サウジアラビア・ジェッダに向かう飛行機の機内で、必ず行われる儀式のようなものがある。 飛行機が下降し着陸の準備を始めると、機内にアナウンスが流れる。「飛行機はまもなくジェッダ空港に着陸します」、これが儀式の合図だ。このアナウンスを聞くと、機内の外国人女性たちは、一斉にごそごそと手荷物のポーチやカバンから「あるもの」を取り出す。ぐるぐると丸められ無造作にバッグに突っ込まれた「アバヤ」だ。
アバヤとは、襟元から足首までを覆うイスラム圏のコートのような上着で、女性の体の線が目立たないように服の上から羽織ることを義務付けられている。
女性たちはアバヤを取り出し、狭い座席でモゾモゾと服の上から羽織る。カラフルなワンピース、へそ出しショートTシャツや、穴あきジーンズは、一瞬で全て真っ黒なアバヤで覆いつくされる。華やかな芝居が終わり、すっと黒い幕が降りるように、一瞬でモノトーンの世界になる。
私はいつもこの瞬間「ああ、サウジアラビアに戻って来た」と、実感する。外国とサウジアラビアの線引きをする、私にとっては一種の儀式だ。
ヨーロッパで過ごした楽しいバカンスや、日本に一時帰国し、ワインやビール三昧の自由で華やかな、キラキラとした生活に別れを告げて、サウジアラビアという制限の多い地に入るのだ、とキュッと身が引き締まる瞬間だ。
今回は、サウジアラビア生活の必須アイテム、「アバヤ」についてお話したい。
現地女性の服装パターン
敬けんなイスラム教徒が多いサウジアラビアでは、男性も女性も普段から民族衣装を着用する。イスラム教は「女性は家族以外の男性に、女性の魅力である髪の毛や肌を見せない」風習があるため、現地の女性はできるだけ肌の露出を避ける。現地女性の服装のパターンとしては大きく分けて以下の3つで、4つ目は筆者のような外国人や観光客のスタイル。
①最も保守的な女性:頭の先からつま先までを覆う「ブルカ」
ブルカとは全て一つの布でつながっていて、頭からすっぽりと被り全身を覆うことができる。目の部分は網目になっている。マジックミラーのように、他人から自分の顔は見えないが、自分は中から外を見ることができる。手袋もはめて絶対に肌を露出しない人もいる。
②一般的な女性:目だけを出す。髪の毛と顔を覆い、目の部分だけを露出する「ニカブ」+「アバヤ」の組み合わせ
「ニカブ」とは、目以外の顔や髪の毛、首までを隠すスカーフ。サウジアラビアの女性は彫りが深くエキゾチックな顔立ち。唯一露出している目に魂を込めてアイメイクするため、目力が半端ない。目だけでも美しさは十分に伝わってくる。
③比較的開放的な女性:髪の毛を「ヒジャブ」と呼ばれる布で覆って、顔だけ出す
「ヒジャブ」+「アバヤ」。「ヒジャブ」と呼ばれる大盤のスカーフできっちりと髪の毛と首を覆い、目、鼻、口は露出する。「アバヤ」で体の線を隠す。
④開放的なサウジ女性、外国人、観光客の女性:「アバヤ」のみで髪の毛は覆わない
私がサウジアラビアに住んでいた2016~2019年当時、サウジアラビアに住む非ムスリムの外国人もアバヤの着用義務があった。私の住んでいたジェッダは比較的開放的な街で、頭髪を覆うスカーフは義務ではなかった。しかし、中には外国人の服装に対しても厳しい考えをもつ人もいるため、注意されたらすぐ髪の毛を覆うことができるように外出時は常にスカーフを携帯していた。
イスラム圏の女性の服装と言えば、国は違うが2023年にイランで起きた事件を記憶されている方もいるだろう。テヘランの地下鉄の駅で、ヒジャブを着用していなかった16歳の女性が道徳警察に列車から引きずり降ろされ、殴打されて亡くなったという事件があった。
