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名誉所長ブログ

Koby's Note -Honorary Director's Blog
名誉所長ブログでは、CRNの創設者であり名誉所長である小林登の日々の活動の様子や、子どもをめぐる話題、所感などを発信しています。

過去の記事一覧

国立民族学博物館で教授をされている信田敏宏さんが、自分のお子さんがダウン症で生まれ、10年間育てられた経験を、奥様の感想と一緒にまとめられたのが「『ホーホー』の詩ができるまで」(出窓社)である。本書からはご両親の優しいまなざしが感じられる。そのお子さんが小学校4年生のときに作ったのが「ホーホー」の詩なのである。

私がアメリカで勉強していた1950年代に、その昔は蒙古症と呼ばれたダウン症が、21番目の染色体が1本余計にあることが原因であると明らかになった。それは先天異常を中心とする新しい小児科学の始まりとなる大きな出来事だったので、今も印象的なこととして覚えている。

「ホーホー」の詩は、短いので、まず紹介しよう。

「ホーホー」

ホーホーとなきます。
パサパサととびます。
くらいところにいます。
さがしてみてね。
きょうのよる
まっています。
hoho_kobayashi.jpg


簡単な詩である。しかし、その中に心がこもっていることは、どなたも理解されよう。NHKの福祉番組「ハートネットTV」に取り上げられたのも、うなずける。

本書をぜひ多くの方に読んでいただきたいと、CRNでも取り上げさせていただくことにした。本書を読んで、ぜひ感想など、教えていただきたい。

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看護と私

2014年2月 7日掲載
看護師さんにお世話になったことのない人はいないであろう。大人も子どもも、病気や予防注射などで医療・保健の現場に行くと、お医者さんに会う前に必ず、看護を勉強した看護師さん、保健師さんなどのお世話になっているはずである。

それは、看護学の学問的発展と共に、看護師さんの果たすべき仕事が大きく進化し、戦後の看護が歴史的に大きな転換を迎えたからである。その大きな転換の時期に、私は東大小児科の教授と同時に、東大医学部付属看護学校長も兼任していた。

戦後のアメリカによる占領が終わって間もない当時、東大病院の付属看護学校はボケーショナル・スクール(職業訓練学校)と呼ばれており、高等学校を卒業した生徒たちが入学してきた。戦前は5年制の中等学校を卒業してからの入学だったことに比べれば、戦後の新しい3年間の中学校の義務教育に、3年間の高等学校の勉強をした上での入学だったので、教育期間が1年間延びたということになる。

これにより看護教育のレベルは、戦後ある程度高くなっていたが、私が校長を兼任するようになった頃、国立大学医学部付属の看護学校は次々と短大化して、更に教育レベルを上げていく流れとなった。しかし、東大は、1950年代に医学部保健学科(現:健康総合科学科)の中に大学レベルの看護教育を学ぶ部門がすでにでき上がっていたため、付属看護学校は短大化せずに続いたが、2002年に廃校となり、100年を越える歴史を閉じることとなった。

この新しい方針によって国立大学医学部付属の看護学校のほとんどが短大に移行した頃の話であるが、東京大学は当時の文部省から見れば国立大学の代表のようなものなので、東大の付属看護学校長であった私は、国立大学の付属看護学校の代表として短大化のお手伝いをした。当時、大学レベルの看護教育を行っていたのは、私立大学では聖路加病院の看護大学と、国立大学では東大と千葉大学看護学部の三校であったと記憶している。それらの大学の女性教授と一緒になって、日本全国あちこちの短大化された看護大学を視学委員として訪問した旅の思い出は少なくない。

短大化された看護教育による第一の影響は、当然のことながら、看護のレベルが上がったことである。アメリカでは、1960年代に看護学校の大学化が始まったが、私が医学教育の世界一周視察を行った1970年代には、大学化によって看護のレベルが向上すると言われていた。看護師さんを生んだイギリスも、看護のレベルを上げるために大学化を行うという話であった。 欧米では、大学化によって男性の看護師が増えたかどうかはよく知らないが、アメリカで軍隊の衛生兵が看護教育を受け、男性看護師として一般病院でも働いている姿は、アメリカでインターンをしていた1950年代に見たことを思い出す。わが国では、男性看護師の増加に、看護学校の短大・大学化が果たした役割は大きい。

