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新型コロナウイルスとリスク認知

杉森 伸吉(東京学芸大学 教授・東京学芸大学附属大泉小学校校長:掲載時現在)

2020年12月11日掲載

新型コロナウイルス騒動は、私たちのリスク認知の特性について、少なくとも3つのことを、明白にあぶりだしてくれたように思います。

1つ目は、人々がリスク認知を高める要素を、新型コロナウイルスは全て兼ね備えているが故に、もっと致死率の高い、しかし身近なリスクに比べて、新型コロナウイルスの方がはるかにリスクが高いと思わされてしまうこと。これは、日本よりも人口が少ないのに、毎日数百名が新型コロナウイルスにより亡くなっているような国には当てはまりませんが。

2つ目は、マスコミによるリスク情報の伝え方の問題です。

3つ目は、社会の中でリスク情報が広がるときのバイアスに関する問題です。 本稿ではこれらの3つの観点について説明しますが、その前にまず、リスクの概念について説明します。

1. リスクの概念

リスクの研究者が、リスクをどのように定義しているかについて、ご存じでしょうか。世間的に使われるリスクの意味は、リスクに遭ったときの「被害の大きさ」のことです。リスクの研究者の中にも、同じ定義を用いる人たちもいます。しかし、専門家集団が一般的にリスクという場合は、「被害の大きさ」だけでなく、「被害に遭う確率」も加味します。たとえばウイルスによる被害の大きさを数字にして考えてみましょう。仮に、ウイルスXとウイルスYという2つのウイルスがあったとします。ウイルスXは被害の大きさが50(たとえば軽症で済む)で、ウイルスYは、被害の大きさが100(たとえば重症になってしまう)だとしましょう。

また、被害の発生確率は、ウイルスXが100パーセント(感染すると、100パーセントの方が軽症化する)で、ウイルスYの被害の発生確率は40%(感染者の40パーセントが重症化する)だとしましょう。この場合、100パーセントを1、40パーセントを0.4とします。 さて、確率を加味する場合と加味しない場合とで、おなじウイルスで、どのようにリスクの評価が変わるでしょうか。確率を加味する場合から考えてみましょう。リスクを「被害の大きさ×発生確率」と考える場合は、Xのリスクは、50×1=50となります。いっぽう、Yのリスクは、100×0.4=40となり、Xのリスク(50)のほうがYのリスク(40)よりも大きくなります。いっぽう、一般の定義(リスクを「被害の大きさ」と定義)では、ウイルスXのリスクが50で、Yのリスクが100なので、YのほうがXの2倍リスクが大きいということになります。ただし、実際にリスクに遭った人にとっては、どんなに確率が低かったとしても、100%の発生率になってしまうことが、確率だけで語ることの難しさにもつながります。

なお、ここでいう確率は、多義的な概念です。一口に確率と言っても、人口内での比率、感染した場合の発症率、ウイルスに曝露した時の発症率、など複数の確率が考えられます。

2. 人々のリスク認知を高める要因

リスク認知を高める要因については、すでに40年ほど前に、ポール・スロヴィック(Slovic, P.)とその共同研究者たちが、未知性(新奇性)と恐ろしさの2つの次元を抽出しています。未知性とは文字通り、「よくわからないこと」です。新型コロナウイルスは、従来のコロナウイルスが変異したものと考えられますが、従来のコロナウイルスが、非常にありふれている風邪のウイルスであるのに対して、新型コロナウイルスは、従来のコロナウイルスにはない要素、つまり血栓を作ったり、免疫システムを巧妙にかいくぐったりする未知の要素をたくさんもっています。恐ろしさも、やはり文字通り「恐ろしく感じる程度」のことです。令和2年の1月ごろに、中国の武漢で新型コロナウイルスが猛威を振るったという報道が、街中や病院の中でバタバタと倒れている人々を映し出したことも、未知性とともに強い恐ろしさを喚起したと言えるでしょう。

未知性や恐ろしさと同様に、統制不可能性、リスク情報への選択的接触などもリスク認知を高めます。

統制不可能性とは、コントロールできないことですので、特効薬やワクチンがないことなどが統制不可能感を高め、「これをしておけば大丈夫!」という安心材料がない中で、リスク認知を高めました。

リスク情報への選択的接触とは、重症者や死亡者のことばかりに情報が集中し、軽症者や無症状者の情報が重視されなかった状況のように、すべての情報に平等に接するのではなく、特定の部分的情報への接触に偏ることです。

新型コロナウイルスは、よくわからないことが多いこと(未知性が高い)、大勢の方が重症化したりお亡くなりになったりしていること(恐ろしさ)、特効薬やワクチンが開発されていなかったこと(統制する手段が見つからない)、連日死亡者などのニュースが繰り返しマスコミなどで報道されるが軽症者や無症状者について焦点を当てた報道は少ないこと(リスク情報への選択的接触)など、リスク認知を高める要素を具備していました。

