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Koby's Note -Honorary Director's Blog

女子大生の私語

現在、「私語」と言うと、「授業中に学生・生徒、特に女子大生が、隣り同志でひそひそと話しあうこと」と定義されるくらい、大学で私語が多い。勿論、私語は学生・生徒だけではない。

考えてみれば、私達の学生時代は、戦後10年もたっていなかった時代だったので、学生にとっては先生の教示される内容が貴重で、ノート取りに熱中し、私語など交わす余裕もなかった。第一、その時代は、街は戦争による焼け野原、教科書も充分ではなかったのである。また当時、礼儀の問題もあって、私語を交わす者は誰もいなかった。

国立小児病院を停年でやめた1990年代中頃、関西の女子大で短期間ではあったが、「子ども学」を講ずる機会があった。その時、女子大生の私語を初体験した。特に大きな教室の授業になると激しかった。カッとなって、私語を交わす学生につめより、授業の邪魔になるから教室を出て行って欲しいと言ってしまい、むなしい思いをしたものである。

2001年9月、ニューヨークの国際テロ事件が起こった時、北京では国際小児科学会議が開かれていた。その学会場で、アメリカの小児科医が英語で発表している最中に私語があった。私語を交わしているのは東洋人の女性で中国語を話していたので、おそらく中国の若い小児科医と考えられた。その程度は相当ひどく、邪魔になって発表が聞きとりにくい程であった。会場から「シー」という声が上がって、私語はサッとおさまった。声をかけたのは、アメリカかヨーロッパから来た小児科医であった。アメリカで勉強した方に伺うと、アメリカの大学では女子学生でも私語は殆ど交わさないという。

何故、日本では私語がこんなに交わされるようになったのだろうかと、関西の女子大での初体験以来考えてきた。私は、社会が豊かになり、テレビが普及し、テレビの「ながら視聴」が一般化したためと考えた。わが国では、食事しながらテレビを見るのは普通のこと。むしろ、テレビをつけっぱなしの中で生活しているのである。したがって、北京の国際会議の私語を耳にした時、中国も私語が問題になる程豊かになり、テレビも普及したのだと思ったものである。中国へは1970年代初頭から何回も旅し、大・小の学会に出席したが、それまで見られなかった現象であった。

脳のいろいろな機能は、そもそも脳のあちこちに分散して局在しているものなのである。すなわち、脳はいろいろな機能をもつモジュール(構造の単位)を組み合わせた構造をもっていると言える。これを、「脳機能の局在論」、あるいは「脳のモジュール構造」という。

モジュールというとまず宇宙船を思い出す。それぞれの科学・技術の粋を集めた機能をもつ宇宙船(モジュール)を組み合わせて宇宙ステーションが出来上がっているように、脳も出来ているのである。したがって、人は二つ以上の脳のモジュールを手際良く使えば、二つ以上のコトを同時に、しかも比較的簡単に問題なくやってのけることが出来るのである。それは、皆さんも折々体験ずみのことではなかろうか。例えば、音楽を聴きながら自動車を運転することは、その代表とも言える。テレビの「ながら視聴」によって、日々脳のそれぞれのモジュールを手際よく使う腕を上げているのかもしれない。それが、私語を蔓延させている原因のように私には見える。

女子大学に関係する教官は、1990年代に入って私語が活発になったという。しかも、私語と学業成績は関係しないことも明らかになっている。この100年の大学教育の歴史をみると、戦後の1960年代までは、わが国では、貧しくて大学で使うような教科書、参考書は充分なかった時代が続いている。第二次世界大戦敗戦後の10年間程は特にひどく、私自身も体験した。しかし、戦後の回復と共に、豊かな社会を築き、テレビが普及すると共に、情報化が進み、大学生の学習パターンも大きく変わったのである。教科書、参考書を利用して簡単に情報を集め、教授の授業のノートも情報機器を利用して、ファックス・ノート、e‐メール・ノートなどといろいろなかたちになり、現在学生はお互いに仲良くそれを利用し合って勉強するようになっている。

勿論、私語の問題は、社会の情報化だけが関係しているのではない。社会の礼儀や模範の問題も関係しよう。しかし、その模範も縦関係より、横関係が強くなり、家庭教育の弱体化も関係して、個人主義や自己中心主義が、良い意味でも悪い意味でも強くなってきているのである。したがって私語の問題は、単純な要因で起こっているわけでなく、多様の要因がからみ合っているのである。少なくとも、「出ていけ・メッセージ」だけでは解決出来る問題ではない。

重要なことは、学生達の心を読みとって、授業のあり方も、大きな子ども達としてチャイルドケアリング・デザインしなければならない時代にあるということである。それは「みんなで静かに聴く」集団的聴取スタイルに代って、「自分なりに静かに聴く」という個人的聴取スタイルが出来るような授業にすることではなかろうか。例えば、小グループの授業にするとか、学生参加型の授業にするとか。勿論、教官自身が勉強して、学生の心を引きつけられる授業にすることが全ての始まりである。

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