先日、「医学界新聞」*1で、東大の医学部保健学科で学んで看護師になり、京大付属病院の看護部長をされている男性の看護師さんと、著述業も行っている女性の看護師さんとの対談を読んだ。男性の看護師さんは現在約63,000人(厚生労働省:平成24年度衛生行政報告例*2)で10年前の2倍以上であるが、それでも、全体で100万を越える看護師さんの中で、男性は6%を少し越す程度であると言う。男性看護師は手術室や精神科で働くのが代表的という時代は終わったようで、内科病棟やその他の病棟で働いている男性看護師も増え、男性看護師の知名度は高まってきていると認識されているようである。大きな問題は、女性患者の羞恥心を伴う看護を実施する場合、男性看護師の約70%は躊躇を感じ、約80%は拒否されたことがあるということである。したがって、男性看護師の80%は、女性患者の羞恥心を伴う看護を実施する際、患者自身や家族に「看護しても良いか」と事前確認をすると言う。看護も男女平等になることは悪いことではないと思うが、そこまでしなければならないかと考えると、少々淋しい思いがしないでもない。

*1. 週刊医学界新聞 第3052号(2013年11月18日)

*2. 平成24年衛生行政報告例(就業医療関係者)の概況

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子育ては本来、親の責任である。しかし、どういうわけか、社会が豊かになると親の子育て機能が低下すると言われている。私が、そのことを実感したのは、1954年(昭和29年)、大学を卒業して半年ほどたち、アメリカのクリーブランドのカトリック病院でインターンをしているときのことだった。

秋の夕日がエリー湖の彼方に沈む頃、救急室で当直をしていた私のところに、白人の母親がきつい顔で「我が子がベッドから落ちた」と子どもを抱きかかえて、入ってきた。細かく診察してみると、身体のあちこちに新旧の傷あとがあった。ついで、左手を持ち上げると、大きな声で泣いた。早速レントゲン写真をとってみると、左の上腕に骨折が見つかった。他にも、治りかかった古い骨折のあとがあった。インターンの私は、当直にあたっていた先輩の医師に報告した。彼はすぐに診察をし、その後、市立病院でもある大学病院に送ると言って電話をかけ始めたので、私は驚いた。彼は「子ども虐待(Child Abuse)」だと言うのである。インターンが始まって間もない私はまだ知らなかったが、当時、豊かなアメリカでは「子ども虐待」が増え始めていた。様々な事情を考えて、先輩の医師は、行政と連携している市立病院に連絡をとったのであろう。

それから5年程たった1961年、ニューヨークで開かれたアメリカの小児科学会でC. Henry Kempe医師が「Battered Child Syndrome(被殴打児症候群)」として「子ども虐待」の症例をまとめて発表した。アメリカでは、これを契機に、「子ども虐待」が社会病理のひとつとして認識されるようになっていったことはよく知られているが、1962年に私がロンドンのグレート・オーモンド通りにある子ども病院に留学していた頃、イギリスでも「子ども虐待」が問題になり始めていた。その頃、あるイギリスの小児科医が、私に「子どもに優しい日本では、『子ども虐待』 の事例はあるのか」と尋ねてきたことがある。私は当時、そのような話は見聞きしたことがなかったので、誇らしげに「No」と断言したことを思い出す。しかし、日本でも少し遅れて「子ども虐待」の症例が出現し、日本小児科学会で問題になり始めた。私がイギリスから帰国して間もない1960年代後半、東大の小児科でも「子ども虐待」の患者が入院したことを記憶している。周知のとおり、日本経済が戦後の荒廃から立ち直って、社会が急速に豊かになった時期のことである。

親子関係、特に母子関係が失調すると様々な子育て上の問題が起こるが、「子ども虐待」はその極限のかたちである。このような状況では、親に代わって社会が子育てを担うことが必要である。場合によっては、経済的な事情から、また、母親の孤立を防ぐために、母親の就業を支援することが求められることもあるだろう。しかしながら、子育ての在り方は多様であり、個々の状況に応じた方法で対応しなければならない。また、余りにも子育てを社会化しすぎると、親子の相互作用の機会が減少することも考慮する必要があるだろう。

このように、「子育ての社会化」が今のわが国にとって大変重要な問題であることは確かだが、この「子育ての社会化」を支援している新聞社があることは、ご存知であろうか。それは、読売新聞社である。読売新聞社では大阪本社が中心となって、10年ほど前から子育て講演会を行っていたが、2007年から「よみうり子育て応援団大賞」として、公募を行い、いろいろな子育て支援の団体を、賞金とともに表彰している。

今年、第7回となる2013年「よみうり子育て応援団大賞」には、全国各地から、大賞を希望する137団体と、奨励賞を希望する131団体の合計268団体が応募した。予備選考、一次選考を行って、大賞候補6団体、奨励賞候補14団体が残り、最終選考委員会が開かれ、大賞1団体と奨励賞2団体が選ばれた。全てが甲乙つけがたかったので、残念ながら受賞できなかった団体の中から、選考委員特別賞として、2団体が選ばれた。

