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名誉所長ブログ

Koby's Note -Honorary Director's Blog
名誉所長ブログでは、CRNの創設者であり名誉所長である小林登の日々の活動の様子や、子どもをめぐる話題、所感などを発信しています。

過去の記事一覧

日野原重明先生の100歳の誕生日をお祝いして

11月2日、日野原先生が、医学書ばかりでなく看護学書もたくさん出版されている医学書院が主催した、日野原先生の100歳のお祝いの会に、私も招かれて参加し、楽しいひと時を過ごさせて頂いた。

医療に関係する人たちを中心とした、出席者60~70人のささやかではあったが、落ち着いた雰囲気の会であった。日野原先生のお好きなピアノ演奏も行われ、日野原先生らしい会でもあった。

日野原先生とは、最近は残念ながらお会いする機会が殆どなくなってしまったが、1970年代から80年代にかけて、厚生省の委員として病院視察に御一緒したり、また1980年代から90年代と2000年に入ってしばらくの間は、日本音楽療法学会設立などのお手伝いで良くお会いしたものであった。

いずれの機会も、医師としてばかりでなく、社会人としていろいろと人生勉強をさせて頂いたものである。特に、音楽療法学会の設立の経緯について学んだことは多い。初めは日本バイオミュージック研究会として出発し、年一回学術集会を行い、すでに精神科医が中心になって作った音楽療法研究会を日野原先生のお力で統合し、日本音楽療法学会が生まれたのである。この学会が、わが国の音楽療法の発展に寄与したことは間違いないと思っている。現在、個人的には直接関係なくなっているが、事実学会活動は現在も活発に行われているのである。

日野原先生のお祝いの会で、先生はメモを御覧になりながら、100歳とは思えないちゃんとした声と内容のスピーチで、出席者全員に感銘を与えていらっしゃった。また、直接ご挨拶申し上げた折、私の事をちゃんと覚えていてくださっていたことに感激した。

スピーチの中でとりあえずの目標は、元気で110歳を迎えることであるとおっしゃった。10月下旬に放映された、先生のNHKドキュメントの映像からも、今回のお祝いの会の印象からも、110歳は間違いなしと思うと同時に、先生のご長寿に小生も少しでも肖りたいものだと思った次第である。

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母乳哺育で子育てしよう

日本母乳哺育学会・学術集会が、東京の日本赤十字病院にある看護大学で、10月8日、9日に開かれた。この学会は、私が25年前に設立した学会で、5年程前に若い世代にバトンタッチしたが、特別の思い入れがある。今回の学術集会は、日赤病院副院長の産科医杉本充弘先生が学会長として主催された。母子感染や、環境汚染によって母乳中に分泌される化学物質や、母親の飲んだ薬物が母乳中に分泌される問題などが、母乳哺育とどう関係するかが話し合われた。韓国の母乳哺育学会からも、医師が当面している問題について発表された。

わが国でも、母乳哺育する母親の数は少なくなり、母乳育児の重要性を認識している関係者、特に本学会の会員はいろいろと危惧している。その要因は、やはり豊かな社会の陰の部分であり、現在の物質万能主義の社会の在り方にあろう。しかし、悪くとればそれを利用しているミルク会社の販売戦略も関係しているという。広告のあり方は勿論のこと、分娩のため入院している母親に粉ミルクをプレゼントするなどいろいろな事が行われてきたのである。また、産科の先生が開業することになると、ミルク会社がクリニックの設立の費用までもって応援するという話まであるくらいである。頭のいいミルク会社は、産科の先生とお母さんを狙い撃ちにしているのである。

