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『世界教育戦争:優秀な子供をいかに生み出すか』について:後編

ポーター 倫子(ワシントン州立大学人間発達学部講師)

2020年9月 4日掲載

要旨:

前編では、本書を紹介するに至った理由、米国が抱える教育問題、本書のデータ分析収集法などについて簡単に紹介した。中編では、本書に描かれているフィンランド、韓国、ポーランドの3つの国と米国の教育事情の比較について、「親の役割」と「学業成績に重要な影響を及ぼす資質」に焦点を当て、後編では、3カ国の比較の中でも、「教育格差」と「教員養成」について述べる。
教育格差

本書の中では、アメリカの子どもの学力が芳しくない理由として、子どもの学力による能力別編成が早期から行われていることを挙げている。リプリー氏は、能力別編成の導入年齢が早い国ほど、PISAの成績は低くなるという結果を紹介している。なぜそうなるのかという理由として、「ゲットー(ghetto)効果」が考えられると言う。ゲットーというのは、アメリカの場合では、貧困層やマイノリティーらが居住する劣悪な環境を指す。能力別編成の導入により、教育水準の低いクラス(劣悪な環境)に入れられてしまった子どもほど、学力が伸び悩む。その結果が、成績格差をますます助長するだけでなく、国全体の学力低下に結びつくということなのだろう。

リプリー氏は、小学校から能力別編成を行っているのは、アメリカ独自の方式であると説明している。しかし能力別編成それ自体については、アメリカだけではなく、ヨーロッパ諸国や日本でも存在する。たとえば、日本においても、学校の中で児童・生徒をその教科の習熟度に応じて、複数の学級に編成する方法(習熟度別学習)などが取り入れられている。ただ、子どもが幼い段階から選別が開始され、マグネットスクール*1、優等クラス、飛び級コース、国際バカロレア進学プログラムなど様々な種類の能力別編成が行われているのは、アメリカの特徴のようである。

このようなアメリカの早期の学力による能力別編成の弊害については、他書でも述べられている。中編で紹介した、アメリカのジャーナリストにより書かれた『間違いだらけの子育て』(NurtureShock: New Thinking About Children、詳しくは拙論文「子育ての常識を覆す画期的な本」を参照)においても、子どもたちのギフテッド教育*2のふるい分けを、その知能が正確に明らかになる時期、せめて小学校3年生まで待った方が良いと書かれている。その根拠として、就学前の知能検査とその後の学力検査の相関関係は平均して40%くらいしか存在しないこと、大器晩成型の子どもは質の高い教育を受けるチャンスが得られないこと、幼い時に教育熱の高い家庭で育てられ、知能検査が高いと判定を受けた子どもは、ずっとギフテッドのクラスに残留できるという不公平さが述べられている。

本書では、能力別編成の開始を遅らせた国、たとえばポーランドなどは、PISAの成績が向上したと述べられている。ポーランドが行った教育改革の一つとして、能力別編成を15歳ではなく、16歳から導入した。それまで、15歳の段階で、実業型と進学型に分けて能力別編成を行っていたが、一年延ばして、16歳で選択するようになった。その他にも定期的に共通試験を課する、新たな教育課程の指針を導入、現職教員の再教育強化などの効果もあり、ポーランドのPISAの成績は、2000年の第1回調査時に32カ国の中で下位であったのが、3年間で、読解で13位、数学で18位と、アメリカを上回る成績を収めたそうである。しかも、ポーランドの最貧層は、アメリカの最貧層と比べて、社会経済的にもより一層の劣悪な状態に置かれているということから、貧困が原因で学力が低いと言い切れないことを、この違いは物語っている。貧困をどう受け止め、どのように対処するかというその政策が、重要になってくる。

