娘の自立と親との対立
1月4日(月)午前9時20分
「明けましておめでとうございます!」
正月休みが明けて、2011年の最初の登園日です。娘は、すっかり正月の挨拶が板について、保育園の先生方へも元気に挨拶しています。そして、「お正月にお餅を食べて、お年玉をもらったの」と、先生方に早速報告をしています。そのような娘の姿を見ると、着実に成長しているのだなということを改めて実感します。
1月4日(月)午前9時20分
「明けましておめでとうございます!」
正月休みが明けて、2011年の最初の登園日です。娘は、すっかり正月の挨拶が板について、保育園の先生方へも元気に挨拶しています。そして、「お正月にお餅を食べて、お年玉をもらったの」と、先生方に早速報告をしています。そのような娘の姿を見ると、着実に成長しているのだなということを改めて実感します。
この数ヶ月を振り返ると、それまで以上のペースで急速に娘が成長しているように感じられます。それは、自立心が非常に強くなってきており、どんなことに対しても自分の意思を通そうとする態度に表れています。特に、親から何かを言われて行動するということに強い抵抗感を抱いているようです。この日記でも以前に、「魔の2歳児」のときに現れた第一次反抗期について書きましたが(第2回 「相互理解は可能か」)、いま振り返るとあのころの反抗はたいしたことはなかったなと思います。かつては、親が命令口調で何かを言うと嫌がって従わない態度をとっていたのですが、いまではそのような態度に加えてさまざまな理屈を言ったり、言い訳をしたりするようになったのです。そして、それらのセリフがなかなかに的確かつ論理的であり、説得力を持っていたりするため、こちらとしてもそれ以上に言えなくなってしまうことがしばしば起こります。
たとえば、昨年の夏ごろまでは、おもちゃなどで遊んだ後にきちんと片づけをしていないので注意すると、比較的素直に片づけをしていました。しかし最近では、そのような注意をすると、「いまやろうとしていたの!」と言ったり、「~をしているから、あとで片づけるの!」と言ったりして、なかなか片づけをしようとしません。そんなときの様子を見ていると、どうも本人は片づけなければいけないことは分かっているようなのですが、親から注意されて行動するということが嫌なようです。その証拠に、たまに私が黙っておもちゃを片づけたりしていると、側に寄ってきて一緒に片づけに参加するのです。確かに、大人でも頭ごなしに命令されると良い気持ちはしません。娘にしても、片づけをしなければいけないことは分かっているのですから、もう少し娘に寄り添うような姿勢で言わなければいけないのだなと痛感します。とはいえ、これがそう簡単には実践できないのですが...。
私自身がそうでしたが、自分の胸に手をあてて、自分が子どもだったころのことを振り返ってみれば、親から頭ごなしに言われると素直に言うことを聞けず、頑なに反発した経験がおありの方も多いのではないかと思います。
しつけにおける体罰
娘が言うことを聞かなくて、反抗したりすると、私の方がムカッとすることもよくあります。ときには、娘が思うように行動してくれず、言うことを聞かせようとして手を振り上げそうになる自分がいたりします。しかし、そんなときに、自分が教育学者で良かったなと思うのです。自分が娘に対して体罰を加えそうになる瞬間に、「いやいや、僕は教育学者なのだから、体罰だけはダメでしょう」と自らに言い聞かせ、振り上げかけた手を下ろすのです。私は、教育学を学ぶ中で考えてきたことを、子育ての実践に十分に活かすことができずにいるのですが、こういった瞬間には、教育学を勉強してきて良かったなとつくづく思います。
ところで、こういった場面では本来ならば、「僕は『父親』なのだから、体罰なんかに頼ってはダメでしょう」と言わなければいけないところなのでしょうが、親も人間です。どんな親でも、感情が高ぶったり、ストレスが溜まって上手く気持ちをコントロールできない場面もあることと思います。多くの親が、子どもに対して手を振り上げそうになった経験を持っているのではないでしょうか。また、実際に子どもを叩いてしまった経験を持っている親も、少なくないのだと思います。
しかし、体罰は、基本的に何の解決にもなりません。さまざまな調査研究の結果を見ても、体罰の効能というものは否定されています。
たとえば、アメリカのデューク大学児童・家族政策センター(The Duke University Center for Child and Family Policy)が行った国際調査の結果は非常に興味深いものです(論文はこちらから閲覧可能)。この調査は、中国、インド、イタリア、ケニア、フィリピン、タイといった、子育てに対する考え方やしつけの文化などが異なる国々で、6-17歳の子どもとその母親たちを対象として行われました(基本的に、各国の中産階級家庭の親子で、民族的にはその国の少数民族ではないということが、対象者の条件とされました。また、対象となった親子の94%が生物学的な親子であり、残りは養子関係であったり、親族が保護者を務めていたりしていました。)
