妻のいない週末
9月12日、土曜日、午後3時5分。
娘が、ようやくお昼寝をしてくれました。そーっとベッドに寝かせ、寝室と隣り合う居間に移動して、隣の部屋の寝息に耳をすませながらノートブック・パソコンを立ち上げました。お昼寝をさせるまでに30分ぐらい抱っこをさせられていて疲れたので、できればソファーに寝転がりたいところなのですが、この貴重な時間を逃してなるものかと自分に鞭打ってこの文章を書いています。これから、どのくらい寝ていてくれるだろうか。1時間、それとも2時間? 今この瞬間にも、お昼寝をしているわが子の傍らで、日本中の多くの子育てママやパパが、同じようなことを感じているのではないでしょうか。
今朝から、研究者である妻が、久しぶりの学会に出席するために大阪出張に出かけていきました。そのため、今夜は、娘が生まれてから初めて、私と娘の2人だけで夜を過ごすことになるのです。自宅にいるのですから、正しくはこれを「お泊り」とは言わないのでしょうが、私の気分としては「初めてのお泊り」といった感じです。普段もときどき私一人で娘の面倒をみてはいるのですが、妻が泊まりがけで家を留守にするのは今日が初めてなので、何だかドキドキして、自分でも緊張しているのが分かります。それと同時に、しばしば出張で家を空ける自らの身を振り返り、私が出張する度に妻はこんな感覚を味わっているのだろうかと、思いをめぐらせたりもしています。おそらく彼女も、娘が2歳半になったこの頃では、そんな風に感じることは少ないのかもしれませんが、新米ママだった頃にはきっと緊張しながら娘と2人で留守番をしていたのかもしれないですね。
こうして娘と2人きりで過ごす週末の午後にこの日記を書き出すことは、とても相応しいことのように思え、昼下がりの眠気と闘いながら、パソコンのキーボードをとにかく叩いています。
教育学者 or 父親
私は、教育学者です。もう少し詳しく説明すると、教育がまだ十分に普及していない東南アジアや南アジアの開発途上国と呼ばれる国々(とくにカンボジアやバングラデシュ)を研究対象として、それらの国がどのように教育政策をつくったり、実際に政策を実施したりしているのかを、社会学的な手法などを用いながら分析しています。こうした研究は、日本では比較的新しい領域として捉えられていますが、基本的には比較教育学と呼ばれる学問分野のなかに位置づけられています。したがって、私の肩書きは、もう少し具体的に言えば、比較教育学者ということになります。
それと同時に、私は、2歳半になる娘の父親でもあります。娘が生まれたのは私が35歳のときですから、決して若い父親ではありませんが、最近は30代で親になる人たちも多いので、特別「オヤジ」というわけでもないかと思っています(そう思っているのは自分だけかもしれませんが)。ちなみに、私の父も、私と私の双子の兄が生まれたときは35歳でした。とは言っても、7歳上と5歳上の兄たちの後に私たちは生まれたので、私の両親はすでに子育てのプロだったと思います。したがって、その頃の父は、新米パパの私とは全く違う心持ちで、幼い私たちを見ていたのでしょう。なお、私の両親は、3人目の子どもとして娘が欲しかったようですが、何と2人も男の子が生まれてしまったのは、ご愁傷さまとしか言いようがありません...(男4人兄弟という家族構成の反動なのか、私は娘が欲しいなとずっと思っていましたので、娘が生まれたときにはやはり喜びもひとしおでした)。
また、私の妻は、ヨーロッパ(とくにフランス)の移民問題などを研究している政治社会学者で、現在は子育てをしながら大学の非常勤講師をしています。したがって、基本的には妻が子育ての大部分を担当し、妻が大学に教えに行くときには保育園の一時保育も利用したり、週末などはできるだけ私も娘の相手をしたりといった生活を送っています。この「日記」では、そうした子育てをしながら日々感じることを、教育学の研究者としての視点を交えながら、綴っていきたいなと思っています。とくに、日本の子育てに関してのみならず、アジアをはじめとする各国でどのような子育てや教育が行われているのかといったことも、私が研究などで訪れる国々と日本の状況を比較しながら、お話をしていければと思っています。
そうしたなかで、教育学者としての視点と父親としての視点が混在してしまう予感がありますので、私自身、実は少々不安もあるのですが、同時にどのような関心を自分がもっているのかに改めて気づくチャンスでもあると考え、楽しみにもしています。月に1度のペースで1年間を目途に連載させていただこうと思っていますので、お付き合いの程をどうぞよろしくお願い致します。
