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名誉所長ブログ

Koby's Note -Honorary Director's Blog
名誉所長ブログでは、CRNの創設者であり名誉所長である小林登の日々の活動の様子や、子どもをめぐる話題、所感などを発信しています。

過去の記事一覧

「カミツ」と「カミツキ」

八王子の共励保育園の長田安司先生から、「カミツとカミツキ」という一文を頂いて驚いた。今、保育園の0~1歳児保育では、保育児同士の噛みつきが問題になっているそうである。もう40年も前になるが、東京大学小児科の現役時代に一例みたことはあったが、その後はみなかったので、いろいろと考えさせられた。今や、小さな子ども同士の噛みつき合いが問題なのである。

子どもはよく、犬や猫に噛まれて病院の救急外来に来るので、小児科ではいろいろな咬傷が問題になる。アメリカでインターンをしていた1950年代中頃、兎に噛まれた小学生をみて、事態を理解するのに時間がかかった事を鮮明に思い出す。"rabbit"ならすぐわかったが、親が"hare(野うさぎ)"と言ったのでパッと気付かなかったのである。

長田先生の一文を読んで、早速手元にあるアメリカでスタンダードなネルソン小児科学教科書の第15版を開いてみた。1996年の出版だから15年程前の本になる。そこでは、「哺乳動物による咬傷」"Mammalian Bites"の中で、「人間による咬傷」"Human Bites"として取り上げられている。アメリカの病院でおこった咬傷をみると、当然のことながら、犬による咬傷が80%で最も多く、つづいて猫によるものが6%である。それに加えて、人間による咬傷も1~2%はあるとしている。人間による咬傷は、子どもの行動問題として特異である。現在なら、爬虫類による"Non-mammalian Bites"も問題になろう。価値観の多様化と共に、ペットも多様化していることは明らかである。残念ながら、わが国のこの種のデータは見つからなかった。

長田先生のおっしゃっている「カミツキ」(噛みつき)の原因は「カミツ」(過密)にあるという事は、全国の保育所で通説となっている「ダジャレ」だそうである。動物と同じように、0~1歳齢児の子どもでもテリトリー意識というのが強く、自分のテリトリーが侵害されると、自分の安全や安心感が脅かされて、攻撃的になって、カミツキが起こるという。保育現場では、保育室が過密になればなる程、カミツキの頻度が上がることが知られているのである。

この事実は、われわれに重要な事を教えている。もしこの様な環境の中で小さな子どもたちが育てられるのであれば、子どもの心の発達に対する影響は計り知れないものがある事は明らか。しかも、過密な保育園の問題は、生活空間の広さの問題だけでなく、質の問題、さらにはマンパワーの質とか量の問題にも当然関係することになろう。

アメリカ国立小児保健・人間発達研究所(NICHD)の研究によると、0~1歳児保育でも、保育の質が保証され、保育時間が著しく長くなければ、子どもの体の成長、心の発達にはほとんど支障ないと示されている。子ども達の生活空間の広さは、保育の質の基本である事は明らかである。わが国の未来を担う子どもたちの保育は、保育に欠ける子どもたちだけの問題ではなく、保育がわが国の社会にとって必須の制度となっている現実を考え、国としてぜひ限りなく良いものにして頂きたいものである。今こそ、国の先行投資として良い保育が必要な時なのである。

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最近、「リテラシー」"literacy"という言葉をあちこちで耳にするようになった。先日ある会で、ゲームを教育に利用する話が出た時に、「ゲームリテラシー」という言葉が、また、あるメディアと教育について研究している人から、教育には「情報リテラシー」が必要であるという言葉が出た。この「情報リテラシー」という言葉は、1980年代後半、中曽根内閣の時にできた臨時教育審議会の第2次答申(1986年)の中で、教育には特に重要であると指摘されているのである。これからの教育では「情報および情報手段を主体的に選択して活用していくための個人の基礎的な資質」を高める必要があると答申している。その成果が現われて、教育の情報リテラシー、さらにはゲームリテラシーの考え方が強くなったのであろう。