3. リスク認知を高めるマスコミの報道

すでに述べたように、マスコミによる報道は、選択的になりがちです。非感染者に関する情報よりも感染者の情報、無症状者や軽症者に関する情報よりも、重症者、特に死亡者に関する報道に集中しがちです。そのために、視聴者は「新奇で恐ろしく、統制不可能」な印象を強めていきます。

また、新型コロナウイルスの情報に報道が偏る中で、最近でこそ、他のなじみ深いリスク(がん、心臓病、など)との横の比較を報じることも増えたとはいえ、初期には新型コロナウイルスとその他の横のリスクとの比較は、ほぼ見られませんでした。通常のインフルエンザ、交通事故、新型コロナウイルス以外の疾患、犯罪による死亡などなど比較すべきリスクはたくさんあります。しかしマスコミは、新奇な新型コロナウイルス情報に特化した報道をすることで、新型コロナウイルスのリスクを相対化する機会を与えないまま、一般市民のリスク認知を高めたとも言えるでしょう。マスコミの宿命として、こうした報道をせざるを得ない部分もあるかもしれませんので、報道に接する一般市民の側も、報道されたリスク情報に関するリテラシー(情報をある程度客観的に評価できる力)をしっかりともつことも重要になってきます。とくに会社や学校組織など、組織レベルでこのリテラシーが少ないと、より大きな問題が生じます。このことは、次回に説明したいと思います。

マスコミ情報のもう一つの特徴としては、「確率」の情報を流さず、「頻度(人数)」情報ばかり流すことです。本日の感染者数、という報道も、確率ではなく人数です。その結果、視聴者が感染者数の人数に注目しすぎ、感染確率を考えにくくさせられることにもつながります。たとえば東京都のように約1,400万人(令和2年9月の人口総数は13,981,782人でした)いる中で400人の感染者の出る確率(3.5万人に1人)と、200万人規模の自治体の中で100人の感染者が出る確率(2万人に1人)とでは、後者のほうが高いですが、人数(400人対100人)に注目すれば、東京都のほうが4倍危険に思われます。

ちなみにですが、PCR検査で陽性になることと、陽性者の体内で新型コロナウイルスが増殖しているか否かということは、別問題であると考えられます。PCR検査は、生体などから採取した部位に、新型コロナウイルスまたはその壊れた残骸が存在しているかどうかを、ウイルスのRNAがあるかどうかで検査するだけのものです(ここではあえて、「だけ」と言わせてください)。ですので、RNAが残ったウイルスの残骸のある手すりやスマホの画面などから採取したものをPCR検査にかけても、陽性反応が出ます。しかも感度を上げれば上げるほど、はっきりと陽性反応が出ます。逆に、体内でウイルスが増殖していたとしても、採取した場所にウイルスがいなければ、陰性反応が出ます。しかし、ひとたび会社や学校などの組織内で陽性者が出れば、保健所の立ち入りなど、大きな影響が出ます。PCR検査という科学技術があるが故に、より厳密な対応ができるとともに、陽性者に対する社会的偏見が新たに生み出される側面もあるということです。このことは、科学技術が発展することで、かえって社会的な偏見や差別が助長されないようにする必要があるという、わたしたちの科学リテラシーに関わる問題も提起していると思います。たとえば遺伝子情報(ゲノム情報)に関するアクセスのしやすさの進展なども、同じ構造のリテラシー問題をはらんでいると思われます。せっかく優秀な頭脳と高額な開発費をかけて作られた最先端のテクノロジーが、人間のウェル・ビーイングを低下させてしまうということは避けたい事態だと思います。ここでは詳しく論じませんが、科学技術の進歩が人類のウェル・ビーイングを高めることを保障するために何が必要なのか、という根本問題は、いまだに解決されていない、しかし喫緊の重要な問題であると思われます。

4. リスク情報処理の個人内・個人間バイアス

リスク情報に関する人間の情報処理には、人間であるが故にリスクの認知を過大視したり過小視したりする、さまざまなバイアスがあります。

リスク認知を低下させる要因は、初めのほうに述べた、リスク認知を高める要因(新奇性、恐ろしさ、統制不可能性、選択的接触など)の反対(なじみ深さ、恐ろしくなさ、全体情報への接触など)です。そのほかにはとくに、慣れたリスクに関するバイアスとして「正常性バイアス(normalcy bias)」があります。正常性バイアスには、ゆでガエルのたとえと共通点があります。ゆでガエルのたとえとは、鍋の水にカエルを入れて火にかけ、徐々に水温が上がっていく中で、「水がちょっと温かくなったが大丈夫だろう」とカエルが思っているうちに、熱湯になってゆだってしまうというたとえです。正常性バイアスも同様で、警報が出たり、何らかの異常な状態になったりしても、「まだ正常の範囲内だろう」と判断しているうちに災害などに巻き込まれるという、リスクの過小視にもとづく逃げ遅れにつながるバイアスです。本来は、少しでも異常を感じたら、逃げるなどの対応をとるのがリスクを回避するうえでは望ましい行動です。しかし、少しでも異常を感じるたびに逃げたりすると、99パーセントは逃げても何も起こらなかった、という、いわば逃げ損になってしまいます。ですので、逃げ損をしたくないが故に、「まだ大丈夫」と思うのでしょう。別の比喩を使うなら、狼少年の寓話があてはまるでしょう。「狼が来たぞー」と叫ぶ羊飼いの少年を信じて村人が駆けつけるうちに、少年はうそをついていることがわかり、村人が相手にしなくなったら、本当に狼が来て村の羊たちが食べられてしまったという寓話ですが、これも正常性バイアスの本質をよく表していると思います。

