アジアの国際教育熱
10月1日(金)午後8時
「パパ、お帰りなさい!」
海外出張から戻り、自宅に帰りつくと、嬉しそうな顔の娘が迎えてくれました。出張中から会いたくて仕方のなかった娘にようやく会えた、まさに至福のときです。今回は、間に1日だけ東京に滞在しましたが、上海とモスクワへの別々の出張が続いたため、正味2週間ほど家を空けていたことになります。
10月1日(金)午後8時
「パパ、お帰りなさい!」
海外出張から戻り、自宅に帰りつくと、嬉しそうな顔の娘が迎えてくれました。出張中から会いたくて仕方のなかった娘にようやく会えた、まさに至福のときです。今回は、間に1日だけ東京に滞在しましたが、上海とモスクワへの別々の出張が続いたため、正味2週間ほど家を空けていたことになります。
上海では、通常のカリキュラムのなかで母語に加えて第二言語も媒介として授業を行うイマージョン・スクールをはじめ、国際的な教育プログラムを提供している学校(小・中・高校)をいくつか訪問してきました。上海という中国経済の飛躍的な成長をけん引するセンターでは、富裕層や中産階層を中心に親たちの間で非常に高い教育熱が湧き起こっているのは、多くの方がご承知のことと思います。とくに、一人っ子政策の影響もあり、各家庭が一人の子どもにかける教育費は年々上昇しているとのことです。こうしたなか、わが子が将来、英語を自由に操る「国際人」(英語を話せれば「国際人」と呼べるのかどうかという疑問はさておき...)になることを願う親たちが、インターナショナル・スクールやイマージョン・スクールに子どもを積極的に通わせているそうです。今回、訪問した学校でも、外国人の子どもたちよりも中国人の子どもたちの方が圧倒的に多く、上海における国際的な教育プログラムへのニーズが非常に高まっている状況をかいまみてきました。(ちなみに、中国の教育に関しては、富裕層と貧困層(多くの出稼ぎ労働者を含む)の間や、都市部と農村部の間に大きな格差が存在しており社会問題となっていますが、今回の訪問ではなかなかそういったところまでみることはできませんでした。)
こうした上海の状況を知ると、国際的な教育プログラムのあり方や「国際人」という言葉の意味について改めて考えるとともに、外国語教育はどのようにあるべきなのかといったことについて、日本でも議論をもっと深めていかなければならないと思いました。もちろん、必ずしも上海のケースが日本にとってモデルになるとは思えない点もあります。しかし、家庭の教育ニーズに対して政府や民間企業が迅速に対応することで、国際的な教育プログラムの導入を急速に進めている上海の姿をみると、日本はこうした潮流に対してどのように対応すべきであるかといったことを考えざるを得ません。
とくに、このような教育プログラムの国際化の潮流は、上海(あるいは中国)のみならず韓国や台湾といった東アジア地域で広くみられることですし、東南アジア諸国でも非常に活発化しています。これらの国では、自国内の国際的な教育プログラムを提供する学校への入学ばかりでなく、国外のインターナショナル・スクール等への進学も一部の階層の人々の間では熱心に行われています。たとえば、香港のインターナショナル・スクールには東南アジア諸国の富裕層の子弟が大勢入学するようになったため、地元の香港の子どもたちの入学者数が減らされてしまい、不満が高まっているという状況も生まれているようです。また、子どもの早期留学のために、単身で自国にとどまって働き、海外の家族に仕送りをする韓国のお父さんたちが、「キロギ・アッパ」(雁のお父さん)と呼ばれていることはよく知られている通りです。
ただし、外国語(とくに英語)の運用面でアジア諸国の若者たちよりも日本の若者たちが劣ってしまうといったことに対して、心配をする必要はないと思います。後述しますが、外国語の運用について、私はそれほど心配をしていません。それよりも懸念していることは、日本の学校教育の視野が狭いものになってしまっているのではないかということです。たとえば歴史の授業で、近現代史に割く時間は限られており、歴史を踏まえて今日の日本を国際的な文脈のなかに位置づけて考えるといった機会があまりないように見受けられます。また、欧米以外の国・地域(なかでもアジア)の近現代史について学ぶ機会は、どれほどあるのでしょうか。「国際人」を育てるためには、外国語よりもむしろこういったことについて考えることの方が大切だと、私は考えます。そのため、現在のアジア諸国で行なわれている国際的な教育プログラムに関しても、それらのなかでどれだけのプログラムがこうした問題をきちんと考えるような教育を行なっているのか、英語プログラムやイマ―ジョン教育といった見た目に惑わされることなく、冷静にみつめることが必要だと思います。