リプリー氏は、アメリカの貧困層やマイノリティーなどの生徒たちの成績がふるわない理由を、その家庭や地域環境により説明しようとすること自体に問題があり、このような生徒たちは出来なくてもあたりまえという風潮が蔓延り、目標を低く設定してしまうことにこそ、害があると述べている。本書では、フィンランドの中でも移民が多いヘルシンキの学校の例が取り上げられている。3分の1が移民であり、その多くが亡命者であるという学校の教員に、リプリー氏がインタビューしたところ、「生徒の家庭環境を思いやりすぎると、授業から厳格さが失われてしまう」ため、誰もが同じだと思うようにしている、ということであった。教師側の子どもへの期待の度合いにより、教え方が変わってしまうため、そのようにならないよう意識しているということである。ちなみにこのクラスで一番の優等生である生徒は、6人の兄弟姉妹がおり、父親は用務員で母親はベビーシッターの仕事をしている貧しい家庭の子どもである。

しかしアメリカの場合、教員も校長も生徒の多様性や差異を意識するように指導されている、とリプリー氏は言う。たとえば、学校は生徒の人種や家庭の収入を調査し、データを政府に報告することが義務付けられている。生徒の成績は、人種や収入レベル(無料で給食が配布されるような貧困層であるかどうかなど)ごとに統計が出されたものが、学校の評価に反映されるそうである。たとえば、前編で紹介した一般にも利用できる学校の評価サイト、Greatschool.org前編参照)などでも、その学校の州共通学力試験結果、卒業率などが、人種や所得レベルごとに詳しく紹介されている。リプリー氏は、アメリカの教育制度でみられる不公平への意識を高めるような傾向が、子どもへの期待を抑圧してしまい、より不公平な教育を施してしまうことになるのではないかと危惧する。「わが国の教育の権威や教員養成校の教授が、なにをしても貧困にはかなわない、という考え方を若い教員たちの頭に植え付けるとすれば、どうなるのだろうか。教員たちの側でも、自分たちはそれなりのことしかできない、貧困はやはり運命なのだから、などという見方を刷り込まれるとすれば、どうなるのだろうか」と問題を投げかける。

本書の中では、オーストラリアの生徒を対象とした縦断的研究が紹介され、15歳の時に思い描いている目標次第で、その後の将来がある程度予測できるということが書かれている。高い目標を挙げている子どもは、親の社会的・経済的地位も、統計的には高校卒業率に影響しないらしい。生徒に対して高い期待をもたないことに対する弊害とその改革として、ペンシルバニア州のトムの高校の例が紹介されている。この高校は、思ったほどテストの成績が伸びていないということに対して、新しい校長が改革のために赴任してきたが、問題の根源に、親や教員の子どもへ設定している目標の低さと諦めがあるのではないかと思うようになったそうである。対策の一つとして、学力の低い子どもたちのために用意されていた「実用クラス」のことを「馬鹿クラス」と言い放つことにより、子どもたちに魅力を感じないようにさせ、廃止にもち込んだのである。その結果、教員たちの心配をよそに、落第する子どもは一人もいなかったらしい。大人の期待や信頼が高くなれば、子どももそれ相応の能力を発揮することが可能であるという一例である。

「大人がなにを重視しているのか、なにが大事なのかということを、子供は極めて敏感に察する。なにかが大事でないことを見抜いてしまえば、子供たちが努力をしようとする見込みはない」。これは、キムの出身地であるオクラホマ州の1997年の教員組合による報告である。オクラホマ州のことを、数多くの予算を教育につぎ込んできたにもかかわらず、学力が振るわない州として、本書では紹介している。1980年末、オクラホマ州議会は、高校生に卒業試験を課する州法を可決したが、親からの抵抗や卒業試験の落第者が多く出てしまうのではないかという「思いやりからの判断」により、試験実施を延期したそうである。その後、仮に落第した科目があっても、4年間に渡ってテストを再受験できる、などの様々な代案を用意したにもかかわらず、この行政命令が発効する直前になって、親からの訴訟を恐れ、要件を破棄したらしい。本書には、その後の進展についても詳しく説明されているが、子どもが挫折するのを、大学や社会に出るまでと、先延ばしにすることの危険性について指摘されている。いわゆる成功した生徒(オクラホマ州の公立大学に進学するなど)の半数以上が、基礎学力が欠如しているということで、大学では代数や英語をやり直すという復習クラスに割り当てられてしまったそうである。また、オクラホマ州では、6年以内に卒業できない大学生が半数にも及んでいると書かれている。