比較的開放的に思えるジェッダでも、女性の服装に対する考え方は千差万別、いつどこで目をつけられるか分からないという恐怖があった。
①から④のどの服装の女性が多いかは、地域による。ジェッダの中心部のショッピングモールでは④の服装の人が比較的多いが、郊外に出ると④の割合が減り、①が多くなる。サウジアラビアに行く前に筆者がアバヤに対してもっていた印象は、ダサくて、動きにくくて、陰気な服。例えて言うなら、日本のよろいのイメージをもっていた。
しかし、サウジアラビアに3年半住んで、アバヤの楽しみ方を知り、「日本でもアバヤを着る習慣があったらいいのに」と思うまでになった。よろいのように思っていたアバヤを、最終的には「カーデガン」のように着こなせるようになった、筆者の3年半のアバヤ生活を振り返ってみたい。
入国するための必須アイテム
サウジアラビアに入国するためには、事前にアバヤを手に入れておく必要がある。飛行機を降りてすぐにアバヤを着用しなければならないからだ。
筆者の1着目のアバヤは、サウジアラビアに赴任が決まってすぐにドバイで購入した。 子どもでも、女の子は身長が150センチを超えるとアバヤ着用が推奨されるため、当時中学1年生だった娘のアバヤもドバイで手に入れた。
日本国内でもそうだが、海外へ引っ越すときは特に、引っ越し荷物の仕分けが非常に重要になる。仕分けを間違えると、学校が始まるのに筆箱がない! とか、しゃもじを船便に入れてしまって、1ヶ月おたまでご飯を取り分けるはめになった、など、超絶不便な生活を送ることになる。場所にもよるが、海外ではしゃもじは簡単には手に入らない。
仕分け方は以下。
この4つに仕分ける。アバヤはもちろん1に振り分けられ、パスポート、財布、スマホと同じ扱いだ。いやもしかしたら財布・スマホよりも大切かもしれない。財布、スマホがなくても入国できるが、アバヤがないとサウジアラビアに入国できないからだ。しかもすぐに取り出せるところに入れないといけない。
海外で引っ越しをするといつも同じだが、新天地に入国後、しばらくは生活を立ち上げるのに奔走する。まずは何を置いても、子どもたちの学校の手配が最優先だ。子どもが学校に行ってくれないと、引っ越しの片付けもできないからだ。そして、食事。最初の何日かは外食でもいいが、やはり自炊が一番。日本の調味料が手に入るお店で調味料一式をそろえ、鍋やフライパンなどがそろっていない中、なんとか子どもたちに食べさせ、学校が始まるとすぐにお弁当も作らなければならない。毎度のことながら、しばらくはキャンプ生活が続く。
アバヤを買いに
引っ越して、落ち着いたらすぐに新しいアバヤを買いに出かけた。目指すは「アバヤスーク」というアバヤだけを売る市場。
日本のアウトレットモールのようなだだっ広い敷地に入ると、1階建ての店舗がずらっと並んでいる。何十軒もある店はすべてアバヤ専門店。こんなに需要があるんだ! と驚きながら、4、5軒店をのぞいてみるが、素人にはどれも同じに見える。女性の服の店なのに、販売員は全て男性だ。適当に一軒お店を選び、連れてきた夫をソファに座らせ、試着会をする。 何十枚も試着して、アバヤにもいくつかタイプがあることが分かった。
①コートタイプ:前身ごろにボタンがあり、羽織ることができるタイプ。これが一番多い。ボタンは飾りボタンなど凝ったもの、普通のボタン、はめやすいスナップタイプとTPOに合わせて選べる。
スナップボタン式アバヤ。脱ぐときは、左右の前身頃をつかみびりっと引っ張れば、ボタンが一瞬で外せるので普段使いに便利。
②ワンピースタイプ:前身頃にボタンがなく、上からかぶるタイプ。首周りが少しゆるくなっていて上からかぶって着ることができる。飛行機の機内など、腕を伸ばせない狭い場所で脱ぎ着をするにはこのタイプが便利。
