家に帰りました」
  • 「空気です。ちょっとたってから、解体が始まってものすごいんですよ。ほこりの影響で皮膚がただれたり、ぜん息のお子さんは大変だったみたいです」

一番頼りになった人

どの家庭も核家族で、お父さんの活躍が目立った。幼い子を抱えて両親が同時に動くことはできない。震災直後の真っ暗闇の中、一番初めに声を出したのは、お父さんが多かった。その後も安全を確認すると次の行動に移って、家族をまず避難させ、さらに近所の人の救出に行った人もいる。情報をいち早く捉えてポートアイランドを脱出したり、ほかのマンションを確保するなど普段の行動からは見えない一面があったようだ。

  • 「夫が頼もしく思えて......。私がパニックになっていたんですが、なんとかなりました」
  • 「主人が大丈夫かって叫んだので目が覚めたんです。外を見に行ってくれて、火事だからと車にふとんなどを積んでいるのを見て、見直しました。普段しゃべらない人なんですが、子どもの相手をよくしてくれました」
  • 「自分だけでは動けなかった。主人が近くの避難所を見に行って満員だから実家に行こうとかいろいろ決めたりしてくれて、今の住まいも3日目に探して決めたんです。4日目には、みんなが殺到したので助かりました」
  • 「いてくれるだけでも違いました。いろいろやってくれて、精神的な支えにもなりました」

子どもたちの状況

子どもたちは、どうであったか。地震の時間が早いこともあって、そのまま寝ていた子や年齢的に何が起こったかわからない子もいた。しかし、そのあとの環境の変化は大きく、子どもたちに相当な影響があったと思われる。まず、住まいが転々としている。それに伴って、幼稚園や保育園も転園している。本人が移動しなくても周りの友達が亡くなったり、他へ転居したりしてクラスの人数が半分ぐらいになったりもしている。また一時的にせよ大家族を経験している。さらに今までの遊び場はもとより、家の外の環境が地震により破壊され、親としては危なくて外に出せず、そのことが子どものストレスになったりもしている。

  • 「今、実家に住んでいますが、元の家と比較的近いため、特例で校区外からでも戻れる可能性があれば行かせてくれるので、以前と同じ学校に15分かけて通っています。なかなか学校が再開できず、先生方が個別に勉強をみてくれました」
  • 「子どももストレスがたまって怒りっぽくなったりしました。外で遊べないし、水汲みばかりだし。最初は田舎のある方は帰ってしまったので仲良しの友達にも会えず、親を亡くされた方は遠くの親戚に引き取られたりしたので、思いもかけず友達との別れがあったりしたようです」
  • 「実家に一時14人が生活して、同じ身内でも最初はよかったんですが、時間がたってくると大変でした」
  • 「実家に帰って私の妹と両親と暮らしたんですが、子どもが2人からガミガミ言われて一時おかしかったんです。春休み前後は荒れて、やたら子ども自身が怒るし、私もカリカリしたし、ちょっと危ないなという感じでした」
  • 「学校もクラスメートが亡くなったり、先生もガクッとされて......通学路も悲惨でしたし。子どもにかなり影響があったのではないかと思っています。皆さん元気そうにしていたんだけど、何かちょっと変な感じで。張りきるときは張りきるねんけど」
  • 「下の子はしっかりしていたんですが、保育園がだめになってほかの保育所に行ったら、泣き出してしまって、"お母さん、行ったらいやあ"言うんで後ろ髪ひかれて。今までそういうことがなかったので初めてそういう経験をしました。9月になったら行かなあかんよって教え込んでいるんです」
  • 「祖父母と私の両親と一緒に住んだのですが、下の子は遊び相手が増えて喜んだんです。上の子は幼稚園に行ったんですが、突然遠いところに連れて来られて、早く帰りたいと一時は指しゃぶりが出て......。慣れてお友達もできたので、すぐに治りましたが」
  • 「子どもは1歳5か月だから地震もわからなくて。私の実家に行きましたが、子ども向きの間取りじゃないし、危ないものもいっぱいあるから、いつも誰かが見ていないといけなかったんです。あれしちゃダメこれしちゃダメといろいろ言われたせいか、去年断乳して夜泣きもしなかったのに、毎晩夜泣きしてしばらく大変でした」
  • 「子どもなりに疲れが出たのか、3日後ぐらいから39度の熱を出して、しばらくしんどかったです。地震のストレスというより、その後の周りの変化に対してだと思います。おばあちゃんは孫と一緒にいられて喜んでいましたけど。3月にガスが通じたので帰って来ました」