調査の結果、いずれの国においても、しつけの一環として体罰(physical discipline)を用いる頻度が高いほど、そういった体罰を受けた子どもの行動が攻撃的なものになったり、感情が不安定になったりしやすくなると予想されることが分かりました。ちなみに、しつけの一環として体罰を用いる頻度は、調査国の中ではケニアやイタリアで高く、タイや中国では低い傾向にあるとのことです。確かに、第9回「親としての心の余裕(後編)」でお伝えしたように、ケニアの学校で先生方が鞭を使ったしつけをしているのを私も目撃しましたが、ああいった光景も社会的に許容されているからこそだと思います。ただし、各国内においての対象者たちの間の多様性もあるため、「この国はどうで、あの国はこうだ」といった単純な一般化をし過ぎないように留意する必要もあります。
また、この調査では、しつけの一環として体罰を用いることが社会的・文化的にある程度許容されていると考える国の方が、そうでない国よりも、子どもがこうした行動面や情動面での問題を抱える可能性は低いといったことも分かったようです。とはいえ、このことは社会的・文化的に体罰を許容していれば体罰を加えて良いということを意味するわけでは決してないと、論文の中でも強調されています。むしろ、こうした文化的な違いをきちんと理解しておくことが、たとえば体罰が比較的容認されていた国からそうではない国へとやって来た移民の家族への子育て支援を考える際に、重要であると指摘しています。子どもへの体罰に対して厳しい姿勢をとっているアメリカの大学がこの研究を主導した背景には、こうした問題への関心があるのだろうと思います。
第9回で少し触れたように、アメリカでも、『トム・ソーヤ―の冒険』などの時代には鞭を使った体罰が広く行われていたようですが、今日ではかなり厳しくタブー視されていると思います。そんな中、祖国では一般的に行われていたこととして、子どもの頭をげんこつでこづくとか、お尻を叩くといった行為を行うと、アメリカでは体罰としてみなされてしまうかもしれません。そこには、もしかすると、非常にエスカレートした児童虐待が、アメリカにおいて実際に行われているケースがかなりあるため、そうした状況への予防を徹底しようという意識が働いている面もあるのではないかと思います。また、昨年出席したユネスコ主催の「世界幼児教育会議」で基調講演をしたハーバード大学のジャック・ションコフ教授が示した調査結果の中にも、犯罪歴の多い人(35歳の時点で3回以上の服役歴)の中には、幼少期に虐待を受けた経験を持つ者が多いといったデータも示されていました。そもそも、こういったデータを収集するということは、児童虐待を社会問題として広く捉えようとするアメリカ社会の意識が根底にはあるように思われます。(厳密には、「体罰」と「児童虐待」を同義に語ることはできませんが、その2つの行為の間には通底するものがあると思います。)
体罰や虐待に対するアメリカの姿勢という意味では、私も娘が1歳になる前後に家族でアメリカに滞在した際、少し心配をしました。なぜなら、東アジアの子どもによく見られる蒙古斑が白人の子どもなどにはあまり見られないことから、アメリカに居住する日本人家庭の中で、風邪などをひいた子どもを医者に診てもらった際に青あざだと思われ、児童虐待と間違われるケースがあるという話をよく耳にしたからです。娘の蒙古斑は小さなものですし、虐待されてできたあざにはどうみても思えないだろうとは感じたのですが、一抹の不安を覚えたのも事実でした。幸い、娘がお医者さんにかかるような病気をすることもなく、何度か熱を出したぐらいで基本的に元気に過ごしてくれたので杞憂に終わりました。
子育てを通した「親」としての成長
子どもは、日々成長しています。それと同時に親も成長しているのだと思います。しかし、私も含めて多くの親は、変化していく状況に柔軟に対応することが、スムーズにはできないのかもしれません。だから、自分の言うことを聞かない子どもを前にしたときに、感情的になってしまうのではないでしょうか。
