<本稿について> |
「当たり前」でない学校での水泳授業
日本では当たり前のように行われている学校での水泳授業。これが、外国では当たり前でないと知ったのは、筆者が大学時代に中国・北京に留学していた時の事だった。留学中、元水泳部の筆者は大学のすぐ前にあるプールに定期的に通っていた。一般に開放されていたプールだったが常にがら空きで、夜遅い時間に行くとプールを独り占めということもよくあった。
仲良しの中国人の女友達数名がそのプールに行ってみたいと言うので、遊びに連れて行ったことがある。遊ぶと言っても、ちゃんとした競泳用の25mプールで、8コース、水深2mという「遊ぶ」というよりはちゃんと「泳ぐ」ためのプールだ。びっくりしたのが一緒に行った中国人の友人全員が全く泳げなかったことだ。泳げないというか、クロールも平泳ぎも全く知らない、泳ぎ方を習ったことがないというレベルなのだ。
「学校で水泳の授業はなかったの?」と聞くと、「そんなのない」と言う。競泳の世界大会でいつも表彰台に上る中国人選手は一握りのエリートたちで、一般的に庶民が水泳という競技に親しむ環境はない。考えてみると、日本はどんなに田舎へ行っても、小学校には必ず体育館とプールがある。そのような設備あってこそ充実した体育教育が行われるわけで、筆者が当たり前と思っていたことは、国が変われば当たり前ではないのだ。
サウジアラビアの体育事情
その後、留学を終えて日本に戻り、結婚して夫の駐在先に付き添い、いろいろな国に住んだ。最後に住んだサウジアラビアは、日本どころか世界の「当たり前」が通用しなかった。
サウジアラビアは当時、公教育で女子の体育の授業が禁じられていた唯一の国だった。水泳はおろか、体育の授業自体が存在しないのだ。女性がスポーツをすることを推奨していないため、国による女性用のスポーツ施設や組織もないし、そもそもスポーツ観戦でさえ許されていなかった。女性がサッカー観戦をしようにも、サッカースタジアムには女性用のトイレがないのだ。
女子だけでなく、男子に対する体育教育も盛んとは言えず、調査によると男児も含めて71%の子どもが最低限の体育授業を受ける機会がないという。そのため、多くの子どもたちが幼少期から肥満、早い段階で成人病予備軍となり、医療費が増大するという悪循環に陥いり、社会問題化している。そこで、そのような状況を打破するため、2016年に発表されたサウジビジョン2030iでは、国民の健康向上へのプランが作成され、2017年ついに公立学校における女子の体育授業が解禁された。
体育授業が許可されたら、すぐに始められるのかというと、そんなに簡単ではない。今まで体育という授業が存在しなかったわけだから、当然体育教師が存在しない。大学にも体育教師養成課程がない。慌ててカリキュラムを用意するも、体育の授業を受けたことのない人が、体育の授業を受けたことのない人にレクチャーして、体育教師を養成するとなると、道のりは長いii。教師の養成から、体育館の整備など、本格的な体育授業導入にはまだ時間がかかる。
子どもたちの水泳体験(スイミングスクール コンパウンド篇)
そんな規制が多いサウジアラビアで、筆者の子どもたちがどのように生活していたのかというと、意外にも1年のうち三分の一くらいはプールで遊ぶという恵まれた環境にあった。それは、筆者家族が住んでいたコンパウンドと呼ばれるサウジアラビア独特の住環境によるものが大きい。
コンパウンドとは外国人が住む集合住宅のことで、コンパウンド内はイスラム教の戒律を気にせず、自由に過ごすことができる。もちろん、プールでも肌の露出を気にせず、普通の水着で泳ぐことができる。それに加えて、自宅裏口からプールまで10秒というアクセスの良さもあり、プール=お風呂の感覚であった。サウジアラビアでは、4月から10月の半年間は50℃近くまで気温が上がる。この時期は、コンパウンド内のテニスコート、公園などで遊ぶより、とにかくプールにドボンと入って遊ぶというのが日課だった。
片時も目が離せないスイミングクラス
コンパウンド内には縦20mのプールが5つあり、そのうちの一つで、毎週1回外部からエジプト人のコーチが来てスイミングクラスを開いてくれていた。生徒は30~40人くらいで、国籍はスペイン人、エジプト人、レバノン人など中東系の子どもたちが中心。クラスは16:00~17:00が未就学児から小学校低学年の小さい子、17:00~18:00がそれより大きい子、とゆるく分かれており、当時小1だった長男(N)は小さい子クラス、小4だった次女(K)は大きい子クラスに参加していた。
水泳クラスと言っても、日本のスイミングクラブのような、システマティックなものを想像しないでほしい。コンパウンド(20m×20m)のプールにはコースロープがなく、年齢もレベルも国籍もバラバラの子が一緒に泳ぐ。特に小さい子クラスは常にカオス状態だった。プールサイドで練習を見守る母親たちは、ママ友同士のおしゃべりに夢中になりながらも、片目は常に子どもから目を離さない。いつ何が起こるかわからないからだ。
ビート板を使ったバタ足、クロールのストロークなどのルーティン練習でも油断禁物。全然前に進まない子に後ろから泳いできた子が次々と衝突して玉突き事故になったり、なぜか斜めにしか進まない子が、まっすぐ泳いでいる子にいちいちぶつかりながら進んだり、先頭の復路の子と往路の子が正面衝突したりする。それは、割り込み、逆走、あおり運転、何でもありのサウジアラビアの道路事情に似ていて、一触即発。見ている方は、もっと安全で効率の良い泳がせ方があるのにと、常に気が休まらない。
そんなカオスをさらにかき回すのがエジプト人コーチで、クロールもまともにできない子たちに、気まぐれに背泳ぎやバタフライを泳がせてみたり、クイックターンをやれだの、フラフープの輪をくぐって飛び込みの練習をしろだの、色々とチャレンジをしかけてくる。大事故が起こらなかったのは奇跡に近い。案の定、このクラスで無理難題を要求されたNは、もともとあまり水泳が得意でなかったこともあって、このスイミングクラスがトラウマとなっている。
一方、小さい頃から泳ぎが得意だった次女は、ドバイ滞在時代にあちこちのスイミングクラスに通っていたおかげで、大きい子クラスの中では一目置かれる存在だった。毎回レッスンの最後に、子どもをレベル別に分けてレースをしてチャンピオンを決める。スペイン人の男の子たちはいつも「今日こそKを倒すぞ!」と果敢に挑戦していたが、次女は決して王座を明け渡さなかった。
この小さなスイミングクラスで最も印象的だったのは、小さい子も大きい子も「足ひれ」を使ってクロールの練習することだ。足ひれでバタ足そのものを練習することもあるし、足ひれでバタ足を補強して、クロールの腕のストロークを集中的に強化したりする。足ひれをつかったドルフィンキックの練習は、大きな体のうねりをつかむのにも効果的だ。ぐいぐい前に進むので泳ぐのが楽しくなるらしく、KもNも足ひれを使った練習は大好きだった。
このコンパウンド内のスイミングクラスと並行して、日本人学校でも5月から7月の3か月間は、週3回充実した水泳授業が行われていた。この話はいずれ、別の連載回でしたいと思う。
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参考文献
- Alharbi, Manal ObedAullah. "Reconseptulaize Physical Activity Policy in Saudi Arabia Educational Curricula." Journal of Education and Practice Vol 12, No 3 (2021).