英語辞典を開いてみると、そもそも、「リテラシー」"literacy"とは、「学問のあること」、「教育のあること」の意味であり、つづいて「読み書き能力」と出る。「イリテラシー」"illiteracy"も、「無学なこと」、「読み書きができない事」、「文盲」、「非識字」などを意味する。国際小児科学会に関係していた1980年代、しばしば「イリテラシー・レート」(非識字率)という言葉が、理事会でよく出て来た事を思い出す。それぞれの国で、それぞれの文化の中で、どのようにしてこのイリテラシー・レートを下げるか、などが話し合われたものである。結論は、当然のことながら、小さい時からの教育ということになった。

わが国では「イリテラシー」はほとんど問題にならないが、多くの発展途上国では、大きな問題なのである。もっとも、先進国でも、貧困と関係して、全く問題ないとは言えない国もあることも、忘れてはならない。

最近の「リテラシー」は、広い意味で、「特定の分野についての知識や、それに関係する機器を使いこなす能力」などとして使われるようになったと思われる。コンピューターが普及して、社会の情報化が進むにつれて、意味が拡大されるようになったと言える。考えてみれば、われわれ一般人は、どれほど「情報」についての知識や、それを使いこなす能力をもっているのであろうか。この広い意味での「情報リテラシー」こそが問題なのである。「ゲームリテラシー」であっても、この「情報リテラシー」なしには考えられないと言えるからである。しかも、「情報リテラシー」は、単に「リテラシー」と呼ばれる場合さえあるのである。

「情報」"information"という言葉とその考え方は、第2次世界大戦中にアメリカで生まれたものである。暗号解読や弾道計算のために、大量の情報を高速で機械処理する必要が出てきて、計算機から始まってコンピューターを開発する事になったのである。その流れの中で、情報を科学の対象として、物質のように定量化し、それを利用するための「情報科学」や、計算機からコンピューターを開発するための「情報工学」が体系づけられたと言える。わが国では、戦後になって出てきた言葉だが、現在この「情報リテラシー」そのものに関係する教育はどうなっているのであろうか。

現在、我が国でも、「情報」というと、社会の中でおこるモノやコトに関する知らせというような単純な意味ばかりでなく、ある特定の目的について、適切な判断をするのに有用な資料や知識も指すようになっている。この場合、情報はエントロピーを下げるもの、すなわち、あるシステムの「乱雑さ」、「無秩序さ」、「不規則さ」の程度を下げるものというような熱力学的な定義も出てくるのである。さらには、機械系や生体系では、情報というものは、システムがその機能を果たすために必要な指令や信号の組合せを指すことになる。それなしには、システムはゴタゴタして機能しなくなるのである。

したがって、どんなカタチでも、情報を扱う人は誰でも、我々がもっている、分子、原子や遺伝子の知識のように、情報の基本的理解から始まる情報リテラシーをもつ必要がある。特に、情報を提供して、子ども達を教えている教育関係者には、それが必須であることは明らかである。子ども達が、情報を取り込みやすいカタチにするにはどうしたら良いか、それこそ情報科学とか、情報工学の立場から考えなければならない時に来ている。それは、子ども達が、「学ぶ喜び」の中で、学ぶことができるようにすることである。

そのカタチのひとつとして、当然のことながら、ゲームを利用する方法もある。ゲームに関心をもっている人は別としても、多くの人は知らないことの方が多いのではなかろうか。コンピューターゲームは、対戦ゲームから始まってロールプレイングゲームが加わり、オンラインゲームに発展して来たという。教育など、ゲームそのもの以外にも役立たせるよう開発したゲームを「シリアスゲーム」と呼ぶそうであるが、それを教育に利用するとなると、教育関係者は、正に情報リテラシー、そしてゲームリテラシーも持たなければならない時代になったと言える。