しかし本書の中では、アメリカの中でも学校や教員の方法いかんにより、貧困層の子どもたちも成功を収めることができるという事例が幾つか述べられている。中編でも述べたニューヨーク市のサクセス・アカデミーの経営するチャータースクールの最貧困層の子どもたちの成功例もその一つである。それ以外にも、ワシントンDCの公立学校数学教員である、テイラー氏の教育実践が紹介されている。新任教員として赴任した学校では、生徒全員が黒人で、貧困層の子どもが大多数という環境であったが、校長が教育の厳格さの必要性をよく理解していたということである。その一例として「子どもをリュックサックすら持たずに手ぶらで帰してはいけない」という学校の方針があった。この校長より多くのことを学んでいったテイラーは、有能な教員として成長していき、生徒たちは卒業する時点で、全員が学年相当以上の水準に達したと書かれている。また彼自身も、優良教員の評価が3回連続で州より与えられ、給料も大幅アップしたそうである。

このような厳格で真摯な教育を貧困層の子どもたちに実践することで成功を上げている学校が、本書以外でも紹介されている。よく知られているのが、コネチカット州のCapital Preparatory Magnet School(6~12年生対象)であり、メディアでも取り上げられている。貧困層であり、親も大学を出ていないという環境の子どもたちを全員大学に進学させたそうである。またU.S. News and World Report の高校ランキングでは、全米でもトップレベルの高校の1つとして知られている。この学校の創始者で校長のスティーブ・ペリー氏のインタビューを紹介する(参照:https://www.youtube.com/watch?v=3kwOIgtg108)。

教員養成

本書からは、子どもの学力に及ぼす最も大きな影響は、教員養成であることが伺われる。アメリカと対比させながら、韓国とフィンランドの事情が詳しく述べられている。韓国では、以前は2年制大学が教員養成を担っていたが、1980年代より教員養成課程が厳格化されたことにより、小学校教員の養成は、受験生の上位5%しか入学できないような大学に限ったそうである。このような大学は、韓国では10校余りであり、教職につくための最初の段階で入学者をふるい分け、競争率を高め、厳格な教育を行っている。

フィンランドでも同様、教員になるためには、難関の教員養成校のどこかに合格しなければならないということである。そのような大学は、国内に8つしかないらしい。フィンランドの教員養成校のレベルは、アメリカで言えばジョージタウン大学やカリフォルニア大学バークレー校と同等の競争率であり、現在はその競争率はさらに高まり、MIT(Massachusetts Institute of Technology)*3に匹敵する水準に達しているそうである。また、フィンランドで教員養成課程に進むことは、アメリカで医科大学に入学するのと同じぐらい名誉なことである、とも書いている。さらに、2000年のデータでは、フィンランドの新規採用教員は1%の例外なく、全員が高校卒業時に成績上位の3分の1以内に入っている学力の持ち主であるらしい。その当時のアメリカの新規採用教員では、そのような成績上位者の割合はわずか20%にとどまっているということである。

