「眼差し」の教育学
私が子育てをするようになって、いつも心のなかで自らに問いかけていることがあります。それは、先月の前編で書いたように大きな声を上げてしまったり、イタズラなどをした娘に対して「それをしてはダメだよ」という意味を込めて強い視線を送ったりするときに、自分が権威主義的な姿勢で娘と接しているのではないかと、自分自身に対して問いかけるのです。つまり、子どものことを本当に理解しようとする前に、親として、大人としての「権威」をふりかざして、子どもに言うことを聞かせようとしているのではないかと、いつも自問するようにしています。
子どもは、大人の論理とは別の次元で自分の論理を構築しているため、後から落ち着いて考えてみれば、なぜそのような態度をとったり、行動をしたのか合点がいくのですが、その場では大人の方がイライラしてしまうことがあります。そして、ついつい大きな声を上げたり、「ダメッ!」と睨んだりしてしまうのですが、それはあくまでも大人の論理を子どもに押しつけようとしている可能性があります。もちろん、世のなかのルールを踏み外したときには、そうした行為に関して厳しく子どもを叱ることもとても大切です。しかし、ときには、親の方が心の余裕を失っているなかで、子どもに「言うことを聞かせよう」として、頭ごなしに怒ってしまうこともあります。自分がそのような態度をとってしまうときに、子どもの「しつけ」の難しさを感じています。
教育やしつけがいかにあるべきかということは、洋の東西を問わず、いまも昔も多くの人の頭を悩ませてきた問題です。これまでに、多くの思想家たちが教育やしつけに関する言説を書き残していますが、それらをひもとくと、ひとつの特徴がみられることに気づきます。それは、教育場面においていかに子どもたちを上手に導くのか、という問題への関心です。こういった関心は、権威主義的に「管理」しようとする立場から、基本的に子どもたちの自主性・自発性に任せようという立場まで、思想家たちの考え方や彼らの生きた時代背景などによってさまざまな観点があります。
たとえば、17世紀のジョン・ロックは、生まれたばかりの子どもは「白紙(タブラ・ラーサ)」の状態にあり、善悪の判断などの「観念」は生得的に身につけているわけではなく、その後の経験を通して身につけていくものだと考えました。そのため、彼の著書である『教育に関する考察』のなかでも、親が子どものご機嫌をとったり、甘えさせたりすると、子どもの理性的な感情が十分に育たなくなってしまうと戒めています。そして、親は毅然とした態度で子どもと接するなかで、子どもが自らの欲望をコントロールできるように導いていくことが必要だと説きます。そのためには、当時広く行われていた鞭打ちなどの体罰は、子どもの心を無理に曲げるだけであり有害だと指摘しています。それよりも、良い行いをしたときには褒めることで子どもの自尊心を高めさせたり、悪いことをしたときには不名誉なことをしたのだという感覚を強くもたせたりするなど、子どもの心に対して働きかけることが大切だと強調しました。その主張の多くは、現代に生きる私たちが読み返しても参考になる指摘が多いのですが、それと同時に、子どもが元々もっている良さを引き出して伸ばそうといった、今日の私たちが慣れ親しんだ教育観とは異質な面も非常に感じます。そのため、ロック自身は「権威」にすがりついた教育のあり方は否定しているのですが、やはり親の考えを子どもに押しつけるような、ある種の権威主義的な教育観をそこに見出すことができます。
それに対して、18世紀のジャン=ジャック・ルソーの教育思想は、基本的に性善説の立場から、子どもたちが本来備えている善性を伸ばすことが教育の重要な目的であり、大人の側から教え込むといった態度を戒めたため、「消極教育」とも称されます。また、それまで子どもは「小さな大人」であるという見方が一般的であった時代のなか、子どもには子ども固有の世界があり、成長の過程があるので、それらを理解したうえで成長の手助けをすることが重要であると主張しました。このようなルソーの教育思想は、彼の代表作のひとつである『エミール』のなかに描き出されています。同書のなかで、エミールという上流階級の家庭の子どもの家庭教師であるルソーは、エミールの自主性をできるだけ伸ばすような教育のあり方を実践していきます。ただし、その方法は、一見、子どもの自主性・自発性に任せているようにみえるのですが、よく読んでみると、実はルソーの側から巧みな仕掛けがなされており、必ずしも放任状態にしているわけではないこともわかります。さらに、場面によっては、ルソーが直接的に言葉をかけなくとも、ルソーに見られていることをエミールが意識し、自らを律するようなふるまいをしたりするようにもなります。