早期の外国語教育の是非
わが子を「国際人」に育てたいという思いは、日本の多くの親も持っている希望かと思います。そういったニーズを汲みとり、日本でもたとえば小学5・6年時における週1コマの外国語活動が必修化されました。しかし、外国語教育を早期から導入することの是非について、私は疑問を感じています。その理由は主に2つあります。
まず、外国語教育を導入して、外国語(主に英語。ただし、中国語などのニーズも近年高まりつつありますが)を流暢に話すことができれば、それで「国際人」と言えるのでしょうか。「国際人」といった言葉で表わされる人間像は、本来、国の壁を越えて、異なる文化や価値観をもった人々と対等に交流し、お互いを尊重するなかで相互理解を深めることができる人のことをいうのだと思います。また、異なる社会で仕事をしたりする際に直面するさまざまな困難に対して、果敢に挑戦し、それを乗り越えていけるような人のことを指すのだと考えています。
もちろん、こうしたことを実現していくうえで、外国語を身につけておいた方が良いことは言うまでもありません。しかし、外国語以上に大切なことは、きちんと相手の話を聞いたり、自らの意見を明確に相手に伝えたりといった、基本的なコミュニケーション能力を身につけることだと思います。その意味で、小学校の外国語活動の時間は、「音声を中心に外国語に慣れ親しませる活動を通じて、言語や文化について体験的に理解を深めるとともに、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度を育成し、コミュニケーション能力の素地を養うことを目標」に掲げており、基本的な考え方には賛成です。(外国語「教育」ではなく、外国語「活動」という名称も、こうした意図にもとづくものです。外国語活動の詳細については、文部科学省ホームページの「小学校外国語活動サイト」を参照ください。)
しかし、実際にこうしたことをどこまで実現できるのか、疑問も感じざるを得ません。なぜなら、外国語活動を行うにあたっては、学級担任を中心に、ALT(外国語指導助手)や英語が堪能な地域人材とともにティーム・ティーチングを基本にすべきであると考えられているようですが、ただでさえ忙しい小学校の先生たちが十分に外国語活動を実施するための研修を受ける余裕があるのか、また、どのようにこういった地域人材を確保するのか、などといった点については多くの課題を抱えているからです。さらに、いくらコミュニケーションが中心だといっても、ある程度の外国語によるコミュニケーション能力が教える側になければ、授業そのものが成立しない恐れもあるのではないでしょうか。補助教材やDVDなどの視聴覚教材を活用すれば良いとされていますが、学校の外部にいる人間の目からみても不安を覚えますが、一番困っているのは学校の先生たちではないかと想像します。うがった見方をすれば、先生も子どもも十分に言葉が使えないという状況は、言葉が通じないときのコミュニケーション能力を養うという、まさに「国際人」に求められている能力を育成するうえで理想的な環境と言えるのかもしれませんが...。もちろん、先生方はそれぞれ努力をされていると思いますし、外国語の運用能力の如何にかかわらずこうした授業を上手に行える先生方もいらっしゃることと思いますので、こういった不安が杞憂であることを願うばかりです。
次に、外国語を早期に習得する必要性をそれほど強く感じない理由として、まずは母国語をきちんと身につけるべきではないかという思いがあります。この問題は、英語教育導入の是非をめぐり、母国語習得の重要性を強く訴える人たちと、バイリンガル教育で何ら問題がないという立場の人たちとが、最も議論を対立させている論点の一つかと思います。私自身は、言語学の専門家ではありませんので、ここでの意見はあくまでも個人的な考えに過ぎず、主観的な見解を脱するものではないことを予めお断りしておきます。
