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子どもを受け止めるための、個々のつながり、を目指して

引地 達也 (「小さな避難所と集落をまわるボランティア」世話人)

2011年6月17日掲載
■子どもへの思い

蓄積されていく東日本大震災の犠牲者の数を思うとき、圧倒的な悲しみの先に、多くの子どもの死に深い悲嘆の淵に突き落とされ、しばらく身動きが取れなくなる時がある。それは私だけではないと思う。

死の意味など知るはずもなく、この世に戻れなくなった子どもたちにはどんな慰めも通用しそうにはない。生きている私たちが何らかの行動で償おうと考える時、生き残った子どもたちにエネルギーを傾注するほかない、との結論に行き着く。それは今、押しこめられ、闇に葬られようとしている子どもの整理できないだろう悲しい体験を大人が受け止める準備をすることであり、それは私たちの責務のような気がしてならない。

例えば、全校児童108人のうち約7割が死亡か、行方不明となっている宮城県の石巻市立大川小学校について言えば、7割の深い悲しみと共に3割の生き残った子どもへの視座から、大人が長期的にその悲しみを引き受ける覚悟を持つ、あるいは覚悟を持てる環境を早期に整えることである。この覚悟には、私が今展開しているボランティアでの経験による確信が導かれている。

■無数のストーリー

私は現在、個人的な運動として「小さな避難所と集落をまわるボランティア」を展開している。行政や団体の支援の行き届かない小さな避難所や民家避難者を訪問し、必要な物資を聞き取り、それを調達しながら被災者と対話を積み重ね、被災者の声に耳を傾けることで、被災者の悲しみや不安を受け止めようという試みである。

宮城県栗原市を拠点に宮城県南三陸町、気仙沼市、岩手県大船渡市、陸前高田市の三陸海岸の甚大被害地で展開し、これまで布団や衣類などを届けながら、先行きに不安を覚えている被災者との関係を築いてきた。

海辺の高台にある家屋の軒先で、いまだに夫が行方不明の夫人と新たな犠牲者を引き上げる自衛隊のヘリコプターを見上げながら、夫人の「うちの人かしら」というつぶやきを聞いた。電気の通らない家屋にある娘の霊前で小さな灯りをともし、その家族と鍋を囲んで語らい、家も船も流失した漁師の悲嘆から漁を復活させるという決意の表情を受け止めた。

「自分が洗濯機の中にいて回されているようだった」「高台に逃げて、人を乗せた車が沖合に流されるのをただ見ているしかなかった」。同時に聞かされたのは、3月11日の出来事に関する訥々とした語り。それは被災者の数だけあるストーリーの一端であった。

■その時に向けて

生き延びた人は断末魔の風景を目にし、記憶に深く刻み込まれ、それは引き受けなければならない人生の重荷ともなる。これが子どもならばどうだろう。刻み込まれた記憶には、悲しく整理の出来ない風景があるはずである。

復興の大号令の中にある被災地の大人たちは住まいの確保や仕事、将来の不安を抱え、大人自身が悲しみの記憶を整理できないままでいる。その状況で子どもたちは大人の苦労を感じ取って、整理できない記憶を心の闇へ闇へと押しやるしかないのであろうというのは想像に難しくない。

1995年の阪神淡路大震災では、問題がないと思われる所謂「おりこうさん」の子どもが10年後に外傷性ストレス障害(PTSD)を突然発症した例もある。身の回りの子どもが、「おりこうさん」でも、ある日突然PTSDの症状が出てくる可能性があり、「その時」がいつかは分からない。私はその分野の専門家ではないが、言えることは、「その時」まで、大人たちは、発症した子どもたちを受け止める準備をしなければならない、という発想で精神を支え合う社会を再構築しなければならない、ということである。

■被災地を巡る

甚大被害地域では平野部でがれき撤去の重機が行きかい、高台にある小学校は避難所となり校庭は仮設住宅が建てられ、子どもたちの遊び場は失われている。小さなスペースで遊ぶ子どもたちも、子どもたちの周囲でケアする大人たちも、特に非被災者の外部の方が、震災に触れないようにしているようである。震災体験を吐き出すこと、吐き出せる環境を、受け止められる大人が特に作ってあげることが必要である。子どもが元気で健全なことは、そのまま大人の活力にもつながるはずである。

おそらく大人たちが復興の歩みを確実にし、将来の見通しが立った時にはじめて、本能的にPTSDを発症する子どもが増えるかもしれない。それを受け止めるのは私たちである。被災地と非被災地、被災者と非被災者に限らず、広く、この同時代に生きる人としての責務、である。

だから、まずは被災者に対し、将来の安心を提供しなければならない。長期的には政治の責任であるが、目の前の生活や物資不足、そして協力者の存在を知っていただく継続的な取り組みが必要である。

この発想から、私自身が出来ることとして、前述の「小さな避難所と集落をまわるボランティア」を展開はしているが、問題の大きさからするとそれも小さな取り組みかもしれない。

■対話と関係の構築

このボランティアはがれきの撤去や物資運搬などと違い、被災者と直接向き合う覚悟が必要だから、誰もが気軽には出来ないかもしれない。人生の修羅場にある人と対話すること、家族を失った人の悲しみを受け止めることは、これまで生きてきた経験や知識をはじめ全人格を動員したエネルギーが必要となる。

子どもたちの未来を考えたときに、このエネルギーの発揮は目の前の被災者の支援のためだけではなく、将来の子どもたちのためでもあると考えたい。個々のつながりがきっと将来の子どものためにもなるのだから、と考えれば取り組みも自然と長期的にならなければいけないとの覚悟も生まれる。

再度言うが、それが同時代の我々に課せられた責務である。

この認識を共有するために、釜石小学校の校歌を紹介したい。避難所になった小学校の卒業式で大人や子どもが涙しながら歌った歌で、作家の井上ひさし氏の作詞という。

釜石小学校校歌

いきいき生きる いきいき生きる
ひとりで立って まっすぐ生きる
困ったときは 目をあげて
星を目あてに まっすぐ生きる
息あるうちは いきいき生きる

はっきり話す はっきり話す
びくびくせずに はっきり話す
困ったときは あわてずに
人間について よく考える
考えたなら はっきり話す

しっかりつかむ しっかりつかむ
まことの知恵を しっかりつかむ
困ったときは 手を出して
ともだちの手を しっかりつかむ
手と手をつないで しっかり生きる
(引用:これからを生きる君たちへ 新潮社)

共に「しっかりと生きる」には、手と手をつながなければならないのだと思う。

■「小さな避難所と集落をまわるボランティア」の活動内容については以下をご覧ください。
 http://dsproject.org/?page_id=35
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