子どもを「叱る」という行為は、とても大切なことだと思います。人として、共同体の一員として、子どもが社会的なルールを身に付けていくために、親はきちんと「叱る」ことが必要なのは言うまでもありません。しかし、頭ごなしに「怒る」前に、子どもが何を考えているのか、何を感じているのか、なぜそのような行為をしたのか、少し親の側が立ち止まって、子どもの心を感じてみることも必要なのだと思います。すると、遊びに熱中していたり、興味深いことが起こっていてそれに気を取られたりしているために、親の言うことが耳に入っていない、などという状況が見えてくるのではないでしょうか。あるいは、親が頭ごなしに指図をしようとするために、理不尽に感じているのかもしれません。
私の娘を見ていても、親の言うことに対しては反発したりするのですが、家の外では周囲の人によく気を遣ったり、年下の子に優しい態度をとってあげたりしています。保育園での様子などを伺っても、自分より小さな子におもちゃを譲ってあげるといったことをしているようなので、決して自己中心的でわがままなわけではなく、状況や相手によってきちんと態度を使い分けているのだと思います。
また、心根の優しさを感じるのは、保育園の帰りに妻がある坂道で娘を後ろに乗せて自転車を一生懸命立ちこぎをしながら進んでいると、いきなり娘から言われた次の言葉からです。 「ママみたいな『男』になったら、ママを自転車に乗せてあげるね」
これは、どうも「ママみたいな『大人』になったら」と言いたかったようなのが愛嬌ですが、仕事帰りに娘を迎えに行った妻に対して、いたわりの言葉をかけることができるようになったのだと、とても嬉しくなりました。そんな様子を見ていると、体罰なんかを加えなくても、周りの大人が一生懸命に生きている様子を子どもたちに見せたり、子どもに対して真剣に向き合う姿勢を親が忘れないといったことが、しつけにおいては最も大切なのではないかと改めて感じさせられます。
こうして、自立心が芽生えて、親に対して反発したりしながらも、人のことを思いやったり、他の子に優しい態度で接したりと、娘は確実に成長しています。そんな娘にとって、最近の最もお得意のセリフが、「もうすぐ4歳!」です。3歳の娘は、2011年4月で4歳になります。そのため、11月ごろから誰かに年齢を聞かれるたびに、「3歳」ではなく、「もうすぐ4歳!」と得意気に答えています。こんな、少し背伸びをした姿からも、娘の成長を感じるのです。ちなみに、娘が少しでも自分を年上に見せようとするのに反比例して、親の方は少しでも自分が若く見えるようにと考えるのかもしれません...(十分歳をとったときには、今度は若くなりたいと考えるのですから、人間は勝手な生き物ですね)。
また、子どもの成長を通して、親としての自分も少しずつ成長しているのかもしれないと感じます。この日記の第1回「初めてのお泊り?」では、たかだか1泊2日の妻の出張に際してドキドキしていたのですが、昨年の11月には何と、妻が8泊9日の海外出張に出かけました。どうなることかと内心不安を抱えてはいたのですが、娘の方は立派に自立心を発揮して、「ママはお仕事だからお家にいないの」と言って、寂しそうな様子も見せず健気にがんばっていました。そして、娘と一週間2人で過ごしたことで、私も父親としての自信が少し持てたように思います。こうやって成長している娘と接しながら、父親としての自分も成長しているのだろうなと思うのです。
そんなこんなで、2011年も娘に振り回されながら、娘の成長を見守りつつ、自らも日々新たな発見をしながら成長していければと思っています。
たとえば、昨年の夏ごろまでは、おもちゃなどで遊んだ後にきちんと片づけをしていないので注意すると、比較的素直に片づけをしていました。しかし最近では、そのような注意をすると、「いまやろうとしていたの!」と言ったり、「~をしているから、あとで片づけるの!」と言ったりして、なかなか片づけをしようとしません。そんなときの様子を見ていると、どうも本人は片づけなければいけないことは分かっているようなのですが、親から注意されて行動するということが嫌なようです。その証拠に、たまに私が黙っておもちゃを片づけたりしていると、側に寄ってきて一緒に片づけに参加するのです。確かに、大人でも頭ごなしに命令されると良い気持ちはしません。娘にしても、片づけをしなければいけないことは分かっているのですから、もう少し娘に寄り添うような姿勢で言わなければいけないのだなと痛感します。とはいえ、これがそう簡単には実践できないのですが...。
私自身がそうでしたが、自分の胸に手をあてて、自分が子どもだったころのことを振り返ってみれば、親から頭ごなしに言われると素直に言うことを聞けず、頑なに反発した経験がおありの方も多いのではないかと思います。
しつけにおける体罰
