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【カナダBC州の子育てレポート】第15回 教科書を使用しないカリキュラムをベースにした公立小学校の授業からみえること

要旨:

日本では、あって当たり前のように思われている教科書が、ここカナダBC州には存在しません。学校の授業は主に教科書に依存しないBC州公立小学校のカリキュラムに沿って行われ、成績もカリキュラムに沿ってつけられます。このレポートでは、筆者が実際にBC州のカリキュラムを使用して小学校の授業案を作成する機会があったことから、なかでも学習の個別化という点に注目してカリキュラムをベースにした授業について見えたことについてお伝えします。

キーワード:
教科書、カリキュラム、差、学習の個別化

本連載の第13回「公立小学校の読書への取り組み」では、英語が母語である児童がどのようにして読書に取り組んでいくのか、そして読書に力を入れている背景であるカナダ国民のリテラシーの実態や読む力について書きました。カナダ国民のリテラシーが低いのに対し、日本の識字率はとても高いです。その理由は教科書の使用にもよるところがあるのかもしれないと、原稿を書いたのちに思い当たりました。精読要素の強い読解は、リテラシーの一番の基礎である文字の認識を強化します。娘の学校では外部団体にリテラシーの強化を委ねているところもあるのですが、一定レベルまでの全体的な底上げをはかるのに教科書は適しているのかもしれないと考えたのです。

ですが今、学習は、対象とする分野の幅も広く、人生のどの時点においても誰もが手を伸ばすことができ(生涯を通じて幅広い領域での生涯学習)、個人に適した形で学べる方向へと移行しようとしています注1。そこで教科書が全体の底上げに適していても、逆に「個々人に適した学習」としてはうまく機能しない点も多いのだろうかとさらに思考をめぐらせました。新しい内容をクラスの児童全員に提示し、同じスピードとレベルで学習を進めていくことに教科書は優れていても、理解力の異なる学習を支援するという点では劣っているのかもしれないと思うに至りました。

教科書の有無についてあれこれと考えたのには、カナダの学校には教科書がないからです。ここBC州では、授業は州のカリキュラムに沿って教科書を使わずに進み、そのカリキュラムに沿った成績が付けられます。日本において教科書を使用して小学校、中学校、高校と勉強してきた筆者自身からすれば、教科書のような明確な教材のない大雑把な授業でいいのだろうかと心配になります。娘が小学1年生になって、保護者側に明らかにされる学習内容が不透明なために不安に思いました。

日本にいれば小学校入学時期にあたる2021年春に、娘は伯父からランドセルを贈ってもらいました。娘は日本語継承語学校で国語の教科書を使用する予定もあったため、それならばと小学1年生の算数、音楽、生活、書写など、さまざまな教科の日本の教科書を取り寄せました。手にとって感じたのは懐かしさだけではなく、教える側にも学ぶ側にも学習内容が明らかにされているという安心感でした。教科書に掲載されていること=学習者はそれをすべて理解する、という図式が容易に頭の中でイメージ出来たのです。

BC州では公立の小学校の授業はキンダーガーテン・クラス(5歳)から始まりますが、フォニックス(発音と文字の関係性を学ぶ音声学習法)や読書、10までの数字を学ぶなど、多少の勉強はあっても、むしろプリスクールや家庭からの橋渡し的な1年であることを以前に書きました(第8回参照)。しかし、担当する先生によっても違いはありますが、スペリングやリーディング、足し算や引き算など勉強らしいことが始まるのが、キンダーガーテンの翌年となる小学1年生という学年です。この先15年以上にわたる学校生活のスタート地点である1年間に、学ぶことは楽しいことだと娘が思えるようになってほしいと筆者は願っていました。

実際に授業がどのように行われているのかは、娘が話す断片的な会話や、時折持って帰ってくる課題、成績表からしか想像ができません。ですが、たとえばリーディングは学年などは全く関係なく個人のレベルに合わせて進んでいる様子がうかがえます。先生と一緒にレベル別読書(Leveled Readers)の本を読み、レベルを特定してもらい、該当するレベルの本を読みこなし、また判定をしてもらうということを繰り返しています。

