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【7月】国際小児科学会(International Pediatric Association, IPA)と私、設立100年のお祝いを迎えるに当り

要旨:

世界の小児科医の団体である国際小児科学会(IPA)は今年設立100周年を迎えた。この8月4日から9日まで南アフリカで第26回国際小児科学会議が開催される。これを機に、今回の所長メッセージは、元会長の小林所長が自身の体験を通して、世界の子どもたちの心と体の健康のために、献身的な活動をしているIPAとその活動(ICP)を詳しく紹介している。

6月に入って間もなく、IPAの事務局関係者から、メールが飛び込んで来た。IPAは今年設立100周年を迎え、この8月4日から9日まで南アフリカのヨハネスブルグで開かれる第26回国際小児科学会議(International Congress of Pediatrics, ICP)で行う記念行事のため、元会長として履歴書、写真、ビデオメッセージを提出して欲しいとの嬉しい要請を頂いたのである。この機会に、7月の所長メッセージでは、世界の子ども達の心と体の健康のために、献身的な活動をしている世界の小児科医の団体(IPA)とその活動(ICP)を、私の体験を通して紹介することにする。

 

小児科学(pediatrics)の歴史は、子どもの専門病院(children's hospital)と表裏の関係にある事は、どなたも理解されよう。特に、欧米先進国は、そうであった。子ども病院の設立のトップランナーはフランスで、19世紀初めの1801年1月、パリにHopital des Enfants Maladesが設立された。私も1970年代末から1980年末にかけて何回かその病院を訪問している。現在では、1778年に設立された、聴診器を発明したR. Laennec (1816) が診療していたという古い総合病院Hopital Neckerと一緒になっている。最近、子ども病院の在り方が変わり、孤立型から複合型になったのである。

どうやら、パリの子ども病院設立は、世界の先進国において、子ども病院設立運動に火をつけた様である。私が1960年代に勉強したロンドンの子ども病院は、1852年設立であり、その設立に関係した医師も、フランスで勉強している。それがヨーロッパ各地、そしてアメリカへと拡がったのである。アメリカの代表であるフィラデルフィアやボストンの古い子ども病院の設立は、前者が1855年、後者が1869年であった。これらの子ども病院は、いづれも古いタイプのもので、多くは孤児院などの施設から始まっている。しかし、パリの子ども病院は、病院会議のような公的な組織で設立されている点は注目に値する。

現在、われわれがアメリカでみている立派な子ども病院は、近代小児科学の成果を小児医療に積極的に利用しようとして、医科大学の中に建てられたもので、20世紀、特に戦後に入ってからのものである。しかし、日本での子ども病院の設立は極めて遅く、1965年の国立小児病院が最初で、ICPが東京で開かれた年に開院した。しかし、大学病院の小児科は1889年、その90年近く前に東大に作られている。

さて、IPAの話にもどすと、丁度100年前、パリの子ども病院が設立されて10年目の1910年、フランスの小児科学会が中心になり、ヨーロッパ各国の小児科学会代表が集まって、国際的な組織を作ろうと話し合ったのがそもそもの始まりと言う。しかし、実際に学術集会、ICPが開かれたのは2年後の1912年の事である。その数年前に国際内科学会も開かれたので、世界的にみて、医学会の国際化はその頃始まった様である。

ICPの開催は3年毎に開かれることになっているが、立ち上りは順調にはいかなかったようである。それは、第一次世界大戦(1914-1918)と第二次世界大戦(1939-1945)が続き、ヨーロッパが戦場になったためであろう。記録によると、第5回は第二次世界大戦2年後の1947年、アメリカのニューヨークであった。第1回ICPから35年も経っているが、その間3回しか開催されなかったことになる。

上述のように、終戦2年後にIPAがICPを開くというのは、考えてみれば素晴らしい事であった。二つもの世界戦争を繰り返した後の第5回ICPは、IPAにとって格別の思いがあったのではなかろうか。戦場にならなかった、アメリカのニューヨークを開催地に選び、戦争の最大の被害者である子ども達のために、世界の小児科医が集まって問題を話し合おうと言うのである。その心意気の高さに感銘を受ける。

しかも、第5回ICPを主催するアメリカ小児科学会は、旅費まで出して、日本から東大小児科の栗山教授ほか何人かをシンポジウムのために招こうとしたのである。それなりに、日本の小児科学は評価されていたのである。当時は、占領下にあったが、GHQの厚意もあって、ほぼ実現ということになったが、ワシントンにある占領方針を決める「極東委員会」で否認され、中止になってしまったのである。そのメンバーによる反対のためと言われている。

以来、わが国から限られた数ではあるが、小児科医は3年毎のICPに参加していたことと思う。リスボンで1962年に開かれた第10回ICPの日本からの参加者は20人程であった。そのリスボンIPA理事会で、第11回ICPが東京に決まったのである。従来ヨーロッパ・北米でしか開かれていなかったICPが、初めてアジアの日本に来たという歴史的な出来事でもあった。

リスボンで開かれたICPは、丁度ロンドンに留学していた時だった。リスボンまで行って、日本小児科学会会長として参加された恩師高津教授のお手伝いをしたのである。初めてのICPではあるが、学会などの在り方を実際にみることが出来た。そして、1964年には東大にもどり、高津教授の主催された1965年の第11回ICPを、裏方としてお手伝いしたのである。