娘が言うことを聞かなくて、反抗したりすると、私の方がムカッとすることもよくあります。ときには、娘が思うように行動してくれず、言うことを聞かせようとして手を振り上げそうになる自分がいたりします。しかし、そんなときに、自分が教育学者で良かったなと思うのです。自分が娘に対して体罰を加えそうになる瞬間に、「いやいや、僕は教育学者なのだから、体罰だけはダメでしょう」と自らに言い聞かせ、振り上げかけた手を下ろすのです。私は、教育学を学ぶ中で考えてきたことを、子育ての実践に十分に活かすことができずにいるのですが、こういった瞬間には、教育学を勉強してきて良かったなとつくづく思います。
ところで、こういった場面では本来ならば、「僕は『父親』なのだから、体罰なんかに頼ってはダメでしょう」と言わなければいけないところなのでしょうが、親も人間です。どんな親でも、感情が高ぶったり、ストレスが溜まって上手く気持ちをコントロールできない場面もあることと思います。多くの親が、子どもに対して手を振り上げそうになった経験を持っているのではないでしょうか。また、実際に子どもを叩いてしまった経験を持っている親も、少なくないのだと思います。
しかし、体罰は、基本的に何の解決にもなりません。さまざまな調査研究の結果を見ても、体罰の効能というものは否定されています。
たとえば、アメリカのデューク大学児童・家族政策センター(The Duke University Center for Child and Family Policy)が行った国際調査の結果は非常に興味深いものです(論文はこちらから閲覧可能)。この調査は、中国、インド、イタリア、ケニア、フィリピン、タイといった、子育てに対する考え方やしつけの文化などが異なる国々で、6-17歳の子どもとその母親たちを対象として行われました(基本的に、各国の中産階級家庭の親子で、民族的にはその国の少数民族ではないということが、対象者の条件とされました。また、対象となった親子の94%が生物学的な親子であり、残りは養子関係であったり、親族が保護者を務めていたりしていました。)
調査の結果、いずれの国においても、しつけの一環として体罰(physical discipline)を用いる頻度が高いほど、そういった体罰を受けた子どもの行動が攻撃的なものになったり、感情が不安定になったりしやすくなると予想されることが分かりました。ちなみに、しつけの一環として体罰を用いる頻度は、調査国の中ではケニアやイタリアで高く、タイや中国では低い傾向にあるとのことです。確かに、第9回「親としての心の余裕(後編)」でお伝えしたように、ケニアの学校で先生方が鞭を使ったしつけをしているのを私も目撃しましたが、ああいった光景も社会的に許容されているからこそだと思います。ただし、各国内においての対象者たちの間の多様性もあるため、「この国はどうで、あの国はこうだ」といった単純な一般化をし過ぎないように留意する必要もあります。
また、この調査では、しつけの一環として体罰を用いることが社会的・文化的にある程度許容されていると考える国の方が、そうでない国よりも、子どもがこうした行動面や情動面での問題を抱える可能性は低いといったことも分かったようです。とはいえ、このことは社会的・文化的に体罰を許容していれば体罰を加えて良いということを意味するわけでは決してないと、論文の中でも強調されています。むしろ、こうした文化的な違いをきちんと理解しておくことが、たとえば体罰が比較的容認されていた国からそうではない国へとやって来た移民の家族への子育て支援を考える際に、重要であると指摘しています。子どもへの体罰に対して厳しい姿勢をとっているアメリカの大学がこの研究を主導した背景には、こうした問題への関心があるのだろうと思います。
第9回で少し触れたように、アメリカでも、『トム・ソーヤ―の冒険』などの時代には鞭を使った体罰が広く行われていたようですが、今日ではかなり厳しくタブー視されていると思います。そんな中、祖国では一般的に行われていたこととして、子どもの頭をげんこつでこづくとか、お尻を叩くといった行為を行うと、アメリカでは体罰としてみなされてしまうかもしれません。そこには、もしかすると、非常にエスカレートした児童虐待が、アメリカにおいて実際に行われているケースがかなりあるため、そうした状況への予防を徹底しようという意識が働いている面もあるのではないかと思います。また、昨年出席したユネスコ主催の「世界幼児教育会議」で基調講演をしたハーバード大学のジャック・ションコフ教授が示した調査結果の中にも、犯罪歴の多い人(35歳の時点で3回以上の服役歴)の中には、幼少期に虐待を受けた経験を持つ者が多いといったデータも示されていました。そもそも、こういったデータを収集するということは、児童虐待を社会問題として広く捉えようとするアメリカ社会の意識が根底にはあるように思われます。(厳密には、「体罰」と「児童虐待」を同義に語ることはできませんが、その2つの行為の間には通底するものがあると思います。)