1970年代末から1980年末まで12年間国際小児科学会の役員を務めていた時にも、ミルク会社との関係が取り沙汰された。国際小児科学会の会場には、世界をリードするミルク会社が用意した休憩所があり、コーヒー、紅茶、クッキーなどがサービスされていたのである。また、学会役員は、特別なディナーに招待されるなど、接待の攻勢があった。それを切ったのは、トルコの小児科医 I. ドラマチ教授であった。私が学会役員をしていた時の国際小児科学会・理事長である。その上、当時は発展途上国も少なからず経済力をもち始め、生活水準の向上も始まっていたのである。そうなると、アフリカのハイウェイにミルク会社が大きな広告看板を立て始め、母乳よりミルクをすすめて、売上を狙ったのである。アフリカ人の母親の中には、あの白い旦那のような立派な体格になるようにと、ミルクでわが子を育てるようになった人もいた。しかし、電気や下水道のインフラは整備されないままで、水は汚く、冷蔵庫もない、その結果哺乳瓶のミルクは細菌に汚染され、乳児は下痢などで死亡するという現実があったのである。

そんなこんなでWHOはミルクについてのコードを発表し、1980年代だったと思うが、ミルクの広告などを規制したのである。それも、 I. ドラマチ教授のなされた事と思う。教授は、第二次世界大戦終了後のWHO宣言にも招かれる程、WHOとは関係の深い方であった。

しかし、今やわが国でも、豊かであるがゆえ、下水道や冷蔵庫の問題とは別の企業倫理の面で、このWHOコードが問題になっている。今回の学会の開会前の2時間程を使って、学会員の有志がこの問題を話し合った。その意義は大きい。母乳で育てる母親が増加することを祈りたい。

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10月、11月は、秋の学会シーズンで、私の関係する学会も次々と開催されている。日本母乳哺育学会や東アジア子ども学交流プログラムについては、すでにCRN上で取り上げさせていただいた。今回は日本子ども学会について述べることにしたい。

日本子ども学会は、平たく言えば、学問や職種をこえて、子どもに関係する人なら誰でも参加して、子ども問題を話し合おうという学会である。年1回子ども学会議として、子どもについて日頃勉強してきたことばかりでなく、テーマを決め、アイディアを持ち寄って話し合うことも行っている。普通の学会ならば、学術集会ということになる。

今年の第8回子ども学会議は、10月1日、2日の2日間にわたって、「育ちと学びを支える」をメインテーマに、創立以来70余年の歴史をもつ名門女子大学、武庫川女子大学の河合優年教授を会長とし、兵庫県西宮市にある大学の日下記念マルチメディア館ホールで開かれた。第1日目のサブテーマは「子どもの育ちと学び」で、第2日目は「東日本大震災の子ども達を支える」であった。主なプログラムは次の通りである。

第1日目は、お茶の水女子大学教授榊原洋一さんを座長に、パネリストとして大阪府立母子保健総合医療センター総長の藤村正哲さん、大阪大学人間科学部教授の金澤忠博さん、そして指定討論者として河合優年さんが加わってシンポジウム「小児医療から見た子どもの育ち」が行われた。藤村さんは、母子保健総合医療センター設立にあたって、母子同室方式を柱にした病院を作った方である。藤村さんは、新生児集中治療室(NICU)でケアされた子ども達、特に超低出生体重児の成長・発達について発表された。

心理学者の金澤さんは、小児科医の藤村さんと一緒に約500名の極小未熟児について行ったフォローアップ研究の成果を発表した。すなわち8歳の時点で、心理学的検査の結果を、出生時の母子同室やカンガルーケアと関連づけて、その有用性を論じたのである。

第2日目の午前は、甲南女子大学教授の一色伸夫さんを座長とし、あしなが育英会・あしながレインボーハウス・チーフディレクターの八木俊介さんと神戸市教育委員会事務局課長の中溝茂雄さんが話題提供者として発表をした。発表に対して神戸学院大学教授の小石寛文さんがコメントを述べる形でシンポジウム「被災の子ども達を支える:阪神淡路大震災が伝えるもの」が行われ、午後のシンポジウム「震災の子ども達を支える:今なにが起きていて何がもとめられているのか」につなげられた。

