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【保育フィールドノートにみる気まぐれな子どもたち】第1回 ウィズコロナ時代に考える子どもの暇

佐川 早季子(京都教育大学教育学部 准教授)

2020年8月28日掲載

要旨:

子どもが遊びをとおして夢中になること・没頭することには、かけがえのない価値があるように思われる。一方で、子どもたちは、常に夢中になって、没頭しているわけでもない。ある園の4歳児ショウタくんのブラブラ行動は、一見、暇つぶししかしていないように見えるが、次の活動の企画に強烈につながっているように見えるという。子どもの暇は、生活のなかに流れている情報からいったん距離を置き、自身のうちなる欲望を生成しているのではないかと考えられる。

キーワード:

暇、時間、ブラブラ行動、遊び、夢中・没頭、保育、子育て

私は、大学で幼児心理学を教えている研究者です。仕事柄、日々、保育現場に出入りしています。そのなかで考えたことを、子どもや保育、子育てにまつわるエッセイとして書かせていただくことになりました。これからお付き合いいただけると幸いです。

緊急事態宣言が解除され、新型コロナウイルスとの共存を覚悟して過ごす時代、いわゆるウィズコロナ時代が始まりました。緊急事態宣言が出されている中でも、保育所や保育所機能をもつ園は、人間活動の基盤となる社会的インフラとして、休むことなく子どもを預かった園がほとんどでした。このように社会的インフラとして働いてくださる方を、イギリスではKey Worker*1 、アメリカではEssential Workerと呼び、期間中、社会を支えてくれた方々として大きな見直しがされたと言います。

園で働く方々の中には、ご自身が既往症をもつ方や、そのようなご家族をもつ方、お子さんの休校で働きに出にくかった方も少なくなかったに違いありません。それでも、私が連絡をとりあった園の先生方は、言葉の発達が著しい乳児期の子どものために、自分の口元の動きを見せるため、口元が透明になっているフェイスシールドを手作りしたり、衛生面での配慮をしながら子どもを抱きしめたりというように、そのときできる範囲で何が可能かを考え、きめこまやかな保育や子育て支援をしてくださっていました。「新型コロナウイルスへの感染防止をすること」と「目の前にいる子どもにとって今大事なかかわり」という二つの軸のあいだで折り合いをつけ、子どもの最善の利益のために何をどう判断し、子どもとかかわるのか、先生方はかつてない緊張感のなかで決断をされていたようでした。このような先生方の努力と社会への貢献に、私は最大限の敬意を表したいと思っています。

さて、ウィズコロナ時代に、考えたことがもう一つあります。それは子どもの「暇」についてです。暇について、みなさんはどんなイメージをお持ちでしょうか。「あの人、暇そう」などと言われるのは、自分が何か打ち込めるものを見つけ出せていないことを指摘されているような後ろめたさがあります。忙しくなりたいわけではないのに、忙しくないと思われるのは何か充実していないような気がして、忙しくふるまう。そんなことが大人の生活のどこかにあるような気がします。もちろん、本当に忙しい場合がほとんどで、「暇がほしい」というのは、現代人が常にもっている願いであるようにも思えます。「暇」というのは、どこか暇でありたいという思いと暇な人には見られたくないという思いという相反する願いを含み込んだ言葉であるようです。

園のなかでも、子どもが遊びをとおして夢中になること・没頭することには、かけがえのない価値があるように思われます。その価値は疑いようがありません。でも、ふと子どもたちの姿に目をやると、常に夢中になって没頭しているわけでもなさそうです。石川県金沢市にある龍雲寺学園バウデア学舎の園長・木村昭仁先生は、4歳児の男の子ショウタくんのブラブラ行動について教えてくれました。いつも保育時間中にボーッとして外を眺めたりしているショウタくん。一見、暇つぶししかしていないように見えますが、何か目標を見つけると一心不乱に夢中になって没頭する姿があるそうです。一度火がつくと、子どもたちのなかでリーダーシップをとり、ヒーローに変身するかのようだ、とも言われました。保育室でのブラブラ行動が、次の活動の企画や組み立てに強烈につながることもあるということを、ショウタくんの姿が伝えています。

子どもが暇そうにしているのを見ると、大人は心許ない気になりませんか。白状すると、私の中には、我が子が何かに従事していると、「よし、何か有意義なことをしているぞ」と安心する自分がいます。何かに従事している子どもの姿に、「うまくやれているよ」と自分への承認を得ているような気がするのです。逆に、子どもが暇そうにしていると、何かが足りないのではないか、この子が夢中になれるものを私は準備してあげられていないのではないか、ひいては、この子の個性に応じた教育環境を整えてあげられていないのではないか、とハラハラするような気になります。そうでなくとも、圧倒的なスピードで進み、生産性や効率が重視されていると言っていい世の中です。幼児期の子どもに対しても、何かに打ち込んでほしい、充実した時間を過ごしてほしいと思うのは、大人の当然の心理であるのかもしれません。

しかし、ショウタくんの姿は「それって本当?」と問いかけてくるようにも思えます。ショウタくんのような子どもに、目標を大人が与えてあてはめることもできるでしょう。でも、そうしたら、ショウタくんは、活動はしているけれども退屈した時間を過ごすことになるかもしれません。手に余る暇をどうにかしてやろうという思いがあるからこそ、ショウタくんのような子どもがモノやコトと出会い、この世界にある、よくわからないものや納得のいかないことにふと足を止め、その深みに自ら気づくのかもしれません。もしくは、そんなことを考えるまでもなく、暇に見える時間のなかでめまぐるしく濃密なことが行われているのかもしれません。子どもの暇は、大人にとって、何もしていないように見える無為の時間でもあります。しかし、子どものその無為、沈黙、間、「ぼーっとした時間」、自分に帰る時間こそが、生活のなかに流れている情報からいったん距離を置き、欲望を生成しているのではないかと思うのです。

私たち大人が子どもだった時代の長い長い夏休み、時間の流れがとてもゆっくりと感じられた間延びした感覚、「今日何もやることがないぞ」とはたと気づいて考え始める瞬間、それもまた私たちの生にとって価値あるものだったのではないでしょうか。生産性や効率が重視される時代だからこそ、子どもにとってどのような時間が流れているかという時間をめぐる環境や、暇を感じる感覚について考え直したい。こんなことを、新型コロナウイルス感染症拡大防止のために仕事がキャンセルになり、ぽっかりと空いた時間のなかで考えました。休校で暇を感じた我が子たちが、急に、絵を描きはじめたり、縄文人になりきって遊ぶために弓矢や石器をつくりはじめたのも、暇であることを考えるきっかけになりました。

最後に、このエッセイは、保育現場にいる子どもたちや園の先生方の型にはまらない語りに、そして、哲学者の國分功一郎氏の著書『暇と退屈の倫理学』(太田出版、2015年)にインスピレーションを受けて、書いたことを付記しておきます。



参考

  • *1 ブレイディみかこ「欧州季評 社会に欠かせぬケア仕事」2020年6月11日 朝日新聞朝刊
筆者プロフィール
佐川 早季子(さがわ・さきこ)

京都教育大学教育学部 准教授。
長崎市生まれ。一人目の子どもを生み育ててから、どうしても子どもに関わる研究がしたくなり、大学院に入り直し、今に至る。母親であり研究者であり大学教員。
著書に『他者との相互作用を通した幼児の造形表現プロセスの検討』(風間書房)、共訳書に『GIFTS FROM THE CHILDREN 子どもたちからの贈りもの−レッジョ・エミリアの哲学に基づく保育実践』(萌文書林)などがある。

※肩書は執筆時のものです

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