そのうえで、あえて申し上げると、母国語の体系を十分に身につけたうえで外国語を学ぶ方が、物事(とくに抽象的な事象)に対する理解が深まるのではないかと感じています。やはり、まずは自らの母語を用いて考えたり、表現したりすることを学ぶべきではないでしょうか(ただし、必ずしも母語が母国語であるわけではない国も多いのですが、日本の場合は一部の方々を除いて基本的に母語と母国語がそれなりに一致しているかと思います)。そうした言語の基礎を築いてから、外国語を習得した方が、それぞれの言語による考え方や見方の相違をより深く理解することができるのではないでしょうか。現在、娘が言葉を覚えていく過程をみていても、言葉が考え方や物の見方の基礎になっていることを強く感じます。
そのように考えると、私は日本の従来の英語教育には、とても良い点があると感じます。日本の英語教育では、どれだけ長い期間勉強しても十分にコミュニケーションをとることができないといった批判がされますが、本当にそれは英語教育のせいでしょうか。多くの日本人にとっては、英語でコミュニケーションをする機会があまりないため、単に英語を使うことに慣れていないだけだと思います。それならば小学校から英語でのコミュニケーションに慣れておくのは良いことではないかと言われるかもしれませんが、週に1コマ程度、英語で歌を歌ったり、ちょっとした掛け合いをしたからといって、英語に慣れることはできないと思います。そのようなことを中途半端に行うよりは、まずは日本語を使った学習をしっかりと行うことの方が大切だと思います。そして、中学校に進学した時点で、これまで通り文法についてきちんと勉強したり、語彙を増やしたりすることに時間を割いて、コミュニケーションを行うための基礎を身につけるべきだと思います。(ここで述べた通り、私自身は小学校から誰もが外国語を勉強する必要はないと思いますが、それでも、もしどうしても小学校から英語を勉強させるべきだというのであれば、むしろきちんと英語を教える方が良いと思います。現在は、「英語教育」ではなく「外国語活動」を行っているために、何だか中途半端なことになってしまっているのですから、それならばきちんと「英語教育」を行った方が良いのではないでしょうか。)
実際、私自身は海外で仕事をしたり、大学の講義を英語で行ったりしていますが、使っている英語の文法レベルは中学校英語に毛が生えたようなものです。その程度の文法理解があれば、基本的なコミュニケーションは問題なく行えるようになります。そのうえで、多くの文章を読んだり、できるだけ会話の機会を得たりして、英語を使用することに慣れていくことが必要だと思います。確かに英語の授業が文法などを覚えることに追われてしまい、退屈なものに感じられる面もあるかもしれませんが、そもそも語学を習得するというのは忍耐と努力を必要とするものなのですから、仕方のないところもあると思います。もちろん、少しでも生徒たちが興味をもてるように授業を工夫することは、素晴らしいことだと思います。ただ、語学の習得にあたっては、どうしても忍耐強く暗記などをしなければならない場面が出てくることも、自然なことではないでしょうか。
余裕のない学校現場で
幼いころから外国語に慣れ親しむことが、悪いということではありません。文部科学省が強調しているように、言語や文化についての体験的な理解を深め、コミュニケーション能力を高めることはとても良いことだと思います。ただ、それを実際に現場で行うことがどの程度可能なのか、またそこに力を注ぐ前に、他にもっとやらなければいけないことがあるのではないか、といった疑問を私は感じています。たとえば、教室のなかには習熟度の速い子もいれば、遅い子もいます。生徒たちの多様性に対応するために、先生たちには多くの負担がかかっていることと思います。また、学級崩壊やいじめ、モンスター・ペアレントなどの問題が起こったり、学校行事や事務作業の負担が重くのしかかるなど、先生たちを取り巻く環境は厳しさを増しています。そうしたなかで、生徒たちに余裕があり、先生方に余裕があるのならば、外国語活動を行うことそのものは決して悪いことだとは思いません。しかし、そのような余裕が果たして学校現場にあるのかどうか、私にとってはそれが一番の疑問です。
前回に予告をしましたように、今回は9月末にモスクワで行われた世界幼児教育会議のお話をするつもりでしたが、モスクワの前に訪問した上海で考えたことをお伝えするだけになってしまいました。ぜひ、世界幼児教育会議のことは、機会を改めてご報告させていただきます。