リプリー氏は、アメリカの教員養成校のうち、難関とも言えるのはそのうちのわずか20分の1にすぎない、と言う。「それ以外についてはそもそも入学基準などないに等しい」「いわばアメリカは、飛行機をきちんと着陸させられたことのない人間を飛行訓練士として雇っておきながら、どうしてこんなに飛行機が墜落してしまうんだろうと言っていることになる」という手厳しい評価である。さらにアメリカの大学の中では、教育学部の難易度が低いため、「子どもが好きだと言うのであればたいていはどんな学生でも受け入れることにしている。しかもいったん教育学部に入ってしまえば、高い評価がもらえるうえに、与えられる課題もそれほど難しくない」とも書いている。もちろん教員になりたいという明確な目的をもち、優秀な成績を収める学生も中にはいるであろうが、相対的にみてアメリカの教員養成のレベルが低いことは疑いがない。さらに、アメリカの大学の教員養成のレベルの低さは、国全体で毎年生み出している教員数の多さにもつながり、需要の2.5倍近くにも達するそうである。教員数が増加し、だぶつくことにより、職業としての専門性が低下してしまうという説明である。

ちなみにフィンランドの隣国であるノルウェーは、アメリカと非常に似通っている。フィンランドを上回る教育費をつぎ込んでいるものの、教員になるための競争率は低く、教員養成課程の質もまちまちであるそうである。前編で述べたように、ノルウェーの学力テストの得点は、下落していることと併せて考察すると、教員養成がいかに重要であるかが伺われる。

本書によると、フィンランドの教員は、全員が修士号を取得することが求められているそうである。アメリカの場合では、リプリー氏いわく仮に修士号を取っていても大したことはなく、しかも教員には、それぞれの担当科目に関連した学位(専門性)を求めていない州も多いらしい。そういう学生の場合は、取得するのは教育学の修士号ということになり、修士号をもつことにより専門の科目を教える力量が高いとは必ずしも言えないということが起きてくる。

さらに教員実習の長さについても、本書ではアメリカとフィンランドの違いが書かれている。全国的な平均では、アメリカの教員養成校が求める実習期間は12~15週間だそうである。しかしフィンランドに留学したキムの教員であったティーナ・スタラは、修士課程在学中に1年間実習を行ったらしい。

また教員の研修についても、フィンランドでは、教員同士がお互いの授業実践を見学、教員同士が協力して授業計画を立てるような時間を増やしている。アメリカは年間の授業時間が比較的に短いにもかかわらず、教員間の話し合いや意見交換を行う時間がほとんどない学校が多い、とする。キムのフィンランドでの学校の担任であったスタラ氏は、教育実習では、「三人の指導教員がおり、その生徒たちの授業はつぶさに観察した。自分で授業を行うときには、指導教員や別の実習生たちがメモを取りながら観察した。授業後に受け取る評価文には、附属病院で研修医が受け取る指摘のように手厳しいものがあった」と書かれている。その他、お互いを生徒に見立てて模擬授業を行ったり、学術研究を行い論文を提出することが要求されたということである。

もちろんアメリカの教員養成大学でも、現場の観察や指導が徹底して行われるプログラムや授業もあるであろう。私がミズーリ州立大学でティーチングアシスタントとして担当したクラスでは、学期を通して、自分の担当する実習クラスの子どもの細やかな観察を行い、親へも面接を行いながら、発達ポートフォリオを作成することが要求されていた。幾つもの指導計画を立案したり、担当教員とのミーティングも頻繁に行われた。しかし私の個人的な印象で恐縮であるが、日本の教員養成と違う大きな点として、「省察」ができない学生、自分の教員としての関わりかたを丁寧に振り返り、改善点を考えるという作業ができない学生が多かったのが気になった。自分の反省点が思いつかないという学生が多いことに驚いた。これも、中編で述べた「ほめられすぎた」教育や家庭環境の影響なのであろうか。

しかしリプリー氏は、アメリカの教員の苦労についても、同情的に述べている。他国と異なり、地方分権化という制度による弊害である。教員らは、各州のあげる基準と各地域のあげる基準との間で板挟みになることも珍しくないと書かれている。またそれだけでなく、学年の終わりには、共通テスト対策の指導をしなければならず、このテストの内容自体も、それぞれの州の基準や教育課程とは全く無関係に出題されていることが多い、と言う。前編で紹介したように、アメリカでは共通テストの結果が、教員や学校の評価に直接結びつくため、生徒に悪い点をとってもらうわけにはいかないのである。