コンピューターゲームで育った親の子ども達が、今学校で学んでいる時代であることも考えなければならない。そう考えると「シリアスゲーム」の教育利用も、避けて通れないものと言えよう。したがって、情報リテラシー教育はますます重要になっていると言えるだろう。

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5月中旬、出来たてホヤホヤの<スケッチ「親と子の50年」>という本を頂いた。著者の小山敦司さんが、わざわざ私の仕事場まで持って来て下さったのである。誠実なお人柄に心を打たれた。申し訳ないことに、引っ越したばかりで、新しい場所をお教えしてなかったので、旧い所においでいただくことになってしまい、ご迷惑をおかけしてしまった。

小山さんは、育児関係者ならば、どなたも御存知と思うが、1965年に創立社員として「赤ちゃんとママ社」を立ち上げ、育児問題を追求しながら、育児雑誌の編集ひと筋に仕事をされて来た方である。1981年からは社長、2008年からは最高顧問として、「赤ちゃんとママ社」をそれこそ赤ちゃんの時から育てた方なのである。大学では哲学を勉強されたそうで、書かれた本の素晴らしさが、それで理解出来たような気がする。内容に哲学があるのである。

本書は、全2章からなり、第1章は、スケッチ「親と子の50年」として、1955年から現在までを10年毎に分けて、子育て問題の歴史的展開を述べておられる。その前の1945年から1955年までの10年間は、敗戦後の混乱として、「虚無から混乱へ」というタイトルで、戦後前史として位置づけておられる。昭和ひと桁生まれとしては共感を覚える。

それからの10年毎のタイトルも良い。豊かな社会を築く基盤作りの1960年代を「変化と構築の時代」、急速に豊かになる中で中国の文化大革命、世界の大学紛争、日本の赤軍派活動などなどが起こった1970年代を「争乱と成長と」、日本の豊かさの蔭が見えはじめた1980年代を「子どもの受難 そして再生」、社会の明るさが蔭り、政治も混乱した1990年代を「失われた10年」、最後に2000年代を「21世紀はどうなる」としている。それぞれ時代毎に、社会を鋭く見つめ、子ども問題を洞察しておられるのに感銘を受ける。

問題という日本語を英語に直すと、"problem"、"question"、"issue" になるかと思うが、小山さんの視点は、勿論、幾何の問題のような"problem"でなく、質問するような問題の"question"でもなく、論争点になる問題の"issue"なのである。時代の移り変わりによって、子育てにどんな問題が社会に現われ、学者、実践家、そしてジャーナリストが、どのように考え、どのように論じたかが述べられ、子どもを中心にみる日本現代史として大変勉強になった。

第2章は、「50年目の子ども論」として、寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」という言葉から始まり、「赤ちゃんに出会う」というタイトルで、育児書のあり方についての考えを冒頭に述べておられる。つづいて、情報のあふれた現代社会で起こった、あるいは起こっている子育て問題を、23のテーマに整理しておられる。現場で起こった子育て問題をいろいろと分析しているばかりでなく、いわゆる学者や研究者といわれる立場の人々の解釈や意見も加えておられ、大変勉強になる。

それぞれのテーマのタイトルは、冒頭の「赤ちゃんに出会う」から始まって、「子どもだましのやさしさ」、「やさしさにこだわって」、「親ができること、できないこと」、「育児はなぜ難しいと考えられるのか」、「マスコミがつくり出す病気」、「母性愛神話とは」、「どこからが大人?」、「子どもにとって時間とは」、「スピードが生み出す不幸」、「暮らしの不感症」、「もうひとつの少子化要因」、「人間は脳に何を求めるのか」、「人間の脳は迷うために存在する」、「子どもの才能」、「ヘンな時代のヘンな育児」、「さまざまな倫理的尺度」、「子どもにかかってきている制度疲労」、「格差社会はこうしてできあがっていく」、「今の教育に欠けていること」、「安心と安全、その違い」、「子どもを大切にするとは」、「生きることの意味」という23項目で、小山さんの広い意味での育児哲学が書かれている。ここにあえて23項目のタイトルを列記したのは、タイトルのコピーがいずれも意味深長で、読者の関心を引くに違いないと思ったからである。全ては読んでからのお楽しみという事にしたい。