今年の大賞に選ばれたのは、岡山県備前市の「NPO法人子ども達の環境を考える ひこうせん 」であった。古い民家を拠点として親子が集う広場や、父親向けの講座、育児相談等を行っている団体で、昨年の利用者は延べ9,700人にのぼったという。目指しているのは、子どもの育ちを社会全体で支える「子育ての社会化」そのもののようだ。大学や行政、企業、他の子育て支援グループと連携し、支援のあり方をともに考える取り組みは、これまでにないものであると高く評価された。

次に、奨励賞の2団体であるが、一つ目の、岐阜県高山市の「わらべうたの会」は、飛騨地方のわらべ歌を親子で学ぶ取り組みをしており、郷土の文化や暮らしを次の世代へ継承する重要な役割を果たしている。子どもの成長や心の発達ばかりでなく、親子のふれあいも応援するという、この賞の趣旨にふさわしい活動であると思った。

奨励賞の二つ目、京都市伏見区の「父活project(ちちかつぷろじぇくと) 」は、子どものおもちゃ作りを通して、お父さんの地域参加を進めるグループである。お父さんのための子育て支援活動は増えているが、男性が参加しやすい「ものづくり」に着目している点がとてもユニークであると評価された。

最後に、選考委員特別賞に選ばれた2団体であるが、北海道倶知安町の読み聞かせの会「ぐりとぐら」は、絵本の読み聞かせの会から発展し、幼稚園や学校でお話し会を開くなど、言葉の力を育む活動をしてきた。大阪市中央区の「特定非営利活動法人 プール・ボランティア 」は、障害がある子どもたちにもプールで楽しく安全に泳いでもらおうと、様々な取り組みを行っている。いずれも、長年、地道な活動を続けている点が評価されて、選考委員特別賞の受賞となった。残念ながら、賞金はついていない。

私は、読売新聞社大阪本社のこの運動に当初から関係し、「よみうり子育て応援団大賞」となってからは選考委員長を務めさせて頂いている。ぜひ、この素晴らしい運動があることを知って頂きたいと思い、ブログにとりあげた次第である。
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となりの猫〜母猫と子猫〜

2013年11月29日掲載
わが家では猫を飼っていないが、隣りの家には二匹の猫がいる。母と子の親子猫であるが、どういうわけか、夏のころから、私に挨拶をするようになった。私がわが家の門をくぐろうとすると、隣りの家の門の脇で木陰の涼を楽しんでいるこの親子の猫が、私の顔を見て「ニャー、ニャー」と鳴くのである。何となく愛嬌があって、私も悪い気がしないので、自然に笑顔で手を振ってしまう。子猫はまん丸の顔で、大きな目で私を見ながら鳴くので、特にかわいいと思っていた。

秋風が吹き始めて、ちょっと涼しくなった、ある夕方のことである。わが家に入ろうとすると、隣りの家の方から、突然、母猫が私の方に走り寄ってきた。私の脚に絡みつき、何かを訴えるように「ニャー、ニャー」と泣きつくので、私はとても驚いた。飼い主と私を見間違えたのではないかと思うと同時に、いつも一緒にいる子猫はどこへ行ったのだろうかと心配になった。家に入って、妻にこの出来事を話したところ、子猫は、近くの獣医さんの紹介で、わが家から1キロメートルほど離れたお屋敷に貰われていったという話を聞いたと教えてくれた。

猫が、人類とは長く特別な関係を持ってきた動物のひとつであることは、よく知られている。記録によると、紀元前数千年前のエジプトで飼われていたと伝えられ、わが国では奈良時代に中国から渡来してきたと言われている。そんな猫が、人間を見間違えることはまずないだろう。闇の中でも瞳孔を大きく開いて光の情報を集める視覚や、鼻孔を大きく開いて匂いの化学情報を集める嗅覚が共に優れていることを考えても、人を識別する際に間違えることは、まずないものと思う。

そう考えてみると、あの母猫の行動は一体何だったのだろうかと思いを巡らせてしまう。可愛がっていた小さな子猫が貰われていってしまい、母猫として何か感じていたのだろうか。私に何か訴えたいことがあったのではないかと考えると、心の痛む思いがする。猫の行動に詳しい方に、ぜひ、教えて頂きたいものである。

