筆者は現在、ユヴァスキュラ大学とトゥルク大学(共にフィンランドの国立大学、フィンランドには私学の大学はありません)が共同で学習困難についての研究を行う中核的研究拠点(Centre of Excellence for Learning Dynamics and Intervention Research、InterLearn)にて、ポスドク研究員として働いています。日本や諸外国と比較し、フィンランドは教育に投資する割合が多い、と言われますが、研究者として働いていて感じることは、教育学や心理学といった教育実践に関わる研究プロジェクトに多大な研究費が投資されている、ということです。今回は、この連載のテーマであるフィンランドでの子育てとは少し離れますが、フィンランドの大学研究プロジェクトはどのようになっているのか、そこでどのような研究を筆者がしているのか、その実際をお伝えします。分野やプロジェクトの目的によって、事情は異なるかもしれませんので、あくまでもその一例として読んで頂ければと思います。

中核的研究拠点とは?
筆者が働く中核的研究拠点は、Research Council of Finlandの助成を受け、2022年に発足、2029年まで継続する予定です。Research Council of Finlandは、日本でいう学術振興会のような機関で、日本の科学研究費と同様に、さまざまな研究プロジェクトに資金を提供します。特に、中核的研究拠点の資金は、各分野において最先端の研究を行い、創造的な研究環境とイノベーションを展開し、新しい研究者の育成に貢献すると認められた研究プロジェクトに提供されます。したがって、中核的研究拠点は、ただ研究を行うだけでなく、幅広い研究コミュニティを構築し、社会に科学的発見を発信するセンターとしての機能も期待されています。提供される資金は研究プロジェクト毎に異なりますが、InterLearnでは最初の2年間で3,000,000ユーロ(およそ4億8千万円、2024年2月現在のレート)が提供され、その後の資金が提供されるか、どれぐらいの額になるかは、研究の進捗状況などを鑑みて判断されます。フィンランドの研究助成金が日本の科学研究費と異なるのは、助成金でフルタイムの人を雇える(すなわちパートではなく月給を支払うことができる)という点です。筆者もこの中核的研究拠点でフルタイムの研究員として雇われていることになります。
InterLearnの目標と研究内容
上述したように、本中核的研究拠点は学習困難についての研究を行うことを大きな目的としています。学習困難、という言葉はあまり聞き馴染みがなく、学習障害と言った方が日本では耳にする機会が多いかもしれません。InterLearnは医学的診断として用いられる学習障害だけではなく、広く学習に困難をもつ子どもたちについて研究するという思いから、あえて学習障害(learning disabilities)ではなく、学習困難(learning difficulties)という言葉を用いています(これは、第12回の記事で書いたソーシャルモデルとも関連しています)。
これまで、フィンランドだけでなく世界各国で学習障害を含む学習困難に関する研究が行われ、効果のある支援の方法なども示されてきています。その一方で、同じ支援を行っても、効果のある子どもたちとあまり効果が見られない子どもたちがいることも指摘されています。その背景には、神経発達、認知発達、自己統制、社会情動的発達、学校環境、家庭環境など複雑な要因が関わっていると考えられます。これまで行われてきた研究では、それらの要因と支援の効果の関係を個別に研究してきたものが多く、様々な要因を包括的に捉えた研究は少ないと言われます。したがって、InterLearnの目的は、学習困難の多面性を考慮し、支援の効果に影響を及ぼす様々な要因を網羅的に明らかにすることなのです。
上記の目標を達成するためには、子どもの背景要因など多角的・多面的なデータを収集し、それらがどのように支援方法の効果に影響を与えているかを分析する必要があります。そのため、InterLearnでは、6つの下位プロジェクトに分かれて、データの収集、分析等を行っています。
1つ目のプロジェクトでは、乳幼児期からの認知・情動の発達曲線を明らかにし、それらが学習困難とどのような関係があるかを明らかにすることを主な目的としています。
2つ目のプロジェクトでは、学習困難と関連する認知的、情動的な要因を明らかにすることを目的としており、小学校段階における子どもの神経発達、認知発達、情動発達、及び学習困難のリスク要因などに関する縦断的なデータを集めています。
3つ目のプロジェクトでは、実際に子どもの読み困難、算数困難、問題行動にそれぞれフォーカスした支援を行い、支援方法の効果に影響を与えた要因を明らかにしようとしています。
4つ目のプロジェクトでは、特に環境要因に注目しており、学校環境、家庭環境および近年著しく発展するデジタル環境が子どもたちの学習困難にどのような影響を与えているかを見ていきます。
5つ目のプロジェクトでは、脳の神経発達が、子どもの学習困難と認知・情動発達にどのような影響を与えているかを検証するため、脳画像(f MRI)や脳波(EEG)、脳磁図(MEG)などを用いて脳に関わるデータを収集し、分析していきます。これらの膨大なデータを網羅的に分析するためには、洗練された分析手法を用いていく必要があります。
6つ目のプロジェクトでは、縦断的・多面的なデータを分析するだけでなく、新たな分析手法を開発することを目的としています。
筆者は、この6つ目のプロジェクトに属し、これまで培ってきた心理統計の知識を用いて、データの分析に携わっています。例えば、子どもの発達と学習のプロセスには、本人の認知的スキルだけでなく、情動的要因(モチベーション、自己肯定感、自己効力感、学習不安感など)や環境要因(友人関係、教員との関係、保護者の経済状況などの家庭環境など)が関わっていると言われます。これらのデータを子ども、先生、保護者から収集し、どのように関連しているのかを構造方程式モデリングという手法を使って分析したりします。
大きなプロジェクトになると、下位プロジェクトが個別にデータ収集・分析を行い、下位プロジェクト間で横断的な研究が行われにくいということが時々問題視されてきました。InterLearnではそうしたことにならないよう、互いに協力し、下位プロジェクト間の知見を共有し合って、最終的に上に掲げた目的を一緒に達成することを目指しています。まだデータを集めている段階のため、結果が明らかになるのは数年先となると思いますが、興味深い結果があれば、随時日本へ発信していきたいと考えています。
フィンランドで研究員として働いて感じること
先に書いたように、私は現在フルタイムで研究員として働いています。もちろん大学で働いているため、大学で教えることも職務に含まれていますが、その割合は全体の職務の5%です(この割合は人によって異なります)。すなわち、残りの95%は、先行研究を読む、データを集める、分析をする、論文を書くといった研究の時間に費やすことができます。こうした話を日本人の研究者の方々にすると、「うらやましい」と言われることがよくあります。日本では、特に社会科学の分野では、研究のみに専念するポジションというのは珍しく、皆さん、大学でたくさんの講義を教える傍ら、空き時間や休日に研究を行う、というのが現状のようです。特に厳しいだろうと想像するのが、日本の大学で働く女性研究者の方々です。家事・育児を行いながら、家族と過ごす時間を削って研究をしなければならない現状を度々耳にします。
近年、大学の深刻な研究力・競争力の低下が叫ばれていますが、フルタイムで研究に専念する研究者が多くいる国と比較して、片手間で研究を行わざるを得ない日本の大学の研究力が低下するのは、当然のことのように思われます。この先、日本の大学の研究力・競争力を向上させるためには、そうした研究者の働き方の見直しが必要なのでは、とフィンランドで研究者として働いている経験から感じています。