体罰や虐待に対するアメリカの姿勢という意味では、私も娘が1歳になる前後に家族でアメリカに滞在した際、少し心配をしました。なぜなら、東アジアの子どもによく見られる蒙古斑が白人の子どもなどにはあまり見られないことから、アメリカに居住する日本人家庭の中で、風邪などをひいた子どもを医者に診てもらった際に青あざだと思われ、児童虐待と間違われるケースがあるという話をよく耳にしたからです。娘の蒙古斑は小さなものですし、虐待されてできたあざにはどうみても思えないだろうとは感じたのですが、一抹の不安を覚えたのも事実でした。幸い、娘がお医者さんにかかるような病気をすることもなく、何度か熱を出したぐらいで基本的に元気に過ごしてくれたので杞憂に終わりました。
子育てを通した「親」としての成長
子どもは、日々成長しています。それと同時に親も成長しているのだと思います。しかし、私も含めて多くの親は、変化していく状況に柔軟に対応することが、スムーズにはできないのかもしれません。だから、自分の言うことを聞かない子どもを前にしたときに、感情的になってしまうのではないでしょうか。
子どもを「叱る」という行為は、とても大切なことだと思います。人として、共同体の一員として、子どもが社会的なルールを身に付けていくために、親はきちんと「叱る」ことが必要なのは言うまでもありません。しかし、頭ごなしに「怒る」前に、子どもが何を考えているのか、何を感じているのか、なぜそのような行為をしたのか、少し親の側が立ち止まって、子どもの心を感じてみることも必要なのだと思います。すると、遊びに熱中していたり、興味深いことが起こっていてそれに気を取られたりしているために、親の言うことが耳に入っていない、などという状況が見えてくるのではないでしょうか。あるいは、親が頭ごなしに指図をしようとするために、理不尽に感じているのかもしれません。
私の娘を見ていても、親の言うことに対しては反発したりするのですが、家の外では周囲の人によく気を遣ったり、年下の子に優しい態度をとってあげたりしています。保育園での様子などを伺っても、自分より小さな子におもちゃを譲ってあげるといったことをしているようなので、決して自己中心的でわがままなわけではなく、状況や相手によってきちんと態度を使い分けているのだと思います。
また、心根の優しさを感じるのは、保育園の帰りに妻がある坂道で娘を後ろに乗せて自転車を一生懸命立ちこぎをしながら進んでいると、いきなり娘から言われた次の言葉からです。 「ママみたいな『男』になったら、ママを自転車に乗せてあげるね」
これは、どうも「ママみたいな『大人』になったら」と言いたかったようなのが愛嬌ですが、仕事帰りに娘を迎えに行った妻に対して、いたわりの言葉をかけることができるようになったのだと、とても嬉しくなりました。そんな様子を見ていると、体罰なんかを加えなくても、周りの大人が一生懸命に生きている様子を子どもたちに見せたり、子どもに対して真剣に向き合う姿勢を親が忘れないといったことが、しつけにおいては最も大切なのではないかと改めて感じさせられます。
こうして、自立心が芽生えて、親に対して反発したりしながらも、人のことを思いやったり、他の子に優しい態度で接したりと、娘は確実に成長しています。そんな娘にとって、最近の最もお得意のセリフが、「もうすぐ4歳!」です。3歳の娘は、2011年4月で4歳になります。そのため、11月ごろから誰かに年齢を聞かれるたびに、「3歳」ではなく、「もうすぐ4歳!」と得意気に答えています。こんな、少し背伸びをした姿からも、娘の成長を感じるのです。ちなみに、娘が少しでも自分を年上に見せようとするのに反比例して、親の方は少しでも自分が若く見えるようにと考えるのかもしれません...(十分歳をとったときには、今度は若くなりたいと考えるのですから、人間は勝手な生き物ですね)。
また、子どもの成長を通して、親としての自分も少しずつ成長しているのかもしれないと感じます。この日記の第1回「初めてのお泊り?」では、たかだか1泊2日の妻の出張に際してドキドキしていたのですが、昨年の11月には何と、妻が8泊9日の海外出張に出かけました。どうなることかと内心不安を抱えてはいたのですが、娘の方は立派に自立心を発揮して、「ママはお仕事だからお家にいないの」と言って、寂しそうな様子も見せず健気にがんばっていました。そして、娘と一週間2人で過ごしたことで、私も父親としての自信が少し持てたように思います。こうやって成長している娘と接しながら、父親としての自分も成長しているのだろうなと思うのです。
そんなこんなで、2011年も娘に振り回されながら、娘の成長を見守りつつ、自らも日々新たな発見をしながら成長していければと思っています。