③ ①コート+②ワンピース:胸までボタンになっていて、胸から下はつながっているタイプ。
用途に合わせて形を選ぶと、次は色を選ぶ。色は基本黒が多い。何百着ものアバヤを前に1枚1枚手に取り選んでいるときに実感したのが、黒と言っても、いろんな黒があるんだなということ。保守的な黒、真っ黒から、モダンな黒まで、黒でも何百種類もあることに驚く。同じ黒でもちゃんと個性をアピールできるのだ。黒以外の色もたくさんあった。グレーや茶色、模様入りのものなど様々。袖の形や丈の長さなど細部に工夫が凝らされている。
何十着も試着して、普段着用、お出かけ用を1枚ずつ購入した。アバヤに慣れるまで
こうして筆者のアバヤ生活が始まった。アバヤに慣れるまでは、時間がかかった。最大の難関は、外出のときにアバヤを持って出るのを忘れてしまうことだ。
筆者家族が住んでいたのは、コンパウンドという塀に囲まれた外国人居住区で、このコンパウンド内ではアバヤなしで自由に生活ができる。しかし、一步コンパウンドから出るには、アバヤを着用しなければならない。家から車に乗ってコンパウンドを出て、「あっ、アバヤを着ていない!」と気づいて、何度家にアバヤを取りに戻ったことか。財布を忘れても、アバヤは忘れてはいけないのだ。
長女が学校に行くときにも、必ずアバヤをカバンの中に入れる。 スクールバスも学校も不特定多数の人の目にさらされる場所ではないため、基本はアバヤの着用は不要だ。しかし、万が一、スクールバスが故障して町中でスクールバスから降りないといけなくなった場合、アバヤがなくては困る。その時のためにやはりアバヤは必須なのだ。
アバヤの丈の長さにも苦労した。アバヤは足を完全に隠すため、丈が長めに作られている。ドレスのようにズルズルと引きずって優雅に歩かなければならない。とにかく動きにくい。階段を上がるときはスカート部分をガシッとつかみ、たくしあげて上がらないと裾を踏んでしまい危険だ。エスカレーターに裾が挟まって、慌てて引っ張り破けたこともある。裾をズルズル引きずって歩ける清潔な場所となると、サウジアラビアではモール以外はあまりない。なので、女性がノーストレスで外出できる場所といえば、モールだけ。他の場所には行く気になれない。アバヤを着ては走れないし、自転車もNG、外を歩くことは皆無だ。
スポーツをするのも一苦労だ。コンパウンドの外のオープンな場所でスポーツをする場合(そのような機会は殆どないのだが)、女性はアバヤを着用する方が賢明だ。現地の女性はスポーツをする機会が極端に少ない。ましてや、不特定多数の人の目にさらされる、オープンな場所で女性がスポーツをするなんて、サウジアラビア人にとっては言語道断だろう。
筆者家族は、夫が所属していた日本人会のソフトボールチームの朝練に時々みんなで参加していた。練習場所は、コンパウンド外の、公道に面した整備されていない空き地。地面はデコボコ、水たまりもあちこちにある。誰がどこで見ているかわからないので、女性陣はみんなアバヤを着用しての練習だ。ただでさえ上手でないのに、アバヤ、デコボコ、水たまりの三重苦。足かせをつけられたような動きにくさを感じる。それでも、ソフトボール用の丈の短くて、汚れても構わない安価なアバヤを用意して、毎週参加する日本人女性もいた。
アバヤに慣れると……
最初はいいとこなしと思えた、そんなアバヤだが、サウジアラビア生活が長くなるにつれ、不思議とみんな口を揃えて「日本にもアバヤがあったらいいのに」と言うようになる。筆者もその一人だった。アバヤの良いところを上げよう。
- 意外と楽