本書の中には、見開き2ページで、10人の育児学者、または研究者といっても良い先生方のコメントが入っている。巷野悟郎、高山英男、平山宗宏、原ひろ子、汐見稔幸、渡辺久子、羽室俊子、大日向雅美、小西行郎の先生方である。私も仲間に入る光栄をいただいた。しかし、正直なところ、小山さんの原稿を読んでから書かせて頂きたかった。書いた内容が、余りにも恥ずかしいからである。

頂いた直後、さっと目を通してこれを書いた。小山さんの育児哲学のあり方に、強い感銘を受けたからである。そして、早速ブログの記事としてCRNで取り上げることにした。親であれ、実践家であれ、学者・研究者であれ、子育ての本質を考えようとする人にお読みになることをおすすめする。私も、これからひとつひとつじっくり読んで勉強することにしたい。
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日本アレルギー学会の春季大会に出席して

日本アレルギー学会の春季臨床大会が5月14日(土)、15日(日)の2日間にわたって、千葉の幕張メッセで開かれ出席した。

若い時には、私も子どものアレルギーを勉強し、診療もしていたので、日本アレルギー学会設立時にはお手伝いさせて戴いた。もう30年以上も前のことである。学会は、東大の先輩で内科の大島教授や医科学研究所教授のアレルギー研究者の方々が中心になり、日本全国の専門家の方々とはかって作られたものである。私も、東大小児科の教授になったばかりであったが、小児アレルギーも教室の看板にしていたので、誘われてお手伝いしたという経緯がある。その上、医学部同級生の宮本教授が大島教授の後を継ぎ、学会の理事長もされたこともあり、親しみの深い学会のひとつで、都合のつく時には必ず出席して勉強することにしている。

アレルギー学という学問は大変幅広く、年齢を問わず、また体の部分も問わずに病気が起こるもので、アレルギー学会は、基礎医学の研究者ばかりでなく、内科、小児科、外科、老人科、婦人科、耳鼻科、眼科、皮膚科などの専門医も多数参加する。したがって、学会員数は多く、正にマンモス学会なのである。

そのため、学会設立以来の毎年秋に開かれていた学術集会を分けて、秋は基礎アレルギー学を中心にして残し、春には臨床、すなわちアレルギー疾患を中心にした学術集会を、春季臨床大会として開催するようになったのである。そして、今年で23回目になるのである。当然のことながら、二つに分けても、春と秋それぞれがマンモス学会と言える大きな学会で、広い良い会場のある都市でなくては、なかなか開けないとさえ言われている。

今回の大会長は、千葉大学大学院小児病態学教授の河野陽一先生で、免疫・アレルギー学の基礎研究から始まって、臨床小児アレルギーの分野でも多くの業績を上げられ、今回の第23回大会の会長を引き受けられることになったのである。その上、幕張メッセという立派な会場に恵まれて、良く企画されたプログラムのもとに学会は行われた。

日本子ども学会の理事会があったりして、残念ながら全部は出席出来なかったが、大変勉強になった。特に、ドイツのマールブルク大学のHolger Garn教授の、ヨーロッパで行われているコホート研究の発表は興味深かった。「コホート」とは、300~600人の兵士からなるローマ軍団のことを意味し、「コホート研究」とは、疫学の追跡研究のことを指す。

この10年来アレルギーの原因として、「過剰衛生仮説」という考えが言われている。「農家の子どもの方が、都会で育つ子どもに比べてアレルギー疾患が少ない」、「発展途上国の子どもの方が、先進国の子どもに比較して、アレルギー疾患の頻度が低い」、「ひとりっ子で育った子どもの方が、兄弟の多い家庭で育った子より、アレルギー疾患を発症する確率が高い」など、疫学研究の成果が次々と報告されたのである。生まれてからの育つ環境が余りにも衛生的で、きれい過ぎるのが原因で、その結果、アレルギーがおこるのだという考えである。考えてみれば、私が子どもの時には、兄弟も多く、泥んこ遊びは日常茶飯事であり、銭湯に入るのが普通であり、現在の様に毎日シャワーというような清潔な生活ではなかった。