それでも、在籍する学年にふさわしい学習内容が、どのように進んでいくのかという点が疑問に残りました。そして1年、2年が一緒になった娘のクラスをはじめとする多くの複数学年の混合クラスでは、それがどう可能なのだろうかと気になったのです。そんな折、娘の学校とは関係のないところで、算数を教えるための講座を受講し、カリキュラムを見ながら小学低学年の算数の授業案を組んでみるという機会が筆者にありました。筆者自身、日本の大学で学部生の頃に教職課程を履修していましたが、指導要領を読み込んだという記憶はありません。また、こちらの日本語継承語学校では、日本の教科書を用いて授業を進めていますが、授業を教えている筆者が授業案を練るにあたり、やはり指導要領と突き合わせるということはありません。なので、学びの大きな枠組みであるカリキュラムというものを熟読し、授業に反映させるという作業は初めての試みでした。

日本では2020年に新たな学校指導要領が発表されて話題になりましたが、ここBC州でも2016年から新たなカリキュラムが導入されています注2。それは①理解する/Understand(ビッグ・アイディア/Big Ideas)、②取り組む/Do(教科別コンピテンシー学習基準/Curricular Competency)、③知る/Know(内容の学習基準/Content)の三つ巴になっています。「ビッグ・アイディア」には主に児童に知ってほしい概念が提示されています。「教科別コンピテンシー学習基準」には、児童が学んでほしい項目が表示され、「内容の学習基準」には児童が理解してほしい内容が表示されています。教員は、児童に合った学習内容を作るためにこれらの要素を組み合わせます。

そして、改革のハイライトの一つが、学習の個別化(Personalized Learning)、つまり、「BC州で実施するカリキュラムの改革により、学習の個別化を推進し、BC州で学ぶ児童生徒の多様なニーズと興味に対応するための柔軟性を作り出す」です注3。人は誰もが同じペースで、同じ環境で、同じ方法で学ぶわけではありません。学習障害があることから特定の科目や単元の習得が遅れる児童もいれば、読書に慣れ親しみ育ってきたことでリーディングは在籍する学年のレベルを超えている児童もいます。同じ教室で学んでいても、遅れることも先に進むこともあってよいというのは、BC州内の教育で重視されている、隔離をしないインクルーシブな学びの概念にも結びついているといえるかもしれません(第11回参照)。

学習の個別化に注目したのには、訳があります。筆者自身が得意分野と苦手分野が明確にあること、苦手分野は中学校卒業までは努力だけで克服してきたものの、それ以後はどうにもならずに悔しい思いをし、それでいながら得意なことをさらに高いレベルへと伸ばしたり、苦手なことを教科書を遡って学ぶような救いの手立てが当時なかった経験を今でも残念に思っていて、ぜひ今後改革して欲しいと願っているからです。学校という枠組みの中で、普段から小さな学習の個別化が的確に行われるとよいと思います。また、移民となって海外に在住した場合、大人になってからも学ぶことを望み再び学校制度の中で学ぼうとすると、資格条件などの面で多くの障壁が生まれます。そういったことからも、広い意味での生涯学習の個別化への対応にも興味をもっているからです。

実際に、BC州のカリキュラムを用いて作成を試みたのは、小学2年生の算数の授業案で、金融リテラシーがテーマでした。45分程度の授業ということで目標は絞られ、クラス全体でゲーム感覚で行うもので、5セント、10セント、25セント硬貨を複数枚使って、児童がさまざまなパターンで100セントを作り出すという計画になりました。授業案を作成するにあたり、差をつける(Differentiation)という欄がありました。それは、理解に遅れをとっている児童と、さらに上のレベルにチャレンジさせるべき児童の両方のための計画を、前もって用意しておくという欄でした。

ここを埋めるのに筆者は頭を悩ませました。同じ内容項目では、小学1年生でそれぞれの硬貨の価値の認識、数字を5, 10, 15...など5ずつ、あるいは10, 20, 30...など10ずつ飛ばして数えることを学習しています。また、小学3年生では、1000までの数字を理解し、硬貨だけでなく、紙幣も含めて理解する金融リテラシーの習得を目標としています。よって、理解が難しい児童には、それぞれの硬貨の価値の復習をしたり硬貨を1種類のみに絞って合計100セントを作る、もう少しレベルを上げさせたい児童には、100セントを1ドル硬貨に替えて、合計500セント以上となる組み合わせに挑戦させるというような例を提示しました。クラス全体で新しい内容を導入するときのように、個々に多くの時間を割くことができない、説明も簡潔にしなくてはならない場合の注意点についても考えなくてはなりません。

