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【日本】 「子ども中心の保育」―保育実践の顕れの文化差

要旨:

子ども中心主義の保育では、自由保育とも呼ばれている。子どもの自発性を大切にして子どもに寄り添い、援助をする。同じ保育原理による実践のあらわれは、対人関係の準拠枠やコミュニケーションスタイルや子ども観により大きく異なる。本稿では、筆者が参与観察した日本とアメリカの保育実践の違いを比較し、子どもの発達に資する保育者の援助について考える。

Keywords;
保育, 内田 伸子, 子ども, 幼児教育, 日本
English
※日本の基礎データ

はじめに

       一粒の砂に ひとつの世界を見
       一輪の野の花に ひとつの天国を見
       てのひらに 無限を乗せ
       一時(ひととき)のうちに 永遠を感じる
                ウィリアム・ブレイク

一粒の砂、一輪の野の花、てのひら、一時(ひととき)・・・・・・ささやかで、小さな、ほんのいっときに永遠の命を込める仕事。それが保育である。保育者は心込めて子どもにかかわる。目の前の子どもに学ぶ。保育者は子どもの心の中に起こった"つまずき"を洞察し、子ども自身が解決できるように助けてあげるのである。保育学、保育原理、保育心理学、小児神経学、保育史、子ども文化論等々。保育者はたくさんの教養を積んで現場に立つ。しかしそれは子どもの前では無力になる。いま、ここに、目の前にいる園児一人ひとりに学び、手を貸すことができなくては保育の仕事は始まらない。保育者は無になって子ども一人ひとりに向きあうのだ。学んだ保育教養は忘れ去り、年間計画や月間計画、週案、日案にしばられず、一人ひとりの子どもに向きあうのだ。この保育原理は「子ども中心の保育」(Child-Centered-Education)である。保育室では子どもが主人公であり保育者はわき役。大人は子どもに寄り添い、子ども一人ひとりの育ちにふさわしいことばかけや援助を与える。同じ原理のもとで実践されているはずの保育が文化によって異なる顕れ方をする。本稿では、子ども中心の保育を実践するお茶の水女子大学附属幼稚園と米国スタンフォード大学附属レインボウ幼稚園の保育を比較し、保育形態は、文化社会の子ども観の影響を受けていることを考察する。


1.保育の質の向上:保育原理の「子ども中心主義」への転換

日本では1988年に保育の質向上を目的として、同じ活動を時間によって組織化していく「一斉保育」から個々の子どもの興味や関心に基づいて、子ども自身で組織化する「子ども中心の保育」に切り替えた。保育室では、子どもが「主人公」であり、大人はわきで支える「援助者」になる。保育者は子ども一人ひとりの心理や生理の発達の視点から子どもに寄り添いことばかけや援助を与える。子どものつまずきにレールは敷かず、足場(Scaffolding)を用意するのである。お茶の水女子大学附属幼稚園は1886年に設立された日本で最古の幼稚園である。フレーベル思想を源に倉橋惣三が日本化した保育で、「自由保育」とも呼ばれている。この保育は保育の質向上をはかるためのモデルになった。1998年には幼児教育指導要領が、つづいて保育所保育指針が改訂され、全国で子ども中心の保育が実践されるようになり、今日にいたっている。

保育者の計画に基づき活動が準備される一斉保育から、子どもの自発性を中心にして、先生はわきで支えるという役割をとる「子ども中心の保育」への切り替えは、若い保育者にはもちろんだがベテラン教師にとっても、難しいとの声があがり、自由保育形態への切り替えは難航した。

当時、自由保育の普及のために、堀合先生と共に私は全国の幼稚園を回り、地域の幼児教育関係者に集合していただき、堀合先生が模擬保育を実践してくださり、その保育について、私が解説した。また、二人で会場からの質問に答え、保育のコツについて討論したのである。このとき、あくまでも一人ひとりの子どもの自発性を大事にすること、子どもの中に葛藤を洞察し、つまずいて先に進めないでいる子どもに、タイミングよく援助を与えることの必要性を説いた。保育実践の顕われは、保育者の持ち味と子どもたちの関係性の中から創り出されるものであるから、一口に「自由保育」とは言っても、地域により、幼稚園により、一人ひとりの教師により、その地域、幼稚園、担任している目の前の子どもの育ちとの関係性によって異なるということを申しあげた。

やがて、少しずつ意識改革が進み、子ども中心の保育の考え方は現場で受け入れられ、今日に至っている。今日でも、父母のニーズにあわせて相変わらず教師主導の教育が行われている幼稚園も残っているが、幼児教育の現場では、"子どもの自発性を大事にする"という思いはゆきわたっていると言ってよい。


2.保育実践の文化差

私は、1982年4月~1986年3月までの3年間にわたり、堀合文子先生の保育を観察させていただいた。当時、堀合先生は倉橋先生の保育理論を最もよく体現された実践家として「保育の神様」と呼ばれ、全国から注目を集めていた。毎週金曜日には全国の先生方が堀合先生の保育室に参観に集まられ子どもよりも大人の数の方が多いくらいであった。堀合先生の保育室ではまさに「子ども中心の保育」が見事なまでに実践されていた。しかし同じ原理に立ちながら、文化や時代、歴史の違いで、保育の有り様がまるで変わる。それに気づいたのは子ども中心の保育原理を実践しているアメリカの幼稚園で1年間保育を観察する機会を得たときのことであった。