さらにアメリカで使用されている教科書は、多くの州、多くの地域の需要を一度に満たせるように執筆されていることから、教科書が必然的に分厚くなってしまうという問題が紹介されている。Schmidtらの国際比較によると、8年生の数学の教科書は、他の先進国では平均で225ページであるが、アメリカでは800ページもあるそうである*4。教科書の始めの方では、前年の復習や、繰り返しになる内容が含まれているため、他国と比較して進度が遅れてしまう。「たとえば分数にしても、賢い国々の子どもたちは3年生から6年生の間に学ぶのに、わが国では1年生から8年生まで毎年学ぶことになってしまう」ということである。アメリカの学校の夏休みが長い(3カ月程)ことを考えると、復習の期間が必要なのも納得はいくが、教師としては苦労する点であろう。

しかし本書の中では、教員養成改革に成功したアメリカのある州の例も紹介されている。ロードアイランド州の事例である。2009年にロードアイランド州の教育長官に就任したジスト氏は、教員志望者が受験する基準点を引き上げたらしい。教師になる難易度を上げることで、職業としての魅力が高まり、結果的に教員志望者が増加し、離職率を抑えることができるという理由である。しかし、テストの成績が低いマイノリティーの学生が教師になる道が閉ざされてしまう、基準点を引き上げると学生数が激減してしまう、などの多くの反対もあったそうである。特にロードアイランド大学教育学部の学部長代理は、基準点の引き上げにより、当学部の教員志望者の85%近くまでが不適格になってしまうと、反対したそうである。対策として、基準点に達していないが教師として有望と考えられる志望者に対しての猶予期間の申請を許可することにしたが、3年間に1件の申請もなかったと書かれている。猶予期間の申請をしなくても、教師になるべき人材やその努力をした人は基準点を満たしたということなのだろう。また基準を上げることで、マイノリティーの教師の割合が減ってしまうという周りの予測に反し、マイノリティ学生が占める割合が微増したことが報告されている。但し、この教員養成改革により、州の学力テストの得点がどのように変化したのかについては、本書には書かれてはいない。

終わりに

この原稿を執筆している最中、新型コロナウイルスの大流行により、アメリカの小中高は休校になった。それだけでなく、学年の終わりに実施される州の共通試験もキャンセルされた。今のような状況下では、たとえオンラインでも全員を対象に試験が行われることは困難であるし、ベストを尽くすことが難しい生徒が多いことを予測してのことであろう。このことから、要求される得点に満たない生徒に対して夏期補習を行ったり、留年させることで、ますます落ちこぼれになることを防ぐといった対策も行われないということなのであろう。

教育予算の削減、地域の治安の悪化など、様々な弊害が予測されるが、最も心配なのは教育格差がさらに広がることなのかもしれない。家庭が裕福で親の教育力も高い場合、家にはコンピューターもあり、オンライン授業を受けたり、親から勉強の手助けを得たりすることも可能である。毎日のタイムスケジュールが作成され、勉強と休息、運動などをバランスよく取り入れながら、自宅隔離という状況の中、有意義な時間を過ごすことが可能である。ところが家庭が貧困で様々な問題を抱えている場合、学校からの課題、特に授業がオンラインで行われる場合は、それに対応することが難しい場合もあろう。渡されたプリントをこなすことはできるのかもしれないが、オンライン学習に対応できるかは家庭環境次第の面があることは否めない。パソコンを購入できるような経済的な余裕があるかどうかだけでなく、家にいる時間が増えることにより、食事が満足に取れない、児童虐待や家庭内暴力を受ける、兄弟姉妹の世話をしなければならない、などというストレスを経験することも考えられる。私の住んでいる地域の学区では、生徒全員にパソコンが行き渡るように、学区から廉価版ノートパソコンが配布され、インターネット会社の配慮で、Wi-Fi環境のない家庭が無料でしばらく使用できるようになったが、そのような恵まれた学区が全てとは限らない。 新型コロナウィルスの流行が一段落し、子どもたちが学校に戻ってきた時の教育現場の混乱は想像に難くない。学力のギャップが例年よりも拡大した子どもたちを対象に、クラスの担当教員はどのように授業を進めていったらよいのであろうか。