平和と教育
昨日は、8年前にニューヨークで同時多発テロが起こった日でしたが、それ以来(いやその以前から考えてもかなりの長期間にわたり)、世界中で戦争が行われていない日は一日もないのではないでしょうか(あるいは人類史上、そのような日は一日もないのかもしれません...)。なぜ、人々は争い合い、傷つけ合うのでしょうか。教育を考える際の出発点は、やはり一人ひとりの「生命の重さ」というものに、心を向けることだと思います。すでに多くの人がご存じかとは思いますが、「戦争は人の心のなかで生まれるものであるから、人の心のなかに平和のとりでを築かなければならない」という一文で始まる国連教育科学文化機関(ユネスコ)の憲章の前文は、教育の普及や異文化の尊重などを通して平和な世界を実現することの重要性を謳っています。注)
私は、平和を愛する心を人々のなかに育み、そうした人々が力を合わせて民主的な社会を実現していくうえで、教育が果たすべき役割は非常に重要だと考えています。娘が生まれたことによって、この子が大人になったとき、そして娘の子どもたちの世代やその先の世代に思いを馳せることが現実味を伴って感じられ、教育を通して人々の相互理解が深まることを願う気持ちがさらに一層強くなりました。
ちなみに、私は大学の教壇に立つ前は、ユネスコに勤務していました。ユネスコでは、途上国の基礎教育を充実させるための政策づくりに関わる仕事をしていたのですが、日本に帰ってきて驚いたことが「ユネスコ=世界遺産」というイメージが広く浸透していたことです。もちろん、多くの方が世界遺産に関心をもつということは素晴らしいことです。世界遺産に認定されている遺跡・景観・自然などが、人類にとっての「顕著な普遍的価値」をもつものであることについては、多くの方がよくご理解をされていると思います。それらには、素晴らしい芸術性や希少性などが認められることは言うまでもないのですが、それだからといってなぜわざわざ世界遺産として登録し、保護・管理をしなければならないのでしょうか。そして、憲章の前文が象徴するように平和な国際社会を実現することを目指して設立されたユネスコが、なぜ世界遺産の登録に関して責任を負っているのでしょうか。
このことを考えるうえで、「負の世界遺産」と呼ばれる文化遺産について知ることがとても重要だと思います。この世界で二度と同じような悲劇が繰返されることのないようにという願いが込められているこれらの遺産には、広島の原爆ドーム、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所、奴隷貿易の拠点であったゴレ島、マンデラ大統領が投獄されていたロベン島、タリバーン政権によって破壊されたバーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群などを挙げることができます。たとえば、バーミヤンの大仏が破壊されたのは、記憶にまだ新しいことでしょう。もともとバーミヤン渓谷の景観と遺跡群が世界遺産に登録申請されたのは1980年代でしたが、アフガニスタンの内戦が起こったことによって登録が見送られてしまいました。その後、タリバーン政権の崩壊後に登録が実現するのですが、残された仏像や壁画がもつ文化的価値の高さとともに、失われた2体の大仏がかつて立っていた壁面の空間にも重要な意味があると考えられます。すなわち、単に芸術的価値といった面からだけではなく、すでに存在しないからこそ、これらの仏像には価値があるのではないでしょうか。二度と同じような悲劇を繰り返さないためには、異なる文化を尊重し合う心を人々のなかに育むことが大切であり、そうしたことを常に思い出させてくれるものとしての価値が、バーミヤン渓谷にはあるのだと思います。
このように考えてみると、平和を希求することを大いなる使命とするユネスコが、世界遺産という事業を推進していることの意味も、自ずと明らかになると思います。つまり、単に芸術性や希少性といった観点にのみ価値を見いだすのではなく、さまざまな世界遺産について知ることを通して、異なる文化を尊重し合い、それぞれの文化に普遍的な価値があることを認め合うようになることが、私たちには求められているのではないでしょうか。そのため、教育の普及や異文化理解の促進を担っているユネスコこそが、世界遺産の事業を推進するのに相応しい国際機関なのだと思います。