私は、1996~1997年にかけて、米国のスタンフォード大学で附属小学校や附属幼稚園を研究フィールドとして第二言語習得の研究に取り組んでいた。附属レインボウ幼稚園ではピアジェを源とし、カミイとデブリーズの幼児教育の原理である「子ども中心の保育」を実践していた。

日米の違いに気づいたのはまず、保育者の「立ち位置」の違いからであった。アメリカの「子ども中心の保育」では子どもと保育者とは個と個が横並びで立つ。保育者が子どもより少しだけ前を歩み、子どもがつまずくと子どもの目の高さよりも少し高い目線から「教導」(教え導く営み)を組み込み、進むべき方向を示すのである。しかも次の一歩の方向は1つだけではなく、複数の行くべき方向を提案して子ども自身に選択させる。

一方、「倉橋理論-堀合保育」では、子どもと保育者とが個と個が同じ地平に向かい会って立つ。また歩むときには、保育者が少しだけ子どもの後ろを歩み、子どもがつまずくと「足場」を用意する。堀合先生は「教導はいっとう最後に、一番慎重に行わねばならない」との倉橋理論を保育室で実践されていた。堀合先生の保育室では「提案」のことばはかけられるが、「禁止」や「命令」、「指示」のことばを聞くことはなかった。堀合先生は全身を耳目にして子どものことばとからだから子どもの訴えを聞きとり感じとる。腰をかがめて子どもの目の高さで子どもに耳を傾け、子どもの心の声を聴き取ろうとされている。行くべき方向は最初から提案せず、子どもが選択するのを見守り、待つのである。


3.援助の仕方に影響を及ぼす「子ども観」の日米差

この日米の違いは、対人関係の準拠枠の違いと関連しているのではないかと思われる。「対人関係の準拠枠」が自己自身にあるアメリカと、周りの人々との関係に準拠枠のある日本では、子どもの自律性の育み方が異なるのではないかと思われる。この予測を確かめるため、スタンフォード大学附属小学校に子どもを通わせている母親に子どもが学校から帰ったときにどのようにことばをかけるかを尋ねてみた。アメリカの母親たちのことばかかけのベストスリーは、まず、「あなたは自分の意見が言えたか」、次に、「あなたはクラスに貢献できたか」、第三に、「あなたは楽しんだか」と質問すると答えた。ともかく、自己自身に準拠して振る舞うことがよいのである。ところが、日本や韓国、台湾の母親は、「みんなと仲良くできたか」を気にするのである。東アジアの儒教的精神の洗礼を受けている文化では、年長者や他人に配慮して自分の振る舞い方を決めることがよいとされ、自分の思いだけで行動することは慎まねばならない。だから、子どもはなかなか自己決定ができない。はっきりと自己主張もしにくいのである。このような文化では、幼児期から、自分で判断し、決定する力や思考の自律性、社会的自律性を育てるために、大人が最初から進むべき方向性を示してしまうと自己決定ができない「指示待ち族」になってしまうかもしれない。そこで、日本の保育者は足場を掛けるだけでそれ以上行くべき方向を指示しないのである。保育者は、子どもの視野を広げてあげ、さまざまな選択肢があることを示唆してあげなくてはならない。そうして、子ども自身で進むべき道を選ぶ機会を増やすことが必要なのではないかと推測される。堀合氏に尋ねたところ、「なかなか自分で決められないから、子どもがどこに進むかを辛抱強く待ってあげるようにしている」と答えられた。一方、レインボウ幼稚園のジェニファー先生は「子どもたちは勝手勝手にどんどん遊び出してしまうので、もっと成長させられる活動のいくつかを提案するようにしている」と答えられた。


おわりに

子ども中心の保育の原理は、文化・社会の中で築かれた対人関係や人間観に基づいて、実践の有り様が異なるのではないかと思われる。保育は「生き物」である。幼児教育が実践される地域の文化や社会、実践する保育者の持ち味により、さまざまな保育が創り出されていく。同じ子どもの中心の保育の原理も文化によって、違った顕れ方をするのではないかと思われる。

どこにあっても、子どもが成長発達をとげることができる保育は、子どもの自発性を大事に、一人ひとりに寄り添っていくことが基本になる。保育者は子どものことばを全身で受け止め、心込めてことばをかける。この営みの中でこそ、子どもは自己を充実してゆけるのである。子どもが充実して一日を過ごせるように、保育者は常に研鑽し、子どもを受けとめ、その葛藤やつまずきを見抜き、子どもの一人ひとりに適切な援助を与えることのできる、洞察力・保育力・教育力を磨いていかなくてはならない。


参考文献
内田伸子(1998).『まごころの保育-堀合文子のことばと実践に学ぶ』小学館.
堀合文子(監修)内田伸子(解説)(2007).DVD;『「保育」を語る?堀合文子の保育論?』Noproblem.
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