CHILD RESEARCH NET

HOME

TOP > 論文・レポート > 小林登文庫 > 【9月】国際小児科学会のこと - 暑かった夏の思い出から

このエントリーをはてなブックマークに追加

論文・レポート

Essay・Report

【9月】国際小児科学会のこと - 暑かった夏の思い出から

この8月、東京では猛暑が続いた。個人的に考えても、私の人生で最も暑かった夏といえよう。今回の所長コラムは、暑かった夏についての思い出から、世界の子どもを病から救うのに重要な役割を果たしている国際小児科学会について書くことにする。

暑かった外国の夏というと、いつも1989年のパリの夏を思い出す。パリは北緯50度に近い都市で、夏でも冷房はいらない。札幌でさえ北緯43度で、パリはさらに北になる。しかし、その年のパリの夏は、気温30度を優に超える毎日だったのである。その夏に、第19回国際小児科学会議(ICP:International Congress of Pediatrics)が、フランス革命200周年と国連での子ども権利条約の成立を記念して7月23日から5日間にわたり開催されたのである。人権を育てたフランスらしい学会であったが、冷房のないタクシーに乗って、学会場や理事会の開かれるホテルを行ったり来たりするのに閉口したことを思い出す。1977年からこの学会までの12年間学会役員を務めたので、このパリの夏の思い出は特別であった。

ICPは国際小児科学会(IPA: International Pediatric Association)が主催する、3年に一度の最大の行事である。IPAは1910年、フランスの小児科学会が中心となってつくられた、ヨーロッパ各国と北米各国(アメリカ、カナダ)の小児科学会の連合体あるいは協会、すなわち"association"として出発した組織である。19世紀の医学の進歩と発展により、「小児科学」"pediatrics"も医学の中で体系づけられ、19世紀前半にはパリに「子ども病院」"children's hospital"が設立され、後半に入るとロンドン、それにつづいてヨーロッパの他の大都市にも子ども病院が次々と設立され、その流れはアメリカにも波及したのである。そんな中20世紀に入り、フランスの小児科学会が中心となって、1910年にIPAが組織されたのである。

IPAは、第1回のICPを1912年パリで開いたが、残念ながら後が続かなかった。第2回が開かれたのは21年後の1933年ストックホルムにおいてであった。それは、1914年から始まった、4年以上にも及ぶ、ヨーロッパを戦場とした第一次世界大戦の影響とその後の国際情勢によるものと考えられる。戦争そのものが、兵器が進歩したために、子どもは勿論のこと一般市民までも巻き込んだ事は大きかったと言える。

第2回のICPが1933年ストックホルムで開かれて間もなく、第二次世界大戦(1933-1945)が始まり、再び中断せざるを得なくなり、第3回が開かれたのは戦後で、戦場にならなかったアメリカのニューヨークで1947年の事であった。戦争終了後2年程でICPを開くということは、戦争の被害者となった子ども達への追悼の思いもあったものと考えられる。小児科医の子ども達への優しいまなざしを感ずることが出来よう。

戦後もIPAは、ヨーロッパ、アメリカの小児科学会が中心となって運営され、開催地もヨーロッパ、北米の大都市に限られていたが、それ以外で開かれたのは、わが国の東京が初めてで、1965年であった。第二次世界大戦の敗戦から20年、わが国の小児科学の進歩ばかりでなく、乳児死亡率を二桁から急速に一桁へと、世界のトップ・クラスにまで低下させたわが国の小児医療のレベルに、欧米先進国の小児科医は注目したという。第11回のICPは、私の恩師、高津忠夫東大教授によって開催され、参加者も2,000人を超え、日本人のおもてなしの心もあって大成功を収めたのである。重要なことは、わが国で初めての小児病院、すなわち国立小児病院が世田谷に出来て、春に開院したことである。しかし、残念ながらパリ、ロンドンの小児病院に遅れること一世紀であった。

戦後のIPAの理事長は、スイス・チューリッヒ大学のファンコニー教授であったが、東京のICPで開かれた理事会でアメリカ・ハーバード大学のジェンウェイ教授に変わり、メキシコシティで開かれたICPではトルコ・アンカラ大学のドラマッチ教授にと、めまぐるしく変わった。詳細は不明であるが、ICPは、先進国中心の小児科学より、発展途上国の子ども達の医療に必要な小児科学を目指す必要があると考えたものと思われる。ドラマッチ教授は、WHOとも関係が深く、発展途上国に役立つICPを目指し、開催地も南米、アジア、アフリカの各地とし、その目的を果たした。ICPの開催は、開催国さらにはその地域の小児科医の意識を高め、その小児医療のレベルを向上させたのである。

恩師高津忠夫教授がICPの会頭(Congress President)を務められたためか、私は理事長ドラマッチ教授の要請で、インド・ニューデリーで1977年に開かれたICPの理事会でIPA次期会長選(President Elect)に立候補し、当選した。以来1989年パリのICPまでの12年間、副会長、会長、副会長、理事と12年間、理事長ドラマッチ教授のもとでIPA運営のお手伝いをした。その間、世界の子ども達の現状を知ると共に、世界の小児科医との交流によって、世界の小児科学、世界の小児医療を垣間見て勉強することが出来た、人生で実り多き12年間であったと言える。

今は、子どもの健やかな育ちのサポートばかりでなく、子ども問題解決には、小児科学のみでは充分でなく、小児科学を取り込み乗り越えて、学際的・包括的に子ども問題に対応する人間科学が必要であるとして「子ども学」"child science"を提唱していることは、皆さん御存知の通りである。ぜひ、子ども学の国際会議も東京で開きたいと考える今日この頃である。
このエントリーをはてなブックマークに追加

TwitterFacebook

インクルーシブ教育

社会情動的スキル

遊び

メディア

発達障害とは?

論文・レポートカテゴリ

アジアこども学

研究活動

所長ブログ

Dr.榊原洋一の部屋

小林登文庫

PAGE TOP