そもそも「過剰衛生説」は、20世紀末のスウェーデンとエストニアで行われた出生コホート研究、即ち二つの国で出生の時期をそろえて追跡し、育つ過程の中で、子ども達にどんなアレルギー疾患が、どのようにおこるか追跡した疫学研究が最初のデータであった。スウェーデンの学者が、農業国エストニアよりスウェーデンの方が衛生的で清潔と考えて、アレルギーの発症頻度を比較したのである。爾来、ドイツばかりでなく、イギリス、さらにはEUとしてまとまって行なったいろいろなコホートの研究が次々と行われているのである。その成果をGarn教授はまとめて報告された。いずれも同じ傾向であったが、興味をもったのは、生まれる前の母親の胎内にいる時の環境も、生まれた子どもに影響するという報告であり、注目に値しよう。農業をしている母親から生まれた子どもの方が、アレルギーになりにくいというのである。

過剰衛生学説の仕組となると、なかなか説明は困難である。平たい言葉で言えば、雑菌にもまれて育つと、子どもはアレルギーになりにくいと言うことになる。したがって、誰でもがもっている皮膚・口腔・鼻腔・腸管腔の中に住みついている雑菌の集団(常在細菌叢)の果たす役割は大きい。さらには、ドイツの研究グループが、大腸菌という、最近の生肉の食中毒で問題になった病原大腸菌(O15とかO11)の仲間も、アレルギー疾患の発症回避に、他の腸内に住む雑菌と同じように一役かっているという成果も示した。それは、大腸菌という細菌は細胞膜にもっているLPS(リポポリサッカロイド)という物質に、免疫に関係する細胞が反応して、アレルギー発症をおさえると考えたのである。

こんな報告を聞くと、子育てには、如何に自然が大切かということになる。人間は、その進化の歴史を、自然の中で過ごし、子育てを繰り返して来たのである。それと同時に、人間が生きていく「いとなみ」の中で、腸は勿論のこと、口や皮膚に住みついている、いわゆる雑菌(常在細菌)とのやりとり、すなわち「ヒト-細菌共生系」の果たす役割は大きく、畏敬の念を覚える。
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私にとっての新宿

神田神保町にあったオフィスが、新宿(JR新宿駅の西側)に移ったのが3月7日(月)、初めて新しいオフィスに出勤したのは3月9日(水)であった。ベネッセコーポレーションの方針として、研究・開発関係のグループが、教育研究開発センターとしてまとめられることになったのである。それぞれの研究を統合して、開発につなげる意義は大きいものと思う。新宿に移った機会に、東京生まれの東京育ちの私にとっての新宿について、思い出を書くことにしていた。しかし、その矢先、3.11の東日本大震災が起こり、掲載が今日になってしまったのである。

新宿というと、私にとっては、何となく、赤ちょうちん・居酒屋で酒を飲む街、グルメ・食べ歩きの街、デパートでショッピングの街、映画・ゲームなどの遊びの街、そして、30を超す高層ビルの街、となる。勿論、私にとっての新宿は、戦後の記憶のものが大きく、戦前の新宿となると霞のような記憶しか残っていない。

新宿の街の歴史は古く、1600年代にさかのぼる。徳川家康の居城を造るため、信州高遠藩主の内藤清成が、家康の江戸入府前に、警備のため鉄砲隊を率いて甲州街道と鎌倉街道の交差していた場所(現在の新宿二丁目)に陣を張ったのが始まりという。