さて、今回お伝えしたようなことを考えている私ですが、その一方で3歳の娘と一緒にお風呂に入ると、英語とフランス語で1から20まで数えるように覚えさせたり、自己紹介を英語とフランス語で言えるように教え込んだりしています。世界幼児教育会議の場でも話題に出たのですが、3歳までにバイリンガルやトリリンガルの環境が整っていれば、異なる言語体系をスムーズに習得していくことができるという見方もあるようです。現在3歳半の娘ですが、確かに言葉をすごい勢いで吸収していく様子を目の当たりにすると、バイリンガルに育てるにはいまがチャンスかも、などと欲を出してしまいます。しかし、やる気のない父親である私は、お風呂のなかでしか外国語を使おうとしないため、20まで数えたり、簡単な自己紹介を教えたりしているうちに、こちらがのぼせてしまい、早々に切り上げるしかありません。娘をバイリンガルにする道は、何とも険しそうです...。
こうした上海の状況を知ると、国際的な教育プログラムのあり方や「国際人」という言葉の意味について改めて考えるとともに、外国語教育はどのようにあるべきなのかといったことについて、日本でも議論をもっと深めていかなければならないと思いました。もちろん、必ずしも上海のケースが日本にとってモデルになるとは思えない点もあります。しかし、家庭の教育ニーズに対して政府や民間企業が迅速に対応することで、国際的な教育プログラムの導入を急速に進めている上海の姿をみると、日本はこうした潮流に対してどのように対応すべきであるかといったことを考えざるを得ません。
とくに、このような教育プログラムの国際化の潮流は、上海(あるいは中国)のみならず韓国や台湾といった東アジア地域で広くみられることですし、東南アジア諸国でも非常に活発化しています。これらの国では、自国内の国際的な教育プログラムを提供する学校への入学ばかりでなく、国外のインターナショナル・スクール等への進学も一部の階層の人々の間では熱心に行われています。たとえば、香港のインターナショナル・スクールには東南アジア諸国の富裕層の子弟が大勢入学するようになったため、地元の香港の子どもたちの入学者数が減らされてしまい、不満が高まっているという状況も生まれているようです。また、子どもの早期留学のために、単身で自国にとどまって働き、海外の家族に仕送りをする韓国のお父さんたちが、「キロギ・アッパ」(雁のお父さん)と呼ばれていることはよく知られている通りです。
ただし、外国語(とくに英語)の運用面でアジア諸国の若者たちよりも日本の若者たちが劣ってしまうといったことに対して、心配をする必要はないと思います。後述しますが、外国語の運用について、私はそれほど心配をしていません。それよりも懸念していることは、日本の学校教育の視野が狭いものになってしまっているのではないかということです。たとえば歴史の授業で、近現代史に割く時間は限られており、歴史を踏まえて今日の日本を国際的な文脈のなかに位置づけて考えるといった機会があまりないように見受けられます。また、欧米以外の国・地域(なかでもアジア)の近現代史について学ぶ機会は、どれほどあるのでしょうか。「国際人」を育てるためには、外国語よりもむしろこういったことについて考えることの方が大切だと、私は考えます。そのため、現在のアジア諸国で行なわれている国際的な教育プログラムに関しても、それらのなかでどれだけのプログラムがこうした問題をきちんと考えるような教育を行なっているのか、英語プログラムやイマ―ジョン教育といった見た目に惑わされることなく、冷静にみつめることが必要だと思います。
早期の外国語教育の是非
わが子を「国際人」に育てたいという思いは、日本の多くの親も持っている希望かと思います。そういったニーズを汲みとり、日本でもたとえば小学5・6年時における週1コマの外国語活動が必修化されました。しかし、外国語教育を早期から導入することの是非について、私は疑問を感じています。その理由は主に2つあります。