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中国の子ども学

2013年9月27日掲載

CRNは、設立以来、中国との交流を積極的に進めてきた。それには、私が中国という国が好きであるという背景もあり、CRNが日本語、英語の次に、中国語のサイトを立ち上げることになったのも、これと無関係ではない。私はさらに、CRNの中国との交流の核として「東アジア子ども学交流プログラム」を作り、事あるごとに、日本と中国が一緒になって「子ども学」について考える機会をつくってきた。

日本と中国の国交正常化が1972年のことなので当然であるが、私が中国に行き始めたのは1970年代に入ってからである。その頃私は、東京大学の小児科医として、もしくは、小児アレルギー学者として中国を訪れていたが、1996年にCRNが設立されてからは、CRNの代表として、また、「日本子ども学会」の代表として、「子ども学」をテーマに交流するようになっていった。

実のところ、「子ども学」を中国語でどのように表現するのかは大きな問題になった。なぜならば、「子ども」を中国語にすると「孩子(ハイツ)」「小孩(シォハイ)」になるが、それは「ガキ」とか「小僧」のような言葉であって、その後に「学」を加えても学問というイメージにはならない。結局のところ、「子ども学」は中国語で、一般的には「児童学」という堅い言葉が使われるようになってしまった。そこでCRNでは、中国語サイトを立ち上げる際に専門家が集まって議論を行い、英語の"Child Science"の訳語に近い「児童科学」という言葉も使うことにして、現在に至っている。

少し話がそれてしまうが、国立小児病院を定年でやめて、関西の女子大学で教え始めてから、保育学にもう少し教育学的な考えを導入すべきではないかと考えるようになった。現在の日本では、保育士になるための保育学と、幼稚園の先生になるための幼児教育学とでは、全く内容が異なる場合がある。保育学の中心は、子どもの「遊び」と「生活の世話」であるが、幼児教育学はいわゆる就学前教育で、教育学的発想が中心になっているのである。しかし、考えてみれば、子どもはこの世に生まれて来るや、経験すること、感じることすべてが初めてであり、生活の中で、親や養育者と一緒にそれに対応し、学んでいる。子どもの体の成長や心の発達は、その日々の「学び」の結果といえるであろう。したがって、幼稚園・学校という教育の場だけで行われているものだけが教育ではなく、日々の生活や保育の場においても、教育学的な発想が必要であると考える。

中国では、保育と就学前教育は区別していないようだ。あくまで都心部の話であるが、0〜2歳については、祖父母やお手伝いさん(阿姨/アーイー)による家庭での保育が一般的であり、2、3歳になると幼稚園に入園する。この幼稚園は、教育的発想に基づいたカリキュラムのある保育を行っているが、同時に、朝から晩まで子どもを預かり、働く親たちの生活を支えている。保育と教育が一体となっている点で、日本より一歩進んでいるという印象を持つ。

最近、関西の学会のために訪日された上海師範大学の学部長である陳永明教授以下、方明生教授、李燕教授、付属小学校・付属幼稚園の先生2人とお会いする機会を頂いた。私の提唱した「子ども学」を評価してくださり、方教授が中心となって、立派な「子ども学」の教科書「儿童学概论(児童学概論)」を出版し(表1)、さらに、大学に「子ども学部」を創設されたとうかがい、大変うれしく思った。また、陳教授も方教授も日本語が堪能で、コミュニケーションに困ることはなかったことも、驚きであった。


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中国の教授陣・現場の先生方とご一緒に
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「児童学概論」

私が考え、体系づけた「子ども学」を介しての交流が始まって、10年程になるが、中国の上海で「子ども学」が大きく花開いたことは、この上ない喜びである。
(表1)教科書「児童学概論」の目次
  • 第1章 「子ども学」へ―教師養成における「子ども学」の意義
  • 第2章 子ども観と教育―教育の基点としての子ども認識
  • 第3章 子ども政策―"子どもの権利"理念の下での政策概要
  • 第4章 子どもの栄養―現代の子どもたちの栄養の問題
  • 第5章 子どもの健康―現代の子どもたちの健康の問題
  • 第6章 子どもの心理発達―子どもの心の発達の問題
  • 第7章 子どもと哲学―子どもへの哲学教育の開拓
  • 第8章 子どもと文学―児童文学教育の深化
  • 第9章 子どもと科学―子どもにとっての科学の世界と科学探求
  • 第10章 子どもと造形―視覚世界の中での子どもの発達
  • 第11章 子どもと音楽―聴覚世界の中での子どもの発達
  • 第12章 子どもと遊び―遊戯活動と子どもの発達
  • 第13章 子どもと環境―環境と子どもの発達

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