その後、内藤清成は、付近一帯を拝領して、自らの屋敷(今の新宿御苑)のひとつを造るとともに、宿場も開いたという。それまでは、日本橋を出発して甲府までの甲州街道の最初の宿場は高井戸であり、距離が長くいろいろと不便だったと言われていた。その後、東海道の品川の宿、中山道の板橋の宿、日光街道・奥州街道の千住の宿の4つの宿のひとつとして、行楽地に発展し、つづいて歓楽街としての新宿の原型が出来上がったと言われている。

現在のJR新宿駅は、品川・新宿線、すなわち現在の山手線の駅として1885年に出来たと言われるが、大正時代に入って、新宿駅から西に中央線として伸び、やがてそれが逆に東京駅にもつながって、東京の市街地の交通の要衝となったと考えられる。同時にデパート、いろいろな商店、映画館、カフェ、劇場などが集中して、昭和に入って、一大歓楽街として発展したのである。

戦前の新宿は、小学生の頃のデパートと、中学生の頃の戦争中の屋台の記憶として私の中にある。しかし、新宿で生活をはじめてみると、それ以外の思い出もいろいろ出て来て、なつかしさで一杯になる。

前に申し上げた新宿の記憶の第一は、小学校入学前、日本画を描いていた父が、杉並のはずれの美術学校の仕事の都合もあったと思うが、善福寺池に近い武蔵野の林のわきに小さなアトリエを建て、世田谷から移って来てからのことである。しかし、小学生の頃、母親や祖母に連れられて、西荻窪駅から省線(現在のJR線にあたる)に乗って来た当時のデパートの面影は、かすかに残っているのみである。

第二の戦争中の屋台の記憶は、昭和18年11月だったと思うが、海軍の学校に入学が決まり、広島に向けて出発する前に、娑婆の臭いでもかがせようと思った父が、新宿に連れて来た時のものである。昭和18年というと、艦載機による爆撃を東京はすでに一回受けていて、夜は燈火管制が敷かれていた。新宿の夜の明るいにぎわいも全くなかった。暗闇の中でろうそくの焰がゆれ動くもとで、父と語り合った屋台のひと時を思い出す。お酒は未成年で飲んだ記憶もないが、何を食べたのかも憶えていない。暗闇の中の屋台の姿だけが不思議と目に残っている。正に、新宿駅東側の駅前だったと思う。

戦後の新宿について思い出すのは、東京に帰り学生生活を始めた1946年から、大学を卒業してアメリカにインターンに出かけた1954年までの8年間の新宿であった。はじめは、やはりアメリカによるB29の焼夷弾爆撃の後の焼野原、続いて闇市の人混みが続く街になっていった姿は今も思い出せる。しかし、1959年アメリカから帰って来た時には、もう歓楽街としての印象が強くなっていた。そんな中で、本を求めて折々訪れた「紀伊國屋書店」の思い出は特に大きい。

現在、私は西新宿の高層ビルのひとつの13階で仕事をしているが、目の前に林立する高層ビルが窓一杯に見られる。これらは1970年代に入って建ち始め、80年代、90年代、2000年代と、国の経済に反映して、ニョキニョキとマッシュルームのように林立していったものである。まさに英語でいうmushroomingである。建った高層ビルの数は、1970年代に7、80年代に入って9、90年代に10、2000年代に入って9と記録されている。高さからみると、最低19階80m、最高55階225mと言われている。ここで生活してみると、ニューヨークの姿もかくありなんという感じであり、遠くからみても新宿のビルの林は、ある意味で見事なものである。

東日本大震災の国難が起こって1ヶ月程の今、その立て直しに、この首都東京の果たす役割は大きいものと思う。戦争による焼野原は、日本全国に及んだ。しかし、今回の国難は幸い東日本に限定され、また中国に抜かれたとは言え、日本の国力も敗戦した1945年当時とは比較にならない程強い。なんとか、国を挙げて東日本大震災の災害から東日本を復興させて、新しい日本を作り上げたいものである。私も出来ることで何とかお手伝いしたいと思う今日この頃である。

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