私自身がユネスコに対する思い入れをもっているため、思わず子育てとは直接的には関係のない話を随分してしまいました。娘が生まれてから、こうした平和に関する問題を、いままで以上に考えるようになった自分がいます。それは、教育学者としての自分が抱えている問題関心にもとづくものでもあるのですが、むしろ娘が平和な世界で育っていって欲しいという、父親としての率直な感情から湧き出てくるもののように思えます。
いかなる国においても、異なる価値観や考え方をもつ人々が集まって社会が構成されているなかで、平和な社会を実現するためには相互理解や相互信頼を深めることが欠かせないことは言うまでもありません。これは、国と国の間でもそうですし、一つの国のなかでも同様だと思います。とりわけ、私が研究対象にしている途上国の多くは、多文化・多民族・多言語・多宗教の社会であり、こうした問題を常に突きつけられています。こういったことについても、この連載のなかでこれから少しずつ触れていきたいと思っています。
ベビーシッター制度の活用
何だか抽象的な話を続けてしまいましたが、子育ての話題に戻りたいと思います。
多様な社会という意味では、子育てのあり方をとっても、国によって随分といろいろな考え方があることは、ご承知の通りかと思います。たとえば、子育て支援の大きな味方が、ベビーシッターさんたちです。日本ではまだそれほど一般的ではないかもしれませんが、最近、少しずつ増えているのではないでしょうか。これまで私が生活したことのあるいくつかの国では、シッターさんの存在がかなり一般的でした。
たとえばアメリカでは、多くの人が上手にベビーシッターを活用していることは、周知の通りです。しかし、在米日本人の方々を見てみると、ベビーシッターの仕組みそのものに慣れていないため、シッターさんに子どもを預けることを躊躇してしまう人たちも多いようです。実は私自身も、昨年、妻と娘と一緒にアメリカに研究滞在をしていた際に、シッターさんに子守りをお願いすることを検討してみましたが、何となく不安になって結局一度も利用することはありませんでした。というのも、ときどきベビーシッターが子どもを虐待したりする映像がニュースで流れたりして、不安をかきたてられてしまったためです。ベビーシッターは大学生・大学院生にとっては非常に身近なアルバイトですし、基本的にほとんどのシッターさんは責任をもって子どもたちの面倒をみてくれることは、よく理解しています。しかし、もう少し子どもが大きくなって、親が留守の間にシッターさんとの間でどのようなことがあったのかなどをお話してくれるようになるまでは...、などと考えてしまったのです。いまになって振り返ると、滞米中に勤務していた大学院の学生さんなどにお願いすれば良かったかなと、少々後悔したりしています。
また、フランスでは、ママさん友達の間でベビーシッターを共有することが広く行われていました。ひとつの家族で1人のシッターさんを雇うと高くついてしまいますが、同じぐらいの年齢の子どもをもった2~3家族でお願いすることによって、1家族あたりの負担がかなり軽くなります。それから、フランスらしいといえば、シッターさんにはアフリカからの移民の女性たちが多く、白人の子どもたちをベビーカーに乗せた黒人のシッターさんたちが、おしゃべりしながら散歩をしている姿をよく見かけました。基本的にフランスの旧植民地出身であるシッターさんたちを従えた白人の子どもたちを見ると、今も昔も支配の構造は変わらないのだろうかと、思わずうがった見方をしてしまうのでした。
さらに、アジアの途上国では、お手伝いさんたちを雇うことが地元の雇用創出になるという観点から、とくに外国人にはお手伝いさんやシッターさんを雇うことが強く期待されているため、小さな子どもがいる日本人駐在員の家庭の多くではシッターさんを雇っています。しかし、シッターさんをはじめお手伝いさんや住み込みの警備員など、家のなかに家族以外の人がいることに日本人は慣れておらず、そういった人たちに対して家族の一員のように接すれば良いのか、あるいは従業員であると割り切って接すれば良いのか、みなさん頭を悩ましているようです。
翻って、かくいうわが家でも、実は娘が生まれた直後にベビーシッターさんに来てもらっていました。これは、名古屋市の育児支援制度のひとつで、出産直後の家庭が市の補助金を受けながら一定時間の枠内でシッターさんをお願いすることができるというもので、本当に重宝した制度です。出産直後で身体的にも辛い時期の妻にとっては、家事をしていただいたり、買い物をしてきていただいたりしたことは本当に助かったようですが、それに加えて、子育て経験者であるシッターさんから育児のあれこれについて教わる貴重な機会にもなったようです。こうしたサービスを実施している市町村は多いようですが、近年の地方行政における財政難などが、制度の廃止や縮小といったことに繋がらないことを切に願うばかりです。