IPAが、第11回のICPを何故東京で開くことにしたかは、敗戦国日本が戦後の荒廃から迅速に回復し、オリンピックを開催する程経済力を持った事もあるが、戦後発展途上国並みだった乳児死亡率を急速に改善させ、欧米を抜き、優等生と言われる北欧の国々のそれをも越えようとしていたことがあったと言う。当時の日本は、感染症中心の小児医療の時代を終え、先天性疾患、未熟児・新生児疾患中心の時代に入っており、新しい小児科学の体系づけが始まっていた時代であった。恩師高津教授は、それを第11回ICPのテーマとし、「出生前小児科学"Prenatal Pediatrics"」とされた。結果的に東京ICPは大成功であった。日本の小児科学の国際評価は高まったのである。

しかし、東京でICPが開かれたことは、その後のIPAの在り方に大きく影響したようである。先進国の小児科医のみが中心であったIPA執行部に、発展途上国の小児科医の参加も多くなった事がまず言える。その大きな力になったのが、IPA理事長にトルコの小児科医 I. Dogramaci教授が選任されたことにある。記憶が正しければ、それは東京の3年後にメキシコシティで開かれた第12回ICPであったと思う。しかし、全ては東京で始まっていたのかもしれない。

それは次の点から考えられる。当時のIPAには会長というポストはなく、理事長が理事会・学会を代表していたのである。東京のICPで、IPAの理事長をしていたスイス チューリッヒ大学のFanconi教授が、アメリカのハーバード大学のJaneway教授に代わられた。おそらく、東京の理事会で話し合われた結果、Janeway教授は、一時的に引き受け、発展途上国に役立つIPAにすることを考え、メキシコのICPで開かれたIPA理事会で、その学会に出席していなかったにもかかわらず、Dogramaci教授を理事長に選出したものと思われる。

Dogramaci教授がIPA理事長になるには、いろいろな立場からみても、それなりの理由が充分あったと考えられる。1946年7月、戦後初めてニューヨークで開かれたWHO総会に、トルコ代表として参加し、WHO憲章にサインしている事が先ずあげられる。つづいて、WHOと関係した仕事の中で、トルコばかりでなく、発展途上国の子ども問題の実情を学ばれたこともあろう。また、若い頃イスタンブール大学で医学を学んだ後は、フランスのパリ、イギリスのグラスゴー、そしてアメリカのボストンと、世界の代表的な子ども病院で学んだ経歴がある。Janeway教授は、ボストン子ども病院における恩師でもあったのである。したがって、小児医療の国際感覚を充分にもっていた方と言える。その上、金銭的にも、いろいろな意味でクリーンな方で、IPAの仕事は全て自弁でなさっていた。

IPAに会長ポストを作ったのも、それに私が引っぱり出されたのも、Dogramaci教授の御意向であった。1977年ニューデリーICPで開かれたIPA理事会で次期会長を選ぶに当り、立候補したある小児科医が大変に熱心で、強烈な選挙運動をしているのをみて危惧する点があったのであろう。マニラでのWHO会議に出席する途中で東京に立ち寄り、私に対抗馬として立候補するよう、直接要請されたのである。それは、ICPにしろ、IPAにしろ、それなりに利権のようなものがあり、それを悪用する可能性を心配されたものと思う。勿論、トルコ人共通の親日感情もあったと思うが、東京ICPを成功させた高津教授のお力もあったに違いない。

1977年のニューデリーICPのIPA総会で投票、決選投票の結果当選し、IPAの理事会に次期会長(president-elect)として参加することになった。以来12年間にわたり、副会長(vice president)、会長(president)として理事会に、元会長(past president)として常任委員会(standing committee)にも関係した。

東京ICP後の開催国をみても、メキシコ、ブエノスアイレス始め、いわゆる先進国でない国が多くなり、IPA役員の出身国にも同じ傾向が見られるようになった。

勿論、IPAは各国の小児科学会144団体、世界各地域の小児科学会10団体、専門小児科学会13団体などの連合組織(association)であって、全世界をカバーしている。しかし、小児科学の専門的な研究は、専門小児科学会、更には研究(research)小児科学会(現在、アメリカ、アジア、ヨーロッパに存在)に任せればよいと考えるようになったのかもしれない。考えてみれば、先進国以外の方が、子ども人口も遥かに多く、問題も多様で深刻であり、それこそ小児医療のレベルアップが強く望まれる現状がある。小児科学研究の成果を、子ども達に実践化する役割を、ICPが果たすべきと考えたとも言える。

1977年のアジアで3回目のニューデリーICPから、1989年のフランス革命を記念したパリICPまでの、IPAに関係した12年間には、私は多くの事を理事長のDogramaci教授から学んだ。特に、発展途上国の子ども問題の解決をどうすべきか、そしてそれに対して果たすべき小児科医の役割とその限界については大きい。更に、その間ヨーロッパ、南北アメリカ、アジア、アフリカ諸国を訪問し、それぞれの国の小児科学会のリーダーや会員との交流の思い出の数々は忘れ難い。その中でも、特にアフリカのケニア、コートジボワールの路上や空港で見た子ども達の姿は今も目に浮かぶ。

残念なことに、お世話になったDogramaci教授も、この2月に亡くなられた。最後にお会いしたのは、4、5年前トルコのアンカラで開かれた90歳のお誕生をお祝いする会であった。このIPA100年のお祝いの会に、優しい大男のお元気なお姿がもう見られない事は誠に淋しい。

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