午後のシンポジウムの座長はお茶の水女子大学文学部教授の内田伸子さんで、話題提供者は、東日本大震災の現地で救援活動に直接関係した仙台白百合女子大学人間学部教授の大坂純さん、ハーバード大学公衆衛生大学院リサーチフェローの吉田穂波さんが赤ちゃんを中心とした現地の状況を報告し、パネリストとして宮城県石巻市溱小学校校長の佐々木丈二さんが発表された。さらに午前のシンポジウムの話題提供者の八木さんと中溝さんが発言された。

第2日目の午前・午後のシンポジウムは、細かい内容は後にゆずるが、大変時宣を得た内容の濃いものであった。いずれ「大震災の子ども学」としてまとめなければと思っている。

今回の子ども学会議にとって大変光栄だった事は、秋篠宮妃殿下が、第2日目の二つのシンポジウムに大変御関心をもたれ、会議の冒頭から終了まで終日御出席下さったことである。熱心にメモをとられているお姿が印象的だった。

この光栄をバネにして、日本子ども学会の更なる発展を期しているところである。岡山で開催する予定の第10回では、国際シンポジウムも行いたいと考えている。

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子どもにとってのバーチャルなサンタさん

一昨年のクリスマスイブだったと思うが、カナダの空軍司令部が子ども達に向けて、サンタクロースが今どこを「飛んで」いるかと、移動経路について何回か続けて発表したというニュースを聞いたことがある。確か民放のニュースだったと思う。

それを聞いて思い出したのが、戸塚滝登先生の『子どもの脳と仮想世界-教室から見えるデジタルっ子の今』(岩波書店、2008年)という本である。その本の中に1954年のクリスマスイブに同じようなことがアメリカでも起こっていたという話が書いてあったからである。

1954年のクリスマスイブというと、私が大学卒業直後にアメリカに渡り、クリーブランドの病院でインターンを始めていた年の出来事ということになる。その日は、アメリカ人の若い夫婦の家に招かれて一泊した日であった。積もった雪は、1メートルにはなっていなかったが、相当深かった事は今も思い出す。

招いて下さったW夫妻は、アメリカで言わばエリートであった。御主人は名門大学で法律学を学び、卒業後のしばらくの間クリーブランドで仕事をされていたのである。後にお会いした時は、ニューヨークで弁護士を開業されていた。奥さんは名門女子大を卒業され、お父様がアメリカの中国大使で、小さい時は中国で過ごされた経験もおもちであった。その時、3つか4つの女の子がいたが、その子も80年代に入ってアメリカの大手銀行の東京支店にお仕事でおいでになり、日本料理店にお招きしたこともあった。

当時のアメリカのインテレクチュアルがよくやっていた事であるが、クリスマスイブに行くところがなくて楽しめない外国人留学生を招いて、七面鳥のディナーを家族と一緒にもてなすという行事が流行っていた。それに、運よく私も招かれたということになる。当時の日本は、戦後10年程で、やっとラーメンが出始めた頃であり、貧しい食事も闇市に依存している様な状態であった。やっと家は建ち始めてはいたと言うものの、アメリカ空軍の爆撃による東京の焼野原は、東日本大震災の津波でやられた東北の裸の港町のように荒涼と広がり、JR御茶ノ水駅に立つと、東大の安田講堂が見える程であった。そんな日本から来て、私はアメリカの衣食住の豊かさに圧倒されていたのである。

そのクリスマスイブにアメリカで起こった出来事というのは、コロラドにある北アメリカ航空宇宙防衛司令部(NORAD)に突然子どもから電話がかかり、「サンタさんはどこにいるか」、「どの辺を飛んでいるのか」と尋ねてきたというのである。しかも、子ども達からの電話は次々とかかり、司令部はパニック状態になったという。

原因は、コロラドの百貨店のクリスマス商戦で、子ども達のために「サンタさんホットライン」を設けたが、その電話番号に事もあろうか誤りがあり、NORADにつながることになったという、信じられない偶然が起こってしまったのである。しかし、当直の司令官は、気転をきかせて「只今ロッキー山脈上空通過中」、「ソロモン群島上空飛行中」などと部下に伝え続けさせたという。以来、それはNORADの子ども達に対する恒例のクリスマス行事となり、"NORAD Tracks Santa"と呼ばれ、一昨年のクリスマスイブの出来事もそれだったと思うのである。

