国が豊かになることは、当然のことながら、われわれの生活にとって色々な面で素晴らしい変化をもたらす。最近、学会で旅行した二つの国でそれを実感したので、昔の旅も思い出しながら、ひと筆書くことにする。極東ロシアと中国である。
10月上旬、極東ロシアのハバロフスクに1週間程滞在した。学会は2日間で、友人の70歳のお祝いの会もあったが、切り詰めれば3泊4日程で済む予定だった。しかし、それが1週間にもなったのは、日本からの直行便が新潟から週2便しかなく、上手く日程が合わなかったからである。結果的に、学生への講義、病院訪問、それにテレビ出演、さらには夜の音楽会、週末のピクニックなどがあり、忙しい1週間となった。
極東ロシア・ハバロフスクとの御縁は、国立小児病院時代に白血病のお子さんを病院で治療したことに始まる。当時はソビエト連邦時代で、経済的に困窮しており、医療も例外でなく、色々な事情があったことに違いない。とはいっても、さすがは資源大国、入院にかかった費用はきちんと現金で支払われた。
しかし、色々な面で大変なことには違いなく、患者さんがわざわざ来るより、医師が交流してお互いに医療レベルを高める方が現実的であると考えるようになり、ハバロフスクの小児科医とわれわれとの交流が始まった。したがって、80年代のソ連邦時代に2回程、ロシア連邦になった2000年代に入って2回と、少なくとも4回はハバロフスクに行っている。その間、ハバロフスクからは、私の友人も含めて小児科医が2回は東京に来ている。
ソ連邦からロシア連邦の時代となり、国の豊かさが格段に上がったことは周知の通りである。ハバロフスクの街もきれいになり、デパートの商品が多彩になり、店内もお客さんで賑やかになった。教会の玉ねぎ型の屋根が金色に輝くようになったことも印象的であった。また、尾籠な話で恐縮であるが、大学も病院もトイレがきれいになった。そしてなにより、街を歩く人の顔が明るく輝いていた。最初に行った頃は、大学教授の月給の支払いも遅れたりするような状態で、ウォッカのグラスを傾けながら話し合った時に「日本に占領してもらいたい」などと笑えない冗談が出た程、ひどかったのである。
中国も、訪問回数はゆうに2ケタ位になると思うが、北京・上海・広東・漢口・杭州・長春・長沙などを、初めは小児科学、特にアレルギー学関係の学会、最近は子ども学の学会で訪問している。ここ数年は上海に行くことが多く、今回は、子ども学交流でこの11月上旬に3泊4日訪問した。
中国が、わが国の経済に追いつき追い越して、今や世界をリードしているのは周知の通り。しかし、1978年に開放政策を取り始めて間もなく、小児アレルギー学の専門家として初めて中国の北京を訪問した際は、北京飯店に宿泊したが、電灯は暗く、受付の女性はお客そっちのけでお喋りばかりしていて、最高級のホテルとしては設備も接客態度もひどかった。街も、自動車よりは自転車が多く、まだまだ貧しさが目立っていた。
1980年代に入って、国際小児科学会会長として、理事と一緒に北京を訪問し、中国小児科学会の代表に学会入会を勧める旅をしたが、ホテルの条件は多少の改善がみられただけであった。2001年に国際小児科学会、2008年にはオリンピックが開かれるようになり、国際化するにつれて、北京も上海も街並みがきれいになり、ホテルも明るく、そこで働く人の接遇態度も良くなってきた。特に強く印象に残っているのは、街全体に車が溢れ、活気に満ち、ハバロフスクと同様、街で出会う人の顔が明るく、身なりも良くなったことである。
しかし、今回の上海への旅で、街全体としてみると、豊かさの実感がロシア連邦と比べると何となく弱いように感じた。来年の国際博覧会(万国博覧会)に向けて街のあちこちで工事が進められ、立派な高層ビルがマッシュルームのようにニョキニョキと立ち上がっているが、庶民の住んでいる路地の奥までは豊かさが染み込んでいないように見えた。中国の経済力は、国全体としてみると世界のトップランナーであるが、人口13億のひとりひとりでみると、まだまだ世界で100位以下と計算されるそうである。そんなことが反映されているのかもしれない。
考えてみると、わが国も同じだった。昭和の初めに生まれた私の世代は、戦前の貧しい生活、続いて敗戦による荒廃、1960年代に入ってから急速に豊かになる流れを経験してきた。その時の衣食住の変化を思い出しても、ロシアや中国の流れと同じである。今、わが国の経済が色々と言われているが、何とか豊かさを保ち、ひとりひとりの国民に行き渡るようにして頂きたいものである。ロシアの人々も中国の人々も、思いは同じではないだろうか。