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名誉所長ブログ

Koby's Note -Honorary Director's Blog

私にとっての新宿

神田神保町にあったオフィスが、新宿(JR新宿駅の西側)に移ったのが3月7日(月)、初めて新しいオフィスに出勤したのは3月9日(水)であった。ベネッセコーポレーションの方針として、研究・開発関係のグループが、教育研究開発センターとしてまとめられることになったのである。それぞれの研究を統合して、開発につなげる意義は大きいものと思う。新宿に移った機会に、東京生まれの東京育ちの私にとっての新宿について、思い出を書くことにしていた。しかし、その矢先、3.11の東日本大震災が起こり、掲載が今日になってしまったのである。

新宿というと、私にとっては、何となく、赤ちょうちん・居酒屋で酒を飲む街、グルメ・食べ歩きの街、デパートでショッピングの街、映画・ゲームなどの遊びの街、そして、30を超す高層ビルの街、となる。勿論、私にとっての新宿は、戦後の記憶のものが大きく、戦前の新宿となると霞のような記憶しか残っていない。

新宿の街の歴史は古く、1600年代にさかのぼる。徳川家康の居城を造るため、信州高遠藩主の内藤清成が、家康の江戸入府前に、警備のため鉄砲隊を率いて甲州街道と鎌倉街道の交差していた場所(現在の新宿二丁目)に陣を張ったのが始まりという。

その後、内藤清成は、付近一帯を拝領して、自らの屋敷(今の新宿御苑)のひとつを造るとともに、宿場も開いたという。それまでは、日本橋を出発して甲府までの甲州街道の最初の宿場は高井戸であり、距離が長くいろいろと不便だったと言われていた。その後、東海道の品川の宿、中山道の板橋の宿、日光街道・奥州街道の千住の宿の4つの宿のひとつとして、行楽地に発展し、つづいて歓楽街としての新宿の原型が出来上がったと言われている。

現在のJR新宿駅は、品川・新宿線、すなわち現在の山手線の駅として1885年に出来たと言われるが、大正時代に入って、新宿駅から西に中央線として伸び、やがてそれが逆に東京駅にもつながって、東京の市街地の交通の要衝となったと考えられる。同時にデパート、いろいろな商店、映画館、カフェ、劇場などが集中して、昭和に入って、一大歓楽街として発展したのである。

戦前の新宿は、小学生の頃のデパートと、中学生の頃の戦争中の屋台の記憶として私の中にある。しかし、新宿で生活をはじめてみると、それ以外の思い出もいろいろ出て来て、なつかしさで一杯になる。

前に申し上げた新宿の記憶の第一は、小学校入学前、日本画を描いていた父が、杉並のはずれの美術学校の仕事の都合もあったと思うが、善福寺池に近い武蔵野の林のわきに小さなアトリエを建て、世田谷から移って来てからのことである。しかし、小学生の頃、母親や祖母に連れられて、西荻窪駅から省線(現在のJR線にあたる)に乗って来た当時のデパートの面影は、かすかに残っているのみである。

第二の戦争中の屋台の記憶は、昭和18年11月だったと思うが、海軍の学校に入学が決まり、広島に向けて出発する前に、娑婆の臭いでもかがせようと思った父が、新宿に連れて来た時のものである。昭和18年というと、艦載機による爆撃を東京はすでに一回受けていて、夜は燈火管制が敷かれていた。新宿の夜の明るいにぎわいも全くなかった。暗闇の中でろうそくの焰がゆれ動くもとで、父と語り合った屋台のひと時を思い出す。お酒は未成年で飲んだ記憶もないが、何を食べたのかも憶えていない。暗闇の中の屋台の姿だけが不思議と目に残っている。正に、新宿駅東側の駅前だったと思う。

戦後の新宿について思い出すのは、東京に帰り学生生活を始めた1946年から、大学を卒業してアメリカにインターンに出かけた1954年までの8年間の新宿であった。はじめは、やはりアメリカによるB29の焼夷弾爆撃の後の焼野原、続いて闇市の人混みが続く街になっていった姿は今も思い出せる。しかし、1959年アメリカから帰って来た時には、もう歓楽街としての印象が強くなっていた。そんな中で、本を求めて折々訪れた「紀伊國屋書店」の思い出は特に大きい。

現在、私は西新宿の高層ビルのひとつの13階で仕事をしているが、目の前に林立する高層ビルが窓一杯に見られる。これらは1970年代に入って建ち始め、80年代、90年代、2000年代と、国の経済に反映して、ニョキニョキとマッシュルームのように林立していったものである。まさに英語でいうmushroomingである。建った高層ビルの数は、1970年代に7、80年代に入って9、90年代に10、2000年代に入って9と記録されている。高さからみると、最低19階80m、最高55階225mと言われている。ここで生活してみると、ニューヨークの姿もかくありなんという感じであり、遠くからみても新宿のビルの林は、ある意味で見事なものである。

東日本大震災の国難が起こって1ヶ月程の今、その立て直しに、この首都東京の果たす役割は大きいものと思う。戦争による焼野原は、日本全国に及んだ。しかし、今回の国難は幸い東日本に限定され、また中国に抜かれたとは言え、日本の国力も敗戦した1945年当時とは比較にならない程強い。なんとか、国を挙げて東日本大震災の災害から東日本を復興させて、新しい日本を作り上げたいものである。私も出来ることで何とかお手伝いしたいと思う今日この頃である。

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