親は子どもたちのストレスを減らすために、いろいろと努力をしていたようである。

このあとに、昔の集団疎開とは違う形ではあるが、子どもだけを学校単位とか安心できる方法で預けることができる制度があったとしたら利用するかと問いかけたところ、家族で行動したいと全員が口を揃えて答えたのが印象的だった。


子どもに対しての気持ちの変化

震災を経験して子どもに対しての思いが変わったかどうかを聞いたところ、当時と今ではどの人も元に戻ってしまったという感想が多かった。しかし、子どもに対して環境に慣れることが早くて驚いたとか、いるだけで安らぎになったとか、また、子どもの手伝いで助かったとか、子どもを改めて見直す機会になったようだ。

  • 「当時は命があっただけでいいと思っていましたが、時がたつにつれて勉強が遅れているとか、いろんなことを思ってしまった。最初は先がどうなるかわからへんという状況だったので、家族揃って暮らせればいいと思っていたんですけど、通知表をもらったりすると教育ママゴンになりつつあるなと感じます」
  • 「主人の仕事が忙しくなって、家に帰れるのが1週間に2~3回しかなくて、子どもたちが寂しい思いをしています。大人のほうも大変なので、今までは子どもの勉強に関してかなり気にしていたのが、少し和らいでいます。また、前は絶対だめと思っていたことが、まあいいかなと思えるようになったみたいです」
  • 「地震の後、環境が変わって子どもが溶け込めないかなと思っていたんですが、パッと溶け込んだので、あまり深く考えないほうがいいというか、子どもはそういう力があるんだなと思いました」
  • 「子どもがすごく活躍してくれて見直しました。力をよく出して、家族として頼もしいと思いました」

震災を超えて

思いもかけない地震の体験の中で、つらいことや悲しいこと、ローンの二重負担など、いろいろな問題を抱えて現実に対応していかなければならないが、そんな中にもホッとしたことがあった。それを少しお伝えしたい。

  • 「家族がまとまって行動したことで、お互いを見直すことができてよかったと思います」
  • 「避難所の小学校の校長が昔の担任で、自分のことをほっといてがんばってる姿に感動しました。ほかの先生も同じで、トイレの掃除も自発的にされていて、人の温かさが伝わってきました」
  • 「遠くの親戚がいろいろ心配してくれたり、普段つき合いのない人も心配してくれたりと人のありがたさがわかりました」
  • 「本当にあのときは、まち全体が優しかったんですよ。知らない人もニコニコして、がんばろうとか言っていました。人間の温かさをちょっと知ったかな」

母親たちのインタビューを通じて感じたことは、現在、生活が一応落ち着いているせいか、現在よりも震災当時のことが話題の中心であることだった。それは、中学生と比べると、彼女たちが小さな子を抱える母親であり、主婦である立場が現実の問題に瞬時に対応を求められていたためと言える。また、子どものストレスに対しても客観的に判断できているのではないだろうかと思われた。


※季刊子ども学「子どもたちの震災復興」1996より掲載しています。
筆者プロフィール
松山容子(まつやま・ようこ)
医療ソーシャルワーカー。1950年生まれ。日本福祉大学社会学部卒業。都立府中病院の相談室から重症心身障害児施設である、都立府中療育センター医療社会事業係に勤務。障害のある子どもとない子どもが共に過ごす、“ししのこキャンプ”を仲間と実施し、国際協力活動も行っている。(※1996年当時)
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