しかし本書に照らし合わせて考えてみると、いかに困難な状況であっても、国、学校、子どもたち、家庭が真剣に取り組めば、不可能なことはないのではないか、という気がしてくる。ポーランドの変化がその実例である。旧共産国であったポーランドは、様々な経済面の問題だけでなく、地方では成人の半数が小学校すら卒業していないという状態であったらしい。1997年に教育大臣に就任したミロスワフ・ハントケ氏は、教育制度に厳格さを注入するという意図で、様々な教育改革を行い、その結果ポーランドは、PISAではアメリカを上回る成績を収めるまでに変わったのである。リプリー氏は、3つの国での調査を終え、最終的にアメリカに帰国した際に、悲観よりも楽観の方が強くなったと書いている。教育の目的を明確にし、学校の中に真摯で厳格な文化を築き上げ、子どもたちの潜在能力や教員の能力に対して、多くを期待することにより、今の問題も乗り越えていくことが可能なように考えられるのである。


  • *1 特色あるコースやカリキュラムをもつ公立校であり、学区の境界線を超え、一定地区に住むすべての子どもたちを磁石(magnet)のように引きつけることから、このように命名されている。
  • *2 平均よりも顕著に高い能力をもっている人のための教育、詳しくは拙論文「アメリカのギフテッド教育事情」を参照。
  • *3 MITは、Times Higher Education's World Universityの2020年のランキングでは全米で3位。https://www.timeshighereducation.com/student/best-universities/best-universities-united-states
  • *4 Schmidt, William. Third International Mathematics and Science Study: International Curriculum Analysis, 1992-1995 . Inter-university Consortium for Political and Social Research [distributor], 2013-04-23. https://doi.org/10.3886/ICPSR30601.v2

    参考文献
  • Ripley, A. (2013) The Smartest Kids in the World and How They Got That Way. Simon & Schuster Paperbacks. New York.
  • アマンダ・リプリー(著), 北和丈(訳). 世界教育戦争. 中央公論新社, 2014.

謝辞:アマンダ・リプリー先生、北和丈先生、中央公論新社に、ご著書/翻訳書を本稿にて紹介させていただくことをご許諾いただき、深謝の意を表します。

From The Smartest Kids in the World and How They Got That Way by Amanda Ripley, Simon &Schuster, 2013.
Copyright © 2013 by Amanda Ripley. Reproduced with the courtesy of Amanda Ripley.

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筆者プロフィール
report_porter_noriko_02.jpgポーター 倫子(Noriko Porter)

金沢市出身。1987年より11年間北陸学院短期大学で保育者養成に携わり、国際結婚を経て1998年に渡米。2008年にミズーリ州立大学人間発達家族研究学科博士課程を卒業。現職はワシントン州立大学人間発達学科のインストラクター。2015年より安倍フェロ-として日本における調査研究を実施。テキサス大学医学部の精神医学行動科学学部客員研究員。立命館大学の人間科学研究所客員協力研究員。
保育の分野で幅広く研究を行ってきたが、最近では日米の子育て比較研究が主な専門領域。自閉症児を抱える子どもの親としての体験をもとにして執筆した論文「高機能自閉症児のこだわりを生かす保育実践-プロジェクト・アプローチを手がかりに-」で、2011年日本保育学会倉橋賞・研究奨励賞(論文部門)受賞。

※肩書は執筆時のものです

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