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【被災地に遊び場を】南相馬での挑戦~自分たちで除染してでも~

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一本の電話

「もう、子どもたちが限界だって、みんなそう感じている」 3月5日、その電話は、ぼくの携帯に唐突にかかってきた。南相馬からのその電話に、ぼくは、少なからず高揚していた。心にずっと引っかかっていた思い、それが原発被ばく地域に住む家族、ことに子どもをもつ家族の存在だったからだ。

福島県。震災や津波の被災地であると同時に、ほかの地域とは完全に一線を画す被害にさらされている地域。「子どもには、遊びを通じて自分をケアする力がある。それを十分発揮できるための遊び場をつくろう。」そう思い、ぼくたちは昨年4月26日以降、宮城県気仙沼市に子どもの遊び場をつくり、(【被災地に遊び場を】 「気仙沼あそびーばー」の誕生)今も運営してきている。その間もずっと心の片隅にあり続けた、「福島の子にも遊び場をつくりたい」という思い。しかし、屋外はもはや無理なのではないかと思えた。屋外での遊び場を展開しているぼくたち『日本冒険遊び場づくり協会』は、正直なところ一体どんな手が打てるのか、手をこまねいていた。袋小路のような思考状態。そんなところに、この電話がかかったのだった。

「だから、子どもたちに遊び場つくろうということになったのだけれど、屋外は無理だから、コミュニティセンターのホールのようなところを2週間借り切って、春休みの毎日、そこを遊び場として開放しようって話になった。でも、ただの遊び場じゃつまらない。プレーパークのような遊び場にしたいって、メンバーの代表がそういうんだよね。でも、ここは屋内だし、やっぱりプレーパークはできないかなぁ。」 「いや、屋内でもできる!」 ぼくは思わず、そう答えていた。

電話の主は千葉県在住の人で、昨年の震災の後、いてもたってもいられずに被災地に支援に入った人だった。少し前までは石巻にいたが、そのときに、気仙沼の遊び場を訪れていたようだ。2週間ほど前に南相馬に入り、そこで「屋内でプレーパークのような遊び場をつくりたい」と話している人たちと出会ったということだった。気仙沼の遊び場を見ていた彼だったが、屋内ではどうしたらいいものか分らずにいたので、こうして電話をしたということだった。もちろん、ぼくとは初めての会話だった。

南相馬の地元の人が、子どもの遊び場をつくりたいと願っている。これは、大きな感動だった。しかし、春休みまではもう日にちがない。電話をもらったその週の土曜日に時間をつくり、日帰りで現地を見に行くことにした。地元の人を集めてもらい、同じ県内の伊達に住む元プレーリーダーも誘い、そこを訪れた。

会場は、大きなコミュニティセンターだった。和室、洋室のいくつかの会議室や調理室。その中で遊び場として開放する予定の場所は、一辺が20メートルほど、天井までの高さが8メートルほどの割と広々とした感じのするホールだった。ぼくは、ロープをかけられそうなところがどこかにあるか、遊具作りに何か利用できそうなフックや柱などないか、走って転んだときの床の衝撃具合など、会場のつくりをいろいろと調べた。

その後移った会場には、地元の人が6人集まっていた。本当は、一緒につくりたいと動いている人はもっと多いのだそうだ。けれど、6人いれば十分だった。

大人の立ち位置

遊び場として開放したいと言っている日まで、あと15日。本当なら地元の人と実際に遊び場にするホールで、1日かけてじっくりとイメージをつくっていった方がいい。しかし、今日以外に南相馬に来られる日はぼくにはない。それどころか、春休みさえも毎日が何かのスケジュールで埋まり、片道6時間以上かかるこの現場に来られそうな日は一日もなかった。つまり、今日、今からの3時間程度しか事前に会って話し合える日はなかったのだ。自己紹介もそこそこに、ぼくは遊び場づくりをするうえで、最低限押さえておいてほしい点を一気に話した。

多くの大人にイメージしにくいこと、それが、遊び場にいる大人の立ち位置だ。たとえば、子ども会のように一定のプログラムをつくり、それに沿って進行するときなど、大人は、多くの場合プログラムの制作者であり進行役でもある。この場合の大人の役割はそれなりに明快で、大人自身困ることもない。しかしこれが遊び場となると、いきなり事情が変わる。子どもがやりたいこと、それを子ども自身の手で実現していくのが遊び場だ。大人が予めプログラムすることは、遊び場の場合ほとんど不可能なのだ。

「やってみたい」、その思いが遊びの本質だといえる。それはその子の内側から、泉のように湧き出てくる思いだ。その子が何に対して「やってみたい」と思うのか、それはときとして本人にさえわからない。何だかわらないけれど、急に興味をもったり思い立ったりして始まるのが遊びなのだ。そうした一人ひとりの「やってみたい」を極力保証すること、それが遊び場には求められる。その場に立つ大人が求められる役割はそのための交通整理で、決して遊びを教えたり、まして正しい遊びを指導することではない。指導者の立場に立つことで自分のポジションを確保してきた大人には、ここのところがわかりにくいのだ。