NORADは、アメリカ合衆国とカナダの共同で運営する統合的防衛組織で、北アメリカの航空・宇宙に関しての観測、または危険の早期発見、さらには人工衛星や宇宙船のゴミなどを監視する役を果たしている。

サンタは架空の存在であり、仮想世界の住人である。しかし、子どもたちにとっては、クリスマスにはプレゼントを持ってくる存在なので、完全な仮想でもなく、また完全な現実でもない。

私個人にとって、サンタはどんな存在だったろうか。わが家は、キリスト教でもなく、母は真面目な仏教徒といえる人であったが、どういうわけか日曜学校にだけは行かされた。したがって、クリスマスは恒例の、しかしあまり宗教色のない行事であった。絵書きの父も、仏教に熱心な人であったが、母の熱心なクリスチャンの友人の日曜学校に画室を開放したこともあった。また、東京女子大学の近くの善福寺川の林の脇に住んでいたので、女子大の日曜学校には、小学生として久しく通ったこともあり、なつかしく思い出す。お姉様方になる優しい学生さんと楽しくひと時を過ごしたものであった。太平洋戦争の始まる前の、まだ平和が感じられた時代で、今もその思い出と共に、女子大の立派な建物の尖塔の前にひろがるキャンパスの緑の芝生が目に浮かぶ。

子どもは一体いくつ位まで、サンタさんを完全に信じているのだろうか。「赤ちゃんはどこから生まれるか」のシークレット・オブ・ライフよりは、早く現実を知ると思うが、考えてみれば文化という点でみても興味深い問題である。社会の情報が子ども達の生活空間の中にどんどんと入り込む現在では、意外に早いかもしれない。

私の場合は、小学生になって間もない1930年中頃だったと思う。クリスマスイブの夜遅く、ふと物音で目が覚めた。母親がクリスマスプレゼントを枕元に置くその手が、目の前にすっと出てきたのである。その手は、窓から差し込む冴えた月明りで浮かび上がっていた。その時のピンとした夜の寒さも思い出す。以来、サンタクロースは、リアルなものになってしまった。それは、優しかった母親の思い出とも重なるが。

最後に付言すると、1954年のコロラドの出来事は、戸塚先生の本を読むまで全く知らなかった。当時も、その後も、医師としてのアメリカ生活が余りにも忙しかったためか、在米中にもかかわらず、私の身辺では全く話題にはならなかったと思う。しかし、いろいろ調べてみると、1955年の出来事であるというのが正しいようだ。考えてみれば、起こったのは冷戦真っ只中の事であったということになる。

NORAD Tracks Santa公式サイト(毎年12月にオープン)

 http://www.noradsanta.org/ (英語)

 http://www.noradsanta.org/ja/ (日本語) 

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女子大生の私語

現在、「私語」と言うと、「授業中に学生・生徒、特に女子大生が、隣り同志でひそひそと話しあうこと」と定義されるくらい、大学で私語が多い。勿論、私語は学生・生徒だけではない。

考えてみれば、私達の学生時代は、戦後10年もたっていなかった時代だったので、学生にとっては先生の教示される内容が貴重で、ノート取りに熱中し、私語など交わす余裕もなかった。第一、その時代は、街は戦争による焼け野原、教科書も充分ではなかったのである。また当時、礼儀の問題もあって、私語を交わす者は誰もいなかった。

国立小児病院を停年でやめた1990年代中頃、関西の女子大で短期間ではあったが、「子ども学」を講ずる機会があった。その時、女子大生の私語を初体験した。特に大きな教室の授業になると激しかった。カッとなって、私語を交わす学生につめより、授業の邪魔になるから教室を出て行って欲しいと言ってしまい、むなしい思いをしたものである。