集団間でリスク認知を高める別のバイアスに、「距離のバイアス(これは私の造語です)」があります。私がこのことを最も鮮明に感じた経験は、福島原発の放射能拡散問題の渦中にあったころです。私は東京にいましたが、もっと遠い地域からは、東京も安全ではないと思われていたと感じますし、東京の人は、あたかも福島全域が危ないかのように感じていたかもしれません。また、福島の人は、風向きなどにより、どこがより安全かなど、より細分化して考えていたはずです。このときたまたま、1週間ほどニューヨークに行きました。ニューヨークのホテルのエレベーターの中には、テレビモニターがありました。何気なく画像を見ていると、日本全体を放射能汚染の渦が覆っており、さらにその渦がアメリカにまで流れてきていることを示す映像が流れていました。日本人から見たらあまりに荒唐無稽なこの映像に、びっくりしたとともに、このとき、「特定の地域へのリスク認知が高まると、地理的な距離が遠くなるほど、当該のリスク地域全般に危険性を一般化して認識されやすいのだ」ということを、実感しました。もう一つの例は、約11年前(2009年)にタイに行ったときに感じました。タイのタクシン・チナワット首相(2001年~2006年)の汚職問題に端を発し、反タクシン派が大規模なデモを連日首都のバンコクで繰り広げており、「バンコクが危険だ」という報道が、日本でも連日流されていました。そのために、バンコクへの修学旅行などの教育旅行がすべてキャンセルされるような状態でした。この頃、たまたまバンコクに行きましたが、10日ほど滞在しても、ついぞデモにすら出くわすことはありませんでした。地理的に距離が離れるほど、当該地域への風評被害などにはお構いなしに、あたかもその地域全体が極めて危険であるかのような報道がなされることを、このときも痛感しました。

リスクが高い地域から離れれば離れるほど、その離れた地域にいる人の視点から見れば、高リスク地域は広くとらえられ、その近辺一帯が高リスクだと認知されやすいのです。しかも、リスクが低い地域から高い地域を見たときに、高い地域の中ではどこであろうがすべてリスクが高いと、高リスクの一般性を過大視しやすいのです。いっぽう、リスクが高い地域に住んでいる人から見ると、「危険なのはごく一部であり、その他はそれほどでもない」などと細分化して認識されるため、その地域全般にリスクが一般化されにくい傾向があります。これは、感染者が多い東京の人が、自分が住む東京を見るときには「繁華街などはリスクが高いが自分が住む地域は大丈夫」など細分化して安心する傾向があるのに対して、感染者が少ない地域では、「東京から来た人は全員危険だ」などと一般化することにつながります。距離が離れるほど、リスクの低い地域の人は、リスクの高い地域の人や地域全般が危険だと思いやすい、ということです。こうした偏見が、Go To トラベルのキャンペーンでも、東京から来る人は自分の地域に入れたくないという、地方の人々の認識につながっているのでしょう。そしてこうした認識は、せんじ詰めれば、「今以上の危険を受け入れたくない」というリスク回避動機からきているのでしょう。このリスク回避動機が、新型コロナウイルスを含む、さまざまなリスクにまつわる差別や偏見の根源だと言えるでしょう。

ここで気を付けないといけないのは、リスクを回避し続けて、何事もなかった場合、「回避したから無事だった」のか、「実は回避しなくても無事だった」のかの判別ができないにもかかわらず、「回避したから無事だった」と思いこむことで、リスクへの偏見は、低減される機会を失い、温存・増幅され続けてしまうという差別維持の機能が作用してしまうことです。

リスク認知などに関しては、まだまだお話したいことがありますが、ここではこれまでにしたいと思います。

次回はコロナ禍と学校運営について述べます。



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参考文献

筆者プロフィール
report_sugimori_shinkichi.jpg杉森 伸吉 (すぎもり・しんきち)

東京学芸大学教授(社会心理学)。東京学芸大学附属大泉小学校校長。個人と集団の関係をめぐる文化社会心理学の観点から、集団心理学(チームワーク力の測定、裁判員制度の心理学、体験活動の効果)、リスク心理学などの研究を行っている。野外文化教育学会常任理事、社団法人青少年交友協会理事、社団法人日本アウトワードバウンド協会評議員、NPO法人学芸大こども未来研究所理事、社団法人教育支援人材認証協会認証評価委員会委員長など。

※肩書は執筆時のものです

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