妻の帰宅と夫の安堵(そして反省)
娘と過ごした初めてのお泊りの夜は、当初心配したほどのこともなく、平穏に過ぎていきました。というのも、夜になって娘にグズられることを恐れた私が、娘のお昼寝の時間をできるだけ短くして、その代わりに散歩へ出かけたり、買い物に連れだしたりと、とにかく日中の間に目一杯動き回ったため、疲れた娘はグズる間もなくコロッと寝てくれたのです。
1泊2日という短い期間だったのですが、娘が生まれて以来、初めての出張を終えた妻が帰ってきました。久しぶりの学会で、さまざまな刺激を受けてきたようです。妻にとっては、また明日から子育てに追われる日が始まりますが、ときどきこうして仕事に専念する時間をつくることが育児にもプラスになるのではないでしょうか。娘と2人で過ごした週末のお蔭で、何気ない感じでむしろ私の疲れを気遣ってくれながら、毎回の出張に私を送り出してくれる妻が、私の知らないところで育児と家事、さらには仕事をこなすために頑張っていることを、いまさらながらに思い知り、たまには妻孝行をしなければと思いを新たにしたのでした。そういえば、かなり前のタイ出張の際に買ってきたマッサージ・オイルが、どこかの引出しのなかで眠っているはずです。そのオイルを見せながら、「僕がマッサージ師となって、わが家でスパ体験をさせてあげる」と、うそぶいていたのは誰だったのやら...
それにしても、たかだか2日間にもかかわらず、知らず知らずのうちに疲れが溜まっていたようです。確かに、一日に何度も娘を抱っこして、その合間に食事や洗濯といった家事をこなして、子育ては本当に重労働であることを改めて実感しました。私はしばしばカンボジアやバングラデシュといった国々を訪問し、調査のために農村に滞在したりするのですが、どこの村でも10歳にもならないような子どもたちが弟や妹をしっかりと抱っこして、面倒をみている姿をみかけます。娘が生まれて、子育てが重労働であることを初めて知ったわが身にとっては、こうした子どもたちの姿に非常なたくましさを感じると同時に、家事・育児の手伝いをしなければならないために学校へ行けない子どもたちが世界中にはまだ大勢いることを改めて思い起こさせます。家庭内労働だけでなく、貧困、紛争・内戦、障がいなど、さまざまな理由によって学校に行くことのできない子どもたちが、今日の世界にはおよそ8,000万人もいると言われています。こうした子どもたちが一人でも多く教育を受ける機会を得ることができるように、私にできることは本当に限られていますが、研究や実務を通して少しでも貢献していきたいと思っています。娘という1人の子どもと向き合うことで、世界中の子どもたちの存在がいままでにないリアリティをもって感じられるようになったのは、子育てに関わるようになったお蔭だと言えるでしょう。
月曜日の朝になり、いつものように出勤する際に、またいつものように娘の面倒をみている妻に対して何だか少々後ろめたい気持ちを抱えながら、それでもどこかホッとしながら家を出る自分がいます。「教育学者」なんて言ってみても、所詮はこんなものでしかない自分を再確認した週末でした。
注) ユネスコは、国際連合(以下、国連)の専門機関のなかでも、特殊な性格をもった機関です。他の専門機関の多くは、基本的に特定の分野に特化して事業を行っています。たとえば、新型インフルエンザの警戒レベルを宣言することで注目が集まっている世界保健機関(WHO)は保健・医療に関する専門機関ですし、労働問題に関する国際労働機関(ILO)、食糧や農業を専門とする国連食糧農業機関(FAO)などがあります。また、教育分野の国際機関というと国連児童基金(ユニセフ)が有名ですが、ユニセフは国連総会の決議にもとづき設立された機関で、戦争や貧困などによる影響を最も受ける子どもをはじめとした社会的弱者(女性、障がい者、少数民族など)への支援を行っています。これらの専門機関・関連機関と較べると、ユネスコは特定の領域に特化しているのではなく、その使命は「平和を実現する」ことにあり、教育、文化、自然科学、人文・社会科学、コミュニケーションといった多岐にわたる領域で事業を推進しています。