個別の学習に対応するために、内容に差をつけることが目的ではあるのですが、担当する学年前後の学年のカリキュラムも把握した上で(ここでは小2を担当しながら小1、小3のカリキュラムを念頭に入れておく)授業を計画してみると、それが児童にとって差をつけるためだけに機能するのではないのかもしれないと感じました。教える側が差を意識して授業に挑むことで、学びというプロセスをまっすぐな階段ではなく、らせん状に捉えることが可能になる気がしたのです。新しい学習内容を次々に導入していくのではなく、わからなければ2歩下がってみてから3歩進むような学びも可能になります。カリキュラムの前後を自由に行き来することで、教える側にも、学ぶ側にも学習が立体的になるような感覚をおぼえました。そして、らせん状に学んでいくプロセスであれば、複数年が混合されたクラスも可能であると感じました。

学びの内容の個人差を、どこまでつけていいのかという点については、また別の問題が生じます。たとえばギフテッド児童の場合、そういった児童ばかりを集めたギフテッドクラスやスクールというものがアメリカには存在するようですが、ここBC州にはありません。かつて存在した飛び級というシステムは、現在は行われていません。ですが、筆者はバンクーバーの高校に1年間留学をした際、日本での学習進度の方がはやかったという理由だけで最初に配置された数学のクラスでは簡単すぎて、学年を一気に2年分も駆け上がらされた経験があります。それは決して誇らしい思い出ではなく、2年分も進むことで数学の内容としては当時の自分にとっては新しい内容となったものの、英語が追い付かず、結局のところ苦労してよい成績などとることもなく終わりました。筆者の夫は飛び級を重ね、16歳で大学に入学したといいますが、精神年齢が追い付かずにやはり苦い思い出しか残ってないと言います。学習の個別化には、程度の差により難しさがあるのかもしれません。

学びは最終的に個人にとって興味があり、一人一人が得意とする領域を伸ばしていくことが望ましいですが、そこにたどり着くまでには、不得意なライティングや数学などを一般教養として学ぶことも多く強いられます。だからこそ、せめて小学校の低学年の間は、全員が総じて計算したり漢字を習得することを目的とはせず、学ぶことが楽しいと思えるような授業形態をとっていて欲しいと願うのです。そういった意味でも個別化した学習は、一人一人の意欲が掻き立てられる程度のチャレンジを強いられる学びとなった場合に最大限のメリットが生まれます。「学び」とは、結局のところ、教養をもつ側が学習者に知識を押し付けるのではなく、学習者が内から望むものであり、そこに肯定的なイメージをもたせることで、少しのきっかけだけでみずから学ぶ姿勢をもつ人が育つのではないかと考えるのです。そう思うと、教科書という枠組みを越え、教科書を使わずともカリキュラムをベースに柔軟に授業が組まれることは、決して悪くはないのかもしれないと、BC州の公立学校に教科書が存在しないことに対してこれまで抱いていた不安や不満を見直すきっかけになりました。


筆者プロフィール

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高井マクレーン若菜

群馬県出身。関西圏の大学で日本語および英語の非常勤講師を務める。スコットランド、アイルランド、オーストラリア、ニュージーランド、カナダなど様々な国で自転車ツーリングやハイキングなどアクティブな旅をしてきた。2012年秋、それまで15年ほど住んでいた京都からカナダ国ブリティッシュ・コロンビア州ビクトリア市へ、2018年には内陸オカナガン地方へと移住。現在、カナダ翻訳通訳者協会公認翻訳者(英日)[E-J Certified Translator, Society of Translators and Interpreters of British Columbia (STIBC), Canadian Translators, Terminologists and Interpreters Council (CTTIC)]として 細々と通訳、翻訳の仕事をしながら、子育ての楽しさと難しさに心動かされる毎日を過ごしている。

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