私は、知的障害の子どもたちが通う特別支援学校で働いていましたが、そこでこんな印象深いことを耳にしたことがあります。
「ADHDのような、落ち着きがないとされている子を大自然の中に連れていくと、嘘のように静かになる」
それからというもの、私は野外や自然がもつ力について(あるいは閉じられた空間にいることの弊害について)、学校という場で考えてきました。
ヒロックでは、正午になると毎日お弁当を持って近くの公園へ行き、自然の中でご飯を食べるようにしています。授業もなるべく外で行うようにしています。
毎日、同じ時間に同じ場所へ行く。そうすると、自然の微妙な変化が見えるんですね。風の強かった次の日は、枝が折れて落ちていたり、雨上がりの日には草木が露で光っていたり、大きな水たまりができていたり。
「なんでこっちには水たまりができてないんだろう?」
「昨日あった水たまりがなくなってる! 水はどこにいったんだろう?」
学びの種は、身近な日常生活の中に転がっているものです。
春には花が咲き、夏には虫が現れる。秋には葉が紅葉し、冬には落葉して雪景色が広がる。そんな四季の変化を豊かに感じられるのは、やはり自然の中に身を置くからこそなんですね。

よく「子どもの成長にとって、自然体験が重要だ」と言われます。私も同感です。だからと言って、それは「年に2回キャンプに行けばよい」とか、そんな単純なことでもないよなぁとも思っています。
非日常としての自然体験は、エンターテイメントとして終わり、ただ興奮するだけで通り過ぎてしまうことが多いように感じます。日常の中に、定点観測できる自然があることで、地球の循環や生命の営みが捉えられるのではないでしょうか。
自然のもつ教育的価値は計り知れませんが、その中でも特に「可塑性のある素材が無尽蔵に存在する」という点が挙げられるでしょう。
「可塑性」というのは、言うなれば形態を変化させることが可能であるということ。木の枝は折ると2本に分かれるし、地面を掘ったら穴が空きます。場所にもよりますが、基本的には枝を折ったり地面を掘ったりしても、とがめられることはありません。それは、私たち大人の中に共通して「自然界のものはみんなのもの」「誰かがコントロールしきれるものではない」という暗黙知があるからではないでしょうか。これが室内のおもちゃであったり、施設設備であったりしたらそうはならないですよね。

もちろん、積み木や折り紙のように、可塑性の高い遊具もあるにはあります。しかし、さすがに積み木自体を破壊したり、色を塗ったりすることは許されないし、近頃の保育施設では「折り紙は一人2枚まで」というように制限されているところも多いと聞きます。
また、自然の中には壁や天井がないというのも、重要な要素なのだと思います。室内環境では、よっぽどでもない限り、壁や天井という制約があります。それは子どもにとって、自分たちの行動や想像力を縛るものとなってしまっているのではないでしょうか。
最近では、「周囲から苦情が来るから大きな声や音は出してはいけない」「壁が汚れるから暴れてはいけない」など、より強固に制限されているように感じます。学校に入学すると、あらかじめ備え付けられた机と椅子に挟まれ続けるよう強制され、そこから抜け出すと叱られる。そんな環境では感情が爆発してしまう子の方が、むしろ自然な反応をしているように感じます。
最近では、公園でさえ「近隣の迷惑になるから大声禁止」だとか「ボール遊び禁止」などといった、規制の波が押し寄せてきています。子どもたちの育つ権利は、果たしてどこに行ってしまうのでしょう。
もっと外に出ましょう。外に出ると、大人の心もおおらかになります。室内で縛られているのは何も子どもだけではありません。担当者として責任をもつ大人にとっても、同じかそれ以上に縛られる空間にいるのです。
「学校や社会に適応できない子どもが増えている」と言われますが、私はむしろ「社会の都合に適応させたい大人が増えている」という表現の方が正しいと思います。「大人も学ぶ」と言われますが、むしろ大人の方が緊急性をもって、既得権益を濫用していることを反省し、学び直さなければいけないのだと感じています。
