ヒロックは「自由」のもつ価値を、心の底から信じているスクールです。自由であることは成長への動機であり想像力の源、豊かさへの可能性。そして何より、自由であること自体が幸せそのもの。実践をする中で、数えきれないくらいの多くの確証が、日々の子どもたちの姿や生み出す文化から得られています。
とはいえ、大人が子どもたちに対して「さあ、自由にしていいんだよ」と言ったからと言って、それで子どもたちは自由になれるかというと、そんなに簡単なものではありません。子どもたちはこれまでの経験や学習から、空気も読めば大人の顔色もうかがうし、
それでは一体、どのようにして「自由な場」は実現できるのでしょう。
例えば「比較しない・されない場」。人と比べられたり、ましてや優劣をつけられるような環境では、誰しも隣同士で牽制し合ってしまい、自由にはなれなさそうです。「比べなくていいよ」なんて言葉で伝えたところで、実際そこに比べやすい環境や、一元的に優劣を測定するようなシステムがあっては、自分と他人を比べずにはいられないものです。あらゆるものが違って比べようがない環境、すべての方向への拡張を「いいね!」と言い合える文化を醸成する。そこまでしてようやく「比較しない・されない場」が徐々に形作られていきます。
あるいは「マジョリティによる一側面だけで優劣を決められない場」も大事です。「こうするべき」や「これが普通」「みんなこうしてきたから」というのは、明文化されていないからこそ、余計に行動を縛るものにもなります。我々大人や社会の方が、無意識に縛られているのが厄介なところ。これまでの幼少期からの環境や文化の中で身に付いてきた先入観や偏見は、脊髄反射のレベルで染みついてしまっています。それが一側面的な見方にすぎないことすら、気付かないほどに。まさしくそこに、子どもを中心とした学びの場を開くことの難しさがあると日々感じるのです。
その難しさをひも解き、乗り越えるトリガーこそ「子ども」という存在だと、ひしひしと感じてきました。今回は、ヒロックで実際にあった一例をご紹介します。
それは開校して間もない頃、子どもたちも少しずつ、新たな学びの場にも慣れてきていた時のことです。帰りのサークルタイム(みんなで輪になって、1日の振り返りなどをラフに話し合うような活動です)の時間に、一人の女の子が突然逆立ちを始めました。子どもたちは皆、予想もしなかった友達の動きにきょとんとした表情。もちろん、私たち大人にとっても予想外の動きでした。
こんな状況で、これをお読みの皆さんならどうしますか。「ちゃんと座りなさい」「何やってるの?」「どうしたの?」など、声をかけたくなるのではないでしょうか。私も声をかけたくなりました。
しかし、声をかけようとしたその瞬間、ふと他の子の様子が気になったのです。笑い出すでもなく、注意するでもなく、今までのおしゃべりがすっと静まり返ったスクール。周りの子どもたちは、あからさまに顔色をうかがってはきませんが、明らかに「大人がどう声をかけるか」を気にしているように感じられました。「あぁ、やっちゃった」「きっと注意されるに違いない」「どれくらいの凄みで怒られるんだろう」...これまでの経験などと照らし合わせ、そんな風に構えていたのかもしれません。
そこで私は、あえて声をかけることをやめ、気にせず談笑を続けることにしました。周りの子たちは意外な展開に驚いた表情。一人の子がおずおずと「...ねえ、逆立ちしてるけど、いいの?」と聞いてきました。私は「誰も迷惑になってないならいいんじゃない? 私はかまわないよ。でも、嫌な気持ちになったら遠慮なく言っていいからね。それも君の自由だから」と返しました。逆立ちしていた女の子は、びっくりしたような顔をして、そしてゆっくりと座り直しました。こういうとき、子どもは大人の言葉をよく聞いているんですよね。
それがきっかけになったかは分かりませんが、ヒロックの子どもたちは一層自由闊達に、伸び伸びと生活するようになりました。そのようなスクール全体の変化を見て、改めてその日のことが思い起こされたのです。ああ、この自由は、あの子が作ってくれたんだよなぁと。
突拍子もないことをする子は、規律を求められるような集団の中では疎まれがちです。しかし、そんな子が、得てして集団全体に自由をもたらしてくれるということを、私はまさにその子から教わりました。あの時、彼女が逆立ちをしてくれなかったら、大人がいくら「自由にしていいんだよ」と言ったとしても、こんなにスムーズに自由な雰囲気はもたらされなかったでしょう。もし逆立ちをした彼女に対し、私が注意をしてしまっていたら「ヒロックも大人が上で子どもが下」という認識を子どもたちにもたせてしまっていたかもしれません。彼女がいたお陰で、ヒロックは自由な場になれたんだなぁ。「これこそ子どもの力、大人にはかなわない力だよなぁ」と感じさせられる一場面でした。
ここで私が言いたいのは「声をかけないことが正解、声をかけるのは間違った手法だ」ということではありません。子どもの育ちや学びに関わる大人は、「こうすべき」や「これが定石」という考えを一旦脇に置いて、一人の発展途上の学び手として身を置いてみる。子どもたちとの相互作用の中で、自分のもっている認識の枠に気付き、より「ありたい自分」に向かって共に成長させてもらう。そこにこそ、教育に携わる