2001年9月、ニューヨークの国際テロ事件が起こった時、北京では国際小児科学会議が開かれていた。その学会場で、アメリカの小児科医が英語で発表している最中に私語があった。私語を交わしているのは東洋人の女性で中国語を話していたので、おそらく中国の若い小児科医と考えられた。その程度は相当ひどく、邪魔になって発表が聞きとりにくい程であった。会場から「シー」という声が上がって、私語はサッとおさまった。声をかけたのは、アメリカかヨーロッパから来た小児科医であった。アメリカで勉強した方に伺うと、アメリカの大学では女子学生でも私語は殆ど交わさないという。

何故、日本では私語がこんなに交わされるようになったのだろうかと、関西の女子大での初体験以来考えてきた。私は、社会が豊かになり、テレビが普及し、テレビの「ながら視聴」が一般化したためと考えた。わが国では、食事しながらテレビを見るのは普通のこと。むしろ、テレビをつけっぱなしの中で生活しているのである。したがって、北京の国際会議の私語を耳にした時、中国も私語が問題になる程豊かになり、テレビも普及したのだと思ったものである。中国へは1970年代初頭から何回も旅し、大・小の学会に出席したが、それまで見られなかった現象であった。

脳のいろいろな機能は、そもそも脳のあちこちに分散して局在しているものなのである。すなわち、脳はいろいろな機能をもつモジュール(構造の単位)を組み合わせた構造をもっていると言える。これを、「脳機能の局在論」、あるいは「脳のモジュール構造」という。

モジュールというとまず宇宙船を思い出す。それぞれの科学・技術の粋を集めた機能をもつ宇宙船(モジュール)を組み合わせて宇宙ステーションが出来上がっているように、脳も出来ているのである。したがって、人は二つ以上の脳のモジュールを手際良く使えば、二つ以上のコトを同時に、しかも比較的簡単に問題なくやってのけることが出来るのである。それは、皆さんも折々体験ずみのことではなかろうか。例えば、音楽を聴きながら自動車を運転することは、その代表とも言える。テレビの「ながら視聴」によって、日々脳のそれぞれのモジュールを手際よく使う腕を上げているのかもしれない。それが、私語を蔓延させている原因のように私には見える。

女子大学に関係する教官は、1990年代に入って私語が活発になったという。しかも、私語と学業成績は関係しないことも明らかになっている。この100年の大学教育の歴史をみると、戦後の1960年代までは、わが国では、貧しくて大学で使うような教科書、参考書は充分なかった時代が続いている。第二次世界大戦敗戦後の10年間程は特にひどく、私自身も体験した。しかし、戦後の回復と共に、豊かな社会を築き、テレビが普及すると共に、情報化が進み、大学生の学習パターンも大きく変わったのである。教科書、参考書を利用して簡単に情報を集め、教授の授業のノートも情報機器を利用して、ファックス・ノート、e‐メール・ノートなどといろいろなかたちになり、現在学生はお互いに仲良くそれを利用し合って勉強するようになっている。

勿論、私語の問題は、社会の情報化だけが関係しているのではない。社会の礼儀や模範の問題も関係しよう。しかし、その模範も縦関係より、横関係が強くなり、家庭教育の弱体化も関係して、個人主義や自己中心主義が、良い意味でも悪い意味でも強くなってきているのである。したがって私語の問題は、単純な要因で起こっているわけでなく、多様の要因がからみ合っているのである。少なくとも、「出ていけ・メッセージ」だけでは解決出来る問題ではない。

重要なことは、学生達の心を読みとって、授業のあり方も、大きな子ども達としてチャイルドケアリング・デザインしなければならない時代にあるということである。それは「みんなで静かに聴く」集団的聴取スタイルに代って、「自分なりに静かに聴く」という個人的聴取スタイルが出来るような授業にすることではなかろうか。例えば、小グループの授業にするとか、学生参加型の授業にするとか。勿論、教官自身が勉強して、学生の心を引きつけられる授業にすることが全ての始まりである。

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