まず、外国語教育を導入して、外国語(主に英語。ただし、中国語などのニーズも近年高まりつつありますが)を流暢に話すことができれば、それで「国際人」と言えるのでしょうか。「国際人」といった言葉で表わされる人間像は、本来、国の壁を越えて、異なる文化や価値観をもった人々と対等に交流し、お互いを尊重するなかで相互理解を深めることができる人のことをいうのだと思います。また、異なる社会で仕事をしたりする際に直面するさまざまな困難に対して、果敢に挑戦し、それを乗り越えていけるような人のことを指すのだと考えています。
もちろん、こうしたことを実現していくうえで、外国語を身につけておいた方が良いことは言うまでもありません。しかし、外国語以上に大切なことは、きちんと相手の話を聞いたり、自らの意見を明確に相手に伝えたりといった、基本的なコミュニケーション能力を身につけることだと思います。その意味で、小学校の外国語活動の時間は、「音声を中心に外国語に慣れ親しませる活動を通じて、言語や文化について体験的に理解を深めるとともに、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度を育成し、コミュニケーション能力の素地を養うことを目標」に掲げており、基本的な考え方には賛成です。(外国語「教育」ではなく、外国語「活動」という名称も、こうした意図にもとづくものです。外国語活動の詳細については、文部科学省ホームページの「小学校外国語活動サイト」を参照ください。)
しかし、実際にこうしたことをどこまで実現できるのか、疑問も感じざるを得ません。なぜなら、外国語活動を行うにあたっては、学級担任を中心に、ALT(外国語指導助手)や英語が堪能な地域人材とともにティーム・ティーチングを基本にすべきであると考えられているようですが、ただでさえ忙しい小学校の先生たちが十分に外国語活動を実施するための研修を受ける余裕があるのか、また、どのようにこういった地域人材を確保するのか、などといった点については多くの課題を抱えているからです。さらに、いくらコミュニケーションが中心だといっても、ある程度の外国語によるコミュニケーション能力が教える側になければ、授業そのものが成立しない恐れもあるのではないでしょうか。補助教材やDVDなどの視聴覚教材を活用すれば良いとされていますが、学校の外部にいる人間の目からみても不安を覚えますが、一番困っているのは学校の先生たちではないかと想像します。うがった見方をすれば、先生も子どもも十分に言葉が使えないという状況は、言葉が通じないときのコミュニケーション能力を養うという、まさに「国際人」に求められている能力を育成するうえで理想的な環境と言えるのかもしれませんが...。もちろん、先生方はそれぞれ努力をされていると思いますし、外国語の運用能力の如何にかかわらずこうした授業を上手に行える先生方もいらっしゃることと思いますので、こういった不安が杞憂であることを願うばかりです。
次に、外国語を早期に習得する必要性をそれほど強く感じない理由として、まずは母国語をきちんと身につけるべきではないかという思いがあります。この問題は、英語教育導入の是非をめぐり、母国語習得の重要性を強く訴える人たちと、バイリンガル教育で何ら問題がないという立場の人たちとが、最も議論を対立させている論点の一つかと思います。私自身は、言語学の専門家ではありませんので、ここでの意見はあくまでも個人的な考えに過ぎず、主観的な見解を脱するものではないことを予めお断りしておきます。
そのうえで、あえて申し上げると、母国語の体系を十分に身につけたうえで外国語を学ぶ方が、物事(とくに抽象的な事象)に対する理解が深まるのではないかと感じています。やはり、まずは自らの母語を用いて考えたり、表現したりすることを学ぶべきではないでしょうか(ただし、必ずしも母語が母国語であるわけではない国も多いのですが、日本の場合は一部の方々を除いて基本的に母語と母国語がそれなりに一致しているかと思います)。そうした言語の基礎を築いてから、外国語を習得した方が、それぞれの言語による考え方や見方の相違をより深く理解することができるのではないでしょうか。現在、娘が言葉を覚えていく過程をみていても、言葉が考え方や物の見方の基礎になっていることを強く感じます。