気仙沼の遊び場の実践で、何人かの地元の人に言われたことがある。それは、大人と子どもの関係性を伝える言葉だ。

「東北の子どもは、大人がこうして遊びに交わるなんて考えもしなかったと思う。東北では大人は指導者で、子どもは大人の教えることをしっかり身に付けることを求められてきた。だから遊び場での大人と子どもの様子は、自分たちにも新鮮です」。 東北の人は、そういう関係を意図してつくってきたのかも知れない。コミュニティが残っているということは、伝承するべきものがあるということでもある。だから、伝えた。勢い、それは縦の関係を形成することとなる。しかし、遊び場の関係は、そうではないのだ。そこを分ってもらわなければ、たとえどんなに魅力的なつくりであっても、どんなに面白い素材であっても、その関係性が遊び場の最大の魅力を阻害してしまう。

「子どもに教えようとしない。まずは、子どもにかまわず、自分がそこでどうやったら楽しめるかを考えてください。」 こういう言い方で大人のスタンスを伝えることは、過去にはあまり例がない。遊び場の実践から学んでいけばいいと、日ごろから思っているからだ。けれど、今回は少しノウハウ的に話をした。1年以上も困難の中で暮らしてきた人たちだ。子どもも耐え抜いてきた。この遊び場は、なんとしても成功してほしかった。

大人たちの冒険

遊び場は、大成功だったと後から聞いた。素材としてとにかくダンボールを2トントラック10台分、などと伝えてあったのだが、それも大人気だったようだ。気をよくした大人たちは、ゴールデンウィークにも再び1週間開催することをすぐ決めた。

ゴールデンウィークの中日に1日だけ、ぼくはようやくそこを訪れることができた。手土産は、ベーゴマ20個と漬物用バケツでつくったベー床、それと、手づくりテーブルホッケーの材料だった。

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三段やぐら
 

遊び場となったホールには、大きなやぐらが孟宗竹で組まれていた。高さ6メートルほどだろうか。一辺が2メートルほどあるやぐらは3段に仕切られ、中段からは滑り台が架けられていた。散乱するダンボール。孟宗竹で作った平均台。厚手のマット。一通り試してみた。意外と面白かったのは、平均台。足となる両端の台に切れ込みをいれその上に孟宗竹が渡してあっただけだったので、渡っていると竹が少し回る。それが微妙にバランスを狂わせ、かえって新鮮な遊び感覚を呼び起こした。着いたのが夕方だったため、その日は子どもが帰ったあとだったが、そこにいた大人たちの顔が、みなとっても晴れやかだったことが遊び場の状況を表していた。

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孟宗竹の平均台


翌日。南相馬にいられるのはこの日1日で、その次の日には気仙沼に行かなくてはならない。持ち込んだテーブルホッケーの材料。これをなんとしても完成させなければならなかったので、朝からその作業に徹した。途中で、何人もの子どもが「手伝う!」と言ってきた。初めて使うのこぎり。汗だくの子どもに、涼しい顔で板を押さえるぼく。ノミも使いたいという。穴の掘り方を一から教え、後は任せた。3センチかける3センチ、深さ2センチの穴を、その子は1時間かけて黙々と彫り上げた。ぼくが掘った穴より、それは丁寧だった。その子は、胸を張った。

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ノミを使って穴を掘る


遊び場で使っているホールの外にある作業場で、テーブルホッケーがようやく完成の日の目を見ることができたのは、もう遊び場が終了の時間だった。そんな一日だったので、遊び場での子どもの様子は結局よく見ることができなかった。けれど、子どもたちの大歓声はしょっちゅう会場内に響いていた。

持ってきたベーゴマは、大人に大人気だった。「これがやりたかったんだ」、そう言って、大人たちが本気で対戦していた。その様子に、ここはきっといい遊び場になると確信した。

ゴールデンウィークの遊び場開催も終了し、運営に当たった大人たちは、夏休みの開催も決めた。そこは、なんと屋外だった。夢中になって遊ぶ子どもの姿に、大人たちはひとつの決意を固めていた。「何としても、外で遊ばせてあげたい。」線量が高ければ、自分たちで除染も行うのだという。

子どもが外で遊ぶ、そんな当たり前のことがはばかられる社会にぼくたちはしてしまった。けれど、それを打ち破ろうとする大人たちがいる。大人の思いが子どもに元気を与え、子どもの元気が大人に勇気を与えた。

ぼくたちが推し進めている遊び場は、「冒険遊び場」と呼ばれる。その真髄、それは「遊び場づくり」という大人の冒険遊びにある。南相馬で始まった、大人たちの壮大な挑戦。子どもは、その大人の姿を目に焼き付けて、これからその遊び場で育っていく。
筆者プロフィール
report_amano_hideaki.jpg 天野 秀昭 (NPO法人日本冒険遊び場づくり協会/プレーパークせたがや 理事、大正大学 特命教授)

東京都葛飾区生まれ。20歳のころ、自閉症児との出会いをきっかけに「遊びの世界」の奥深さを実感する。1979年に開設された、日本初の民官協働による冒険遊び場『羽根木プレーパーク』で初めての有給プレーリーダーを務め、その後、地域住民と共に世田谷・駒沢・烏山の3プレーパークの開設に携わる。子どもが遊ぶことの価値を社会的に高め、普及し、実践するための2つのNPO法人『日本冒険遊び場づくり協会』『プレーパークせたがや』立ち上げの一員となる。両法人の理事を務めている。09年4月からは、大正大学特命教授として、遊びに関わる大人、ことにプレーリーダーの育成を目的として教鞭をとっている。
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