アバヤを羽織って、ボタンをしっかり止めてしまえば、下に何を着ているか他人からは全く見えない。極端な話、中がパジャマでも誰にもバレない。アバヤを着てしまえば全ては闇の中へ。何を着ていたって涼しい顔で堂々と外出できる。 - 意外と快適
日差しが強いサウジアラビア、ほとんど外を歩かないとは言え、やはり日焼けが気になる。アバヤを着ていれば、顔以外は日焼けを心配する必要はない。どこに行っても冷房がガンガンに効いているサウジアラビアでは、アバヤは冷房対策に最適だ。 - 意外とおしゃれ
筆者がサウジアラビアに滞在した3年半の間で、アバヤそのもの、そしてアバヤの着方がずいぶん変化し、おしゃれになった。これはサウジアラビアのムハンマド皇太子による改革*1の恩恵とも言える。
個人的には、2017年にトランプ前大統領がサウジアラビアを訪問した時のメラニア夫人のファッションの影響*2が大きいのではないかと思う。
トランプ前大統領がサウジアラビア滞在中に、メラニア夫人がどのような服装をするかに注目が集まった。空港に降り立ったメラニア夫人は、ヒジャブやアバヤを着用していなかった。ステラ・マッカートニーの黒いゆったりとしたジャンプスーツにサンローランの金色の幅広のベルトでウエストをマークし、それに負けない大ぶりの金のネックレスに長いブロンドのロングヘア。アバヤではないが、アバヤに似たデザインで肌の露出を抑えつつ、伝統的なアバヤのスタイルも踏襲、しかも、そのままパリコレの舞台に移してもなんの違和感のないファッショナブルなスタイルに、サウジ全土に衝撃が走った。現地人も外国人も、毎日ニュース番組で報道されるメラニア夫人のファッションに釘付けだった。
「え〜、こんな服でも許されるんだ!」
メラニアファッションがテレビに映し出される度に、アバヤで全身を覆ってビクビクしていた自分が滑稽に感じられた。
その後、メラニア夫人に影響されたのか、外国人の中には普通の服をアバヤのように着る人も出てきた。オーソドックスなアバヤでも前を開けて、下に着ている服を見せつつコート感覚で羽織る人が増えてきた。次の写真は、コンパウンドの外国人の友人と外出したときの写真だが、ずいぶんいろんなアバヤがあるのが分かると思う。伝統的なアバヤスタイルの人もいるが、普通の服をアバヤ代わりに着ている人もいる。ダサい、動きにくい、陰気のよろいのイメージとは程遠い。
サウジ滞在最後の年に筆者が購入して気に入って着ていたアバヤはデザイナーズアバヤ。値段は1枚3万円くらいと少々お高めだったが、生地が非常に軽く、デザインも柄もとてもおしゃれで、このアバヤだったら日本で着てもいいなと思っていた。
最初は、ダサい、動きにくい、陰気と「よろい」のように思っていたアバヤ。筆者が滞在していた三年半のサウジアラビアのアバヤをとりまく状況の変化は凄まじく、最終的には、そのおかげで筆者もカーデガン感覚で着こなせるようになった。筆者が2019年の年末にサウジアラビアを離れてから、すでに5年。今はジェッダの人たちはどんなアバヤを着ているのだろう。どんな斬新なアバヤが売り出されているのだろう。サウジアラビアに住む女性たちの生活がますます軽やかになっていることを祈る。
References
- *1 ムハンマド皇太子が提唱している改革構想「ビジョン2030」。女性の車運転や、サッカー観戦、映画鑑賞などを解禁し、女性の権利拡大が進んでいる。
- *2 ニューズウィーク、2017年5月25日付、「メラニアがファッションリーダーに? サウジアラビアでの華麗な着こなしをチェック」
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/05/post-7669_1.php