そのように考えると、私は日本の従来の英語教育には、とても良い点があると感じます。日本の英語教育では、どれだけ長い期間勉強しても十分にコミュニケーションをとることができないといった批判がされますが、本当にそれは英語教育のせいでしょうか。多くの日本人にとっては、英語でコミュニケーションをする機会があまりないため、単に英語を使うことに慣れていないだけだと思います。それならば小学校から英語でのコミュニケーションに慣れておくのは良いことではないかと言われるかもしれませんが、週に1コマ程度、英語で歌を歌ったり、ちょっとした掛け合いをしたからといって、英語に慣れることはできないと思います。そのようなことを中途半端に行うよりは、まずは日本語を使った学習をしっかりと行うことの方が大切だと思います。そして、中学校に進学した時点で、これまで通り文法についてきちんと勉強したり、語彙を増やしたりすることに時間を割いて、コミュニケーションを行うための基礎を身につけるべきだと思います。(ここで述べた通り、私自身は小学校から誰もが外国語を勉強する必要はないと思いますが、それでも、もしどうしても小学校から英語を勉強させるべきだというのであれば、むしろきちんと英語を教える方が良いと思います。現在は、「英語教育」ではなく「外国語活動」を行っているために、何だか中途半端なことになってしまっているのですから、それならばきちんと「英語教育」を行った方が良いのではないでしょうか。)
実際、私自身は海外で仕事をしたり、大学の講義を英語で行ったりしていますが、使っている英語の文法レベルは中学校英語に毛が生えたようなものです。その程度の文法理解があれば、基本的なコミュニケーションは問題なく行えるようになります。そのうえで、多くの文章を読んだり、できるだけ会話の機会を得たりして、英語を使用することに慣れていくことが必要だと思います。確かに英語の授業が文法などを覚えることに追われてしまい、退屈なものに感じられる面もあるかもしれませんが、そもそも語学を習得するというのは忍耐と努力を必要とするものなのですから、仕方のないところもあると思います。もちろん、少しでも生徒たちが興味をもてるように授業を工夫することは、素晴らしいことだと思います。ただ、語学の習得にあたっては、どうしても忍耐強く暗記などをしなければならない場面が出てくることも、自然なことではないでしょうか。
余裕のない学校現場で
幼いころから外国語に慣れ親しむことが、悪いということではありません。文部科学省が強調しているように、言語や文化についての体験的な理解を深め、コミュニケーション能力を高めることはとても良いことだと思います。ただ、それを実際に現場で行うことがどの程度可能なのか、またそこに力を注ぐ前に、他にもっとやらなければいけないことがあるのではないか、といった疑問を私は感じています。たとえば、教室のなかには習熟度の速い子もいれば、遅い子もいます。生徒たちの多様性に対応するために、先生たちには多くの負担がかかっていることと思います。また、学級崩壊やいじめ、モンスター・ペアレントなどの問題が起こったり、学校行事や事務作業の負担が重くのしかかるなど、先生たちを取り巻く環境は厳しさを増しています。そうしたなかで、生徒たちに余裕があり、先生方に余裕があるのならば、外国語活動を行うことそのものは決して悪いことだとは思いません。しかし、そのような余裕が果たして学校現場にあるのかどうか、私にとってはそれが一番の疑問です。
前回に予告をしましたように、今回は9月末にモスクワで行われた世界幼児教育会議のお話をするつもりでしたが、モスクワの前に訪問した上海で考えたことをお伝えするだけになってしまいました。ぜひ、世界幼児教育会議のことは、機会を改めてご報告させていただきます。
さて、今回お伝えしたようなことを考えている私ですが、その一方で3歳の娘と一緒にお風呂に入ると、英語とフランス語で1から20まで数えるように覚えさせたり、自己紹介を英語とフランス語で言えるように教え込んだりしています。世界幼児教育会議の場でも話題に出たのですが、3歳までにバイリンガルやトリリンガルの環境が整っていれば、異なる言語体系をスムーズに習得していくことができるという見方もあるようです。現在3歳半の娘ですが、確かに言葉をすごい勢いで吸収していく様子を目の当たりにすると、バイリンガルに育てるにはいまがチャンスかも、などと欲を出してしまいます。しかし、やる気のない父親である私は、お風呂のなかでしか外国語を使おうとしないため、20まで数えたり、簡単な自己紹介を教えたりしているうちに、こちらがのぼせてしまい、早々に切り上げるしかありません。娘をバイリンガルにする道は、何とも険しそうです...。