こうしたロックやルソーといった思想家たちが著した教育書を読むと、それぞれの教育観や子ども観はかなり異なるのですが、ある面で共通した考え方を見出すこともできます。それは、「眼差し」の教育学と名づけることができるような教育思想ではないかと思うのですが、子どもに対して体罰を与えたり、すべてを教え込んで従順にさせることよりも、大人から「見られている」という意識を植え付けることで、より効果的に子どもの自制心を養うことを目指しているように思えます。こうした教育のアプローチは、家庭教育が中心だったロックやルソーの時代にも見られるのですが、19世紀以降に近代学校教育が発展するなかで、多くの子どもたちをひとつの教室のなかで教育するようになってくると、より効果的な方法としてさまざまな教育場面に取り入れられるようになってきたと思います。こうした「眼差し」による子どもへの働きかけは、体罰のように強制的な形ではないため、より一層、子どもたちの心にしみこんでいくと思われます。ただしそれは、必ずしも良い点ばかりではなく、あまりにも度が過ぎると、大人の目を気にし過ぎて、常に委縮したような心のもちようになってしまう危険性もあると思います。
そういった、子どもの心が委縮して、さらには壊されていってしまった極端な例が、アリス・ミラーという人が書いた衝撃的な本である『魂の殺人-親は子どもに何をしたか-』(新曜社)のなかに示されています。ヒットラーなどの幼少期を例に挙げて、「教育」のもつ暴力性を詳細に描いた同書は、極端な例にもとづいて「教育」を一般化し過ぎていると感じますが、それにしてもいろいろなことを考えさせられる本だとは思います。
私自身は、今回の日記でお話したように、ついつい自分が権威主義的な態度で、無理やり娘に言うことを聞かせようとしてしまうことがあるのですが、そんなときにこうした教育思想のあり方について考えたりします。そして、娘が委縮してしまうような態度をとるまいと自戒したりします。教育学というのは直接的に子育てにはなかなか役立たないものですが、こういった点で、自分の感情をコントロールするうえでは貴重な知見を与えてくれるように思えます。とくに、私の場合は、自分が教育学者であるということを思い出しては、何とか自分の感情を制御しているといったところかもしれません...。
模索の日々は続く
最後に、私が実際に目にして、衝撃を受けた「しつけ」の道具について、ご紹介したいと思います。それは、以前にケニアの小学校を訪れた際に、先生たちの手に握られていた鞭でした。小学生のころに愛読していた「トム・ソーヤーの冒険」や「ハックルベリー・フィンの冒険」といった小説では、トムやハックが罰として鞭で打たれる光景が描かれていて印象に残っていたのですが、まさかその鞭の実物を目にするとは思ってもいませんでした。後から先生たちとお話をした際に鞭のことを尋ねると、子どもたちに指示を出す際などに鞭をよく振り回すが、よほどのことがない限り鞭打ちの罰を加えることはしないと言っていました。それにしても、鞭打ちを否定したわけではなかったので、そういった罰の与え方がいまでも実際に行われていることが窺われました。もちろん、ケニアのすべての先生たちが鞭を使うわけではありませんし、鞭によるしつけがケニア社会にもともとあったというよりも、西欧式の教育が移植されるなかで伝わってきたのかもしれません。しつけ道具としての鞭について、単純に解釈することはできませんが、初めて鞭をみたときにはやはり驚いてしまいました。
一般的に、体罰を加えると、子どもは表面的には素直になるかもしれません。また、厳しい眼差しを送り続ければ、従順な子になるかもしれません。しかし、それが本当に親が望むわが子の姿でしょうか。やはり子どもはいたずらをしたり、わがままな面があったりするなかで、少しずつ社会の一員としてのあり方を学んでいくのだと思います。余裕がないときにはイライラしたり、きちんとしつけをしなければと肩に力が入ったりもしてしまいますが、どの親も心の底ではわが子に伸び伸びと育ってほしいと思っているのではないでしょうか。そのための模索を、日々、すべての親たちはしているのだと思います。私自身、教育学を勉強していますが、親になるために、そして親であるために、どのように娘と接すれば良いのか、手探りをしている毎日です。こんな私の模索の日々を、これからもこの日記のなかで少しずつご紹介していければと思っています。
また、東京での子育てライフが始まりましたので、これまで折りに触れて海外の事情との比較をしてきましたが、それに加えて、東京と名古屋といった国内での地域差などについても、気づいたことをご紹介していきたいと思います。